いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 黒白-陽- --- -- 1 -- システム手帳の奥に仕舞い込んだ、一枚の白黒写真。 俺の唯一の絆。 桜の木の下で交わしたはずの約束を、果たすことが出来なかった。 その罪悪感が、今でも心の中に燻っている。 「今お持ちの、そのエルメスのバーキン、売ること出来ますか?」 「そんなの、無理に決まってんじゃん」 「自己破産ってのはね、最後の手段なんです」 「借金チャラになるんでしょ?」 「最善を尽くして、それでもダメな場合に考えることなんですよ。まずは任意整理から……」 「何で?いいから、手続きしてよ」 夕方、事務所で若い女性との面談。 ホストに貢ぎ、借金で首が回らなくなったキャバクラ嬢。 自己破産を申請したいと相談に来たが、話を聞くと、とても免責が許可されるとは思えない。 「もう、良いよ。他の、優し~い弁護士のとこ、行くから」 不機嫌な彼女は、そう言って席を立つ。 新宿の場末に構える弁護士事務所。 ベテランの所長初め、所属する弁護士は4人。 様々な案件を取り扱う中、俺は最近急増している借金関係の事案を担当している。 任意整理、自己破産、過払い金請求。 仕事としては大変なものじゃないけれど、相手にする顧客たちは一癖も二癖もある。 けれど、縋るようにやってくる人たちに手を差し伸べるのが、俺たちの役目。 それが、毎日のモチベーションになり、フラストレーションにもなる。 追い立てるように積み重なる資料を、一組一組こなしていく。 時間はもう夜の10時を回ろうと言う頃。 「那須君、ちょっと良いかな」 窓際の席に座る水元所長が声をかけてくる。 そばへ行くと、彼の机の上には、ある案件の資料が並べられていた。 「何でしょう?」 「ちょっと、人探しを頼みたいんだよ」 「証人ですか?」 「ああ、情状証人になりそうな弟がいるみたいでね」 所長が担当しているのは、ある殺人事件。 被告は父親を殺した息子。 暴力を繰り返す父に堪りかねて、犯した罪だと言う。 「弟がいるとは聞いていたんだけど、所在不明でなかなか見つからなくて」 「何か手がかりが?」 「被告が、ここにいるんじゃないかって話をしているんだよ」 机の上に書類に視線を落とす。 それに気がついた所長は、被告に関するファイルを手渡して来た。 「ああ。そう言えば、まだ、君には見せて無かったかな」 その名前と写真を見て、忘れかけていた記憶が蘇った。 子供の頃の、遠い思い出。 悲惨な子供時代だった。 シングルマザーだった母は、スナックのホステスをしながら俺たちを育てた。 お定まりのように、よく男を作っては家に連れ込むような女だった。 その度に、父親が違う6つ下の弟と、彼女の職場であるスナックで朝まで過ごす。 中学生だった俺に、それが何を意味しているのか、分からない訳が無い。 それでも母は、あくまで自分の人生を謳歌しているようだった。 ある夜のこと。 酷く酔っ払った彼女は、やはり男を連れて帰宅する。 冴えない印象だったその男は、俺たちを見て急に激昂した。 「何だよ、ガキがいんのかよ」 「ああ、だいじょーぶ。すぐ、追い出すから」 何してんの、早く出ていきな。 彼女の目は、そう言っているようだった。 とっくに寝入っていた弟を起こすと、当然のように彼はぐずり出す。 その泣き声が癇に障ったんだろう、男は弟の手を掴み、玄関の方へ投げ飛ばした。 「何すんだよ?!」 弟に駆け寄ろうとする俺の背中に、彼の蹴りが入る。 前のめりに倒れ、床に転がる俺たちに、彼は笑いながら言った。 「邪魔なんだよ。さっさと消えな」 結局、母の顔を見たのはその日が最後になった。 騒ぎを聞いた隣人が、警察に通報したのだ。 程なくやってきた警官に保護された俺たちは、一晩警察署で過ごし、翌朝、彼女の真意を聞く。 もう、子供を育てられない、と。 弟の怪我は、幸い大したことは無かったけれど、虐待と見なされるには十分だった。 こんなことが1回、2回ではなかったことも大きかった。 今までの状況を鑑みて、結局、俺たちは安住の地を養護施設に求めることとなった。 -- 2 -- 望んでここに入る子供なんて、存在しない。 幼い弟の手を引いて訪れた施設の中は、諦めの空気に満ちていた。 親から見捨てられたこと、将来への不安。 状況を理解出来ない弟を抱え、これからどうすれば良いのか、途方に暮れるしかなかった。 