いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 好尚 --- -- 1 -- 未だ生活感が漂わない部屋には、必要最低限の家電や家具だけ。 人間、必要なものはそんなに無いのかも知れないと、ガランとした空間を見渡しながら思う。 冷蔵庫の上の電子レンジの上の鍋セットの箱は、開けてもいない。 申し訳程度に備え付けられたIHコンロが一口あるミニキッチンでは 料理をしようなんて気にもならないし、そもそも作ったことも殆ど無い。 「料理くらい、出来るようになっておきなさい」 そう言って母親がこれをダンボールに無理矢理詰めた光景が、雑多な想いと共に脳裏を過ぎる。 会社からの帰り道、曲がるべき路地を間違えなくなるまで、どのくらいかかるんだろう。 転勤で、名古屋支社から東京本社にやって来てから2週間。 入社10年目の新顔にも、東京の激務は容赦無く 朝から晩まで働き、夜中に帰宅する毎日じゃ、道を覚えられないのは当然かも知れない。 週末には洗濯と、自分の身の回りだけを辛うじて整頓するだけの掃除。 初めての一人暮らしに胸をときめかせるような歳でもなく 最初が肝心と言う生活リズムの形成は、既に失敗しているような気がしてならない。 「杉浦君は、単身赴任?」 先日の週末、部署で行われた歓迎会の席。 直属の上司となった喜多部長は、赤ら顔で聞いてきた。 「いえ、あいにく一人者で。ただの転勤です」 「そうなんだ。何ていうの、こう、シュッとした感じのいい男なのにねぇ」 彼は笑いながら、向かいに座る神谷課長に同意を求める。 「そうですね。私も結婚しているのかと」 「いや、まぁ……前は、してたんですが」 「バツイチかぁ。何?理由とか、聞いても良いの?」 「喜多さん、止めましょうよ」 暴走気味の部長を、困った顔をした課長が止める。 きっと、飲み会に限らず、いつもの風景なんだろうと思う。 「別に、構いませんけど……そんなに楽しい話でも無いかと」 結婚したのは、入社して3年も過ぎた頃。 高校の同窓会で再会した、同級生だった。 仕事も分かり始め、毎日の業務に忙殺されていた頃。 荒んで行く心を癒してくれるような彼女の存在は、人生に不可欠なものだと思っていた。 互いに実家暮らしだった俺たちは、婚約を期に同棲を始め、半年後には結婚した。 中堅商社で派遣事務をやっていた彼女と、ゼネコンで構造設計をやっている俺。 ほぼ定時で上がれる妻に対して、俺はその日によって帰宅時間はまちまちで 特に物件が佳境に入れば、2連泊、3連泊はさほど珍しいことでも無かった。 初めの内は、彼女にも身体を気遣ってくれるくらいの余裕があった。 そんな日が長く続けば続くほど、恐らく、将来に不安を抱くようになったのかも知れない。 いつしか、帰宅しても、彼女が出迎えてくれることは無くなって行った。 上司と共に北海道への出張に出かける前の晩。 珍しく早く帰宅し、準備をしていた俺の背中に向かって、彼女は一言呟いた。 「あなたは、どうして、耐えられるの?」 振り向くと、彼女は俯いたまま切ない表情を浮かべていた。 「仕事が大事なのは、分かってる。早く帰って来てなんて、言うつもりも無い」 顔を上げたその頬に、涙が伝う。 「でも、私、置いて行かれてる気がするよ。一緒に歩いてる気が、しないよ」 そばにいて欲しい、支えていて欲しい。 俺は彼女に、受動的なものばかりを求めすぎていたのだと思う。 仕事中心の生活の中で、自宅でも上手く気持ちを切り替えられなかったことも すれ違ってしまった原因の一つかも知れない。 結局、2年余りの結婚生活は、互いに気持ちを引き摺ったままで終わった。 今の会社で、今の仕事をしている限り、俺にはもう二度と結婚は無理なんじゃないか。 正直、そんな風に思っている。 「仕事が忙しくて別れるって、ホント、よく聞くよなぁ」 かいつまんだ話を聞き、部長は大げさに頷きながら日本酒を呷った。 「その点、神谷君はよく続いてるよねぇ」 その言葉を聞いて、つい課長の左手に目が行く。 