いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 邂逅 --- -- 1 -- 「お電話ありがとうございます。空調機担当、安斎でございます」 「すみません、ちょっと床置ファンコイルについて聞きたいことがあるんですけど」 「どういった内容になりますでしょうか」 「オプションで電気ヒーターを付けたいんですが」 「機器の型番は、お分かりになりますか」 「えっと……」 都心から電車で30分、ほぼ神奈川との境に建てられた工場の一角。 膨大な技術資料が収められた棚を背に、20人程度の社員がディスプレイに向かっている。 空調機メーカーの技術サポートとして、あらゆる問い合わせに応じる毎日。 ここに勤め始めて、もう5年。 とは言え、新製品に加え、過去何十年にも渡り開発されてきた機器の数々が並ぶ。 全てが頭に入るはずも無く、データ化された資料とにらめっこの日々が続いている。 「では、お調べ致しますので、折り返しのご連絡先をお伺いしても宜しいでしょうか」 客の電話番号を問い合わせシートに入力していく。 その時、画面に着電を知らせるサインが飛び込んで来た。 急いで電話を終わらせると同時に、向かいの席の先輩が声をかけてくる。 「安斎君指名でかかってきたから。対応してくれる?」 「分かりました」 多い時には1日50件を超える問い合わせを受け持つ。 画面に表示されている電話番号は、市外局番092、九州の辺りだ。 過去の履歴に、その番号は無い。 「お電話替わりました。安斎です」 「有吉設備設計の浜中と申します。御社の空冷チラーについてお伺いしたいのですが」 電話が遠いのか、声が小さい。 けれど、その声を聞いて、俄かに鼓動が早くなる。 ずっと探していた、声。 *********************************** 彼と初めて顔を合わせたのは、今年の年明け。 高効率の空冷熱源機を前面に押し出したラインナップをプレス発表し、問い合わせが急増した時期。 緊急募集したサポート補助の契約社員としてやってきた3人の中の一人が、彼だった。 客との対応よりも、資料を検索し、必要であれば工場への問い合わせも行うのが彼らの仕事。 年齢層の高い技術サポートの中で、珍しく俺と同年代の彼。 休憩時間や帰宅する時など、一緒に話すことも徐々に増えて行った。 「浜中君って、前は何の仕事してたの?」 「設備設計の事務所にいました」 「ああ、だから、設備に詳しいんだね」 事実、同時期に採用された契約社員は、殆どが素人。 あくまで補助的役割なので、知識は要求されていないけれど その中でも彼は使える人間として、周りの社員から見られるようになっていた。 「会社は、辞めたの?」 「いえ、資金繰りが厳しくなって、畳まれてしまいまして」 「そうなんだ……」 「とりあえず、一旦契約社員やりながら、再就職を目指そうかと」 「設計?」 「出来れば」 はにかむ浜中君の向こうに、最寄り駅が見えてくる。 「じゃ、お疲れ様でした」 そう言って、彼は駅近くに設けられている自転車置き場へ歩いていく。 近くに住んでいるとは言うものの、家までは自転車で20分以上もかかるらしい。 「気をつけて」 軽く手を上げて言った俺の一言に、彼は笑顔の会釈で返す。 同期にも後輩にも恵まれなかった俺にとって、彼の存在はちょっと憧れていた時間を与えてくれていた。 鄙びた、と言う形容詞が良く似合う喫茶店。 駅前にあるチェーン店のコーヒー屋にすっかりやられてしまったのか、人の入りは少ないけれど 広めの店内と大きめのテーブルが、まさに一服をするのにもってこいの店だ。 何より、全席喫煙なのが、近年肩身の狭いスモーカーには嬉しい。 「ナポリタンと、コーヒーで」 「僕はAセットとチョコレートパフェを」 「……好きだねぇ」 「これだけが楽しみみたいなもんですから」 残業で遅くなったりすると、ここで浜中君と晩飯を食うことも多い。 その時、彼は決まって食後に甘い物を頼む。 初めは、スーツ姿のサラリーマンがパフェを食べる目の前の光景に違和感を持っていたけれど 美味しそうに食べる至福の表情を見ている内に、そんなことはどうでも良くなっていった。 「いろいろ、食べ歩いたりするの?」 