いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 萌芽 --- -- 1 -- 「会社都合には出来ないけど、それは了解して貰えるよね?」 社長のその言葉に、俺は頷くことしか出来ない。 「まぁ、君はまだ若いから。うちで学んだことを活かして、頑張ってよ」 この会社で、学ばされたことなんて、一つだけだった。 俺は社会に不適格な、ダメな人間。 それだけだ。 大学新卒でこの会社に入ったのは3年前。 地場ゼネコンで、大手デベロッパーのマンションを主に請け負う会社だ。 半年の現場研修の後、配属されたのは渉外課。 施主・役所との折衝を担当する部署だったが、メインの業務はそこじゃ無い。 近隣住民への説明会、引っ切り無しにやってくるクレーム処理。 明らかにこちらに非がある事項でも、如何に相手に責任を押し付けるか。 考えれば考えるほど、吐き気がする仕事だった。 俺が弱いのか、ここに残っている人たちが屈強なのかは分からない。 1年前くらいから、精神的に異常を来たす様になってきた。 恐怖、不安、絶望、ありとあらゆるマイナスの感情に、毎日襲われる。 降って湧いて来る衝動から、自傷行為に走るようにもなった。 洗面器に滴っていく血を見て、妙に興奮したこともあった。 目に見えて体重が落ちても、会社でそれを話題にされることは無く 却って、あいつは精神的に弱いダメな奴、そんな烙印を押された。 病院の診断書が役に立たないことも、分かっていた。 薬は気休めにもならなかった。 このままじゃ、俺は終わる。 そう思って、会社を辞めた。 「たかだか3年で退社するなんて、どうかしてるんじゃないのか」 会社を辞める少し前、帰省した折に顔を合わせた父親は、そう吐き捨てた。 「鬱だか何だか知らないが、仕事なんて、苦労が付き物だ」 地元の銀行に勤め、もうじき定年の父。 家族に言えないような苦労もしただろうと言うことは、想像できる。 だからこそ、俺は何の反論も出来なかった。 「帰ってきても良いのよ?」 そんな母親の言葉に、父は俺を睨みつけ、言った。 「ダメだ。逃げ帰ってくるような真似は、許さないからな」 今更実家に戻りたいなんて、思ってはいなかった。 ただ、最後の砦にすら縋れない状況に、生きる気力が殺がれる気がした。 「そう言えば、義隆くん、覚えてる?」 機嫌の悪い父が去った食卓で、母がそう尋ねて来た。 「ああ……中学の時に引っ越してった……東、義隆?」 子供の頃に隣の家に住んでいた、幼馴染。 同じ歳で、保育所・小学校・中学校と同じだったこともあり、家族ぐるみの仲だったが 中学2年の時、両親が離婚することになり、引っ越してしまった。 それ以来、音信は途絶えたままだ。 「この間、お母さんに偶然会ってね」 「近くに住んでるの?」 「ううん、用事があってこの辺りに来たそうなんだけど」 彼と共に隣県に引っ越した母親は、その後再婚をしたのだそうだ。 青野、と苗字を変えた彼も、同じ街に住んでいるらしい。 「義隆くんは役場に勤めてるんだって」 「……そう」 母はやおら立ち上がり、財布の中から何かの紙を取り出す。 「懐かしいだろうと思ってね、連絡先、聞いておいたわよ」 書かれていたのは、携帯の番号。 うっすら顔を思い浮かべるくらいしか出来ない俺は、しばらくその紙を見ていた。 「成久、楽しいことを楽しいと思うのは、悪いことじゃないのよ?」 切なげな微笑みを見せる母の顔を見て、思わず目を逸らす。 何もかもが暗転する、そんな気持ちに支配されていた俺は その一言に心から癒されるような気がして、言葉が出なかった。 結局、旧友に連絡を取ろうという決心がついたのは 東京に戻り、地獄のような毎日を過ごし、手を赤く染めることに全く抵抗を感じなくなった頃だった。 自分を否定される恐怖が、麻痺してしまっていたのかも知れない。 何を言われても構わない、そんな気分で携帯電話を手にした。 「……もしもし?」 電話に出たのは、昔の印象を残した声だった。 