施設にいた子供は30人ほど。 高校生から乳児まで、あらゆる年代の子供が共同生活を送る。 徐々に周りと馴染んでいく弟とは違い、俺はなかなか雰囲気に慣れなかった。 全てに見捨てられた人生を、受け入れたくなかったのかも知れない。 高校2年の初夏だったと思う。 ある少年が、施設にやって来た。 明らかに虐待の跡を残したその顔には、諦めを超え、憎しみが満ちていた。 最年長だった俺は、気を遣って彼に話しかけてみたりもしたが、一向に反応は無い。 自分が施設に入った頃のことを思い出し、きっと彼も同じ状態なんだろうと考えるようにしていた。 中学1年生だった彼は、けれど、学校へ行こうとはしなかった。 部屋の片隅で、まるで気配を消すかの如く、息を殺しているように見えた。 「それ、誰にやられたの?」 風呂の時間。 彼と同じタイミングで入浴していた俺は、何かきっかけが欲しくて、そんなことを聞いてみた。 振り返り、睨むように俺に視線を向けた彼は、一言ポツリと呟いた。 「……親父」 「母さん、いないの?」 「いない」 「そう……」 大きな溜め息が、湯気と共に風呂場に溶ける。 「でも、弟がいる」 「一緒じゃ、ないの?」 「連れて来れなかった。親父が、隠したんだ」 唇を噛み、揺らぐ水面を見つめる彼の目が、ふと潤む。 「きっと、泣いてる。オレのこと、呼んでる」 彼は、ミツヒロと名乗った。 学校に行きたがらないのは相変わらずだったので、俺がたまに勉強を見てやることもあった。 夏休みが終わる頃には、彼の気持ちもだいぶ落ち着いてきたのだろうか。 休み明けからは学校へ通うようになった。 「ついて行けそう?勉強」 学校からの帰りしな、施設に近い河川敷で、ミツヒロと一緒になった。 「どうかな。クラスじゃ、ぼっちだし。何か、面倒」 「高校くらい、行っておいた方が良いんじゃない?」 「オレ、あんたと違って賢い訳でも無いし、適当に働くよ」 「弟、迎えに行くんでしょ?なら、高校くらい出た方が良いって」 俺の言葉を聞いて、彼の表情が曇る。 その顔を見て、俺はこの暗い人生の中でも、唯一の肉親が近くにいることを幸せに思えた。 目的地にまもなく着く、その時。 気味の悪い男が、行く手に立っていた。 「坊やたちさぁ、あそこの施設の子?」 顔に浮かんだ笑みが普通ではないことは、明白だった。 得体の知れない雰囲気に、顔が引きつる。 「……だから?」 感情を露わに睨みつけ、脇を通り過ぎようとした時、腕を掴まれた。 「施設出て、まともな人生歩める訳、無いんだからさ」 吐き気のするような視線に、身体中を舐められる。 「世の中を上手く渡れるコツ、教えてあげるよ」 俺を掴む腕を叩き掃ったのは、ミツヒロの手だった。 「行こうぜ」 彼はそう言いながら、俺の腰の辺りを掴んで早足で歩き出す。 しばらく歩き、不意に振り返った彼は、男に言い放つ。 「そんなこと、とっくに知ってるんだよ。失せろ、変態」 こんな境遇で大学に合格できたのは、まぐれだったのかも知れない。 それでも、施設を出た後の生活が壮絶なものになるんだろうと言う不安は 新たな春を清々しい気持ちで迎えることを、許してはくれなかった。 「兄ちゃん、園長先生が、写真撮るよって」 この春、中学生になる弟を残していかなければならないことも、辛かった。 唯一の家族。 いつでもそばにいると思っていた存在。 施設の庭に植えられている桜は、8分咲き程。 中でも日当たりの良い1本の木は、ほぼ満開になっていた。 高校卒業と同時に、施設も卒業となる。 施設長の計らいで、卒業する子供の写真を撮る、と言うのは春の恒例行事だった。 「ほら、もっと笑って」 写真を撮ることに慣れていない俺は、どうしても上手く笑顔を作れなかった。 風が吹き、桜の花びらが目の前を舞う。 心の奥の不安が一瞬溶かされたような気がして、顔が緩んだ。 人生に色を付けて行く様に、少しずつ確実な一歩を進めて欲しい。 そんな願いが込められた白黒写真。 「必ず迎えに来るから、待ってろよ」 弟の記憶は、そう言って抱き締めた時のまま、止まっている。 自分が生きていくので必死だった。 ありきたりな言い訳は、未だ、罪悪感を消し去ってはくれていない。 -- 3 -- 地方都市にある工業団地。 被告であるミツヒロの弟は、この街に暮らしていると言う話だった。 けれど、役所へ赴いても所在が掴めない。 住民基本台帳に記載すら無かった。 郊外にある自動車部品の工場に着いたのは、もう夕方前。 