いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 警笛 --- -- 1 -- お、新型車両だ。 導入されてから何ヶ月も経っているというのに 線路を通る車両を見かけると、そんな風に思って立ち止まってしまう。 SLや旧車よりも、とかく新型車両に目が行く。 ミーハーな奴、と言われても構わない。 新しい方がどう考えたって、力学的にもデザイン的にもカッコいいと思う。 最近では、それほど特殊でも無くなって来た、趣味:鉄道。 撮り鉄・録り鉄・乗り鉄……鉄道ファン分類で言えば、俺はライトな乗り鉄に入ると思う。 よっぽど珍しい車両でなければ写真を撮ろうとも思わないし モーターのインバーター音なんて、正直よく分からない。 かと言って、乗りつぶしや一筆乗車にも、あまり興味が無い。 休みの日にふらっと出かけて、ただ電車に揺られているのが、好きだ。 「萩原くん、Y邸の矩計図出来た?」 「今修正中なんで、あと1時間もあれば」 「了解。出来たら、データこっちに回してね」 今は、八王子に新築される一軒家の図面を作成中。 事務所の社長でもある森下さんは、忙しそうに図面の整理をしている。 彼女の設計事務所に就職してから3年。 総勢5人の小さな所帯ではあるけれど、幾つかの建築雑誌に掲載経験のある森下さんの下 日々、デザインに関するディスカッションと、図面作成に明け暮れている。 「ミタカ建材の結城ですけど」 ある日の午後、床材メーカーの営業さんから電話がかかってきた。 結城さんは、森下さんとは事務所設立からの仲だそうで、よく出入りしている。 俺も顔を合わせることが多い。 実のところ、俺の趣味は彼に触発されて目覚めたといっても良いくらい 結城さんは筋金入りの鉄道ファンだ。 「お世話になります。萩原です」 「おお、萩原君か。最近、乗ってる?」 「いえ……あまり時間が無くて」 「そうか~。乗るには良い時期なんだけどねぇ」 多分、彼との話は、建材のことよりも電車のことの方が多いに違いない。 「実はね、来月から営業担当が替わるんだよ」 そう言う結城さんは、ちょっと嬉しそうだった。 「……昇進とか?」 うふふ、と言う彼特有の笑い声が聞こえたものの、はっきりした答えは無い。 「それで、来週辺り、後任と挨拶に行こうと思ってね」 「ええ、大丈夫ですよ」 「まぁ、萩原君と鉄話出来なくなるのは寂しいけどねぇ」 「そうですね」 「後任も、なかなか電車好きだから、話も合うと思うよ」 きっと、結城さんに仕込まれたに違いない。 何となく気の毒に思いながら、来週の約束を取り付ける。 「この時期、お勧めの路線なんて、あります?」 別れ際のお約束事項を聞いておく。 「そうだねぇ。銚子なんて、良さげだけど」 「銚子?銚子電鉄ですか?」 「うん、今の時期は魚が美味いよ」 それは、ちょっと魅力だ。 でも、ちょっと遠い。 今週末は……どうだろう。 「ま、僕のお勧めだから。ローカルな雰囲気、味わっておいでよ」 思いの外、仕事は順調に進み、珍しく週末は休めると言う状況になった。 こうやって週末の土日に休めることは、滅多に無いのがこの仕事。 結城さんに敬意を表して、と言う訳でもなかったけれど 何年か前に話題になった時には乗りそびれてしまったな、と言う思いもあった。 東京駅から、特急しおさいで2時間弱。 銚子駅は、大きくも無く、小さくも無く、地方都市の駅と言う雰囲気で満ちていた。 JRのホームの先に、小さな電車が停まっているのが見える。 あれが、今日の目的である銚子電鉄。 ネットや雑誌で見た事はあったけれど、実際に見るのは初めてだ。 土曜日だからなのか、思ったよりも乗客は多かった。 もっとも、小さな電車、感覚的には都電によく似た感じの大きさだから 多少の人でも、窮屈に感じてしまうのかも知れない。 