「あ……宮坂と申しますが」 「ああ……成久?」 「そう。この間、親が番号聞いたって言うんで」 「みたいだね。それにしても、久しぶりだなぁ」 電波を通して続く、昔語り。 初めはぎこちなかったものの、段々とあの頃の饒舌さを取り戻す。 耳が痛くなるほど携帯電話で話をしたのは、いつ以来だろう。 結局、最後まで、俺の今を語ることは出来なかったけれど 楽しいことを素直に楽しいと思えたのは、俺には大きな前進だった。 -- 2 -- 「今度、出張で東京に行くんだ」 会社を辞め、ハローワーク通いを始めた頃、そんな電話がかかって来た。 「ちょっと、会おうよ」 あれから何回か電話でのやり取りはしていたけれど 鬱で苦しんでいたことも、会社を辞めたことも、義隆には話していなかった。 「随分……急だな」 「仕事、忙しいか?」 「いや……そう言う訳じゃ無いけど」 今の情けない自分を、見られたくない。 ちっぽけな体裁を気にする自分が、殊更嫌になってくる。 どもる俺の様子に、彼は何か気が付いたのだろうか。 「成久」 「ん?」 「オレで良ければ、力になるからさ」 優しい声だった。 「何か、悩みがあるなら、相談してよ」 「……わかった。ありがとう」 金曜日の夜。 10年以上ぶりに会う幼馴染は、当然のことながらすっかり大人になっていて けれども、少し気弱そうに見える面影はそのままだった。 「変わって……無くは無いな」 「そりゃそうだよ。背だって、オレの方が高くなったしね」 昔はクラスで小さい方だった義隆の背は、今では俺よりも高いほどだ。 「飯は?」 「まだ」 「宿は?」 「はっちょーぼり、とか言うとこ」 「とかって何だよ……」 「部署のお姉ちゃんが取ったから、よく知らないんだよ」 明日の朝に東京駅から新幹線に乗るって言うのに、何で八丁堀なんだ。 「じゃ、その近くで飯にしようぜ」 「行ったこと、あんの?」 「何回か、仕事で」 感心したような声を出す幼馴染に、俺は一言釘を刺した。 「東京駅での乗り換え、すげー遠いから、覚悟しておけよ?」 八丁堀には、会社に勤めていた頃に担当した物件があった。 足繁く通った時期があり、その時に見つけた店を何件か知っている。 中でも気に入っていた魚料理メインの居酒屋に入る。 「昔、魚嫌いじゃなかった?」 「そうだっけ?」 「メザシが食えないって、泣いてたような」 「……いつの話だよ?」 「小学校の時?」 「良く覚えてんなぁ」 その凄まじい記憶力に感心しながら、ビールで再会を祝う。 久しぶりに酒を飲んだからか、食欲の減退が酷くなる感じがした。 いろいろ頼んだは良いが、殆ど箸を付けられない。 「……食わないの?」 「ああ……あんま、食欲無いんだ」 不意に、手首を掴まれた。 お世辞にも健康的とは言えない、骨の浮いた手首を見て、義隆の表情が曇る。 「痩せてんな」 「ちょっと、ね」 「ちょっとって状態じゃないよ、これ」 会社を辞めて、感情が落ちることはあまり無くなったけれど、食欲が出ないのは相変わらずだった。 無理に食べても戻してしまうこともあり、体重はなかなか元に戻らない。 「何か、好物とか、無いの?」 「・・・思いつかない」 「重症だな」 フレームの無い眼鏡の向こうの目が、細くなる。 「話したいことがあれば、何でも、聞くから」 あの頃、大人になってこんな話をしているなんて、想像もしなかった。 何もかもがプラス思考だった時代もあった。 歳を取るって、どう言うことなんだろう。 プラスとマイナスのバランスが崩れて、もがいている俺。 幼馴染に話を聞いてもらうことで、そのバランスを調整することは出来るだろうか。 「会社……辞めたんだ」 「そうか」 居た堪れずに目を逸らす俺に、義隆は慈しむ様な口調で言った。 「お疲れさん」 急に感情が込み上げてきて、言葉が続かない。 下を向いて、唇を噛んだ。 こんなことは、甘えだって、分かっているのに。 -- 3 -- 他人との距離感が、分からない。 昔からそうだったけれど、ここ最近、顕著になってきた。 親にも、友人にも、同僚にも、過分に気を遣ってしまう。 