シンプルな指輪を薬指にしている彼女は、静かな笑みを浮かべて、言った。 「ウチはもうとっくに、惰性ですね」 「ああ、じゃあ、まだしばらくはズルズル行くんだね」 「まぁ、そんなとこでしょうね。お互いこの業界だから、初めから諦めてる部分もあるし」 「ご主人は……ウチの会社の人なんですか?」 「ううん、マリコンで積算やってるの」 「まさに、土建カップルだよねぇ。海洋建設の積算と建築物の構造設計なんて」 結婚生活を続ける秘訣が、諦め、惰性。 この会社が悪いのか、それが真理なのか。 「一人でも生きて行こうと思えば行けるけどね」 ウーロン茶のグラスを手に、神谷さんは俺の顔を見た。 「でも、いつか振り返った時に、ああ、こんな人生だったんだねって言い合えたら、楽しそうじゃない?」 「……理想ですね」 「惰性って言葉に引っかかってるかも知れないけど、ちゃんと時間を作る努力はしてるのよ?」 「そうそう、神谷君は、水曜日は必ず7時に帰るんだよ。全く、困るよね」 「喜多さん、定時は5時半だって知ってます?しかも、水曜はノー残デー」 「知ってるけどさ」 「火曜日に徹夜してでも、絶対に水曜日だけは早く帰るように、約束してるの」 歯を見せて笑う顔に、指輪が一層輝きを増したように見えた。 「全然、夫婦仲、冷めて無くないですか?」 「冷めてるなんて、言って無いわよ?」 -- 2 -- 社内報で彼女の顔を見たのは、どれくらい前だっただろう。 ウチの会社で、初めて女性が課長まで上り詰めたという小さな記事。 大手ゼネコンだけあって、至って古い社風。 数千人いる全国の社員の中でも、管理職を任されている女性は数えるほどだ。 そう言う点で、神谷さんは実力主義という風を会社に吹き込んだ人なのだろう。 「新美君、ちょっと」 構造計算書を手にした彼女が声を掛けたのは、部署では後輩に当たる新美君。 まだ若手と呼ばれる彼は、上司の声に些か脅えた表情を浮かべて、その席の前に立つ。 「ここの構造壁、ちょっと厚くない?」 「そこは、意匠から増し打ちの要求があって……」 「じゃ、連動した構造計算はやった?」 「はい、一応……」 「下階の大梁の荷重が適切じゃないように見えるけど、どう?」 的確な指摘を受けて言葉を失った部下に、彼女は書類を突き返す。 「いい加減な計算書持って来られても、判子押せないわよ。やり直して」 「……分かりました」 「自信が無いようなら、一回誰かに目を通して貰っても良いから」 俺も若い頃は、あんな風に上司によく怒られた。 若干居た堪れない雰囲気を背負いながら席に戻る後輩を見ながら、少し可笑しくなる。 「俺、後で見ようか?」 隣の席で早速計算書を修正している後輩に、声を掛ける。 「ええ、でも……時間、まだかかりそうなんで」 そう言って、PCの画面に目を落とす。 定時のチャイムは、さっき鳴ったばかり。 夜の作業は、これからが本番だ。 「良いよ。どうせ、俺も後2、3時間かかるから。それからで」 「すみません、ありがとうございます」 「じゃ、その前にさっさと晩飯食いに行かない?」 偶然隣の席だったからなのか、元々の彼の性格なのか。 俺が部署に配属されてから、彼は何かと俺に話しかけてくれることが多い。 自信なさげな喋り方に、少し苛つくこともあったけれど 慣れない環境の中、気を張って疲れ気味の心を緩めてくれるような存在だった。 「そろそろ、こちらにも慣れました?」 社員食堂で出される夕食の麻婆豆腐を口に運びながら、彼は問いかけて来る。 「ぼちぼちってところかな」 「忙しさは、名古屋も同じ感じなんですか?」 「こっちの方が、忙しいって言うか、テンポが早い気がするね」 物件の数は東京の方が圧倒的に多い。 けれど、その分社員の数も多く、業務分担も細分化されて効率的なせいか、忙しさに差異は無い。 むしろ、土日出勤も当然だったあっちに比べれば 休出はほぼ無し、更にノー残業デーまで設定されている本社の管理の質には、驚かされる。 