こってりしたナポリタンの余韻をコーヒーで流し込みながら、長いスプーンを操る彼に声をかける。 「前の会社は幡ヶ谷にあったんで、ちょっと新宿に寄ったりはしてましたね」 「一人で?」 「流石に、一人で食べる度胸は無いんで。もっぱらデパ地下で目に付いた物を買う感じです」 「この辺はつまんないでしょ。何にも無いもんね」 「まぁ、その分、休みの日の楽しみが増えましたから」 そんなに甘いものが好きな訳じゃないけれど 楽しげな彼を見ていると、何となく食べたい気分になってくる。 「じゃ、今度、何かお勧めの物、教えてよ」 煙草に火を点けながら何の気なしに発した言葉で、彼の表情が一瞬強張った。 「え、ええ……良いですよ」 あからさまな作り笑い。 何か気に障ることでも言っただろうか。 短い間に起こった複雑な心境の変化を、俺は不思議に思うことしか出来なかった。 -- 2 -- 近所のスーパーには、近寄りがたい一角が出来つつある。 色とりどりのパッケージに包まれたチョコレートの数々。 昔から縁遠かった、その日。 気がつけば、妬みと諦めを改めて実感させられるだけのイベントになっていた。 男ばかりの職場で働く女性陣は大変なんだろうと、しみじみ思う。 こんな習慣止めれば良いのに、なんてことを言うと可哀想な目で見られることは確実だから とりあえず、毎年、山のように買いこまれた安い義理チョコを貰う羽目になる。 「今年は、ちょっと違うんです」 忙しさも一段落した午後3時。 平べったい箱を持った花岡さんが、意味ありげな笑みを浮かべながら席に回ってきた。 彼女が差し出した箱の中には、如何にも高そうな見た目をしたチョコレートが並んでいる。 「この中から、お好きなの2つどうぞ」 「2つだけ?」 「たくさんあげても、喜ばないじゃないですか。なら、美味しい物を少しだけの方が良いかなって」 「ま……それも一理あるね」 一欠けらの金粉が載ったもの、抹茶色の粉が綺麗にコーティングされているもの。 優柔不断な性格は、こんな時にも発揮される。 「ん~……俺は、残り物で良いよ」 「僕のお勧めは、このオレンジピールが載ったやつと、ヘーゼルナッツですね」 差し出した指を引っ込めようとするタイミングで、他の指が箱の中のチョコレートを指差す。 顔を上げると、花岡さんの背後に浜中君が立っていた。 「なるほど……浜中君の入れ知恵か」 「入れ知恵って。僕はアドバイスしただけですよ」 「私たちの分もって、逆チョコ貰っちゃったんです」 「何、それは、俺からも欲しいってこと?」 「そう言う訳じゃないですけど。このハードルは、相当高いですしね」 爽やかな見た目の男から貰う、ちょっと高そうなチョコレート。 そりゃ、冴えない俺から見れば、超える気にもならないハードルだな。 「どうしてもって言うなら、貰ってあげてもいいですよ?」 勝ち誇ったような顔で、彼が選んだチョコレートを付箋に置く彼女。 その態度を恨めしく思いながら口に運んだ貴重品は、確かに、美味しかった。 いつものように駅前の喫茶店で夕食を済ませる。 空になったパフェグラスを前に、浜中君は何処かもどかしげな口調で言った。 「ちょっと……誤解を生みそうな感じなんですが」 「ん?」 「前に、お勧めの物があったら、って話、してたじゃないですか」 「ああ、お菓子?」 「ええ、それで、買ってみたんですけど……」 そう言いながら、彼はカバンの中から小さな箱を取り出す。 派手なラッピングはされていないけれど、それが何なのか、大方予想は付いた。 「いや、この時期にしか出ない物とか、結構あって……」 この歳になるまで、チョコレートを貰ったことなんて、何回あっただろう。 小学生の頃までは、母親がくれていた。 それが無くなった中学生の頃からは、哀れに思ったのか、姉がくれるようになった。 高校を卒業する頃には、そんな習慣も無くなり 奇跡的に卒業直前にクラスの女の子から貰った1個以来、多分誰からも貰った覚えが無い。 まさか、ここに来て、男から貰う羽目になるとは思わなかった。 言い訳を織り交ぜながら、その商品が如何に貴重なものであるかを力説する彼。 チョコレートに罪は無い。 恐らく、彼にも罪は無い。 素直に喜べば何てこと無いことのはずなのに、少し惨めな気分になったのは、きっと俺が悪いんだろう。 