いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 無上 --- -- 1 -- 「指輪、外さなくて良いよ」 俺が毎回こぼす言葉に、彼女は必ず怪訝な笑みを返す。 一番にはなれない。 そんなことは、分かっている。 彼女と出会ったのは、もう10年以上も前の大学時代。 友達の彼女の友達と言うよくある関係から、付き合うようになるまで、それほど時間はかからなかった。 淡い恋を終えたばかりだったからだろうか。 初めてのセックスの快感も、それに火を点けた。 癒しを求めるように、彼女との日々に全てを捧げるようになっていく。 そんなだらついた恋愛関係は、俺が大学を卒業し、地元を離れて上京すると共に終わる。 数ヶ月は連絡も取っていたものの、やがて燻りは完全に消え去った。 彼女の他にも、何人かの女と付き合ってきたことはあったけれど いつも、波に乗ってきたくらいで熱が急激に冷めてしまう。 懐かしくて愛しい、あの微笑みが、心の何処かに引っかかっているのかも知れない。 「駿、くん?」 思いも寄らない再会だった。 プライベートでは決して立ち寄らないであろう駅に、仕事の打合せで赴いた時。 駅前の喫煙所で一服していた俺の前を通り過ぎようとする、日傘を差した女性に声をかけられた。 膝丈のワンピースに大き目のストールを羽織った彼女は、学生の頃の趣を殆ど捨て去り 左手に光る指輪が、その隔絶感をより大きくさせる。 「美沙?」 「うわぁ……信じられない。こんな所で会うなんて」 「そっちこそ……いつ、こっちに来たんだ?」 「半年前、旦那の転勤でね」 「……そう」 一瞬うろたえた俺の言葉に、彼女は僅かに目を細め、気が付かない振りをする。 「折角だから、今度、ご飯でも食べに行こうよ」 「え?」 新しいモデルのスマートフォンをバッグから取り出すと、俺のも出せとばかりにこちらを向けた。 「なかなか新しい友達も出来ないし、寂しいのよね」 「でも」 「良いじゃない。飲み友達として、やり直そ?」 元カノとの再会は、消え去ったはずの感情を蘇らせた。 決して実ることの無い、奥底で悶えるだけの気持ち。 それでも、仕事に追い立てられる毎日の中で、唯一心が癒される感覚に見舞われる。 彼女は、他の男の妻。 俺のものにはならない。 その卑屈な思いが、彼女との一時に執着させているのだろうか。 彼女と顔を合わせる頻度が高くなっていくにつれ 小さなダイヤモンドが装飾されたプラチナのリングは、徐々に防波堤の役割を果たさなくなっていった。 「来週の金曜日、何か予定ある?」 真夜中近くに来た、彼女からの電話。 「別に、無いけど」 「なら……」 ふと、カレンダーに目をやり、思わず言葉を遮った。 「いや、まずいだろ?」 「どうして?」 「それは……旦那と一緒に過ごさなきゃ」 「良いの。彼、来週は土曜日まで出張だから」 彼女の夫は、誰もが知っているような大企業に勤めている。 初めて聞いた時には、つまらない劣等感に駆られたけれど それ故に、多忙な日々が続き、顔を合わせることも少ないという愚痴もよく聞かされていた。 「一人じゃ、寂しいよ」 「……分かった」 暗かった声に、ふと明るさが戻る。 「ありがと。楽しい夜にしようね」 待ち合わせ場所に現れた彼女は、いつもよりも少し大人びた雰囲気を漂わせていた。 「ごめん、待たせちゃった?」 「いや、大丈夫だよ」 彼女は不意に俺の襟元に手を差し入れ、形を整える。 「駿は、相変わらずファッションに無頓着だよね」 「ワイシャツなんて、そんなこだわるもんでもないだろ?」 