いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 挽回 --- -- 1 -- 「相原……和樹さん」 「はい」 「と……将吾さん」 「はい」 「で……え~、加藤さん」 夜7時過ぎ。 オフィス街のビルの中にある専門学校の教室では、これから国家資格の講座が始まる。 目指す資格は、1級管工事施工監理技士。 教室では、10名程度の生徒が、テキスト片手に講師の話を熱心に聞いている。 生徒、と言っても全員が社会人で、各々会社帰りに通学している。 もちろん、僕もその一人だ。 空調設備のサブコンに就職して4年目。 やっと受験資格が得られたこともあり、会社命令で通わされている。 とは言え、専門学校の学費や受験料は、試験に合格してからの支給。 要するに、受からなければ全て自腹。 一発で合格するようにと言う、厳しすぎる会社の愛だ。 「将吾君、飯でも食って行かない?」 講座が終わり、そう声をかけてきたのは、和樹さんだ。 「ええ、良いですね」 同じ講座に同じ苗字の人間がいるお陰で、僕らは共に名前で呼ばれるようになった。 正直、この歳になって他人に名前で呼ばれるのには抵抗がある。 今までだって、家族にくらいしか名前で呼ばれたことは無かったのに むりやり距離感を縮められているような気がして、何処かもどかしい。 「セコカン、取れそう?」 学校の近くのファミレスで食事中、和樹さんはそう聞いてくる。 「いやぁ……どうでしょう。五分五分って感じです」 「でも、将吾君は実務、やってるからな」 「和樹さんは、現場経験無いんですか?」 「新人研修の時くらいでね。後はずっと設計だったから」 彼は、ガス会社の設計部門に勤めている。 施工管理技士は、通常現場管理などに必要な資格なのだけれども 彼の会社では、昇進する為に、その資格が必要なのだそうだ。 「実務経験はいくらでも誤魔化せるけど、実地試験がヤバそうでね」 そう不安を口にするが、模試の結果も彼は常に一番で、その優秀さはクラスの皆が認めている。 「ま、別に昇進なんか、したいと思わないんだけど」 笑いながら、眼鏡の向こうに、シニカルな表情を見せる。 そこはかとなく見せるエリート風が、一介の現場監督見習いである僕には、眩しく見えた。 「相原、勉強は進んでるか?」 現場終わりの点検作業中、先輩の溝口さんが意地悪な口調で聞いてくる。 「まぁ……そこそこ」 「仕事しながらって、キツいよなぁ」 「溝口さんは、持ってますよね?セコカン」 「ああ、でも」 彼は、片眉を上げて僕を見た。 「取れたのは、3回目」 「マジですか……」 「2回目までは独学だったからな。お前、学校行ってるんだろ?」 「そうですけど」 「んじゃ、大丈夫だよ。我を忘れて、勉強してりゃ」 「それが出来れば、苦労しないんですが」 全くだ、そう言って先輩は豪快に笑う。 実際、昼間に仕事をして、夜に学校に行くというのは、思っていたよりもきつかった。 朝7時半に現場に入って、夜6時に現場を出て、7時に学校に行って、帰宅するのは11時前。 もっとも、講座は週に2回だから、それ以外の日は自学出来るのだけれど 意志の弱さも手伝ってか、自室の机に置かれたテキストを開く気力は、なかなか出ない。 「悩める勉学青年は、今日は学校?」 「いえ、違いますけど……行きませんよ?」 「何だよ。一発抜いてくれば、頭もスッキリするんじゃね?」 今常駐している現場は、駅で言うと、鶯谷に近い。 それもあってか、溝口さんは現場の職人さんたちを引き連れて、吉原通いに精を出している。 「病気、怖いんで」 「大丈夫、今は医療技術も発達してるから」 僕は、乾いた笑いで、その誘いを断る。 そんなことが、ほぼ日常になっていた。 駅前のマクドナルドで、簡単な夕食を取る。 狭い店内は結構な人の入りで、閑散とした駅前とは対照的だった。 ふと、斜向かいのカップルに目が行く。 50を過ぎたくらいのサラリーマンと、高校生にしか見えない派手な化粧の女の子。 溝口さん曰くの違和感カップルだな、そんなことを思う。 ラブホテルが林立するこの場所は、援交のメッカ。 昼でも夜でも、違和感カップルが微妙な距離で並び、建物に吸い込まれて行く。 需要と供給が合致してるんだろうから良いのかな、そんな風にも思うけれど 真昼間から見せ付けられたりすると、仕事しろよと一喝してやりたくもなる。 