いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 融化 --- -- 1 -- 朝8時5分。 オレは同じ電車に乗り、会社へ向かう。 地上の駅を出ると川を渡り、地下に入ってから2、3分で次の駅へ着く。 この路線はちょっと変わっていて、駅ごとに降りる方向が変わる。 乗る駅は左側のドアが開き、次の駅は右側。 しばらく右側が続き、オレが降りる駅とその前の駅は左側が開く。 だから、電車が着いてすぐに乗ってしまうと、降りられない羽目になることもある。 それを見越して、駆け込みにならないタイミングで、最後の方に乗るのが日課になっている。 当然のことながら、毎日出会う面子の顔も覚えてくる。 ワンセグで録画したTVを見ている年配の男性。 下を向いて、延々携帯を弄る学生さん。 音楽を聴きながら、ぼんやり中吊りを眺める女性。 そして、オレと同じタイミングで電車に乗り込む、背の高いサラリーマン。 オレもそれほど背が低い方では無いけれど、彼は頭半分くらい抜け出ているから 恐らく190cm近くあるんじゃないかと思う。 後ろに立たれると、僅かに圧迫感を感じるほどだ。 彼は、オレが降りる前の駅で降りていく。 それまでの時間、同じ方向を向いて、窓の外の闇を見つめる。 何処の誰かも知らないし、目を合わせることも無いし、言葉を交わすことも無い。 ただ、毎日毎日顔をつき合わせて、時間を共有していると、不思議な連帯感を持ってくる。 うちの会社は法人相手の事務機器セールス会社。 営業はもちろん、機器の修理から集金までこなさなくてはならない中で 担当を持つようになって2年。 勢いだけで、何とか続けられている。 個人単位のノルマが無いのが、唯一の救いかも知れない。 朝マックのセットを食べながら、自分のデスクでメールをチェックする。 オレがこの仕事に就くようになって、初めて大口の契約を結んでくれた会社から 『消耗品リストのご送付』と言うメールが届いていた。 ExcelをPDFにしたファイルが添付されていて その会社がいつも発注してくる消耗品のリストの脇には うちで取り扱っている価格と、ライバル会社が提示してきたと言う価格が入っている。 価格の差は、小さいものでは1円、2円。 要するに、消耗品の価格の値切りだ。 この金額が、お客さんが言う "営業努力" なんだろう。 メールの最後には、ご確認されましたら瀬戸までご連絡下さい、と書かれていた。 気が重い、なんてことは、言っていられない。 「お電話替わりました、瀬戸です」 電話に出たのは、落ち着いた声の女性だった。 この会社へ行った時には、毎度ニコニコした社長さんが出迎えてくれたから 彼女と話をするのは初めてだった。 「昨日頂いた、消耗品の件なんですが」 「ああ、すみません、お手間を取らせてしまいまして」 瀬戸さんが言うには、うちのライバル会社が営業攻勢をかけてきているらしく コピー機やプリンタ、その他の保守も含めて一括で契約して欲しいと言われているそうだ。 その際、消耗品について提示されたのが、このリストらしい。 「私としては、今まで通り青柳さんのところでお願いしたいんですけど」 このご時世、1円でも安くと言うのは何処の経営者でも考えることだ。 「その為の、説得材料が欲しいんですよね」 どうやらこれは、彼女の独断で送って来たものらしい。 「何とか……お願いできませんか?」 「ちょっと、上と相談させて下さい」 消耗品の値段は、客先ごとに異なる。 ただ、担当の一存では決められない。 会社での稟議書も必要だ。 「来週明けくらいには、直接お伺いさせて頂きますので」 「ええ、良いお返事を期待してます」 夜、駅前のスーパーで適当な夕食を買い、近くの喫煙所で一服していた時。 知った顔が向こうからやって来るのに気が付いた。 朝に一緒になる、背の高い彼だった。 女性と二人で歩いている。 左手に指輪をしているのは見たことがあったから、きっと奥さんだろう。 ふと、彼と目が合う。 電車の外で会うのは初めてだったから、何処と無く居心地が悪い。 