「シャツ一枚の今の時期だからこそ、ちゃんとしなきゃ」 「そんなもんかな」 フッと笑った彼女は、何かを言いかけて言葉を止めた。 紙袋を提げた俺の腕に、彼女の腕の体温が絡む。 「今日のお店ね、一度行ってみたかったんだ」 きっと、傍から見れば俺たちは普通のカップル。 引っ張られるように歩きながら、視界に映る彼女の姿が、堪らなく切なかった。 こんな店、彼女以外と来ることはまず無いだろう。 ウェイティングラウンジの窓から見える東京の夜景が、そう実感させる。 「そうだ、先に、これ」 俺が差し出した包みに、固めの革のソファに座った彼女は、嬉しそうな笑みを浮かべた。 「私が紅茶好きなの、覚えててくれたんだ?」 「誕生日なのに、大したものじゃなくて、ごめん」 「ううん。このブランド、大好きだから。ありがとう」 吸い込まれるように、手を握り合う。 彼女の瞳には、俺だけが映っている。 有り得ない喜びに、一人打ち震えた。 -- 2 -- 恋愛は、男女間に成立するもの。 誰もがそう思ってる。 俺も、そうだった。 けれど、きっと、あれは恋だったんだと思う。 好きになった人間が、たまたま男だった。 そんな言い訳が現実に存在するなんて、思いも寄らなかった。 地元の工業大学に入学した俺は、典型的なインドア人間だった。 女と付き合うことも無いまま、男ばかりの大学生活。 高校までとは違う、自由気ままな日常を、何となくやり過ごしていた。 「新旧いろんなハードが揃ってるよ?どう?」 さほど興味は無かったけれど、勧誘文句に釣られて入ったサークル。 電脳技術研究会と名前を冠した、何をしているのかよく分からないその集まりは 一応、パソコンの改造や自作などの技術を研鑽する目的で作られたそうなのだが その実、部室に並べられた幾多のゲーム機で遊ぶという、無料ゲーセン状態になっていた。 趣味らしい趣味といえば、ゲームをすることくらいだった俺には、まさにもってこいの場所。 授業の合間に立ち寄っては、暇を潰すことが多かった。 夏休みも近づいてくると、大学生活も本番と言った風情を見せてくる。 建築学科に在籍しているにも拘らず、どうしても苦手な製図の授業。 せっかちなせいか、腰を据えてじっくり線を引くことが出来ない。 その性格を見透かされているのだろう、教授の指導は殊更厳しかった。 「こんなの、図面って言えないだろ?」 自分で見ても酷い出来映えのパースを見ながら、渋い顔で言い放つ。 「その建物がどんなものなのか、見も知らない人に伝える為に画くって意識が必要なんだよ」 「はい……」 「下手と雑とは違う。君の図面は、雑なんだ。時間がかかっても良いから、丁寧に画く事を心がけて」 「……分かりました」 結局、前期の製図の単位は保留となり、その場で夏休み中の補講が決定する。 何となく進んでしまった、建築の道。 将来が見えていなかった俺は、気概よりも面倒くささが先に立ち、かなり憂鬱な気分になっていた。 「製図かぁ。オレも、機械製図ならやったな」 冴えない気分で訪れた部室には、数人の部員。 その中で声をかけてきたのは、4年生の平さんだった。 後輩にも気さくに話しかけてくれる彼は、先輩方の中でも接しやすい方で サークルに入ったばかりの時分から、何かと相談に乗って貰うことも多かった。 珍しいと言っては語弊があるが、彼はゲームよりもパソコンの自作や改造が好みのようで 一応、部の主旨に則った活動をしている数少ない部員だ。 「電気科でも、やるんですか」 「半期だけだから、ホンの触りって感じだけど」 「俺は……どうしても苦手で」 「早く終わらせたいって、思い過ぎてるんじゃね?」 「そうかも知れません、けど」 「時間なんて、幾らでもあるんだし。