くだらない感情を振り払うように、彼から箱を受け取り、笑顔を返す。 「じゃ、来月は俺が何か返さないと、ね」 「そんな、良いんです」 少し照れたような表情で、彼は俺から視線を外した。 「僕は、誰かにあげる方が、好きなんで」 「だから、女の子たちにもあげたの?」 「ああ、あれは、正確に言うと……」 花岡さんの言葉には、若干の誇張が含まれていたようだ。 彼が女性陣にアドバイスを求められた際、幾つかの店を紹介したところ テンションが上がった彼女たちに、私たちも欲しい、と散々せがまれたとのことだった。 「あそこまで言われると、流石に無碍にすることも出来ず」 「浜中君、弱すぎるよ……」 「でも、彼女たちには相応のお返しを頼んでおきましたから」 微笑みながら窓の外を見る彼の表情が、ふと変わる。 「うわ、雪か」 「そういや、今日は夜から雪って言ってたっけ」 「本格的に降り出す前に帰らないと、まずいな」 「自転車じゃ、やばくない?」 「とりあえず、危なくなったら押して帰りますよ」 手早く荷物を纏める彼のカバンの中に、一瞬、俺が手にしている箱と同じ物が見えた。 ああ、彼女にでもあげるのかな。 何となく浮かんだ疑問は、口に出さないままにした。 -- 3 -- 何で、そんな、もの欲しそうな目で俺を見るのかね。 そもそも、俺はあんたから何も貰ってないんだけど。 「ほら、茂、あれ美味しそうじゃない?」 「ああ、そうね」 「何よ、日頃の感謝の気持ちとか、無い訳?」 「それとこれとは別だろ?欲しいなら、先にくれよ」 荷物持ちとして姉の買い物に付き合わされた休日。 職場の女の子たちへのお返しを買って来いと仰せ付かっていたこともあり 青と白の装飾で彩られたデパートの地下を巡っていた。 当然の如く、俺も彼からの入れ知恵済み。 教えて貰っていた店を認め、その前でカラフルにディスプレイされたマカロンを眺める。 「ここ、美味しいの?」 「って、職場の同僚に聞いたんだよ」 「へぇ……にしても、たっか……」 確かに、これが1個400円。 頑張れば一口で無くなる大きさだ。 予算は、彼女たちが配ったチョコレートと同額の1万円。 「24個セットで、ギリってとこだな」 「ね、6個セットで良いから、買ってよ」 「まだ言うか」 「お母さんも喜ぶって」 「しょうがねぇな……」 俺たちのやり取りが視界に入ったのか、店員のお姉ちゃんが近寄ってくる。 きっと、彼女は何かを勘違いしたのだろう。 「どちらのセットが宜しいですか?」 そんな言葉を、姉に向かって言った。 「えっと、24個入りと、6個入りを1つずつ」 俺との距離を少し詰めながら、もうすぐアラフォーに差し掛かる姉はにこやかに笑う。 かしこまりました、と営業スマイルを振りまきながら背中を向けようとする店員に、俺はもう一声かけた。 「あ、あと、この10個入りも、1つ下さい」 どうして不機嫌になるのか、女の気持ちはよく分からない。 「何なの、あんた、彼女いる訳?」 「だから、そうじゃないって言ってるだろ」 「彼女でもない女に、こんな高いお返し?」 「ほんの気持ちだって」 「正直に言いなさい?怒らないから」 なだめる程に激昂していく姉。 何か、凄く、面倒くさい。 「……実は、片思いの子がいるんだ。その子に、渡すんだよ」 急激に表情を和らげる彼女。 こんな適当なでまかせで心証が一変するんだから、やっぱり、女の気持ちは分からない。 俺から包みを受け取った花岡さんは、明るい笑顔でお礼を言ってくれた。 そもそも、マカロンなんて殆ど食べたことが無いのだから、俺に分かるはずも無いが このブランド、マカロン界では相当有名なのだそうだ。 もちろん、高価さもよく知られているようで、きっと彼女の表情にはその要素も含まれていたのだろう。 机の周りに集まり、楽しげな声を上げる彼女たちを見て、こう言うのも悪くないかも、と思ったりする。 「あれ、例のお店のやつですか?」 女性陣の盛り上がりを横目で見ながら、浜中君が声をかけてくる。 「そう。かなり好評みたいで、良かったよ」 「女性は味と値段に敏感ですからね」 高くて美味しい物を少しずつ、そんな巧みな戦略に、まんまと嵌っている訳か。 「あ、そうだ……」 「はい?」 「いや……後でで良いや」 流石に、ここで渡すのは気がひける。 