別に、会釈をするような仲でもない。 それなのに、彼の視線はオレから離れなかった。 隣の女性が不思議に思ったのか、何か話しかけ、視線は途切れる。 煙草を一服し、去って行く彼の背中に再び目をやると 不意に彼は振り向き、意味深な笑みを浮かべた。 その表情に、思わず動揺してしまう。 彼の不自然な視線と笑みが、何故か心に引っかかった。 -- 2 -- 次の日から、彼の行動にはある異変があった。 電車に乗るタイミングは変わらないが、必ずオレの後ろに立つようになった。 そして、電車が混んで来ると、身体を密着させて腰に手を回してくる。 初めは気のせいかと思っていたが、意図的にやっているものだと気が付くのに それほど時間はかからなかった。 何ヶ月も顔を合わせていて、今更、新手の痴漢だと思うのにも抵抗があった。 何より、奥さんが居るのに、男に手を出すなんてことがあるんだろうか。 窓に映る彼の顔を見ても、オレと目を合わせることは無い。 無碍に振り払うことも出来ず、モヤモヤした気分を抱えたまま オレは、電車に揺られる日々を送ることになる。 例の消耗品価格について、稟議がおりた。 小さなものは1円単位のせめぎ合いとなったが 頻繁に購入されるものについては、相手会社よりも大胆な値引きに踏み切った。 これなら、瀬戸さんにも満足して貰えるだろう。 移動用のバイクにまたがり、会社へ赴く。 「あいにく、社長は外出していまして」 そう言って対応してくれた女性の顔を見て、驚いた。 あの夜、彼と歩いていた、彼の奥さんだった。 「購買を担当しております、瀬戸と申します」 「あ、青柳と申します。いつもお世話になっております」 名刺交換をする手が、少しぎこちなくなる。 「いい感じのお値段ですね」 こちらから提示したリストを眺めながら、瀬戸さんは満足げだった。 「大分、勉強させていただきました」 「これなら、説得できそうですよ」 「是非、これからも宜しくお願いします」 購買に関しては、決済を除き、彼女が取り仕切っているようだった。 パソコンやプロッターといった大物も、選定は彼女の一存。 ここで心証を良くしておく事は、決してマイナスにはならないだろう。 一通りの話が終わった後、出されたお茶を飲みながら、彼女はオレの顔を見る。 「青柳さん、この間、お会いしましたよね?」 あの時のことだと、すぐに気が付いた。 彼の笑みが、脳裏に浮かぶ。 「え、ええ……」 思わずうろたえる。 「主人とお知り合いですか?」 「え、いや、あの、電車で見かける顔だなと……」 「そうですか」 嘘はついてない。 別に疚しいことも無い。 なのに、会社を後にする時には、何処か後ろめたい気分で一杯だった。 こんな気分になるのは、彼の所作のせいであることは明白だった。 何とか事態を打開したい、そう考えながら駅へ向かう。 早めに出たからか、ホームにはいつもの電車の一本前の車両がまだ停まっている。 彼は既にそこに立っていたが、電車に乗る気配は無かった。 オレと同じ電車に乗る為に、次を待っているんだろうか。 音楽を聴きながら、電車をぼんやりと見ている彼の隣に立つ。 オレの気配に気が付いた彼は、一瞬視線をこちらに向けると、また視線を戻す。 彼の耳に嵌っているイヤホンを引き抜き、声をかける。 「すみません」 驚いた表情をして、彼はオレの方へ顔を向けた。 「何でしょう?」 初めて聞く彼の声だった。 想像していたよりも、若干高いトーン。 けれど、その声に大した動揺は感じられなかった。 「あの……」 この期に及んで、何を聞いて良いのかがうまくまとまらない。 あの視線、あの笑み、瀬戸さんのこと、電車の中での行為。 どれから聞くべきか、この短い時間で。 言葉に迷っている内、彼が線路の先に視線を移す。 乗るべき電車が来たのだ。 ドアが開き、降りる人がパラパラと出てくる。 彼はオレの肩に手を乗せ、呟いた。 「嫌なら、態度で示して下さい」 ずるい言い方だ、と思った自分にハッとする。 言われてみれば、当然のこと。 抵抗するなり、車両を変えるなり、手段は幾つでもある。 