「ここ、空いてる?」 皿の食べ物も半分くらいの量になった頃、背後から声を掛けられた。 向かいに座る後輩の顔が、明らかに緊張を映す。 「ええ、空いてますよ」 そう答えると、上司は俺の隣の席に座る。 「神谷さんも、夜はここで食べるんですか?」 「そうね。どうせ旦那とも夜は時間が合わないし。ここで済ませた方が楽でしょ」 髪を束ね、一瞬手を合わせて、彼女はトレーに乗った夕食に箸を付け始める。 「食事作ったりは……」 「殆どしないわね。休みの日に、気が向いた時くらい?」 「そんなもんですか」 「杉浦君は、料理する?」 「いえ、全く……」 その言葉で、引っ越した時の状態をほぼ維持しているミニキッチンの光景を思い出す。 作ってみようかと言う好奇心が無い訳でもないが、行動力が伴わない。 「そう言えば、新美君は、まだ行ってるの?」 その上司の質問に、後輩は黙々と動かしていた箸を止め、答える。 「え、ええ。一応」 「彼、料理教室に通ってるのよ」 何処か楽しそうに笑う彼女に、後輩も照れを隠すように笑顔を見せた。 「へぇ……ケーキとか作ったり?」 「いや、何て言うか、ホント実用的なものばっかりなんですけど」 「例えば?」 「フライパン一個で出来る鯖の味噌煮、とか」 「随分具体的なネーミングだね……」 「独身の男対象のスクールなんで、毎回そんな感じなんですよ」 ハイペースで食べる手を少し休め、水を一口飲んだところで、神谷さんは後輩の顔を窺う。 「前に、料理くらい作れるようになりなさいって話をしててね」 「自分は作らないのにですか?」 「作れない訳じゃ無いのよ?それに、料理は女がするものって決まって無いでしょ?」 「仰る通りです……」 部下のトレーに食べるものが無くなったのを見計らうように、上司は口を開く。 「先に行って良いわよ?仕事に戻って」 「分かりました。じゃ、お先に」 俺と同じタイミングで席を立つ新美君に、彼女が声を掛けた。 「私、今日はそんなに遅くまでいないけど。後は、大丈夫?」 「えっ……あ、はい、大丈夫です」 「一応、俺の方で少し見ようかって話はしてますんで」 「そう、なら助かるわ」 -- 3 -- 「神谷さんと、結構仲良いの?」 フロアに戻るエレベーターの中で、そんなことを聞いてみた。 階数表示を見上げていた新美君は、些か穏やかな顔で俺の方を見る。 「仕事以外では、気さくな方ですから。それに」 エレベーターが目的のフロアに着く。 先に降りる様に促してくれた彼は、自らも箱から出た後、言葉を続けた。 「神谷さん、大学の研究室の先輩なんです。……随分、前の、ですけど」 「じゃ、そっちの関係で?」 「ええ、学生の時から。ここに入る時も、リクルーターになって貰いましたし」 「あの厳しさは、可愛い後輩への愛のムチってとこかな」 「そう思いたいところですけど……あの人は誰にでも厳しいですよ、仕事では」 オフィスの人影もまばらになってきた夜9時過ぎ。 設備から回ってきた鉄骨スリーブ位置の構造チェックも概ね完了したところで、隣の席に目をやる。 「どんな感じ?」 「もうすぐ、まとまりそうです」 「終わったら、声かけてくれる?こっちは大丈夫だから」 「分かりました」 社内LANに繋がっているスケジューラーで予定の確認をする。 新しく始まる物件の打合せ、名古屋にいた頃に担当していた物件の検査。 相変わらず忙しい日々だ。 その中で、違和感を覚えるほど、当然の様に空いている土日の欄。 今週こそは、何か、創造的なことでもしようか。 「杉浦さん、終わりました」 「あ……うん。じゃ、ちょっとチェックするよ」 「お願いします」 4~5cmはあるだろう計算書の束は、なかなか重量感がある。 「1時間くらい貰って良いかな?」 「はい。その間に、他の構造図作ってますんで」 これが終わったら、今日は業務終了。 そう決意し、計算書とコーヒーを携えて、共用の広い机に陣取った。 あれで何かミスがあれば、俺も新美君と一緒に神谷さんの雷に打たれよう。 