意識して、ゆっくり画いてみたらいいじゃん」 そう言って微笑むと、彼はゲームに興じる後輩たちに視線を向ける。 「嫌んなったら、ここで気晴らしすりゃ、良いんだし」 ガランとした明るい製図室には、数人の学生。 同じ憂き目にあった同志たちと、黙々とドラフターに向かう。 CADで画かれた建物のパースを書き写すと言う課題。 教授と先輩に言われたことを心がけながら、ゆっくり丁寧に線を引く。 平さんから受けたもう一つのアドバイスは、線を消す時は字消し板を使うと言うこと。 あまり使ったことが無かったものの、その効果は抜群で 消しゴムの跡が汚らしく残ることも無く、スッキリした図面が出来上がっていく。 単純な性格なんだと、自分でも思う。 夜も更けて来た頃に紙上に現れて来た建物は、休み前に酷評を受けた物とは随分変わって見えた。 こうなると、苦手意識も少しずつ和らいでくる。 製図室から見える風景に、電気が点いた部室棟が映る。 今日は家に帰れそうも無いし、明日も朝から製図の補講。 目処がついたら部室で仮眠だな、そう思いながら、ペンを手に取った。 日付も変わった夜更け。 建築学科が入る校舎から部室棟へ行くには、駐輪場を大きく迂回する必要がある。 人気の無くなった道は何となく不気味で、行く先にある部室の灯りが嬉しかった。 「お疲れ。こんな時間まで、製図?」 珍しくパソコンに向かっていない平さんは、机の上に何冊もの本を積み上げている。 「平さんも、まだ残ってるんですか?」 「オレ、明後日院試なんだよ」 「そう言えば、そんな話してましたね」 「明日の午後には飛行機に乗んなきゃなんないから、今夜が最後の詰め込み」 「飛行機?」 彼が大学院に進学すると言う話は前から聞いていたけれど 当然のように、ウチの大学の院に進むものと思っていた。 「院は、北海道の大学に行こうと思っててさ」 「そう、なんですか」 不意に、得も言われぬ寂しさに襲われる。 曇った俺の表情に、彼は若干困ったような顔をしながら首を傾げた。 「ここを離れるのは、名残惜しいけどね」 朝になったら起こしてやるよ。 そんな彼の言葉に甘えて、部室の片隅に横になる。 頭の上には化石と化したPC-6001、足元には現役で動いているのが信じられないセガマークIII。 何とか確保したスペースにも拘らず、一日中製図に精根を使い果たしたからなのか 俺はあっという間に、眠りに落ちた。 -- 3 -- 「江藤、起きろ、朝だぞ」 虚ろな視界に、朝日を背負った先輩の姿が映る。 「あ……はい」 身体を起こすと、すっかり片付けられた机が目に入った。 「もう、行くんですか?」 「ああ、一回帰って荷物まとめないとなんないし」 疲れた顔でそう笑う彼を見て、夜中の感情がぶり返す。 「……頑張って、下さい」 それは、本心じゃ無かったと思う。 つまらない感情が彼に伝わらなかったのが、せめてもの救いだった。 「ありがと。何とか、やってくるよ」 「あの……」 「ん?」 言葉に詰まる俺に、彼は俄かに訝しげな視線を向ける。 「何だよ?」 「いえ、あの……気をつけて」 「江藤も、製図しっかりやれよ」 9月に入り、やっと無事に製図の単位が取得できた日、偶然にも、平さんの吉報が舞い込んできた。 「来年の春からは、北海道民か」 夏休みだと言うのに部室に集う先輩たちが、そう笑う。 「でも、オレ、寒いのあんまり得意じゃねぇし」 「贅沢言うなよ。研究やりたくて行くんだろ?」 「そうだけど」 同級生とゲームをしながら、何処と無く居た堪れない気分でやり取りを聞いていた俺は その後呟いた彼の一言に、少し救われたような気分になった。 