乗り心地は決して良いとは言えなかったけれど、車窓に広がる風景はのどかで いつも建物ばかりの眺めを見ているからか、とても新鮮に見えた。 犬吠、と言う駅で降りる。 しばらく歩くと、海と、白く小さな灯台が見えてきた。 水平線が丸く見えると有名な、犬吠崎灯台。 久しぶりに見る、東京湾以外の外海に、幾分心が躍った。 灯台の脇から、崖の下を見やる。 海のすぐ側は広く岩場になっていて、凪いだ海の波が、静かに打ち寄せていた。 その岩場に立つ、一人の男に目が行く。 彼は、海をぼんやり見ているようだった。 ふとポケットから何かを取り出すと、海へ放り投げる。 それは、金属だったのか、キラキラと輝きながら、波間に落ちていった。 まるで傷心旅行の女の子みたいだな、そんなことを考える。 傷心とは程遠い生活を送る俺には、メランコリックな感情が、ちょっと羨ましかった。 -- 2 -- 適当に探した民宿は、大当たりだった。 結城さんがアピールしてくれた、地魚三昧の夕食。 建物のすぐ側には海があって、夜になると波の音がうるさいほどだ。 仕事では洗練された建物ばかりを見ているけれど 鄙びた感じの建物の方が、俺には性に合っているのかも知れない。 そう思うくらい、畳の匂いが心を和らげてくれる。 夜、海を見て来ようと外へ出る。 その時、入れ替わりに客が宿へ入って行った。 思わず、振り向いてしまった。 昼間、岩場にいた彼だった。 彼も一人旅なんだろうか、そう思いながら、砂浜に下りる。 波は、昼間に比べると少し高くなっていたようだ。 もっとも、暗くてよく見えないから、音だけでの判断。 寄せては返す波の音の中で、特に何を考えるでもなく時を過ごす。 やがて、その音が頭の中に入り込んで、夢か現か、よく分からなくなってくる。 波に酔いながら、来て良かったかも、と思う。 普段、目覚ましがけたたましく鳴っても、なかなか起きられないのに こう言う時にやたらと早く起きてしまうのは、知らない内に興奮しているからなんだろうか。 海は朝日を受けて、輝いていた。 そう言えば、この辺りは本州で一番初めに初日の出が見られると有名だ。 誰よりも早く朝日を見られるなんて、ちょっと得した気分になる。 宿の1階にある食堂へ下りていく。 慌しく朝食の用意をしているおかみさんが、愛想良く挨拶をしてくれる。 テーブルに載ったシンプルな朝食を食べていると、昨日の彼がやって来た。 同じ宿に泊まる同士、というほどのものではなかったけれど、軽く会釈をした。 「お一人ですか?」 あらかた食べ終わり、お茶を飲んで一息ついていると、そう声をかけられる。 「ええ」 「観光で?」 観光と言えば観光だけど、目的はそこじゃない。 「あ~……電車に、乗りに」 その言葉を聞いて、彼は興味深そうな笑みを浮かべる。 「電車、お好きなんですか?」 「まぁ、好きですね」 「僕も、好きなんですよ」 同じ趣味、そう分かると、急に親近感を覚える。 何しろ、同年代で同じ趣味を持った人間が周りにいなかったこともあり それも嬉しさに拍車をかける。 「銚子は初めてですか?」 「そうなんです。仕事関係の方から勧められて」 「僕は、結構来てるんです。四季がはっきり感じられて、良いんですよね」 「ああ、それは分かる気がします」 俺より少し年下かと思われる彼は、若干童顔の顔に似合わず口調がしっかりしている。 営業か何か、そんな職業に就いているのかな、と想像する。 「今日は、どうされるんですか?」 「昼の特急を取ってるんで、それまでどうしようかと思ってるんですよ」 「仲ノ町駅は見ました?」 「いえ……通り過ぎて来たかも」 「面白い機関車があるんですよ」 正直、あまり機関車には興味は無いのだけれど どうせやることも無いし、何度も来ていると言う彼の話に乗るのも悪くない。 