いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 創始 --- -- 1 -- オレの住んでいる小さなマンションは、小高い山の上にある。 会社の借り上げだから家賃も安いし、駐車場もタダ。 だから、文句は言えないのだけれど、何せ会社から1時間以上もかかる。 しかも、バスと電車の乗継有り。 バス停からの坂道がキツく感じる日は、少なくない。 「何だよ篠崎、もう帰んのか?」 ある金曜日の夜。 茅場町にある会社の近くでひとしきり飲んで、もう一軒という話になった。 「まだ電車あるだろ?」 「電車はあるけど、バスがねぇんだよ」 諦め顔で言うオレに、同期の松永が苦笑する。 「タクシーで帰れよ」 「最終近くだと、すげー行列すんの」 バスが終わってしまうと、接続駅からはタクシーで帰るしかないのだけれど これがまた、ものすごい行列で、乗るまでには30分以上待たされる。 「せめて地下鉄沿線に引っ越せよ」 「住環境は悪くないんだよ」 「いや、十分悪いだろ」 実際、住み心地は悪くない。 間取りは単身にも拘らず2DKだし、車があれば買い物にも困らない。 幹線道路からも離れているから、夜は大分静かだ。 ただ、会社から遠い、それだけだった。 同期にぶつくさ言われつつ、オレは帰途に着く。 地下鉄に乗り、やがて地上に出て、ターミナルを越えると再度地下に入る。 駅に着くと、正面のバス乗り場には既に行列が出来ていた。 程なく、青いラインの入ったバスがやって来る。 ここから、またしばらく乗り物に揺られることを考えると やっぱり引っ越そうかなぁという思いに駆られるのも、毎日のことだ。 『次は、緑ヶ丘一丁目。緑ヶ丘小学校前です』 降りるバス停のアナウンスが流れる。 乗る時にはパンパンだった車内も、既に人影はまばらだった。 誰かが降車ボタンを押す。 ハイブリッドのバスは、目的の場所へ静かに停車した。 「お疲れ様でした。お気をつけて」 そう声をかけてきたのは、よく顔を見る運転手だ。 少なくとも、オレよりは若いんだろうと思う。 明るい笑顔で、疲れた顔の乗客に声をかける姿が印象に残っている。 「どうも」 笑顔を作るのが苦手なオレでも、自然に笑みがこぼれた。 一日の最後にこんな気分になるものだから、引っ越し欲は薄くなっていく。 結局、それの繰り返しだ。 「悪いけど、こっちのフォーマットに直してくれるかなぁ?」 「今回は、時間も無いので弊社のフォーマットで良いと言うお話だったかと思いますが」 客先での打合せの席。 提出した計算書のフォーマットに難癖をつけてきているのは、津田設計の大野課長。 「まぁ、そうなんだけど。ちょっと分かりにくいんだよね」 技術営業とは名ばかりの、実務を伴わないと評判の課長だけあって "よく分からない" と言うのが、この人のダメ出しの常套句だ。 「……空調をお分かりの方なら、見て理解できる内容かと思いますが」 「こちらのフォーマットで修正致しますので、少しお時間頂けますか」 不満げに呟く松永の声に被せる様に言う。 こんなところでつまらない揉め事を起こすのは、性分じゃない。 大野課長が2つの声を聞分けたのかどうかは分からないが 課長は、じゃ、来週末までに宜しく、と言って席を立つ。 「あんなとこで、あんなこと言っても、何にもなんねぇだろ?」 恵比寿駅に程近い喫煙所で、不満げに煙草を吸う松永に苦言を呈す。 「いつもああだぜ?不満の一つも出るだろ?」 「気持ちは分かるけど。下手にこじれたら、信頼も金も失うだけだ」 「そうだけどさ」 仕事も出来るし、頭も切れるが、感情が表に出やすいのがこいつの欠点だ。 