ミツヒロが施設を出て、自宅へ帰った時、弟は既にこの工場に働きに出されていたらしい。 それから、もう7年近く経っているから、ここにいる可能性は低いだろう。 僅かな望みに期待しながら、俺は事務所へ向かった。 「河野充明さんと言う方が、こちらで働いてると伺ったんですが」 事務所のカウンターに出てきた男は、怪訝な顔でお待ち下さいと残し、奥へ消えていく。 工場で働く工員は、ほぼ全員が下請けの派遣会社から派遣されている。 その為、工場自体では実態を把握していないと言うのが実際のところだ。 5分ほどすると、大きなファイルを抱えた男が戻って来た。 「その方なら、半年ほど前に辞めてますね」 「今、どちらにいるか分かりますか?」 「さぁ……辞めるまでは派遣会社の寮にいたようですが」 「そうですか」 その時、外から誰かが入ってくる気配を、背後に感じた。 通り過ぎていこうとするその人物に、目の前の男が声をかける。 「ああ、那須君、ちょっと。河野君って、知ってるか?」 同じ苗字の男に、思わず目が行った。 不測の再会。 心の準備は、全く出来ていなかった。 10年以上会っていなかった弟は、再会を喜ぶ風でも無く、煙草を咥え黙っている。 俺もまた、言葉を選びすぎて、何も発することが出来なかった。 煙草を吸い終わるタイミングで、彼は一つ溜め息をつく。 「アキに、何の用だって?」 「……裁判の、証人になって欲しいと思ってね」 「証人って……誰の?」 「施設にいた、ミツヒロ、って覚えてるか?」 眉間に浅く皺を寄せ、思い出す風に呟いた。 「ああ……いたかも」 「親父殺しで捕まってね。その弁護を、ウチの上司がやってるんだよ」 「それが、何か関係ある訳?」 「彼が、ミツヒロの弟だ」 「そういや、兄貴がいるって話は、してたな」 新たな煙草に火を点けながら、弟は俺に目を向けた。 「でも、あいつが証人なんて、無理だと思うけどね」 ミツヒロがいない間、父親の虐待の手は、その弟に向けられ続けた。 幼い頃からの暴力によって、彼は軽度の発達障害に加え、言語障害もあるとのことだった。 「まともに喋れねぇし、何より兄貴の記憶なんて、殆ど残って無いだろ」 「証言台に立ってくれれば、裁判官の心証も良くなるんだ」 「見世物じゃねぇんだ。今更、あいつを煩わすのは止めてくれよ」 感情的になっているのか、声のトーンが荒くなる。 「迷惑掛けるつもりは無い。ミツヒロも、弟に会いたいって言ってるらしいし、協力してくれないか」 「弟に会いたい、ね。あんたが言うと、冗談にしか聞こえないな」 急に振られた非難に、言葉が出なかった。 乱暴に煙草を灰皿に投げ入れ、彼は背を向ける。 「……オレの家にいるから、仕事終わるまで、ちょっと待っててくれ」 古いアパートの2階の角部屋に、弟は住んでいる。 家の中で出迎えた若い男は、俺の顔を見て警戒心を露わにした。 「心配しなくて良いよ。オレの兄貴だ」 「アニキの、兄貴……?」 弟は、彼の頭を抱えるように抱き寄せる。 それはまるで、自らの弟を守る兄のような、そんな姿に見えた。 「入って」 実の弟は、視線で俺を家の中に招き入れる。 目的の男が台所で何かを用意している間、俺は言い知れない違和感を口に出す。 「お前……彼とどう言う関係なんだ?」 「どう言うって……工場で一緒だったんだよ」 「それだけで、一緒に、住んでるのか?」 「そう。一緒にいたいから、一緒に住んでる。それだけ」 ひしゃげた煙草のパッケージから一本取り出し、火を点ける。 漂う煙に目を奪われた時、彼は思いも寄らぬ一言を発した。 「それに、この間、養子縁組した」 「は?」 台帳に名前が無い理由は明らかになった。 しかし、違和感は更に増す。 「何の、為に?」 「あいつには、オレしかいない。オレにも、もう、あいつしかいないから」 多分、その言葉には、約束を守れなかった俺への拒絶も含まれていたんだろう。 彼は、ふと目を伏せた。 「……家族が、欲しかったんだ」 -- 4 -- 切れた絆を結び直すには、もう遅いのかも知れない。 弟に寄り添うように座る若い男の視線は、絶対的な信頼を含み、弟に向けられていた。 その腰に手を回して抱き寄せる仕草は、恋人のような、肉親のような、そんな優しさが窺える。 約束を守らず、弟を見捨てたのは俺だ。 それを分かっていても尚、一人取り残されたような気分に陥っていた。 若い男が出してくれたコーヒーを飲みながら、弟は彼に告げた。 