「じゃ、良かったら、案内して貰えませんか?」 彼は、石塚、と名乗った。 名刺は忘れてきたと笑っていたが、こんな所で名刺交換も無粋な気がして それはそれで良いか、と思う。 海と離れるのが何となく名残惜しくて 民宿のある外川駅から、海岸沿いを歩いて犬吠へ向かった。 灯台が見えて来ると、ふと昨日の光景を思い出す。 崖の上から見ていた彼と、まさか一緒に行動するとは思わなかったけれど あの時彼が何をしていたのか、それを聞くことは出来なかった。 仲ノ町駅は、今にも崩れそうな駅舎だった。 これが銚子電鉄の本社だと聞いて、二度驚く。 「ああ、あれですよ」 そう言って彼が指差した先には、奇妙な物が停まっている。 形はまさに凸型、と言う感じだろうか。 頭に付いた集電の為のビューゲルだけが、辛うじて電気機関車であることを表している。 「デキ3って言う、電気機関車なんです」 「へぇ……あれ、動くんですか?」 「みたいですよ。動いてるのは見たこと無いですけどね」 妙な機関車を楽しんだ後、お土産物で有名な濡れ煎餅を買う。 何回か貰ったことはあったけれど、どうもあの、ねっとりした食感に馴染めない。 「ちょっと焼くと良いですよ」 「でも、それじゃ濡れてる意味が無いような……」 「ま、それもそうなんですけど」 そんなことを話しながら、俺たちは小さな電車に乗り、銚子駅を目指す。 俺が乗る予定の特急は、既にホームに停まっていた。 「僕は、途中まで各駅で帰るんで」 そう言う彼と、ホームで別れる。 「また、何処かでお会いできると良いですね」 結局、彼と連絡先を交換することは無く、俺は銚子を後にする。 こういうのを、一期一会って言うのかな、そんなことを考えた。 -- 3 -- あれから数日。 森下さんが書いた新しい物件のプランを眺めていると、声をかけられた。 「萩原君、結城さんが来たよ」 電話で話していた通り、結城さんは後任の営業さんを連れてきた。 「あっ……」 恐らく、同時に声を上げたのだと思う。 結城さんの後ろに立っていたのは、銚子で出会った彼だった。 「何、知り合い?」 驚いていたのは結城さんも同じだったようで、俺と彼の顔を交互に見ている。 「この間、銚子で一緒になりまして」 「そりゃ、凄い偶然だねぇ」 「結城さん、この間僕に、銚子でもどうだって言ってたじゃないですか……」 改めて名刺交換を済ませ、打合せ机に向かい合った彼は 上司の顔を見つつ、苦笑しながら言った。 「それ、私も言われましたよ……。同じこと皆に言ってるんですか?」 「さぁ、どうだったかなぁ」 いつもの調子でのらりくらりと話す結城さんに、ペースを持って行かれる。 「でも、良かったでしょ?」 「ええ、何て言うか、心が洗われると言うか」 「毎日忙しいだろうから、たまにはぼんやりしなきゃ」 新しく営業担当になった石塚君とは、それをきっかけに連絡先を交換し ちょくちょくメールをするようになった。 結城さん仕込みだからなのか、電車の話になると、話題は尽きない。 俺が新車好きと知ると、何処の路線にどんな新車が入ると言う情報もくれる。 時間が合えば、一緒に乗りに行きましょうという話もしているのだが なかなか上手くは合わないのが実情だ。 ある週末の夜、そんな彼と飲みに行く機会が出来た。 待ち合わせ場所の上野の駅前は、流石に人が多い。 浅草橋に程近い場所にあるうちの会社からは、決して遠くは無いけれど 帰りは京浜東北線で素通りしてしまうものだから、あまり立ち寄る機会が無かった。 少し時間に遅れてしまい、階段を駆け上がる。 改札を出て広小路口へ向かうと、彼の姿が見えた。 しかし、どうやら様子がおかしい。 彼の傍らには、父親と言うには若く、兄と言うには歳の離れた男が立っていた。 「本当に、もう、勘弁して下さい」 「どうして?金なら、ちゃんと出すよ?」 