それを何一つしないで、されるがままになっていたのは、オレだ。 発車ベルが鳴る。 思わず、いつもとは違うドアから乗り込んだ。 オレはこの朝、初めて彼を拒否した。 言い様の無い居た堪れなさだけが、残った。 -- 3 -- それから、オレは電車の時間を変えた。 彼の顔を見る勇気が無くなってしまったからだ。 相変わらず、オレを待って、電車を見送っているのだろうか。 何を考えて、窓の外の闇を見つめているのか。 ただ一回の拒否が、彼への意識を更に大きくしていく。 彼と顔を合わさなくなってから1週間ほど。 瀬戸さんから電話が入った。 ライバル会社の誘いを断り、今まで通りの契約を続行するとの連絡だった。 最終的には、消耗品の価格が決め手となったらしい。 そのことを、わざわざ出先から連絡してくれた。 ホッとするオレに、彼女はある提案をして来る。 「青柳さん、今夜お時間ありませんか?」 「は?」 思わぬ言葉に、間抜けた声が出てしまう。 「ちょっと、お話しません?」 彼女とオレの共通の話題と言えば、今回の一件と彼のことだけだ。 そうは言っても、彼とオレの関係について、彼女が知っているとは思えない。 「な、何を?」 「個人的に、お伺いしたいことがあって」 低く抑えたトーンが、妙に艶かしい口調に感じられる。 オレは、口説かれてるのか? でも、彼女は人妻、しかも彼の奥さんだ。 結局オレは押し切られ、地元の駅のエクセルシオールで待ち合わせることになった。 自分の優柔不断さを心底情けなく思いつつ、オレは店の前に立つ。 中に入ると、奥の席に、瀬戸さんともう一人女性が座っているのが見えた。 アイスコーヒーを頼み、二人の席に近づいていく。 オレに気が付いた瀬戸さんは、軽く手を上げ、席へ促してくれる。 「お呼び立てしちゃって、ごめんなさいね」 そう言うスーツ姿の瀬戸さんとは対照的な、若い女の子に視線を移す。 ほぼ金色の髪に、派手なアイメイク。 オレの顔を興味深そうに、笑みを浮かべながら見ている。 「こちらは……」 「佐伯美緒です。ど~ぞ、宜しく」 瀬戸さんの言葉を遮るように、勝手に自己紹介を始める。 この手の女の子は、正直苦手だ。 「ごめんなさい。付いて来るって聞かないから……」 「だって、彼が "電車の君" でしょ?」 「は?」 「あ、いや……えっと、何処からお話しようかな」 自分に付けられた妙なあだ名が気になりつつ 困惑した表情の瀬戸さんを見て、自分の下心は的外れであったことに気が付く。 「実は、私も彼も……同性愛者なんです」 驚きで、声が出なかった。 どう見ても、普通の女性なのに。 「私たち、偽装結婚でして」 「ギソウケッコン?」 聞きなれない言葉だった。 「世間体の為に籍を入れただけで、夫婦生活は無いんです」 そんな世界があることを、初めて知らされる。 「傍から見れば、普通の夫婦なんでしょうが」 瀬戸さんは、隣の美緒さんを見る。 彼女の真のパートナーは、この女の子と言うことらしい。 邪な妄想が、一瞬頭をよぎる。 「籍を入れた当初は、彼にも別に恋人がいたんですけど」 「あいつ、女に逃げたのよ?最悪でしょ?」 男が女に走るのは至って普通だと思いながら、話の続きを聞く。 「それ以来、彼、大分ナーバスになってしまって」 「そこに出てきたのが "電車の君"」 美緒さんは、ゴテゴテの付け爪をオレに向けて来る。 瀬戸さんがその行動を優しく制す。 「1年位前から、ちょっと様子が変わって来て」 「尚紀クン、分かり辛いんだよ。感情出さないんだもん」 「気になる人でも出来たのかな、って。女の勘ですけどね」 「それが……オレ?」 彼女は、小さく頷く。 「突然こんな話で、本当にごめんなさい」 「青柳さんは……こんなことを聞くのもどうかと思うんですけど」 「オレは……違います」 何を聞こうとしているのかは理解できた。 彼女は、言葉足らずの答えでも分かってくれたようだった。 「であれば、一つお願いがあるんです」 「何でしょう?」 「彼に、希望を持たせないで下さい」 遣り切れない様な目で、彼女は言った。 