今日のようにフォローするのも、珍しいことではない。 「こっちの書式の方が、よっぽど分かりにくいだろうよ」 渡された書面を見ながら、まだぼやく。 こうなると、機嫌を取り戻すまでが長い。 「今日はお前、タクシーで帰れよ」 「は?」 「飲み行くぞ」 機嫌を損ねた時の恒例、居酒屋・居酒屋・キャバクラの3連コンボが確定したらしい。 「津田沼の店に可愛い娘が入ったって聞いたんだよ」 「……折角恵比寿にいるのに、何でわざわざ津田沼な訳?」 「家まで近いんだから、文句言うなよ」 そう言って、松永は駅へ向かって歩き出す。 「俺は、都会のえげつないキャバは好きじゃないの」 キャバクラなんて何処も大して変わらないじゃないか、そう思いつつ、後に続く。 -- 2 -- 「お前、何処で噂聞き付けてきたんだ?」 「たまたま休みだっただけだろ」 お互いろれつが回らないまま、そんなことを言い合う。 津田沼で連戦を重ね、最後に立ち寄った噂のキャバクラは、正直ガッカリな店だった。 お目当てと思われた可愛い女の子にも巡りあえず あれで1時間6500円はボッタクリじゃ無いかとも思うくらいだ。 「リベンジ行くか?」 「もう、勘弁してくれ」 キャバクラの程近くにある灰皿の前で、眠気をこらえる。 明日が土曜日で、本当に良かった。 その時、1台の車が店の前に停まった。 「これからご出勤か」 松永がそちらの方を興味深そうに眺めている。 キャバ嬢達のご送迎らしい。 「ああいう仕事は、どうなんだろうなぁ」 「お前じゃ、キャバ嬢は勤まらないだろ」 「キャバ嬢じゃなくて、送迎の運転手」 そりゃそうか、と思いながら、車に目をやる。 運転しているのは、若い男のようだ。 暗くて顔までははっきり見えないが、胸まで開いたシャツとその間から見えるネックレスが その辺によくいるチャラい奴、そんなイメージを植え付ける。 「毎日キャバ嬢に囲まれるわけだろ?密室で」 「出勤前はご機嫌かも知れないけど、帰りは悲惨そうじゃね?」 「何で?」 「ストレスのはけ口にされるだろ?密室で」 ああ、と言って、松永は何やら想像しているようだった。 「……それはそれで、良いかも」 「馬鹿だね、お前」 つまらないことを話している内に、例の車に入れ替わりのキャバ嬢が乗り込んでいく。 「これからサンドバッグの時間か」 「絶対、オレには無理だわ」 対向車のヘッドライトが、運転手を一瞬照らす。 ふと、彼と目が合った。 驚いたような表情をして、彼は顔を背ける。 知り合いだろうか……まさかな。 不思議に思いながら、夜の街を走っていく車を目で追いかけた。 使いにくい、分かりにくい、絶対知らねぇ奴が作ったんだ。 そう言いながらも、松永の手によって件の計算書は何とか形になっていく。 「つーか、省エネ計算なんか、専門でやってる事務所に任せりゃ良いじゃん」 「金が無いんだとさ」 「空調関係だけでも、うちでやるとか」 「その金すら惜しいんだろ」 「ダメ出ししてきて結局作り直しなんだから、同じことだよなぁ」 一定規模の新築物件や改築物件に関しては 法律で決められている省エネルギーの基準を満たしているかどうかを 役所へ計算書として示すことが義務付けられている。 その計算書の作成を生業とする会社があるくらい、複雑な書類になっているのだが 大野課長は金が無いことを理由に、自分たちでやると言っているのだ。 オレたちがやっているのは、その計算書を作成するための予備計算書。 正直、こんなのを作るくらいなら、自分たちで省エネ計算書を作ってしまいたい。 「金が無いって、皆を不幸にするな」 「何を今更」 「俺は今、それをシミジミ実感してるよ」 金の支払いが渋い昨今、やっても金が貰えない仕事を続けていては モチベーションも上がらない。 