「そういうの、止めたんです」 おぼろげに、会話が聞こえてくる。 絡まれているような雰囲気だったが、声をかけるのにはタイミングが悪すぎた。 会話の内容に違和感を感じつつ、改札の方へ戻り、電話を入れる。 「……お疲れ様です」 「お疲れです。ごめんなさい、今、上野に着いたんですけど」 誰なんだ、と言う男の声が聞こえ、それを制止するような物音がする。 「すみません……どちらにいらっしゃいます?」 「改札出て、パン屋の辺りです」 「すぐ行きますんで、ちょっと待ってて下さい」 そう言って、電話は切れた。 彼が来るまでには、少しの時間がかかった。 あの男を振り切るのに、手間取っていたのだろうか。 やってきた彼の顔には、若干の疲れも見えた。 「お待たせしまして」 「いえいえ、こちらこそ」 頻繁にメールのやり取りをするようになって、大分打ち解けて来たと思ってはいるけれど 彼の端々に見える隠されたものが気になっていたのも、確かだった。 適当な居酒屋で、ひとしきり鉄道話に花を咲かせる。 「SLなんて、興味あります?」 「う~ん、興味はあるんだけど、わざわざ行くかって言うと……」 「僕、ちょっと前に、大井川に乗ってきたんですよ」 「ああ、雑誌ではよく見るね」 彼が話す大井川鐵道は、川に沿ってSLが走ることで有名だ。 今まで俺は、SLに乗ったことも無ければ、実物を見たことも無かった。 「僕も初めてSL乗ったんですけど、案外乗り心地が悪くて」 「良かったって、勧めてくれると思ったのに」 「いや、SLはそんな感じだったんですけど、その先にあるアプト線って言うのが最高で」 川と湖と山とダムを見ながら、トロッコ列車で走る、その路線。 途中、渓谷にかかる鉄橋の上では、しばらく停車して景色を楽しむことも出来ると言う。 「あそこは、ホントにお勧めです」 彼はそう言って、屈託の無い笑顔を見せる。 店を出たのは、それほど遅い時間ではなかった。 ちょっと寄りたい場所がある、と言う彼に付き合って降りたのは日暮里駅。 鶯谷の方へ戻るようにしばらく歩くと、谷中霊園に連絡する鉄橋に着く。 「たまに、ここに来ては、電車眺めてるんです」 そこからは、京浜東北線や山手線、常磐線など、多くの路線が一望出来た。 しばらく眺めているだけでも、足元を何本もの電車が通り過ぎていく。 右手には京成の線路もあって、新しくなったスカイライナーについ目を奪われる。 彼は、日暮里駅に入っていく山手線を見ながら、呟いた。 「……さっき、広小路口にいらっしゃいましたよね」 -- 4 -- その質問に、俺はどう答えるべきなのか。 彼は、空になった日暮里駅のホームを見ていた。 宇都宮線が通り過ぎるタイミングを見計らって、彼が口を開く。 「以前、男相手に身体を売ってたことがありまして」 線路を見つめる彼の目は、何処か愁いを帯びていた。 俺は、あまりに現実離れした言葉に、身体が固まっていた。 「昔の客にちょっと絡まれてたんですよ」 そう言って、苦笑する。 笑える状況なのか、と思いながら、線路へ視線を落とした。 普通に仕事をしているのに、売春なんてする必要があったんだろうか。 しかも、男相手に。 彼はゲイなんだろうか。 俺も、そんな目で見られているのか。 色々な疑問が浮かんできて、何処と無く居心地が悪くなる。 「いつかバレるかも知れない、そう思ったら、今話しておいた方が良いと思って」 彼はこちらに向き直して、寂しげな笑みを浮かべる。 「折角、鉄道が結んでくれた縁だったのに」 まるで、全てが終わったかのような言い方だった。 「別に、俺は、それを聞いたからって……」 動揺が言葉に現れた。 「こいつなら絶対大丈夫ってカミングアウトしたところで……誰も残らない」 鉄橋に立てられたフェンスに指を絡めながら、彼は再び線路に視線を落とす。 