要するに、彼を完全に拒絶しろ、そう言うことなんだろう。 彼女が何処まで知っているのかは分からないけれど オレが拒絶しなかったことに、彼は一縷の望みをかけているようだった。 「中途半端な同情は、尚紀クンを傷つけるだけだよ」 彼を完全には拒めないのは、何故なのか。 同情、親近感、好奇心……恋? まさかとは思いつつ、どれも否定できないのが、本心だった。 -- 4 -- ホームに立つ彼は、オレの顔を見て驚きを隠さなかった。 前と変わらず、一本前の電車を見送る彼の横に立つ。 言葉を交わすことも無く、目を合わせることも無い。 同じタイミングで電車に乗り、同じ車窓を眺める。 緊張しているのは、オレの方だった。 彼女たちと別れた後、自分の部屋で一人悶々と考えた。 オレが彼に抱いている感情は、何なのか。 彼は同性愛者で、オレに気がある。 それを聞いても、頭の片隅に残る彼を消し去ることが出来ない。 男に恋愛対象として見られていると言う、得も言われぬ恐怖が無い訳ではない。 今以上の行為にエスカレートしていくことにも、若干の抵抗はあった。 それでも、彼との関係を続けてみることにした。 オレの気持ちは、自分自身でも整理が付いていない。 曖昧な状況のまま結論を出してしまうのは、何となく悔しかった。 希望を持たせるなと言った瀬戸さんに申し訳ないと思いつつも 時間に全てを任せてみよう、そう考えていた。 途中の乗換駅では、多くの客が乗り込んできた。 背後から来る人の波に押され、彼の身体が近づいてくる。 瞬間、彼はドアに腕を伸ばして、オレと密着しないように自身の身体を押さえた。 圧に耐える彼の顔が、窓に映りこむ。 電車が動き出し、しばらくすると車内も落ち着き、彼もドアから腕を放す。 彼の腕がオレに触れることは無かった。 随分諦めが早いんだな、ついそんな風に思ってしまう。 彼らの恋愛は、そう言うものなんだろうか。 大半の男が受け入れないであろう感情を抱えて 受け止めてくれる運命の人を、もがくように探している。 中途半端な同情、なのかも知れない。 ちょっとした好奇心で踏み込んじゃいけないのかも知れない。 急に大きな決断を迫られたような気分になり、少し鼓動が早まる。 窓には、あらぬ方向を見つめる彼の顔が映っている。 背後の彼に向かって手を伸ばした。 彼の右手を捕らえ、そのまま軽く握り締める。 窓の向こうの彼と、目が合う。 その表情には、動揺と混迷が見て取れた。 オレは、彼から視線を離さず、手を握り続け 彼はその手を握り返すこと無く、電車を降りていった。 一歩踏み込んだ、その事実が、心に重く圧し掛かっていた。 次の日の朝。 ホームへ上がっていくと、彼はこちらに視線を向け、自らイヤホンを外す。 真摯な表情に、緊張感が走る。 「どういうことですか」 「何がですか?」 「どうして……」 言葉を途中で止め、彼は目を伏せる。 見ず知らずの男に腰に手を回してくるような積極性は何処にあったのか。 そんな風に思わせられる程、彼の姿は、迷いの中で弱っているように見えた。 「態度で示せ、そう言ったのは、あなたですよ」 ホームに滑り込んでくる電車を見ながら、言った。 彼はうな垂れたままだった。 ドアが開き、乗客が降りてくる。 「そうでしょう?」 オレは彼の背中を軽く押し、電車の中へ促した。 それから、電車の中での主導権はオレに移った。 手を握り、身体を引き寄せる。 彼はそれを拒否する訳でも無く かと言って以前のように積極的に手を伸ばして来るでも無く ただ、オレの手を待っているようだった。 数日経っても、それは変わらず 彼は本当に、あの一回の拒否で、全ての希望を捨ててしまったのかも知れない そう思うようになってきた。 ある日の朝、途中駅に停車中、ホームにけたたましいサイレンが響いた。 先の駅で、非常停止ボタンが押されたようだった。 乗換駅だったこともあり、車内の乗客が続々と降りていく。 他の路線に乗り換えようと言うことなのだろう。 しかし、オレも彼も、この路線じゃないと目的の駅には辿り着けない。 