自分の技術の向上の為と思っても、やりきれない時だってある。 「計算書は形つきそうか?」 「ええ、何とか」 疲れ切った顔をして声をかけてきたのは、先輩の君津さんだ。 「ちょっとさぁ……手貸して貰えね?」 とてつもなく嫌な予感がしたが、断る権利は、オレには無い。 君津さんの机に積まれた図面の山を見れば、概ね予想は付いた。 「施工図なんだけど、量が半端ねぇの」 「……いつまで?」 「明日中」 乾いた笑いしか出なかった。 今が、夜の8時。 どう考えたって、終わらない量だ。 「飯おごるから」 君津さんは、今日で何徹目なんだろう。 そう思うと、安すぎる、とはとても口に出せなかった。 徹夜は苦手だ。 歳をとって、その傾向は顕著になってきたと思う。 次の日の昼間くらいまでなら耐えられるが、午後は完全にグロッキーになってしまう。 図面作成が完了したのは、結局、提出期限ギリギリの夜遅くなってからだった。 晩飯・朝飯・昼飯・晩飯と、全て君津さんのご相伴に預かったが お互い、口も開けないくらいの状態になっていた。 翌日の午前半休を申請し、共に地下鉄に乗る。 立ったまま寝そうになりながら、途中で降りる君津さんを見送った。 「篠崎君、寝過ごさないようにね」 彼は、力なくそう笑う。 この期に及んで、それだけは避けたい。 吊革を掴む手に、力が入った。 -- 3 -- こういう時は座っちゃいけないと、何度後悔したことか。 その日のバスは何故か随分空いていて、空いた椅子の誘惑には勝てなかった。 「お客様、緑ヶ丘一丁目ですよ」 我に返ったのは、そう声を掛けられてからだ。 周りを見ても乗客は誰もおらず、目の前には、いつもの運転手が立っていた。 「あ……すみません」 「いいえ、いつもここで降りられるのに、どうしたんだろうと思いまして」 笑顔でそう言う彼に、若干の違和感を覚える。 制帽を被っていないからだろうか。 彼はこんな顔なのか、そんなことをぼんやりした頭で考えていると あのキャバ嬢送迎の運転手の顔を思い出す。 そう言えば、似ているような……。 何かに気が付いたことが、顔に出たのだろうか。 彼は急に居心地の悪そうな表情を見せる。 場の空気が変わった気がして、オレはお礼を言いつつ下車口に向かった。 「あの……」 背後から、彼の緊張したような声が聞こえる。 「会社には、黙ってて貰えませんか」 この言葉で、確信を得る。 普通の会社員なら、バイトなんて許されない。 ましてや運転手である彼が、他の車を運転することで利益を得ることは どんな事情があるにせよ、下手すれば解雇される可能性だってあるだろう。 振り返ると、俯いた制服姿の彼が立っていた。 対向車に照らされた彼とは、別人に見えた。 「別に、何か言うつもりは無いですよ」 オレは、無理矢理笑顔を作って、そう話しかける。 「……今日はありがとう。お疲れ様」 彼は何も言わず、深々と頭を下げた。 マンションまでの坂道を登りかけた時、後ろを振り向いた。 停まっていたバスが、ようやく動き出す。 不慮のこととは言え、何となく自分が悪いことをしたような気分になり 彼への申し訳なさを抱えながら、坂道を登った。 あれから、彼の笑顔を見ることは無くなってしまった。 オレに気を遣っているのか、自分の秘密がばれる事を恐れているのか。 その双方なのかも知れない。 そんな日が続く内、オレは一つのことに気が付く。 仕事のストレスも、疲れも、彼の笑顔に癒されていた、と。 嫁も子供も彼女もいないオレにとって、会社の仲間と談笑することはあっても 好意だけの笑顔に出会うことは、なかなか無い。 