「そんなことの、繰り返しです」 素性を明らかにすれば、その相手との関係が終わることを、彼は知っている。 それを知っていながら話したと言うことは、俺との関係も終わらせるつもりなのか。 「石塚君は、俺の事……」 ずばり聞くのは憚られた。 続けるべき言葉を探していると、彼は俺の方を見る。 「萩原さんは、女性なら誰でも良いって訳じゃ無いでしょう?」 「そりゃ……」 「僕だって同じです。男なら誰でも良いって訳じゃ無い」 歪んだ好奇心が愚問を吐き出してしまったと、後悔する。 「ただ、鉄道仲間として良い関係が築ければ、そう望んでます」 ホームに停まった常磐線快速電車が、たくさんの乗客を飲み込んで、揺れていた。 あの中にも、素性を隠しながら生きている人がいるんだろうか、そんなことを想像する。 電車の話をしながら過ごす時間は、何より楽しいし、大切なもの。 互いの素性なんてどうでも良いはずだった。 けれど、彼の告白を聞いた今、何かしらの気持ちの変化が起きた。 それをどうやって乗り越えられるのか、俺にはまだ分からなかった。 「じゃ、今まで通り変わらず、でいいじゃない」 笑って、そう声をかける。 それしか、出来なかった。 「萩原君、ここの床なんだけど」 新しく動き出した物件は、郊外の2世帯住宅。 大型犬を飼っていると言う事で、ペットに配慮した計画でとの注文があった。 「ペット用の床材ってあったよね?」 「ええ、ミタカさんでも扱ってると思いますよ」 「ちょっと、聞いてみてくれる?」 あれから、彼との連絡は目に見えて少なくなった。 俺の気持ちに変化があったように、彼の中にも、何か変わったものがあったんだろうか。 こうやって疎遠になるのかな、そう思うと居た堪れなかった。 「お世話になります、石塚です」 電話の向こうの彼は、いつもの営業口調。 妙に緊張していたのは、俺の方だった。 森下さんに頼まれた床材の件を相談すると、彼はサンプルを持って来てくれるという。 お待ちしてます、そう答えて電話を切った。 床材のサンプルが収まったファイルは相当に大きく、重そうだった。 「こちらが、弊社で販売しているペット用のフローリング素材になります」 「結構バリエーションあるのね~」 「そうですね。大型犬であれば、多少荷重に耐えられる、こちらが良いかと」 営業トークを進める彼を、森下さんの横で見る。 久しぶりに見る彼は、特に何も変わった風はなく、そのままだった。 それが何となく寂しく思えたのは、何故なんだろう。 程なく、森下さんとの話は終わる。 どうやら、今回の物件の床材はミタカさんに一括で、と言う結論に至ったらしい。 「今日は、鉄道話は無いの?」 森下さんが、興味深そうに俺の顔を見た。 「え、ええ。最近これといったネタも無いし……」 どもる俺の顔を見て、彼は少し寂しそうに視線を落とした。 「折角同じ趣味を持つ仲間がいるなら、大事にしないともったいないじゃない」 俺の背中を軽く叩き、彼女は自分の机に戻っていく。 「そう言う仲が、一生の付き合いになったりするもんよ」 微妙な雰囲気の中、俺は彼を見送りに玄関先へ出た。 「今日は、ありがとうございました」 頭を下げる彼は何処か他人行儀で、まるで見えない壁でも出来てしまったようだった。 この壁を打ち崩す手段は無いのか。 直前の森下さんの言葉に背中を押されるよう、俺は一つの提案をする。 「石塚君、電車乗りに行こう」 「え?」 「銚子、行こうよ」 突然の言葉に、彼は驚きと戸惑いの顔を見せる。 俯いた彼に、俺は畳み掛けた。 「特急券、取っておくから。時間は後で連絡するよ」 -- 5 -- 東京駅の地下ホームに現れた彼は、スーツ姿だった。 「すみません、さっきまで営業会議があって」 そんなこと、事前に何も聞いていなかった。 「言ったら、折角のタイミングを逸すると思ったので」 俺の顔を見て、彼は笑う。 