そのまま車内で待つ以外の選択肢は無かった。 人がまばらになった車内で、彼の方へ振り返る。 彼は、片方だけイヤホンを外した。 「奥さんから……聞きました」 伏目がちにオレを見ていた彼の表情が一変する。 何を聞いたのか、彼にはすぐ分かったのだろう。 視線を不自然に泳がせ、立ち尽くしている。 「その上での、ことです」 やっと口を開いた彼の声は、僅かに震えていた。 「困ります……」 先に手を出してきたのは、彼だ。 何を、今更。 ホームの人だかりは、大分解消されていた。 けれど、電車が動く気配は無い。 -- 5 -- 「ちょっと」 彼の腕を取りホームへ出て、ドアの側の柱を背に立つ。 相変わらず彼の顔には困惑が浮かんでいる。 「あなたの気持ちを、聞かせてくれませんか」 俯き加減の彼に、質問を投げかけた。 残酷だろうか、それでも、彼の口から答が欲しかった。 時間だけが過ぎていく。 こんな場所で聞くことじゃ無いかも知れない。 オレは焦り過ぎているのかも知れない。 そうこうしている内に、運転再開のアナウンスがホームに響く。 彼は、俯いたままだった。 自分の名刺を取り出し、彼の胸ポケットに差し込む。 「携帯の番号も書いてあります」 それだけ言って、オレは先に電車に乗り込んだ。 ドアが閉まる。 窓の向こうには、柱に寄りかかり、名刺を眺める彼がいた。 そう言えば、会社に電話するのを忘れていた。 そんなことを考えている内に、車窓は闇に包まれる。 幸運なことに、その日の仕事は激務だった。 集金に営業に、機器メンテの応援。 余計なことを考える暇もなく、夕方の地域別ミーティングの時には疲労困憊だった。 「随分疲れた顔してんなぁ」 同僚にそう声をかけられる。 「ああ、朝から災難だったし……」 急に彼のことを思い出す。 何気なく携帯をチェックするが、知らない番号からの着信は無かった。 名刺を渡してしまったことに、妙な不安を覚える。 彼からの電話が無いことに、オレは、耐えられるだろうか。 落ち着かなくなってしまった気分を抑えながら、見積り依頼などの雑務をこなす。 気が付くと、時計は8時を回っている。 そろそろ頭も回らなくなってきた、と自分に言い訳をして、席を立った。 いつものように混雑した車内では、薄いまどろみに包まれる。 夕飯を食べる気にもならないくらい、疲れていた。 駅前で一服して、さっさと帰ろう、ぼんやりとそう考える。 大きな公園の片隅に設置された喫煙所。 薄暗い木立と行きかう人を眺めながら、ゆっくりと煙を吐き出す。 少し肌寒い風が吹く中、何となく気分が落ち着いてくる。 その時、不意に携帯が震えだす。 表示されている知らない番号に、身体が強張った。 「……瀬戸と申します」 電話の主は、そう名乗った。 瀬戸さんのご主人だから当たり前だ。 そんなことに気が付くのに時間を要するくらい、オレはうろたえていた。 「あ、お疲れ様です。……青柳です」 「今、大丈夫でしょうか?」 電波が良くないのもあったけれど、お互い、会話はぎこちなかった。 「朝は、すみませんでした。ちょっと、動揺してまして……」 「いえ、こちらこそ、突然すみませんでした。……まだお仕事ですか?」 「これから帰るところです」 「でしたら、少しお会いできませんか?」 彼からの返答には、少しの間があった。 「……分かりました」 本意ではないのかも知れない、そんな邪推をしてしまう。 初めてまともに話をする機会を得たのに、不安と期待で、煙草を持つ手が震えた。 彼が喫煙所に現れたのは、それから30分ほど経ってからだった。 軽く会釈をしてから、その場を離れ、公園のベンチに腰をかける。 「お疲れのところ、すみません」 彼は、軽くはにかんで、首を横に振る。 何から話そうかと迷いあぐねていると、先に彼が口を開いた。 「私の気持ちを……聞きたいということですよね」 「そうです」 「私が……」 そこまで言って、彼は言葉を飲み込む。 自分のマイノリティな一面を口に出すのは憚れるのだろうか。 「……知ってます」 「あなたは……違うでしょう?」 