もちろん、彼とは運転手と客と言う関係ではあるけれど オレは心の何処かで、それに限らないものを求めていた気もする。 ある夜。 最終バスは異常に混んでいて、オレは下車口のすぐ近くに立っていた。 背後では、笑顔を忘れてしまった運転手がハンドルを操っている。 目の前の席では、派手目の女の子が携帯電話を弄っていた。 駅を出てしばらくした頃、その彼女が彼をじっと見つめ、不意に声を上げる。 「靖行じゃん。あんた、バスなんか運転してるんだ」 オレを押しのけ、運賃箱の上に乗り出す。 明らかにうろたえたような彼が、冷静を装い注意を促す。 「お客様、危ないですから、お座り下さい」 あはは、と可愛げの無い笑い声を上げ、彼女は絡み続ける。 「だって、突然辞めちゃうからさ~。どうしたんだろって話してたんだよ?」 どうやら彼女は、あのキャバクラのキャバ嬢らしい。 周りの乗客も、徐々に怪訝な表情になっていく。 「女の子たちも寂しいって言ってたし~」 マズイ状況であることは、確かだった。 「君、ちょっとうるさいよ」 「はぁ?何?おじさん」 オレと7、8歳くらいしか変わらないじゃねぇかと思いつつ、ムカついた気分を抑える。 「静かに座ってなよ」 「あんたに関係ないでしょ?」 「他の人に迷惑だろ」 「どーだっていいじゃん」 埒が明かない、そう思った。 降車ボタンを押す。 『次、停まります』と言う機械的なアナウンスが流れた。 もちろん、いつも降りる場所じゃない。 バスが停まり、ドアが開く。 「2人分で」 そう言って磁気カードをかざし、彼女の手を引く。 「降りて」 「何すんの?離してよ」 「いいから、早く」 嫌がる彼女を半ば強引に、外へ押し出した。 振り向くと、困惑した表情の彼が目に入る。 オレは一時彼の目を見つめ、バスを降りた。 周りの乗客は、オレと彼女の痴話喧嘩だとでも思っただろうか。 それなら、その方が都合は良いけれど。 -- 4 -- バスが走り去る。 「何なの?あんた?」 彼女は見るからに不満そうに、オレに絡んで来た。 「君さぁ、津田沼のキャバクラの娘だろ?」 「そうだけど?」 「あそこに君の知り合いが来て、ウダウダ絡まれたら嫌じゃね?」 不機嫌な顔をしながら、やっぱり携帯を弄っている。 「だから、何?」 「彼にとってはさ、バスが職場なんだよ」 「送迎でしか見たこと無かったし」 「バスの運転手がキャバ嬢の送迎してるなんて言う事情、察してやれないの?」 「そんなの知らないよ」 バチン、と乱暴に携帯を閉める音が、夜の住宅街に響く。 「あんた、靖行と知り合いか何か?」 何て答えるべきか、一瞬迷う。 「そうだよ」 「ふ~ん……」 「面倒起こされたら困るってことくらい、君にも分かるだろ?」 「分かるけど」 彼女の気分も、若干落ち着いてきたようだ。 「結構話も聞いてくれるし、良い人だったんだけどなぁ」 良い人、都合の良い言葉だなと、いつも思う。 「バスなんかより、送迎の方が向いてるよ」 そう言って、彼女はやっぱり可愛げの無い笑い声を上げた。 そんな訳ねぇだろと思いながら、軽いため息をつく。 オレを尻目に、彼女は電話をかけ始める。 「あ、もしもし~?あたし~」 相手は男だとすぐに分かるような声色だ。 「バス降りるとこ間違っちゃったから、迎えに来て~」 そう言って彼女は路肩に腰を下ろし、細い煙草に火をつけた。 もうバスは来ない。 迎えに来てくれるような人もいないオレは、黙って坂道を登ることにした。 「あ、ちょっと」 背後から、声をかけられる。 「また来てよ」 そう言って、彼女はオレのスーツの胸ポケットに名刺を入れる。 「指名してくれれば、サービスするから」 彼女は、金と引き換えの笑顔をオレに見せた。 お返しした作り笑いは、きっと引きつっていただろう、と思う。 