計算書の修正を無事に終えた後輩と、駅までの道を歩く。 「そういや、料理教室って、いつ行ってるの?」 「基本は第1・3週の土曜の夜です。それが半年サイクルですね」 「男ばっか……なんだよね」 頭の中に、若干むさくるしい厨房の画が浮かんだ。 些か怪訝な表情をした俺を見て、後輩が苦笑する。 「講師まで、男ですから」 「結構、人いるの?」 「これが、今はキャンセル待ちらしいですよ」 「そこまでして料理を習うって、やっぱ、何、結婚考えてとか?」 「そう言う人もいるでしょうし、ま、その逆もいるのかも知れませんし」 若い彼がサラッと言い流した一言が、心に引っかかる。 再婚したいと言う気が無い訳じゃ無いけれど、相手もいない、仕事もこの調子。 同じ失敗を繰り返さないとも限らない。 そろそろ現実を見据えて、諦める覚悟も必要なのかも知れない。 「興味、あります?」 「う~ん、どうかな。精神的なハードルが高い気が」 「確かに僕も、申し込むまでが一番葛藤してました」 「正直、作って貰う方が、俺は良いなぁ」 踏ん切りのつかない俺の呟きに、新美君は少し視線を落として言った。 「僕は作ってあげるのも悪く無いかなって、思うようになりましたね」 「彼女とか?」 「……いれば、ですけど」 「料理できるのは、良いアピールになるんじゃない?」 「まぁ、頑張ります」 引っ越して1ヶ月も経とうと言うのに、部屋の片隅に未開封のダンボールがある。 意を決して開けると、中身は、食器の類と赤味噌だった。 「どうしろって言うんだよ……」 味噌の袋を手に、つい独り言が出る。 裏に赤だしの作り方が書いてあるが、味噌以外の材料は何も無い。 頼るあては、一人しか思い浮かばなかった。 「八丁味噌、ですか?」 夜の社員食堂。 携帯で撮って来た写メを新美君に見せると、彼は物珍しそうな口調で言った。 「僕、あんまり食べたことないですね」 「そうか、そうだよね。俺は、味噌って言うとこれなんだけど……」 「良いですね、そう言うの憧れるな」 後輩は裏書のレシピの写真を見ながら、楽しそうな表情を覗かせる。 「これくらいなら、杉浦さんでも作れるんじゃないですか?」 「そうなんだけどね……」 煮え切らない様子に、彼は一瞬何かを考え、俺を見た。 「もし良ければ、僕が作りましょうか?」 「え?」 少しはにかみながら、そんな提案をしてくる彼。 驚きよりも喜ぶ気持ちが大きかったのは、何処かにその言葉を期待していたからかも知れない。 -- 4 -- 「どう?美味しい?」 「うん、もちろん。こんな晩飯が毎日食べられるのは、幸せだな」 「大袈裟すぎるよ。でも、ありがと」 「明日早いから、悪いけど、自分で温めて食べてくれるかな?」 「ごめん、早く帰ってくるって思わなかったから、作ってないんだ」 誰かの為に、食事を作る。 食べる側からすれば、当たり前のことだと思いがちなことでも 相手を想う特別な気持ちが無ければ、なかなか成し得ないことなんだと、今更ながら思う。 あの頃、一瞬でもそのことに気がついていたら。 俺たちは、もっと違う道を歩んでいたんだろうか。 出先から帰った週末の夜。 閉店直前の社員食堂に、人影はまばらだった。 「お疲れ様。今日は随分遅いねぇ」 「打合せが伸びちゃってね」 「もう終わりだから、大盛りにしておいてあげるよ」 「ありがとう」 すっかり顔なじみになった食堂のおばちゃんが、酢豚を皿からはみ出さんほどに盛ってくれる。 流石に、それは多すぎる。 そう思いながら、親切心が疲れた身体に染みた。 何気なく向けた窓際の席に、見知った後姿があった。 向かい合って座る二人の仲は、上司と部下、大学の先輩と後輩。 それよりも、何かもっと違う関係性を感じさせる。 邪推し過ぎだろう、そう思っても、彼らの席に近づくことは出来ず いつもより重いトレーを持ちながら、二人から遠ざかるように歩く。 「あ、杉浦君」 遠くからそう声をかけてきたのは、神谷さんだった。 「お疲れ様です」 「打合せ、どうだった?」 