ぼんやりと窓の外を眺めていると、駅の方へ歩いていくカップルが目に入る。 微妙な距離感、女性の指だけに光る結婚指輪。 ふと、男性がこちらに視線を向けた。 暗がりの中の顔と目が合った僕は、身体が固まる。 それは、和樹さんだった。 -- 2 -- あんなに激しく動揺した彼の顔を見たのは、初めてだった。 咄嗟に目を逸らし、隣の女性の手を引いて、足早に立ち去って行く彼の背中を見て 僕の中には、居た堪れない気持ちが芽生える。 時間は、まだ夜の7時前。 スーツ姿だったから、今日も通常の業務だったのだろう。 けれど、彼の会社は品川の方にあるから、定時に会社を出たとしても、時間的におかしい。 会社を抜け出して、人妻と援交? 僕が抱く彼の幻影が、微妙に歪んでいく。 明日、教室で、どんな顔をすれば良いんだろう。 憂鬱な気分で、僕はコーラを飲み干した。 次の日の夜、講義の時間。 和樹さんは、始業時間になっても現れなかった。 2コマ目が始まってすぐ、すみません、と言いながら彼は教室に入ってくる。 見上げる僕に一瞬視線を送り、前の座席に腰をかけた。 片肘を突いて講義を聞き始める彼の様子は、いつもと変わらない。 それがむしろ、僕の違和感を大きくしていった。 「急な案件が入っちゃってさ、まいったよ」 講義後、僕の方へ振り返り、和樹さんは言った。 「将吾君、今晩、ちょっと時間ある?」 「え……」 「今日の講義の前半部分、ポイントだけでも良いから、教えてくれないかな」 「……構いませんけど」 その口調は、まるで何も無かったかのようなもので 昨日のことには触れるなと、無言のプレッシャーをかけられているような気分になる。 「悪いね、夕飯はおごるからさ」 若干疲れた様子を見せる彼は、スマートな笑顔を僕に向けた。 行きつけになっているファミレスで食事をした後、そのままテキストを広げる。 試験まで残すところ1ヶ月と言う時期もあり、今日は法規問題に特化した内容だった。 「ああ、オレ、法規って苦手だ」 「でも、出るポイントは概ね過去問に沿ってますから」 「ふ~ん……勉強、順調そうだねぇ」 「そうでも無いんですが……学科の中では、法規が一番好きかも」 「技術屋の割に、意外と文系?」 そう笑いながら、和樹さんは、僕が書いた乱雑なメモをテキストに書き込んでいく。 やや崩れがちの、けれど整った字を書く彼の手を、しばらく眺める。 その視線に気がついたのか、ふと顔を上げた。 「どうしたの?」 「いや、字が綺麗だな、と」 「そうかな?相当癖字だと思ってるんだけど」 「僕なんか、子供の頃から変わらないような字なんで、綺麗な字をかける人が羨ましい」 「特徴あって、良いじゃない。ま、字なんて読めれば良いんだし」 彼の視線が、再びテーブル上のテキストに落ちる。 僕は、精神的にかかる静かな圧力を、押し返すべきなのか、考えあぐねていた。 「こんなもんかな……付き合わせちゃって、悪かったね」 講義内容を書き込んだテキストを閉じながら、和樹さんは僕を見る。 「いいですよ。……和樹さんは、勉強、どうですか?」 「ん~……どうかな。やっぱり、仕事の合間って言うと厳しいよね」 「ですよね。僕も、今は現場がちょっと落ち着いてるんで良いですけど……」 そう言った後で、マズい、と言う思いに囚われる。 向かいに座る彼の表情に、僅かな動揺が見て取れた。 「後1ヶ月ですし、やるしかないですよね」 僕は直前の発言を紛らわせるように、愛想笑いを作る。 短い沈黙の後、彼は小さく溜め息をついて、会話を再開する。 「現場、鶯谷に近いんだ?」 急に圧力が無くなり、薄ら寒い緊張が走った。 「え、ええ。そうなんですよ。中規模マンションで」 「いつも、あのマックで夕飯?」 「いえ……たまに、です」 そう、と短く答え、彼は眼鏡を外して目頭を押さえる。 細く、鋭い目が、僕を固まらせた。 「将吾君さ」 「……はい」 「不倫、したことある?」 「はぁ?」 質問の意図が分からなかった。 何よりも、僕は、これ以上和樹さんに幻滅していくことが、耐えられなかった。 -- 3 -- 眼鏡を外し、窓の外の雑踏を眺める彼を、僕は緊張の中で見ていた。 あの夜のことを聞いてみたいと言う好奇心は、確かにあった。 けれど、そこに踏み込んだことを、心底後悔していた。 僕の中の彼は、良い人で、憧れの対象でいて欲しい、そう思っていたからだ。 