「結城が宜しくと、言ってましたよ」 「そう言えば、結城さんって昇進したの?」 「ええ、先日から営業部長になりました」 雰囲気のぎこちなさを感じていたのか、彼はいつも以上に饒舌だった。 俺も、彼も、障害を突破しようと、もがいていたのかも知れない。 しおさいの中はそれほど乗客もおらず、俺たちの話す声だけが走行音に混ざる。 一人で乗った時よりも時間は短く感じられて、誰かを伴った旅の魅力に改めて気付いた。 壁が低くなった、気がした。 どちらから提案するでもなく、俺たちは灯台の下に立つ。 前回来た時よりも海は荒れていて、下の岩場には白波が被っている。 あの光景を、思い出した。 「前、あの岩場に立ってたよね」 柵にもたれる様に海を見ていた彼が、ハッとした顔で振り返る。 「ここから、見てた」 「……そうでしたか」 彼の視線は、再び海に移る。 すっきり晴れ渡った、と言うほどの天気ではなかったけれど 顔に当たる風は丁度良い爽やかさで、この場の雰囲気を若干和らげてくれる。 「他人の温もりが、欲しかっただけなんです」 自らの身体を金で明け渡す行為の理由を、彼はそう話した。 「金だけの関係で良かったのに、僕は、過ちを犯した」 彼は、客と恋に落ちた。 正確には、彼が一方的に思いを寄せるようになった、と言うことのようだった。 しかし、その男には家族があった。 男にしてみれば、彼はただの快楽を求め合う対象であって、時間を共有する仲では無い。 それでも、男から貰った指輪が、彼の心を繋ぎとめた。 「今から思えば、あれは何かの印だったのかも知れません」 その後、男の要求はエスカレートする。 下世話な言い方をすると、奴隷、と言ったところだろうか。 あらゆる陵辱的なプレイを要求され、彼はそれを全て受け容れた。 それでも良い、と自分に言い聞かせながら。 糸が切れるきっかけを聞いて、俺はここまで聞いてしまったことを後悔した。 「彼の見てる前で、他の男たちに輪姦されて……あれは、効いたな」 温和な彼の顔に憎しみの色がうっすら見え、少し、背筋が寒くなる。 「彼は満足そうでした。でも、僕は、限界だった」 それ以来、売春から足を洗ったと言う。 そして、男との全てを断ち切る為、指輪を海へ投げ捨てた。 俺が見ていたのは、その瞬間だった。 「身体の疼きは何とでもなる。でも、心の隙間はなかなか埋まらない」 何も嵌っていない中指の根元を撫でながら、彼は続けた。 「電車は、無条件でそれを埋めてくれる。だから、好きなんです」 そう言う彼の表情には、屈託の無い笑みが浮かんでいた。 電車が繋ぐ、一つの縁。 なのに何故か、その電車に、羨望にも似た感情を抱き始める。 「……俺は、その隙間、埋められる?」 「え……?」 遠くで、銚子電鉄の警笛が聞こえた。 海を眺める俺たちの間を、潮風が通り過ぎて行く。 夕日が、海の色を徐々に変えていった。 「次は……大井川、行きませんか?」 傾いた陽の光に照らされた顔が、俺を見る。 憂いを帯びた、けれど嬉しそうな、綺麗な目だった。 それは、俺の問への答だったんだろうか。 「良いね。折角だから、SLも乗ろうよ」 そう言うと、彼は少し苦笑して、はい、と答えた。 柵に置いた手が、一瞬触れ合った。 彼に、惹かれ始めていたのかも知れない。 鼓動が、少し早くなった。 視線を海に向けたまま、彼はその冷たい手を俺の手に添える。 「……良かった」 安堵の声が、風に乗って通り過ぎて行った。 終着駅がどこかも分からないまま、長く続く線路を、電車は再び走り出す。 行く先には、信号も、ポイントも見えなかった。 それでも俺は、彼と同じ線路を走って行く。 再び鳴った警笛が、胸に響いた。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.