その反応を、気にし過ぎているのかも知れない。 何処まで近づいて良いのか、分からなくて、怖い。 傷付きたくないから、ますます近づくことを避けてしまう。 悪循環に陥っていた。 「戻って来ないか?」 ジョッキに残ったビールを飲み干し、義隆は言った。 「無理だよ……実家には、帰れない」 「じゃ、ウチに来いよ」 「は?」 「オレ、今一人暮らしなんだよ。家が無駄に広くて寂しいんだ」 そう笑う彼に、戸惑いの気持ちが隠せなかった。 「いや・・でも」 「雇用保険は?」 「自己都合だったけど……事情勘案して貰ったから、もう」 「彼女、いるの?」 「いないけど……何で……?」 「なら、東京に居る理由は、別に無いだろ?」 静かな口調で畳み掛けるような問に、混乱の中で上手く答えられない。 「先のことなんて考えないで、少し休もうぜ?」 向かいに座る彼の表情は変わらず穏やかで、それが逆に怖くなる。 どうして、長らく会っていなかった俺に対して、そんなことが言えるのか。 どうして、そんなに俺に関わってこようとするのか。 嫌いな訳じゃ無いが、そこまで頼って良い様な存在でも無い、と思う。 「急にこんなこと言われても、困るかも知れないけど」 ずれを直すように眼鏡に手をかけて、彼は続ける。 「選択肢は、少しでも多い方が良いから」 この微笑みを素直に受け容れられれば、俺は楽になれるはずなのに。 義隆をホテルまで送って行き、自宅へ辿り着く。 大したこともしていないのに、疲労感が酷かった。 心配してくれる人がいることは嬉しかった。 けれど、それは俺が弱い人間だから。 皆に、迷惑を掛けている。 負の感情が一気に押し寄せてきて、身体が震えた。 自分の顔と向き合うのは、久しぶりかも知れない。 何だろう。 諦観、後悔、恐怖、嫌悪……いろいろなものが、貧相な顔に表れている。 鏡を睨みつけるように、笑ってみる。 最悪だ。 震えが、治まった。 一息ついた後、手首に刃を押し付け、力の限り、引いた。 まだ、生きてるらしい。 そうだよな、リストカットなんかじゃ、人は早々死なない。 右手に、誰かの手の感触が、おぼろげに感じられた。 いつものベッドとは違う寝心地。 霞む視界も、自分の部屋じゃ、無い。 僅かに動かした手に反応するよう、それを覆う手の力が強くなる。 「おはよう」 脇に座っていたのは、義隆だった。 「あ……何、で?」 「電話したら、様子がおかしかったから」 あの後、俺は無意識の内に、彼からの電話に出たようだ。 しかし、呻く声しか聞こえない異常な雰囲気に 実家から住所を聞き、管理会社に連絡して鍵まで借りて、救急車を呼んだらしい。 呆気に取られる俺を尻目に、無傷の右手を弄りながら呟く。 「成久、右利きだよね。……じゃ、大丈夫だ」 遠くから、看護士の声が聞こえてくる。 朝の巡回だろうか。 「義隆……帰りは……?」 「いいよ、別に。用事無いし」 「でも……」 「オレのことは、心配しなくて良いから」 俺の頬を、彼の手が包む。 何かを言いかけて、それを止め、彼は優しく微笑んだ。 彼を見る俺は、まだあの吐き気のするような顔をしているんだろうか。 そう思うと、笑みを返すことができなかった。 -- 4 -- 体温と血圧を測り、軽い問診を受ける。 「2、3日で退院できますからね。それまで、安静に」 ノートPCにその結果を入力しながら、彼女は言った。 「後、一つ」 彼女の視線が、古傷だらけの左腕に落ちる。 「お付き添いの方から、事故だと聞いてますが」 「え……?」 あいにく、その本人は席を外していて、意図を確認することが出来ない。 怪訝な表情で質問を投げかける看護士も、事実は分かっているはずだった。 「……はい……つい、手が滑って」 点滴の刺さる、幾分麻痺が残った腕を撫でながら、俺は答えた。 「……そうですか。それであれば、保険適用となりますので」 追加で何かを入力しながら、彼女は去って行った。 看護士と入れ替わるよう、義隆が戻ってくる。 「お母さん、昼前には着くって」 「……そう」 「どっちが良い?」 