「いえ……無いですけど」 「オレもね、彼女が初めて」 言葉を失う僕を、何処か愉快そうに見て、彼は続ける。 「友達の、嫁さんなんだよね」 「え?」 「旦那が単身赴任している間に、ちょっと遊ぼうってさ」 「そんなの……」 「マズいよね。でもさ、それが、すげぇ良いの」 楽しげにそう言う彼を、直視できなかった。 軽蔑する言葉も、罵倒する言葉も思いつくのに、口に出来ない。 沸き上がる嫌悪感を、他のものが邪魔している。 憧れ以上の、何か、だったのかも知れない。 複雑な顔をする僕に、和樹さんは気がついたようだった。 「最悪なのは、分かってる。でも、罪悪感背負いながらヤるの、堪らないんだ」 「……そんな、もん、ですかね」 「束の間の快楽だってことも、お粗末な幕引きになるってことも、分かってるのに」 彼は眼鏡をかけ直し、首を左右に振って、パキパキと言う軽い音を鳴らす。 「……欲しいもん、素直に欲しいって言えたら、どんなに楽だろうね」 彼が欲するもの、手に入れてはいけないもの。 それが、あの行為? 自虐的に笑う彼を見て、僕は思う。 僕と彼の間には、深い深い溝がある、と言うことを。 試験前1週間ともなると、教室の雰囲気も些かピリピリとしてくる。 そんな中でも、和樹さんの振る舞いは殆ど変わることが無く 直前模試の結果も抜群で、クラスメイトの間では軽くやっかむ声まで上がるほどだった。 「この調子なら、本番もバッチリなんじゃないですか?」 珍しく和樹さんに飲みに誘われた夜、何と無しにそんなことを口にする。 「どうだろうね。オレ、本番に弱いから」 彼は、笑いながらそう言い、ビールを流し込む。 店に入る時点で下戸だと宣言していた彼の前には、既に空になったジョッキが2つ並んでいた。 「……大丈夫ですか?」 「何が?」 「そんなに、飲んで」 ああ、と彼は愉快そうに、僕の飲んでいる焼酎に手を伸ばす。 「将吾君は、結構イケる口?」 「ええ、まあ。会社入って、鍛えられたかも知れません」 「羨ましいね」 その言葉を聞いて、僕は意表を突かれた感覚になる。 羨まれることはあっても、誰かを羨むことなんてあるんだ、そんな思いだった。 「オレはね、ホント、ダメ」 壁にもたれ、大分赤くなった顔を僕に向ける。 「ちょっと良いレストランに行っても、女の軽薄なワインの知識聞いて、苦笑いするだけ」 「飲まない分、食べる方に集中できるじゃないですか」 「それじゃ、つまんないんだとさ」 不満げに、だけど何処か楽しそうに、ウーロン茶のグラスをカラカラと回す。 「……程度低い劣等感だなぁ、これ」 会計しておいて、そう言って万札を置いたままトイレに行った和樹さんが戻ってきたのは かなりの時間が経ってからだった。 見るからに顔色が悪く、デキるリーマン風情の空気は、微塵も無かった。 「……帰れます?」 「タクシーで帰るから、大丈夫」 意識を取り戻すように何回か瞬きをして、スーツの上着に手をかける。 その拍子にバランスを崩し、僕の方へ倒れこんで来た。 肩で彼の顔を受け止める形になった僕は、思わぬことに動揺した。 「ああ、ゴメン」 「いえ……肩、貸しますから。とりあえず外まで頑張って下さい」 鼻を通り過ぎた薄い香りが、香水なのかシャンプーなのかは良く分からなかったけれど 僅かなきっかけが、僕の感情を動かして行く。 こういう時に限って、タクシーはなかなか捕まらない。 僕の肩に回された手に、あまり力は込められておらず その分、彼の全身を、左半身と左腕で支える。 肩に乗せられた頭が僕の顔のすぐ側にあって、その髪が僕の頬をくすぐった。 腕の痺れが増してくるにつれ高まる昂揚感を、直視しないよう、耐える。 遠くに "割増" と表示されたタクシーが見えた。 「タクシー、来ましたよ?」 ぐったりしている和樹さんに声をかけると、不意に彼の手に力が入る。 肩にあった手が僕の右耳の辺りを掴み、一瞬、その唇が僕の左耳に触れた。 「今日は、ありがと。お疲れさん」 タクシーが目前に止まると同時に、彼は僕の肩をポンポンと叩いて離れていく。 「あ……お疲れ様でした」 突然のことに、瞬時に声が出なかった。 僕は、後に残された彼の重みと、残り香と、唇の感触を思い返しながら 彼との間にある、暗い溝を見つめる。 その深さに絶望しながら、彼に惹かれて行く気持ちを抑えきれずにいた。 -- 4 -- 目覚まし時計が鳴る。 ぼんやりする頭を抱えながら、僕はそれを止める。 デジタル時計が指す時刻は、夜中の2時。 気合を入れようと顔を洗いに、洗面所に向かう。 試験開始は朝の9時半。 会場までは1時間ほどだから、とりあえず5時間は勉強できるだろう。 今日の計画をざっくり頭に浮かべながら、僕は最後の復習を始めた。 時計代わりに机に置いていた携帯が、不意に振動する。 空が白み始めた朝4時過ぎ。 こんな時間に電話が来るなんて、そう思いながら電話を手にした。 相手は、和樹さんだった。 「……まだ起きてたんだ」 「いえ……正確には、さっき起きたところで」 「朝起きて、勉強?」 「ええ、そんなところです」 電波状態が悪いのか、声が幾分くぐもって聞こえた。 「どうしたんですか、こんな時間に?」 「ああ、今日頑張って、って言っておこうと思って」 「え?」 「悪いけど、オレ、今日、行けそうも無いわ」 「体調でも……悪いんですか?」 「……ま、そんなとこ」 いつもとは違う調子で、ポツポツと喋る彼の声に、不安が募る。 筆記試験を受けないと言うことは、当然実地試験を受けることは出来ない。 僕と彼を結んでいるのは、講座を受講していると言う共通項だけ。 それが無くなれば、彼と会う機会は失われる。 「将吾君なら、大丈夫だよ。じゃあ、頑張って」 和樹さんは、そう言って電話を切った。 待ち受けに表示されている時刻が、1秒1秒進んでいくのを見ながら 目標が霞んでいくのを感じる。 本番を前に、冷静さと集中力が、一気に削られる思いだった。 自分の気持ちを整理できないままで望んだ割には、良く出来た方だろう。 試験を受けた時の手ごたえと言うのは、概ね結果に反映されるもので 会場となっていた大学の門を出る頃、僕は幾ばくかの安心感を掴んでいた。 長時間、問題と向き合った同志達が駅へ向かう波の中 ふと、道路脇のガードレールにもたれる人の姿が目に入る。 彼は僕に気がついたのか、立ち止まった僕を視線で招いた。 見慣れない私服姿に、明らかに殴られたと思われる顔の傷。 それでも、眼鏡の奥の瞳は優しかった。 「どうだった?試験」 「ええ……多分、大丈夫かな、と」 「何よりだね」 落ち着いた口調が、逆に怖かった。 「……どうしたんですか?」 多くの意味を含んだ質問を、僕は和樹さんに投げかける。 「ああ、最低の幕引きだったよ」 そう言って、彼は口角を上げ、鼻で笑う。 「友達に、バレてね」 親指で眼鏡のブリッジを押し上げ、僕を見る。 「くだらない鬱憤が、友達も、資格も、いろんなもん、持ってったよ」 「そう……ですか」 「君との、繋がりもね」 一瞬、路面に視線を落とし、再び僕の方へ移す。 「でも、失くしたままにしておきたくなかった……だから、待ってた」 彼の眼差しに、鼓動が早まった。 「最初から、素直に言っておけば、良かった」 彼の言っていることが、よく分からなかった。 もしかしたら、僕が期待している意味を含んでいるのかも知れない。 でも、そうじゃなかったら? 同性に好意以上のものを向けられる不快感は、自分でも想像できた。 心の奥底に抱える慕情が、恐怖に変わる。 「和樹さん、何を……」 彼の眼差しに、躊躇が見て取れた。 「ごめんね」 微かに震える僕の手を、彼の手が捉える。 瞬間、僕は彼の方へ引っ張られ、前のめりになった身体が、彼の腕に抱えられた。 「ちょ……っと」 「手に入らないもどかしさを、紛らわせたいだけだったんだ」 人の波は途切れていた。 けれど、目の前の車道には、引っ切り無しに車が通っていて 恥ずかしさで、彼の身体を少しずつ押し返す。 「どうしたん、ですか」 彼の腕の力が、徐々に弱まる。 見たことも無い不安げな視線が、僕に向けられていた。 「……オレのこと、嫌いにならないで、くれる?」 唐突な問に、戸惑いが隠せなかった。 息を吐く唇が、震えた。 「そんな……なりません、よ」 「……ありがとう」 腰に回された手に、そっと自分の手を添える。 彼の安堵の視線で、恐怖が少し、薄れた気がした。 「これからも……僕のこと、好きでいてくれますか?」 彼の指に自分の指を絡め、握り締める。 肌を通して感じられる体温が、溝を埋めていくように、熱くなっていった。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.