「ええ、何点か宿題が」 「私、もう帰るから、ちょっとだけ聞かせてくれる?」 「……分かりました」 二人の前の食器からは、既に食べ物は消えていた。 バツの悪い気分になりながら新美君の隣の席に座ると、そのタイミングで、彼は席を立つ。 「もう、行くんだ?」 「今日中にやってしまいたい部分があるんで」 「悪いけど、宜しくね」 おかずの方が多くなってしまった、バランスの偏った夕食を採りながら 打合せで出た懸案事項を上司に報告する。 配布された資料を眺めながら、彼女は僅かに仕事モードの雰囲気を漂わせていた。 「喫緊の課題って言うのは、無さそうね」 「そうですね。施主から意匠の面でストップがかかってる部分もありますし」 「これだけロングスパンだと、柱の太さは半端無い感じだけど」 「ファサード部分なんで、それを嫌がっているようです」 「気持ちは分かるけどねぇ」 呆れたような顔で、彼女はそう呟く。 「一先ず、出来るところから手をつけて行って貰える?」 「そうします」 会話が途切れた、居心地の悪い間。 既にプライベートな時間に切り替えつつある彼女に、つい好奇心がこぼれ出た。 「新美君とは、大学の先輩・後輩なんだそうですね」 「そう。大学出てからもしばらくは大学と共同で研究してたから。その頃から顔を合わせてたの」 「優秀な後輩、ですか」 「どうかしら。そう思いたいところだけど、まだまだね」 僅かに残ったコップの水を飲み干し、彼女は探るような目つきを見せる。 「何が聞きたいの?ある程度のことなら、答えるわよ?」 「まぁ、誤解されかねないから、公言はしないけど」 二人の関係の影にあるもの、それを聞いて、思わず羨ましさが込み上げる。 「彼ね、時々ウチにご飯作りに来てくれるの」 「神谷さんの、自宅に?」 「そう。2人の時もあるし、旦那も入れて3人の時もあるし」 「それは……」 「別に、作りに来いって命令した訳じゃないのよ」 楽しそうに笑う彼女が、真っ直ぐに俺を見た。 「でも、新美君の料理はしばらくお預けねって、さっき話してたの」 「え?」 「約束したんでしょ?」 じゃあ、今週の日曜日でどうですか。 それが、彼の提案だった。 「何か、杉浦君に取られたみたいで、ちょっと悔しいけど。仕方ないわね」 言葉とは裏腹な穏やかな顔は、俺の幼稚な勘繰りを吹き飛ばす。 「週末は、私も旦那にご飯でも作ってあげようかしら」 -- 5 -- 鍋とフライパンと食器だけ用意しておいて下さい。 金曜日の帰り際に言われたことは、とりあえずやっておいた。 空っぽだった作り付けの棚の中に出来た生活感が、ちょっと不思議な気分を起こさせる。 一人暮らしをするようになって、他人をこの部屋に招きいれるのは初めてだ。 妙に緊張しているせいなのか、時間の進みがいつもより遅いような気がする。 『あと10分くらいで駅に着くと思います』 そんなメールが来たのは、昼の11時を過ぎたくらいだった。 携帯を閉じ、家を出る。 彼との待ち合わせは、駅前のスーパーの前。 何しろ、冷蔵庫の中にはビールと水だけ。 調味料なんてものは、例の味噌しかない。 買っても余ってしまうであろう物は、新美君が持参してくれるとのことだったが 野菜や魚などの生鮮食材は、買って使い切ろうと言う話になっている。 Tシャツに細身のカーゴパンツと言う見慣れない服装が、その若さを一層引き立てた。 「わざわざ、悪いね」 「いえ、遅くなりまして」 軽く頭を下げた新美君は、少しはにかんだような笑顔を見せる。 「僕、この辺り初めて来ましたけど、結構栄えてるんですね」 「会社から言われるがままに引っ越してきたんだけどね。一通り揃ってるから、便利だよ」 「確かに、これじゃ、飯作る気にはならないな」 スーパーが駅前に2つ、そこからファストフードや飲食店が連なる商店街が続く。 この環境の良さが、却って堕落を呼んでいるのかも知れない。 「ああ、そうだ。今更なんですけど」 「ん?」 「杉浦さん、何か苦手なものあります?」 