この道、勾配こんなにきつかったっけ。 街頭に照らされた歩道が、延々続いているような気分になってくる。 遠くにコンビニの看板が見えてくる頃、その光に被さるようにヘッドライトが近づいて来た。 行き先に "回送" と表示されたバスが、道路の向こう側に停車する。 中から出てきたのは、彼だった。 小走りで道路を渡り、こちらに近づいてくる。 「先ほどは、ご迷惑おかけしました」 申し訳無さそうな顔をして、彼は頭を下げる。 「いや、別に。大丈夫ですよ」 「本当に、すみません……」 「ホントに、気にしないで。業務に戻って下さい」 バスを車庫に入れる時間もあるだろう。 こんなところで引き止めておく訳には行かなかった。 何度も何度も頭を下げながら、彼はバスに戻り ハザードを何回か点滅させた後で、大きな車体は坂道を下って行った。 バスの運転手の勤務シフトについて、詳しいことは知らないけれど 毎朝、毎晩同じ路線に乗っていても、当然、彼の運転する車に当たるとは限らない。 帰りのバスで、少しガッカリした気分になることもあったりして 思っている以上に、彼のことを気にしている自分に気づかされる。 その日の帰りのバスでも、彼を見ることは無かった。 タイミングが悪いのか、もう2週間くらいは見ていない気がする。 『次は、緑ヶ丘一丁目。緑ヶ丘小学校前です』 いつものように降車ボタンを押す。 ゆっくりとバスが停まると、停留所には待ち人がいた。 この先には終点まで殆ど停留所は無いし、この時間に待っている人を見るのは初めてだ。 しかし、待ち人はバスに乗ろうとはしない。 バスを降りて、やっと分かった。 待っていたのは、彼だった。 「いつもこちらで降車されるので」 彼は俯き加減で言う。 オレだって、帰りの時間はまちまちだ。 「……オレを、待ってたんですか?」 「ええ。改めてお礼をと思いまして」 「そんな、わざわざ良いのに」 「実は、配置転換がありまして。もう、お会い出来ないかと思いますので」 その一言に、冷静さを削られる。 大きなものを、失った気がした。 -- 5 -- 彼が所属するバス会社は、千葉から東京にかけて広い営業エリアを持っている。 エリア内での配置転換は、そう珍しいことでは無いと言う。 「どちらの方に、行くんですか?」 「来月の頭から、湾岸の方へ」 「……そうですか」 自分でも不思議なくらい、落ち込んでいた。 彼の笑みに触れることが出来なくなる、そのことに耐えられなかった。 そんな気持ちを悟られないよう、わざと彼から視線を外す。 「どうして……」 ふと言いかけた言葉を飲み込む。 「どうして、あんなバイトをしてたか、ってことですか?」 何か思い悩むような顔をしてしまった彼を見て、浅はかだったと後悔する。 「恥ずかしながら、兄がギャンブルで借金を作りまして」 金の無心を親に迫り、足りなくなると、弟である彼の元にもやって来た。 初めは家に来る程度だったのが、やがてバスにまで乗り込んで来るようになり 乗客に迷惑がかかることを恐れ、仕方なく金を渡していると言う。 給料だけでは足りなくなり、行き着いたのが、あのバイトだった。 「車を運転するのは慣れてますし、給料も良かったので」 一通り話し終わった彼は、深いため息をつく。 「これを機会に、兄の自己破産の申請を考えていますけど……上手く行くかどうか」 想像以上の重い話に、口を開くタイミングを逸していた。 そんな経験の無いオレが何を言っても、説得力は皆無だからだ。 「すみません、こんな私事をお話してしまって」 「いえ……大変ですね」 「自分勝手ですけど……話を聞いてもらって、少し気が楽になりました」 「どうぞ、お元気で」 彼は、少し先にあるコンビニの駐車場に向かって、歩いていく。 