「違います」 「なら、何故」 いたたまれなくなったのか、彼は目を伏せた。 「先にアプローチしてきたのは、あなたですよ?」 「あれは……つい……」 「でも、オレのことは受け入れてくれませんよね」 軽く唇を噛む顔が、電灯の光に照らされている。 「踏み込んだのは、間違いだったと……あなたにも、迷惑を」 「オレは、態度で示したつもりですけど」 小さくため息をつく音が聞こえた。 同性愛者と異性愛者は、互いに受け入れられないものなんだろうか。 彼が求めているものと、オレが差し出しているものが違うんだろうか。 人の感情の複雑さを、改めて思い知る。 「あなたは、オレのこと、どう思ってますか?」 -- 6 -- 長い沈黙だった。 通り過ぎていく人たちは、オレたちの事をどう見ているんだろう。 同僚、友達、そんな風にしか見えないはずだ。 俯き加減だった彼の顔が、ふと前を向く。 水の出ていない噴水を見やりながら、言った。 「……好きです」 予想していた答だった。 何処かで期待していた部分もあった。 にも拘らず、同性からの告白を、オレは素直に飲み込むことが出来ない。 急に怖くなって来たからだ。 自分の気持ちの変化に、軽く動揺する。 「でも、あなたが受け入れきれない事は、分かってるんです」 少し怯んだオレの顔を見て、彼は寂しげな笑みを浮かべる。 「あなたには、先が見えないでしょうから」 オレが恐れているものを、彼は分かっている。 既に歩んできた道なのかも知れない。 ここまで来たのは、薄っぺらい情にほだされただけだったのか? それは違う、そう思いたかった。 「仮にあなたと付き合ったとして」 彼はオレから視線を外し、前傾姿勢で遠くを見る。 「いずれ、私は、あなたに色々なことを求めるでしょう」 恋人として、求めること。 どんなことかは分かっても、今のオレには、足を踏み込む勇気は無かった。 「そんな望みを抱いている私と、一緒にいられますか?」 オレに向けられた顔は、拒否されることを望んでいるような目をしていた。 生半可な気持ちで飛び込むなと言う忠告なんだろうか。 オレが、いずれ彼の元を離れていくだろうと言う諦観なんだろうか。 小さく開いた膝の上で組まれた彼の手に、自分の手を乗せた。 「今のオレには、これが精一杯です」 そう言って、彼の手を握る。 「気持ちが混ざり合うまでには、まだ時間がかかると思います」 彼の顔には、まだ途方に暮れる心情が表れていた。 「……それでも良い、と言ってくれませんか」 組んでいた手が解け、彼の指がオレの指に絡んでくる。 彼の体温を感じる。 ほんの少しだけ、気持ちが溶けた気がした。 「わかりました」 一つになった手を見つめながら、彼はそう答えた。 乗る電車は、いつもと変わらない。 見かける面子も、同じだ。 その中で、他人には見えない変化を遂げた、オレと彼の関係。 ホームで顔を合わせても、声をかけることは無く、軽く会釈をするだけ。 恋愛関係と言うには、薄すぎる。 それでも、心の何処かで繋がっていると言うことが嬉しかった。 戸惑いが無い訳じゃ無い。 それは、彼もきっと一緒だろう。 電車は地下に入ってすぐの駅に停まり、にわかに混雑してくる。 彼の身体が、オレに触れた。 そっと背後に手を伸ばし、手の感触を確かめ合う。 人目につくことに抵抗もあり、あからさまに目を合わせることは無いけれど 密やかに、その時間を享受する。 彼の降車駅に電車が到着し 少し前まで触れていた手の余韻を感じながら、オレは先に電車を降りた。 彼は胸の辺りをオレの肩に軽く押し付け、振り返る事無く改札へ向かう。 若干不自然な行動を不思議に思いながら、再び電車に揺られる中で あれは、彼にとってキスの代わりなのかも知れない、そんなことを考える。 視界の闇が急に取り払われる。 電車は速度を落とし、ホームへ滑り込んで行った。 刹那的な悦びで終わらせたくない。 ゆっくり、彼と溶け合って行きたい。 時間はそれを許してくれるだろうか。 甘い不安と共に、オレは電車を降りる。 Copyright 2010 まべちがわ All Rights Reserved.