彼の手には、ペットボトルのお茶とスポーツ飲料。 お茶を指差すと、その蓋を開けて、俺の右手に持たせてくれる。 冷たい液体が、喉を通って胃に落ちるのを感じた。 「どれくらいで、退院できそう?」 「2、3日で、出られるって」 「そ、か。何よりだね」 飲み物を一口呷り、彼は俺の顔をまっすぐに見る。 「成久……ウチに、帰ろう」 結局、母が来るまで義隆は側に付いていてくれた。 こんなことになった理由も、会社を辞めた理由も、俺のことは一切何も聞かず 昔の話や、東京の印象や、今住んでいる街の話など、たわいも無い話に終始した。 触れられたくない場所を探る様子も見せない彼に、心が休まる。 悲壮な顔をした母がやってきたのは、昼食も近くなった時間だった。 義隆は席を立ち、母と一言二言交わす。 話の内容は分からなかったが、母は彼に対して深々と頭を下げた。 「じゃ、またな。……待ってるから」 そう言って、彼は病室を後にした。 その笑みを心に焼き付けるよう、背中を見送る。 後ろ髪を引かれる気分になるのは、彼の手を求めているからなのか。 それは、縋るところの無い俺に、唯一残された逃げ道。 病院を出る頃には、左手の痺れは殆ど無くなっていた。 痛みはあったけれど、やらなければならないことが、山のようにある。 部屋の掃除、荷物の整理、転居の手続き。 積極的な気分がいつまで続くか分からない。 この気持ちが途切れないうちに、やってしまいたかった。 「来週末で良いんだよな?」 電話の向こうの声は、明るかった。 大きな不安を抱えている俺とは、対照的だ。 「土曜日の午後指定にしてあるよ」 一人暮らしが長かったこともあり、荷物の量もそれなりにあった。 けれど、本当に必要なものだけを選定してみたら、驚くほど物の数は減った。 引越し用のプランを頼むまでも無かったかも知れない。 「ま、家電も家具も、一通りあるからね」 「……本当に、良いのか?」 「当たり前だろ?もう、一つ部屋空けちゃったんだから。来て貰わなきゃ、困るよ」 そのトーンを明るくしているのは、期待、なんだろうか。 彼の声に引き摺られる様、不安がほんの少しだけ、解消された。 初めて降り立つ駅。 初めての街。 駅で出迎えてくれた義隆の車に乗り、街中を走っていく。 「相当、田舎だろ?」 「ああ、まあ……」 低層の建物ばかりの短い商店街を抜けると、山に張り付いたような家々が転々と見える。 川を渡り、線路を跨いで、しばらく走ったところに、彼の家はあった。 築30年程度だろうか、平屋の一軒家。 庭……と言うよりも、小規模な畑が裏手に見える。 「ここに、一人?」 「そ、だから一人じゃ寂しい位だって、言っただろ?」 貯蓄はそれほど多くない。 雇用保険だって、そんな額じゃない。 生活費は、大きな気がかりだった。 「ここって、家賃は?」 「3万5千円」 「は……?」 「破格だろ?」 この辺では、殆どの世帯が持ち家。 賃貸の需要が無いからか、空の住居が転々としている。 売るにも売れない家が格安で貸し出されているのは、珍しいことでは無いらしい。 「幾ら出せば良い?」 「そうだなぁ……とりあえず、こみこみ月2万円、食費は折半で」 「そんだけ?」 「飯作ってくれたら、1万5千円」 「それくらいなら、やるけど……」 「じゃ、決まりね」 楽しげに話す義隆が、意味ありげな笑みを浮かべる。 「あと、成久にお願いしたいことがあるんだ」 -- 5 -- 慣れない動きをしているからなのか、既に腰が痛い。 8時前に出勤する義隆を見送った後、俺はある仕事に取り掛かった。 家の裏手にある、小さな畑の草取りと水やりと収穫。 夏を前に、盛りを迎えた今。 小さいとは言え、今までこんな風に土に触れる機会は無かったから 土に足を取られ、トマトの蔓に服を引っ掛けながらの、四苦八苦の作業になった。 逆さまにしたバケツに腰をかける。 少し高台になった場所にある家からは、見慣れない街並みが一望できた。 先のことは考えるな、義隆はそう言うけれど、不安は尽きない。 