「いざとなると、やっぱ、寂しい気がすんなぁ」 部室で行われた祝賀会は、真夜中まで続いた。 一人、また一人と睡魔に襲われ床に伏す中、最後まで残っていたのは 酒が飲めない1・2年生組と、酒に飲まれることの無い数人の諸先輩方だけだった。 「平ぁ、酒買って来いよ」 「お前、オレ、一応主役じゃないの?」 「もう、歩けねぇ」 「じゃ、もう飲むなよ」 グダグダになった先輩が意味不明な言葉を発する中、彼は一つ溜め息をついて立ち上がる。 「で、何が良いんだ?ビールで良いのか?」 「ワインとウィスキーも頼むわ」 「明日の朝、絶対後悔するぞ?」 意地の悪い視線を同級生に向けた後、平さんはウーロン茶を飲んでいた俺に声をかけた。 「悪いけど、荷物持ち、付き合ってくんない?」 熱帯夜の空気が、全身を包む。 申し訳程度に吹く風が、更に気だるさを助長するようだった。 大学の裏手にあるコンビニで何本かの酒を買い込み、坂を登る。 「そういや、製図の単位は取れたって?」 酒で一杯になったコンビニ袋を提げて隣を歩く先輩は、そう聞いてきた。 「ええ。平さんのアドバイスのお陰です」 「あんなことで単位が取れるなら、安いもんだな」 そう笑う姿を見ながら、つい、言葉が口を衝く。 「もっと、いろいろ……教えて貰いたかったです」 その一言に歩みを止めた彼は、俺の方へ向き直り、少し寂しげな表情を浮かべた。 「また、その顔」 「え?」 俺は、どんな顔をしていたんだろう。 彼は持っていた袋を地面に置くと、その腕を俺の頭に回し、自らの身体に引き寄せた。 「頼むから、そんな顔、すんなよ」 遠くから聞こえて来る騒々しい笑い声に、けたたましい虫の音が重なり、耳の中を通って行く。 少し汗ばんだ腕の感触が首に纏わりつき、微妙に鼓動が早くなった。 「何か、悪いことしてるみたいな気分になるだろ」 「すみません……そんな、つもりじゃ」 すぐ目の前にある頭に、自分の顔をそっと摺り寄せる。 その気配を感じたのか、彼は優しく俺の頭を撫でてくれた。 「まだまだ、一緒に、いたかった」 「後、半年あるじゃん」 「でも……」 「いつか必ず、別れは来るんだから。その代わり、きっと良い出会いも巡ってくるさ」 「……はい」 「卒業までは、出来るだけ部室に顔出すようにするよ」 肩口に顔を埋め、その温もりを求める。 より深く抱き締めてくれた彼の熱は、夏の夜の暑さとは違い、とても心地良かった。 「もう、朝だぞ?」 春休みの課題として出された模型作りで学校に泊り込んでいた3月のある日。 相変わらずゲーム機に囲まれた状態で仮眠を取っていた俺を起こしたのは、平さんだった。 「あ……そか、今日」 大きな荷物を抱えた彼は、寝ぼけ眼の俺に優しい眼差しを向ける。 「課題で大変だから、見送りは良いって言ったけど。やっぱ、会っときたくてさ」 卒業式も終え、部の追い出しコンパも先週済ませた。 平さんだけではなく、他の4年生の先輩方も、各々新天地へ旅立って行っている。 一昨日会った時が最後だと落ち込んでいた俺の前に、再び現れた彼の姿が、微かに滲む。 「情けない顔すんじゃねぇよ」 しゃがみ込んだ彼の指が、俺の頬を撫でる。 「笑って送り出してくれって、頼んだだろ?」 「……はい」 無理矢理作った引きつった笑い顔を見て、彼はいつもの笑顔を見せた。 「江藤」 その指が俺の顎を僅かに上向ける。 見上げる先に、彼の真っ直ぐな瞳があった。 伏し目がちな顔が近づいてきて、ほんの一瞬、彼の唇が俺の唇に触れる。 最初で最後の、震える乾いた感触が、胸の奥まで沁みるようだった。 「元気でな」 大好きな微笑みが、離れていく。 