その背中を見ながら、心に空いた穴をどう埋めようか、そればかりを考えていた。 「何ですか?これ」 総務の人が持ってきた3枚の書類。 「引っ越し先、この中から選んでくれる?」 あれから2ヶ月。 交通費削減の為、遠方の借り上げ住宅を引き上げるとの話になったとのことで 地下鉄沿線の住居に引っ越すよう、お達しが出た。 「他のとこでもいいけど、家賃補助は減るからね」 唐突過ぎる、そう思いながら書類を眺めた。 「これ、いいじゃん」 後ろから覗き込んできた松永は、一枚を取り上げ、オレの顔の前に差し出してくる。 「妙典徒歩6分。始発駅だし、駅前にでかいスーパーもあるし、超便利」 「何だよ、不動産屋かよ」 「あぁ、南行徳徒歩3分も捨てがたいけど、やっぱ妙典だな」 松永が見向きもしない残りの一枚は、行徳からバスで10分。 これだけやたらと不便なのは、どうやら間取りが関係しているらしい。 「ワンルームってのは……引っ掛かるなぁ」 「何言ってんだよ、どうせ帰って寝るだけだろ?」 駅から至近の2物件はワンルーム、バス物件は2DK。 これで家賃はほぼ一緒だ。 「ま、とりあえず、全部見てくるわ」 「こんなの即決だろ?」 松永の手には、未だ妙典の書類。 「そんなに気に入ったんなら、お前も引っ越せば?」 「やだよ。引っ越し、面倒」 ワンルームは好きじゃない。 今の家が2DKと下手に広いだけあって、圧迫感がきつい。 松永お勧めの妙典のマンションは、特にその傾向が顕著だった。 良くこれだけ詰め込んだなと思わんばかりの間取り。 作り付けの狭い机、半間のクローゼット、室外機が半分を占めるバルコニー。 一目見て、無理だ、と思った。 妙典から大手町方向に1つ行った駅が行徳、更に1つ先が南行徳。 とりあえず進行方向順に見てみよう、と行徳で電車を降りる。 駅前に設置されたバスの路線図を眺め、目的のバス停を探すが、よく分からない。 書類と路線図を見比べていると、後ろから声をかけられる。 「どちらまで行かれるんですか?」 聞き覚えのある声に、ハッとした。 振り向くと、そこに立っていたのは、あの運転手の彼だった。 多分、驚きの表情は隠せなかったと思う。 彼もオレの顔を見て驚いたようで、一瞬、言葉が止まる。 「お久しぶりです」 「……こちらの方で運転されてるんですね」 「ええ、そうなんです」 彼の視線が、オレの手元に移る。 「ここなら、このバスで行けますよ」 彼が指し示したバスは、まさに彼が降りてきたものだった。 「お引っ越しですか?」 「ええ、会社都合で。とりあえず、物件を見てこようと思って」 「まぁ、バスなんでちょっと不便ですけど」 バスの運転手らしからぬことを言って、自虐的に笑う。 「357号線が近いんで、車があれば便利な場所ですよ」 10分ほどバスに揺られると、降りるバス停を知らせる車内アナウンスが流れる。 他に乗客はいなかった。 「こちらですよ」 彼が、そう声をかけてくれた。 小ぶりなバスは静かに停車し、オレは下車口に進む。 「ありがとう」 そう言うと、彼はあの笑顔を見せる。 磁気カードを差し出す手に、不意に、白い手袋をつけた手が触れた。 「この街、気に入っていただけると……嬉しいですけど」 滑らかな生地の感触が、背中を押した。 「……また、宜しく」 オレは笑顔を見せて、バスを降りる。 生ぬるい南風が、僅かな潮の香りを運んでくる。 ケヤキ並木が続く道を、小さなバスが走っていく。 再会を祝ってくれているかのように、空は青く晴れ渡っていた。 Copyright 2010 まべちがわ All Rights Reserved.