「ああ……いや、特に無いよ」 俺が持っているカゴには、既に幾つかの食材が放り込まれている。 ざっと見ても、苦手意識のあるものは無さそうだった。 「じゃ、何か食べたいものあります?」 「う~ん……それも、特には。新美君に任せるよ」 「分かりました。じゃ、予定通りで」 何種類もの魚の切り身が並ぶ冷蔵ケースに手を伸ばす後輩を視界に収めながら 俺にも今更な質問があったことを思い出した。 「そう言えば、今日って何作るの?」 「あ、言ってませんでしたっけ?」 そう言う彼の手には、鯖の切り身。 「鯖の塩焼きと蒸し野菜と、赤だし、の予定です」 「ウチ、グリル無いよ?」 「大丈夫ですよ。フライパンで焼きますから」 ほぼ新品のままの鍋や炊飯器を見て、新美君は若干呆れたような顔を見せた。 「全然使ってないんですか?」 「1、2回くらい使ったような、気もするけど」 「もったいない……。僕が持ってるのよりも良いやつですよ、これ」 「持って帰る?」 「大切に使って下さいよ」 廊下と一体化しているミニキッチンの前に立つ彼を、部屋の入口で立って眺める。 ビニール袋に入れられた無洗米を炊飯釜の中に入れ、持って来たらしい計量カップで水量を調整する。 如何にも慣れてる人間の手つき。 こんなことでさえ、ずっと他人任せにして来た自分が、少し情けなくなる。 いろいろなものが詰め込まれたカバンの中から、後輩は奇妙な容器を取り出す。 超極彩色のカラーリング、しかも柔らかい素材で出来ているらしい。 形は、まるで湯たんぽのようだ。 「何?それ」 「これ、レンジで蒸し料理とか出来る容器なんですよ」 「へぇ……」 「野菜切ってぶち込んで、レンジで加熱すれば良いだけなんで、結構重宝してます」 簡単そうだ、とは思うものの、口には出さなかった。 その思惑を察したのか、彼は少し意地悪い笑みを見せながら、容器に野菜を放り込んでいく。 茄子、キャベツ、オクラ、エノキ、サツマイモ、その上に薄切りの豚バラ肉。 パンパンに詰め込まれた容器は、些か破裂の危険性を感じさせる。 「そんなに入れて……大丈夫?」 「多分、平気じゃないですかね」 殆ど使うことが無かったIHヒーターに、小さな鍋がかけられている。 沸騰した湯に顆粒のダシを入れ、赤味噌を少しずつ混ぜていく。 「どうなんだろ……」 幾分困惑した表情を浮かべながら、彼は味見を繰り返していた。 「ちょっと、味見て貰って良いですか?」 「ん?」 「あんまり馴染みが無くて、これで良いかどうかが分からないんですよね」 彼から手渡されたスプーンを口に運ぶ。 「少し、薄いような」 「これくらい?」 「もうちょっとかな」 同じ行為を何度か繰り返す内に、何となく懐かしい味に近づいていく。 こんなもんかな、そんな俺の声に、すぐ隣の後輩は笑いながら言った。 「これが、杉浦さんの味なんですね。覚えときます」 -- 6 -- 生活感が無い部屋だ。 きっと、誰が見ても言うだろう、この空間。 物が溢れた生活に、辟易していたのかも知れない。 結婚していた頃のものは殆ど処分してしまった。 残ったものも、実家に全部置いてきた。 転勤を期に、人生を一度リセットしたいとも思っていたけれど いろんなものが抜け落ちてしまった日常は、初期化されたまま、前に動く気配が無い。 飯が炊けるまでの時間。 PCデスクの椅子に座り、ペットボトルのお茶を口に含む後輩に、ふと聞いてみた。 「神谷さんの家に、飯作りに行ってるんだって?」 「え?本人から、聞いたんですか?」 「そう。新美君を取られたって、恨み節聞かされたよ」 「はは……冗談でも、嬉しいですね」 静かに笑う彼が、視線を床に落とす。 「新美君、神谷さんのこと……」 どう思ってるの、そう言いかけた瞬間、若干強いトーンで彼は即答した。 「そう言うんじゃ、ないんです。僕は……」 気の利かない炊飯器が、任務完了のアラームを鳴らす。 助かったとばかりに腰を上げた彼は、表情を整えて、軽く微笑んだ。 魚の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。 