嬉しさが、途方も無い寂しさに掻き消される。 「平さんも、お元気で」 -- 4 -- 「今日は35℃まで上がるそうですよ?」 電車の中から恨めしそうに外を眺める後輩の片桐が、そう呟く。 「だからって、日程ずらす訳には行かないんだよ」 「まぁ……雨降るよりは良いですけど」 これから向かうのは、建て替えを予定している老人ホームの現地調査。 古い現況図しか無い上、何回も改築を繰り返されてブラックボックスになってしまった設備関係を 半日かけて明らかにするのが、今日の目的だ。 「外構が主なんですよねぇ」 「そりゃ、既存の建物は壊すからな」 あからさまに不満を顔に出す後輩の尻を、カバンで叩く。 「ほら、次の駅だぞ」 駅から歩くこと15分。 噴き出す汗が背中をじっとり濡らす頃、やっと目的地に辿り着く。 「暑い中、ご苦労様です」 そう言って出迎えてくれたのは、施設の理事長。 以前会った時と変わらず、気さくな雰囲気で麦茶を出してくれた。 「こちらこそ、お忙しい時に申し訳ありません」 既に仮住まいへ引っ越しが始まっている施設には、殆ど人気が無い。 中では、職員と思しき若者が荷物の整理をしているのが見えた。 「日差しも厳しいですから、休み休み、作業されて下さいね」 「ありがとうございます」 台帳を見ながら公設桝を探し、そこから排水桝を辿っていく。 大きさと深さを測りながら、図面にプロットする。 「結構、深いなぁ」 「地中梁を避けて配管出してるんだろ」 「これなら、再利用するのも楽ですね」 「水周りの位置は、そんなに変わらないしな」 改築部分の平面図を眺めながら、排水ルートをざっくり考えていると 不意に流れた汗が図面に落ち、書いた文字が滲んだ。 僅かに西に傾き始めた太陽が、首の後ろを焦がすように照り付ける。 一息ついて、顔を上げた。 「よし、次は雨水桝か」 暑さに思考が溶かされていく。 「この桝……ですかね?」 片桐の声が、妙に遠く聞こえる。 「何……?」 瞬きをしても、視界の霞みが取れない。 「……さん?!」 身体の力が抜け、視界が地面に覆われる。 ひんやりとした土の感覚が、薄れていく意識の中で、怖いほど気持ち良かった。 あの後、俺は美沙と一晩を共にした。 久しぶりの彼女の身体の感触は、身も心も溶かしてくれた。 互いの欲望を満たすかのように、幾度と無く身体を重ねる。 いつの間にか眠りに落ちたのは、多分朝が近くなってからだったと思う。 出張から戻る夫を出迎える為、彼女はホテルから品川駅へ向かった。 罪悪感と裏返しに、心の底に広がる暗い満足感。 幸せになれない道なのに、立ち止まることが出来ない愚かな自分。 後頭部を包む、冷たいゴムの感触。 目の奥がズキズキと痛み、ガラガラと言うくぐもった音が虚ろな頭に響く。 すっかり夕暮れ時のものになっている風景を見て、我に返った。 寝かされていたソファから身を起こすと、少し離れた場所に座っていた片桐がこちらを窺う。 「大丈夫ですか?」 「ああ……もう、平気」 心配そうな表情で近づいて来た片桐の手が、俺の首筋を撫でる。 「大分、熱は下がったみたいですね」 安堵を覗かせる後輩の後ろに、部屋に入ってくる理事長の姿が見えた。 「気がつかれましたか」 「ご迷惑をおかけして……すみません」 「大事に至らなくて、何よりですよ」 軽い熱中症だったらしい。 倒れてすぐ、身体を冷やして貰ったのが功を奏したのか、何とか事なきを得た。 俺が寝ている間、やるべき調査は片桐が一人で済ませたと言う。 「あんまり、無理しないで下さい」 「ホントに、申し訳ない」 若干だるさの残る身体を引き摺るように歩く俺に、後輩は疲れた笑顔を見せる。 