ずっと、幼馴染に頼りきって生活をして行く訳にもいかない。 この街で仕事を探すか、また東京へ戻るか。 高くなってきた太陽に照らされながら、緊張感で、少し背筋が寒くなる思いだった。 時計を見ると、もう10時を過ぎている。 後は、掃除して、洗濯して。 頼まれてはいないけれど、何もしないのも居心地が悪い。 仕事を増やすことで、余計なことを考えなくて済む。 そう思いながら、重く、痛い腰を上げる。 料理が得意な訳じゃ無いが、作れない訳でもない。 「食欲、出てきたんじゃない?」 切っただけのトマトを口に放り込みながら、義隆が尋ねてくる。 「そうかな」 「ちゃんと、食えてるじゃん」 確かに、ここに来てから拒食の兆候は目に見えて減った。 「自分で好きなもん作ってるからかな」 「うん、それで良いよ」 「でも……何か食べたいもん無いの?」 「ああ、オレ雑食だから。何でもOK」 「作り甲斐が無い奴」 こうやって笑いながら飯を食うなんて、いつ以来なんだろう。 この状況が、精神的にも肉体的にも、癒しを与えてくれてるのかも知れない。 「嫁いらずだな、こりゃ」 愉快そうに笑う幼馴染に、一つの質問をしてみる。 「お前、結婚とか、どうすんの?」 一瞬驚いたような表情を見せた後、彼は笑い声を上げる。 「全然、考えて無いよ」 「でも、そう言う歳だろ?」 「見合いの話は上司から来るけどね」 田舎ならではのプレッシャー、そんなものもあるんじゃないかと、つい邪推してしまう。 不思議な顔をする俺を見て、彼は言った。 「ま、成久の後で良いや、オレは」 俺にそんな気配が無いことくらい、分かりきっているはずなのに。 妙に安心する一方で、義隆がいなくなったら俺はどうなるんだろう、そんな自分勝手な懸念が浮かぶ。 自分の為にも、彼の為にも、将来のことを早く決めなきゃならない。 全国的に不況の中、再就職は簡単じゃない。 特に地方都市のここじゃ、その厳しさは半端じゃなかった。 前歴がゼネコンだったこともあり、ハローワークの職員はその方面の求人を探してくれたが 何処も現業ばかりで、現場に出たことの無い俺には不利なものだった。 まだ若いから焦らないで、そんなことを事務的に言われ、余計焦燥感が募る。 家への坂道を登る途中、玄関に人影が見えた。 玄関の前にしばらく立ち尽くし、不在を憂えているようだった。 「あの……」 振り向いた女性の顔の面影を、覚えていた。 「……成久くん?久しぶりね」 彼は母親似なんだろう、思わずそう感じるような柔和な笑顔。 「お久しぶりです」 今日は平日。 義隆が不在であることは、知っていたはずだ。 彼女の目的が俺であったことは、間違いなかった。 「あの……今日は」 一人暮らしの息子の家に、無職の男が転がり込むなんて状況に納得してるとは思えない。 麦茶を出す手が、僅かに震えた。 いただきます、そう言ってお茶を一口飲んだ後、彼女は言う。 「ちょっと、様子を見に来てみたの」 「そう、ですか」 「調子は、どう?」 「おかげさまで、だいぶ……」 この人は、俺のことを何処まで知っているんだろう。 真綿で首を絞められるような息苦しさが、全身を包む。 「あの子は、変わらずにしてる?」 「ええ、元気にしてますよ」 「そう、良かったわ。……本当に、ありがとうね」 「え?」 笑顔の奥の目が、ふと寂しげに曇る。 「娘のことがあってから、あの子、ちょっと不安定なところが……あるの」 娘?義隆に妹がいるなんて、聞いたことが無い。 「私たちのことは、あまり受け容れてくれないから。あなたが側にいてくれて、安心だわ」 家族のことは、お互い、あまり話題にはしない。 義隆に至っては、両親が再婚した後の話は全く聞いたことが無かった。 俺の知らない、彼の過去。 そのままに、しておくべきだった。 -- 6 -- 「求人、どうだった?」 「ああ、現業ばっかりでね」 風呂から上がった義隆は、俺が持ち帰ってきた求人票を眺めていた。 「工事は、無理か?」 