キッチンに立つ彼の後姿に、昔の光景が重なる。 手を伸ばしても、取り戻せない日常。 隙間を埋めたい気持ちが、急激に強くなる。 現実に溜め息をついた時、矢庭に声をかけられた。 「杉浦さん」 「……ん?」 「僕は、神谷さんに恋愛感情は無いんです。ホントに」 「うん……分かった」 「あの人には、いろいろとお世話になってるから。その恩返しがしたいだけなんです」 与えて、与えられる、相互扶助の関係。 上司と後輩の間にあるその繋がりが、無性に羨ましくなる。 「俺は、君に、何かしてあげてる?」 「普段から、いろいろ助けられてるじゃないですか」 「神谷さんより?」 不意に口をついて出た名前に、自分で驚く。 彼女と張り合ったって仕方ないし、何より張り合う必要も無いのに。 コンロのスイッチを切り、焼けた鯖の切り身を皿によそう彼は、こちらを振り返る事無く言った。 「……そうかも知れません、いろんな意味で」 今までコンビニの弁当くらいしか載ることの無かったガラステーブルに 実に様々なものが並べられていて、その狭さを改めて実感させられる。 シンプルなメニューだけれども、バランスが取られた昼飯は、あまりに自然な味で 腹が満たされるのと同時に、欠けた気分に何かが嵌ったようだった。 「この部屋で、こんな日が、来るとはね」 思わず上げた驚きと感心の言葉に、向かいに座る後輩が嬉しそうな笑顔を見せる。 「やろうと思えば、出来るんですよ?小さな台所でも」 「もっと、凝った物も出来る?」 「出来ますけど……初めから力入れて作っても、口に合わなかったらしょうがないんで」 「なら、次に作って貰いたいもの、考えておこうかな」 そう呟いてサツマイモを口に放り込んだ俺に、彼は些か不思議そうな目を向けた。 「また、作りに来てよ。必要なものは、用意しておくから」 一瞬、唖然としたような表情を浮かべ、すぐにその目が細くなる。 「もちろん、良いですよ」 「その代わり、何か俺がすること、ある?」 「食器洗って貰うとか?」 「それだけ?」 残り少なくなった赤だしを口に運び、彼は言った。 「じゃあ、杉浦さんの味を、もっと、僕に教えて下さい」 仕事だけだった毎日が、少しずつ変わっていく。 生きることに、前向きになったのかも知れない。 見違えるほど物が溢れた台所。 後輩が置いて行った極彩色の容器に野菜を放り込むことくらいは、出来るようになった。 俺にしてみれば、相当な進歩だ。 「風、って何だよ。風って」 「誰かみたく、こんなの味噌カツじゃないって言う人がいるから、敢えて風ってつけたんですよ」 「それは、俺のこと?」 今晩の社員食堂のメニューは、味噌カツ風トンカツ。 確かに、甘めの味噌ダレはかかっているけれど、何かが違う。 「今週のメニューは決まったね」 「味見は任せましたよ?」 違和感の残る故郷の味を噛み締めながら、ふと思う。 彼が知りたいといった俺の味は、きっとその内、二人の味に変わる。 それは、何か、凄い結びつきになるんじゃないだろうか。 「……あのさ」 「何ですか?」 「俺、ずっと新美君の飯でも、良いかも知れない」 キョトンとした後輩の顔が、満面の笑みに変わる。 「何か、それってプロポーズの言葉みたいですね」 自分の言葉で混乱した頭を、彼の笑い声が我に返してくれる。 「ごめん、そう言うつもりじゃ……」 「別に、僕は構いませんよ。いつまでも、お付き合いします」 いつか人生を振り返った時、こんな時間を過ごしたことをどう思うんだろう。 その時、隣にいるのは、もしかしたら彼かも知れない。 進み出した日常に不可解なものを感じながら、それでも良いかと思う気持ちもある。 「味、見て貰えます?」 「……もうちょっと、甘い方が良いな」 調味料を加えながら俺たちの味を作っていく後輩を見ながら、そんなことを考えていた。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.