まだ頼りない若者と見ていた彼の姿が、少し変わったように感じられた。 「そう言えば、何回か電話が来てたみたいですよ?」 行く手に駅が見えてくる頃、片桐が思い出したように言った。 携帯を確認すると、会社から1回と、美沙の携帯からが2回。 「彼女ですか?」 喫煙所を前に、煙草を咥えた片桐が興味深そうな表情で聞いてくる。 「いや、別に……そんなんじゃないけど」 「江藤さん、最近ちょっと変わりましたもんね」 「何が?」 「雰囲気とか、格好とか」 「そうか?」 火をつけられた煙草から、薄い煙が立ち昇る。 煙草の先を見つめるように、後輩は一瞬目を伏せ、俺を見た。 「案外分かりやすいですよ、江藤さん。そう言うところ」 -- 5 -- お姫様は、最愛の王子様と結ばれ、末永く幸せに暮らしましたとさ。 それが全ての恋の終着地点だとするならば 俺が抱いているこの想いも、不意に思い返される淡い感触も 求めれば求めるほど、フィナーレからは遠のいていくのだろう。 結ばれないからこそ、燃え上がる。 何て、破滅的な感情だ。 今にも泣き出しそうな空にそびえる高層ビル。 背後に走る首都高速。 幾分恥ずかしさを感じながら、人で賑わう六本木の交差点で目的地を探す。 「……で、メトロの入口は何処だ?」 「えっと……あれがヒルズですよね。だから……」 「お前、何年都民やってるんだよ?」 そうぼやく俺の隣で、片桐が地図の映った携帯をくるくると回す。 恐らく、こいつは地図を見るのが苦手なんだろう。 「25年ですけど……でも、生まれも育ちも現住所も江東区なんで」 「そんなの言い訳になんねぇよ」 「なりますよ。買い物は銀座で十分ですから」 「砂町銀座の間違いだろ?」 不満げな視線が刺さると同時に、俺の携帯に着信が入る。 後輩から少し離れ、電話に出ると、その声は何処か愉快そうなものだった。 「道に迷っちゃったの?」 打合せがあったのは、広尾と六本木の丁度中間辺り。 来る時は広尾から向かったが、帰りは六本木にしてみようと思い立ったまでは良かった。 「素直に、来た時と同じ道にすれば良かったのに」 「江藤さんが、折角だから六本木から帰ろうって言うから」 「言い出したのはお前だろ?」 不毛な言い争いを、美沙はテーブルの向こうから楽しそうに眺めている。 買い物に訪れていたと言う彼女は、道の片隅で右往左往している俺たちを偶然見かけたと言う。 夕食時ということもあり、誘われるがまま、一軒の店に入ることとなった。 「邪魔になるのも嫌なんで、オレは早々に帰りますよ?」 グラスに注がれた白ワインを口に運びながら、彼は無粋な一言を放つ。 「別に邪魔じゃないわよ?ね?」 後輩に視線を送りながら、彼女は俺に同意を求める。 居心地の悪い空気に包まれているのを感じながら、俺は何となく相槌を打った。 後輩の注目が、彼女の左手にあることは間違いなかった。 どんな関係なのか、互いに自己紹介をした後にも、彼はそれを聞くことをしなかった。 俺の口から話される事を待っているのか、小さな葛藤が、彼女の一言で吹き飛ばされる。 「駿、この後って何か用事ある?」 「いや……特に、無いよ」 「なら、ちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど」 居た堪れなさが増していく。 彼女は、俺の立場を、気持ちを、分かっていながら、試しているんだろうか。 「ご主人は、帰り、遅いんですか」 突然割って入った、明らかに面白く無さそうなトーンの質問が、彼女の表情を変化させる。 それは、怒りや驚きではなく、挑戦的な女の顔。 