「やる気はあるけど、未経験じゃ……どうかな」 「この辺の会社ならそこそこ名が知れてるし、営繕課にどんな会社か聞いてみるよ」 「そうして貰えると、助かる」 この時点で、俺はまだ、彼の母の来訪を口に出すことが出来なかった。 強張る気持ちが伝わったんだろうか、彼は俺の顔を見て聞く。 「どうした?」 「いや、別に……」 「ホントに?」 「……今日、お母さんが来たんだ」 「母さんが?何か、言われたのか?」 「様子を見に来たって、言ってたよ」 「それだけ?」 口にして良いのか、分からなかった。 あまり見たことの無い、探るような視線が刺さる。 「……お前、妹、いるの?」 明らかに、眼鏡の向こうの目が、変わった。 「正確には、いた、だね」 まるで別人のような、冷たい口調だった。 「死んだんだ。……自殺した」 「そう……」 「ま、あの人の連れ子だから、血は繋がって無いけどね」 あの人、と言うのは二人目の父親のことだろう。 思春期での両親の再婚が、どのくらい子供に影響を与えるのか想像もつかないけれど 少なくとも彼には、かなりの影響を与えているようだ。 「オレの一個下で。突然そんな子が、今日から妹だ、なんて言われたって」 「そうだよな……」 「初めのうちは、努力したよ。家族の形を取り戻そうと」 テーブルの上に組んだ手に、力が込められる。 「でも、半年くらい経ってからかな……彼女の様子が、変わった」 「……どんな風に?」 「彼氏でも出来たんだろうって、思ってた。そんな感じ」 彼も、彼の妹となった彼女も、精神的なバランスは脆かったんだろう。 先にバランスを崩したのは、彼女の方だった。 「ある夜、彼女がオレの部屋に来たんだ。下着姿でね」 「え……?」 「セックスしようって、言うんだよ。……お前なら、どうする?」 「どうするって……」 「中学生でさ、女の身体なんて間近で見たこと無かった。オレは家族になる為に、必死だったのに」 温和な表情が崩れ、眉間に皺が寄る。 「その時は、耐えた。でも、何度も何度も、来るんだ」 悲壮な声だった。 そして、彼のバランスも、崩れる。 「中学卒業する、直前だった。オレは、妹を、犯した」 固唾を呑む音は、聞こえてしまっただろうか。 緊張の糸は、極限まで張り詰めていた。 「……次の日の朝、首吊って、死んだんだ」 震える瞳が、潤んでいた。 「遺書みたいな、メモ書きがあってね。ありがとう、って一言書いてあった」 その表情が、前髪で隠れる。 「せめて、恨み言でも書いてあれば……オレは、まだ、救われたのに」 壮絶な過去。 そんな一言で表現するには、あまりに重過ぎる義隆の告白。 あの張り詰めた空気が、床についても尚、剥がれなかった。 物音一つ聞こえない静かな空間を見つめていると、隣の部屋から声が聞こえて来る。 何か、うなされている様な声。 「……大丈夫か?」 ベッドの上で悶えるように呻く彼に、問いかける。 歪んだ顔は、涙で濡れていた。 薄く開いた目は、縋るような目つきだった。 「オレが……オレが、殺したんだ」 「そうじゃない、そうじゃないよ。お前は、悪くない」 枕に伏せる頭を、無理矢理自分の胸に抱え込んだ。 俺を闇から救ってくれた、幼馴染。 彼を包む影から救い出せる算段は、思い浮かばない。 子供のように声を上げて泣きじゃくる彼を、抱きしめ続けることしか、俺には出来なかった。 外から鳥のさえずりが聞こえて来て、朝が近いことを知る。 やっと寝付いたらしい彼をベッドに戻そうとした時、腕を掴まれた。 「ごめん、起こしたか」 「いや……ありがとう」 彼の手は腕を滑り、俺の手を握る。 「……成久」 「ん?」 「ずっと、オレと一緒に……いてくれないか」 -- 7 -- まるでプロポーズのような言葉。 けれど、戸惑いは、一瞬だった。 「ああ、ずっと、一緒だ」 俺もそれを求めていたから、だと思う。 赤い目をした彼は、安心したような、いつもの柔和な笑顔を見せてくれた。 「俺、飯作るから。もうちょっと寝てろよ」 軽く頭を撫でると、静かに目を瞑る。 その表情を見て、今までに無い優しい気持ちが広がった。 これが、救い、なんだろうか。 