「アキ、兄貴がお前に話があるそうなんだ。聞いてくれるか?」 彼は、困った風な顔を見せながら頷いた後、俺の方へ向き直る。 「どんな、話?」 俺の話がどの程度伝わったのかは分からなかった。 兄弟が離れている間、互いが置かれていた状況。 その結果、彼の兄が、彼の父を殺してしまったこと。 彼が兄や父のことを裁判で証言することで、兄の罪が軽くなる可能性があること。 時折、難しい顔をしながら、彼は熱心に俺の話を聞いてくれていた。 「君に、お兄さんを助けて欲しいんだ。やってくれないかな」 「……今度は、オレが、兄貴を助ける、番?」 助言を求めるような視線を向けられた弟は、それに頷いて答を返す。 「いつも、オレを、助けてくれた。何でも、やるよ」 弟の家を出る頃には、すっかり夜も更けていた。 別れ際、彼は一枚のメモを手渡して来た。 書いてあったのは、一人の女性の名前。 今、何処で何をしているのかを知りたい、彼は悲壮な顔でそう呟いた。 詳しいことを聞ける雰囲気ではなかったけれど 彼の人生の枷になっているであろうことは、容易に想像がついた。 俺は弁護士であって、人探しが専門な訳じゃ無い。 それでも、彼の一縷の望みを手に、東京への帰路に着く。 ミツヒロの裁判の日程も決まり、それに向けた準備が進められる中 俺は以前のように、借金で悩む客相手の業務にあたる毎日を送っていた。 そんな中で、当然のことながら、弟の尋ね人の捜索は遅々として進まない。 半ば諦めかけていた、ある日の夜。 営業が終わる時間ギリギリに、一人の女が相談に訪れた。 あまり派手さの無い服装とはアンバランスな厚化粧。 風貌の端々に苦労を覗かせながら、落ち着かない様子で、俺の向かいに座る。 彼女はしばらく俺の顔を眺めた後、胸につけたIDを見て、ハッとした表情を見せた。 「弁護士さん……那須啓次って、知ってます?」 似て無い兄弟じゃない。 弟が彼女とどう言う関係なのか、幾ばくの不安を抱えたまま、俺はその問に答えた。 「ええ……弟ですが、お知り合いですか?」 尋ね人が見つかったと言う喜びは、彼女の話で一瞬にして掻き消される。 弟の借金が元で風俗の世界に放り込まれた彼女は、この世の地獄を見せられた。 それは、店が摘発されるまでの3年間。 無理矢理背負わされた借金、数回の中絶、現実を紛らわせる為に嵌った麻薬。 結局、闇から抜け出すことが出来ない人生。 けれども、転落していく自分を何処かで食い止めたい、そう思ってここに来たと言う。 「啓次のことは恨むだけ恨んだし、正直、もうどうでも良いと思ってた」 俺が知らない弟の人生。 何の責任も無い兄、それでも、彼女は俺の中に弟を見ているようだった。 「でも、貴方の顔見てると、ぶり返して来るみたい」 その目に映っていたのは、深い憂愁。 不意に彼女は立ち上がり、俺の頬に手を添える。 「あんなに好きだって、言ってくれたのに。迎えにさえ来てくれないのね」 「何を……」 近づいて来る唇を避けられなかったのは、彼女への罪悪感からだろうか。 それを受け入れることで、弟を苦しめる咎を軽く出来ると、思ったからかも知れない。 程なく離れた唇が、耳元へ滑る。 「全て忘れて、やり直したいの。だから、最後に、抱いてくれる?」 幸せにやってるから、私のことは、忘れて。 彼女の言葉を伝えると、弟は何かから解放されたように、大きな溜め息をつく。 「そう……わざわざ、ありがとう」 電話越しの彼の声は、微かに震えているようだった。 しばらくの沈黙の後、彼が口を開く。 「……オレも、ずっと、待ってたよ」 何の言い訳も思い浮かばなかった。 「本当に、すまない」 決して忘れていた訳じゃ無い。 白黒の写真を見る度に、モノクロのままの人生を恨むばかりだった。 時が経つにつれ、弟の消息は都会の闇に消え、見えなくなって行く。 天涯孤独だと、勝手に思い込むようにもなっていた。 「でも、会えて、嬉しかった」 恨み辛みの言葉を覚悟していた気持ちが、その言葉で一気に緩む。 「俺も……偶然に感謝してる」 「兄貴」 「ん?」 「オレたち、まだ、兄弟なんだよな?」 「……当たり前だろ」 手放した縁を結ぶことが、俺に許されるのだろうか。 時が止まったままの白黒写真に色を付けていくことは、出来るんだろうか。 色とりどりのネオンに溢れる街並みを見ながら、十字架を下ろした心が、震えた。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.