「今日は出張で、帰って来ないの」 「江藤さんは、その穴埋め?」 「随分、失礼な言い方するのね」 「単純な疑問ですよ」 彼女の手が、片桐の襟を掴む。 急激に縮まる二人の距離。 程なく重なる唇。 その光景に唖然とする俺を尻目に、彼女は言った。 「じゃあ、今夜は君が穴埋めしてくれる?」 僅かな距離で彼女の顔を凝視する後輩は、一瞬眉間に皺を寄せ、答える。 「オレ、女性には興味ないんで」 「童貞じゃあるまいし、その歳でその発言は、恥ずかしいわよ?」 微かな溜め息が、彼女の睫毛を揺らす。 「……女じゃ勃たないって、言ってるんですよ」 離れた二人の間には、得も言われない空気が流れている。 怪訝な表情をしたまま、彼女は声を失っていた。 「その顔」 後輩が、如何にも不機嫌な口調で呟く。 「性には奔放なくせに、同性愛なんて信じられないって顔するんですね」 彼の手が、彼女の手を払い除ける。 寂しげな笑みを俺に向け、彼は席を立った。 「どうぞ、楽しい夜を」 一人分のグラスが残されたテーブルには、しばらく無言の時が流れる。 「初めて会った。同性愛者って」 寒い訳でも無いのに、二の腕辺りを擦りながら彼女は言った。 「知ってたの?」 「……いや、知らなかった」 「凄い、普通に見えるのに……何だろ、この感覚」 表情を強張らせたまま、嫌悪感を漂わせた目が俺を見る。 「おかしいよ。男が男を好きになって……なんて」 その言葉に、俺は何の反応も出来なかった。 彼女の視線に、後輩と、大切な思い出を否定されているようで、堪らなくなってくる。 携帯のバイブ音が低く響く。 ディスプレイには片桐の名前。 しばらく着信した後、留守電に切り替わる。 短いメッセージを残したらしい間を置いて、電話は切れた。 「誰?」 「……ごめん、会社からだ」 「こんな時間に?」 「ちょっと急ぎの案件があって」 「戻るの?」 「また、次の機会に」 テーブルの脇に置かれた伝票を手に、席を立つ。 寂しげな表情を浮かべる彼女の頬にそっとキスをして、その場を後にした。 -- 6 -- 『さっきは、すみませんでした』 地下鉄の駅のホームで、留守電に残されたメッセージを聞く。 くぐもった声が、彼の心情を映すようだった。 『でも、あんな恋愛をしている江藤さんを見るのが、辛かった』 深い溜め息が、スピーカーから漏れてくる。 『貴方には、誰かの、一番でいて欲しいんです。そうじゃなきゃ……』 何かを言いかけたのか、しばらくの沈黙の後、メッセージは切れた。 伝言を消去することも出来ないまま、ホームのベンチで行きかう人々を眺める。 躊躇無く後輩とキスをした彼女の姿。 切なげな視線を投げて去って行った後輩の姿。 嫉妬と憂慮と、虚しさが入り乱れる。 何処かに落ち着きたい。 俺だって、誰かの一番に、なりたい。 繋がらなかった携帯からのコールバックは、思ったよりも早く来た。 「良いんですか?電話なんかしてて」 突っかかるような言い振りの、感傷的な声。 「お前、今、何処にいんの?」 その問に、彼は少しの間を持って答を出す。 「今晩、一緒に過ごしてくれる男を、探してます」 「何処にいるかっつってんだよ」 俄かに沸き起こった得体の知れない感情が、口調を荒くさせた。 「……どうしてですか」 「そこで会った男が、お前の一番なのか?」 質問に答える事無く、彼は大きく息を吐く。 「俺は、何処に行けば良い」 「今、新宿、です」 「そっち、雨降ってんの?」 「いえ、まだ……」 「20分で行くから。南口の喫煙所で、煙草でも吸ってろ」 俺の姿を認めた片桐は、持っていた煙草を灰皿に放り込む。 軽く頭を下げ、複雑な顔で俺の言葉を待っていた。 