それから、俺と義隆の関係は、微妙に変化したように思う。 距離が近くなったのかも知れない。 開くことの出来なかった心の一部分を、徐々に開くことが出来るようになった。 「この間、話してた会社なんだけど」 一週間ほど経ったある日、夕食時にそんな話題になった。 「ああ、求人の?」 「山下工務店ってとこが、現場未経験でもOKっていう話をしてるみたいで」 「そうなんだ」 「受けてみたらどうだ?」 自信ありげな口調に、些か不思議な気分を抱えつつ 一先ず動かなければ何にもならない、そう考えさせられた。 ハローワークを通じて取り付けた、面接の約束。 久しぶりに着るスーツの感触が、妙に窮屈に感じる。 訪れた会社は、街の工務店と言うには大きな社屋だった。 公共工事を生業としているようだったが、民間の戸建住宅を含め、手広くやっているらしい。 面接に現れたのは、社長と中堅社員の二人。 職歴や業務内容などを一通り聞かれた後 一番聞かれたくない、けれど必ず聞かれるであろう質問が投げかけられる。 「前職を退職した理由を、お聞かせいただけますか。自己都合と言うことですが」 「……業績不振で給与カットを予告されたので」 手の震えを、必死に抑える。 「今後のことを考え、退職しました」 「何故、東京ではなく、こちらで再就職を?」 「実家に近いものですから……」 中堅の社員が詮索するような視線を向け、手元の資料に何かを書き込む。 居た堪れず視線を床に落とした時、背後のドアから誰かが入って来た。 面接官の視線がそちらに動き、また俺に戻る。 「では、結果は2、3日中にご連絡致しますので」 二人が席を立つと同時に、背後に立っていたであろう男が部屋の中に入って来た。 彼は、彼らとアイコンタクトを交わしながら、俺の側に立つ。 「ちょっと、お話、良いかな」 渡された名刺には、専務と言う肩書きと、東と言う名前が書かれていた。 それを見て、彼の顔に見覚えがあることを思い出す。 「義隆が、世話になってるみたいだね」 「……いえ、こちらこそ」 元々、俺の街にある支店にいた彼は、昇進を期に本社へやって来たそうだ。 息子とは未だに連絡を取り合っているようで、今回のことも、義隆が話を通したらしい。 「我が侭一つ言わなかったあいつが、言ってたんだよ」 「……何を、ですか」 「大切な人に、力を貸して欲しい、って」 俺のパートナーは、本気で俺を救おうとしてくれてる。 その想いに、背筋が寒くなるほど、心を揺さぶられた。 「なぁ、たまには飯作ってくれよ」 「今はそんな時間ねぇの、分かるだろ?」 「じゃ、週末だけでも」 「……それなら、いいけど」 無事に就職が決まり、研修期間に入った俺は、食事を作る任を解かれた。 しかし、それを許したにも関わらず、本人はどうやら納得出来ていないらしい。 「交代で作るとか、どうよ?お前も作れるだろ?」 「え~……お前が作る飯が良いんだよ」 「じゃ、毎日カレーでも、文句言わないんだな?」 不満げな義隆の顔を見ながら、会社帰りに買ってきたものがあったことを思い出す。 「そうだ、畑なんだけど」 互いに職を持ち、畑の管理が出来なくなってきたこともあり その処遇をどうするか、以前から懸案になっていた。 「花、植えね?」 「花?」 俺が取り出した花の種を手にして、彼は楽しそうに笑う。 「花って顔かよ」 「顔で植えるもんじゃ無いだろ?」 「そうだけどさ」 買って来たのは、矢車菊の種。 秋に向けて蒔くことの出来る花の一つだ。 「良いね……水遣りは交代だよな?」 種が入った袋を見ながら、彼はいつもの微笑みを見せてくれた。 男二人の共同生活。 心の奥に傷を抱えながら、それを舐め合うように、生きている。 精神的なバランスは、まだ脆いかも知れない。 その土台を踏み締めるように、俺たちは歩いていく。 秋の初めとは言え、残暑が厳しいからだろうか。 畑に撒いた種は、既に芽吹き始めていた。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.