「続きが聞きたい」 「え?」 「何て言おうとしたんだ?留守電で」 視線を逸らし口をつぐんだ彼は、俺に背を向ける。 「もう一本、良いですか?」 指先が軽く震えている。 上手く火が点かないライターを取り上げ、先端を炙る。 後輩は、自らを落ち着かせるように深く煙を吸い込み、吐き出す。 流れていく煙が、雑踏のネオンに溶けた。 「そうじゃなきゃ、諦め切れないって、言おうと思ったんです」 「何を?」 「……江藤さんを」 周りの音にかき消されそうな程の声、その中に聞こえた名前に、鼓動が早くなった。 俺と目を合わせること無く、俯いたままの後輩は、絞り出すような声で会話を終わらせようとする。 「戻って下さい、彼女のところに」 気持ちを落ち着かせるよう、煙草に火を点けた。 拳を握り締め、細かな震えを抑える。 「……俺、か」 長い沈黙の後の一言に、燃え尽き、フィルターだけになった煙草を持ったまま、片桐は言葉を失う。 軽く頭を左右に振りながら唇を噛む後輩の姿に、やり切れなさが滲む。 「そんな顔、するなよ」 遠い夏、彼が言った、同じ言葉。 彼は、俺の我が侭を、どうやって受け止めようとしてくれていたのだろう。 「……でも、一番になれないことなんて、分かりきってるんです」 力なく放り投げた煙草が、的を外し灰皿の下に落ちる。 拾い上げようと差し出した手が、後輩の手と軽くぶつかった。 「一人で結論出して、すっきりしてんのか?」 すんでの差で彼より早く手にした吸殻を、自分の煙草と共に灰皿に捨てる。 相変わらず俯いたままの後輩は、何も言わなかった。 鼻の頭に、水滴が当たる。 小さな黒い染みが、足元のインターロッキングブロックに拡がっていく。 多彩な色の傘が、そこかしこで開かれて、急に視界が狭められた。 何かを待ち侘びるように、片桐は虚ろな目で空を見上げる。 頬に当たった雨粒が、歪な曲線を描きながら首元へ流れ、まるで涙を流しているように見えた。 「お前、新宿、よく来んの?」 何でもない問に、やっと彼の顔が俺の方を向く。 「そんなには……」 「こういう時、くらい?」 「……そうですね」 「じゃ、もう来る必要ねぇな」 「え?」 「買い物は、銀座で満足しておけよ」 彼の襟元を掴み、引き寄せる。 躊躇いは、無かった。 その唇に自分の唇を重ね、直後、そのまま身体を押し返す。 側に立っていたサラリーマンの表情は、驚きを示したまま、固まっていた。 呆然とする後輩の尻をカバンで叩き、駅の方へ促す。 「帰るぞ」 強烈な日差しが差し込む電車の中。 「今日は倒れないようにして下さいよ?」 眩しそうに外を見る片桐が、そう言った。 「分かってる。気をつけるよ」 「一人で測って、記録して、写真撮ってって、結構大変なんですから」 さほど大変そうな顔もせず、彼は笑う。 美沙と会ったのは、あの夜が最後だった。 誘いをはぐらかし、1ヶ月も経った頃、夫の転勤で海外へ行くとのメールが届く。 身体に気をつけて、そんな短いメールへの返信は、無かった。 「お前、今度、十条に引っ越せよ」 「江藤さんの家の、近くですか?」 「南砂町よりは会社に近いだろ」 「……銀座が遠くなるじゃないですか」 「家の近くにもあるぞ?十条銀座」 「しょーもな……」 苦笑しながら、彼は一瞬車窓に目を移し、俺の方へ向き直る。 「ま、考えておきます」 陽に照らされた微笑みにもたらされる、晴れやかな充足感。 感情に順位をつけるなんて、野暮なことかも知れない。 それでも、やっぱり、俺は誰かの一番の存在でありたい。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.