カバンの中の、もう一つの包みの存在を気にかけながら、業務に戻った。 「Bセットと、コーヒーで」 「僕はカツカレーと……」 「あ、パフェは無しね」 「え?」 珍しいね、と笑いながら去っていくマスターを横目に見ながら、彼は幾分怪訝な顔をする。 「一応、前のお返しをさ、持ってきたから」 火を点けた煙草を灰皿に置き、役目をとっくに終えてしまった保冷バッグをカバンから取り出す。 「ま、この時期だから大丈夫だとは思うんだけど……」 「そんな……わざわざ、ありがとうございます」 包みを受け取り、中身を認めた彼の表情が晴れる。 「これ、食べました?」 「自宅用に買ったんだけど、母親と姉ちゃんに全部食われたよ」 「安斎さんも、大概、弱いですね」 喫茶店の外に吹く風は、少し暖かさを帯びているような気もする。 駅のロータリーに設けられたベンチの前で、浜中君は一つの提案をしてきた。 「これ、開けちゃっても良いですか?」 「え?ここで?」 「ええ、一つ、食べてみません?」 「でも、俺があげたやつだし」 「そうですけど、なかなか食べる機会も無いと思うんで」 街灯に照らされた、少し色彩を失ったマカロンのケースが差し出される。 「全部、味違うのかな?」 「多分、そうですね」 とりあえず、見た目から味が容易に想像できそうな黄緑色のものを手に取り、口に運ぶ。 歯ざわりは、まるで厚みのある柔らかいモナカのような、そんな感じだった。 「ん?」 これはきっと抹茶だろうと思っていた俺の頭は、その味で一転混乱する。 「どうしました?」 「いや、これ、何の味?」 差し出した食べかけのマカロンに、彼はほんの少しだけ口をつける。 「ああ、これはピスタチオですよ」 「ピスタチオ……」 「あんまり、馴染みが無いですもんね」 暗がりで笑う彼の顔を見ながら、疎遠だった行事との距離が縮まったような、そんな気がした。 -- 4 -- 彼に変化が表れ始めたのは、GWも過ぎたくらいのことだった。 「どうしたの?それ」 右目の下から頬にかけて出来た痣。 赤黒い状態が所々に残り、その痛々しさに思わず顔をしかめた。 「ちょっと……自転車で転んじゃいまして」 確かに、昨日の夜は雨が降っていた。 「病院は?」 「いえ、そこまでじゃ、無いんで。大丈夫です」 口の中も怪我しているのか、口調もぎこちない。 「あまり酷いようなら、病院行った方良いよ?」 「分かりました。ありがとうございます」 痛ましい笑顔を俺に向けながら、彼はオフィスへと入って行った。 同居人がいる、と言うのは、彼との会話の中から導き出された俺の仮説だ。 ただ、それが彼女なのか家族なのかは分からない。 それでも、あれだけの傷を付けた同居人が帰宅したら、普通は病院に行かせるもんじゃないだろうか。 仕事中、時折顔を手で覆いながら痛みに耐えているような彼の姿を見るなり、そんな疑問が頭を巡った。 普通、日を追うごとに傷は癒えて来るもののはず。 けれど、彼の顔からはいつまで経っても痣が消えることは無かった。 流石にその様子を怪訝に思い始めて来た周囲の人間が、あれこれと詮索を始める。 彼もそれを分かっているのだろう。 俺が声をかけても、昼食や夕食を一緒にとることは少なくなっていった。 そんな姿を、少し居た堪れなく感じて来ていた頃。 トイレの洗面台の前でうな垂れている彼と鉢合わせした。 スラックスからワイシャツを引き出し、腹の辺りを擦っている様子に、嫌な予感がする。 「そこも、怪我、してるの?」 「あ、いえ……大丈夫です」 急いで服装を整えようとする彼の手を制し、ワイシャツを捲り上げる。 腹の辺りに付いた、みみず腫れのような傷が、幾つも目に入った。 「こんなの、自転車で転んだくらいじゃ、ならないよね」 目を伏せる彼の顔を覗きこむように、訊ねる。 暴力を受けて付いた傷であることは、明白だった。 「誰に、やられたの?」 同僚は俺と目を合わせないようにしながら、唇を噛む。 「ホントに、何でも無いんです」 何でも無い訳が無い、そう問い詰めるには、彼の表情はあまりにも弱々しかった。 かけるべき言葉を探す俺の手を、彼は優しく解く。 「何か、相談に乗れることがあれば、言って」 黙ったままで身嗜みを整え、軽く会釈をして、彼はトイレから出て行った。 翌日、彼は会社に出勤して来なかった。 「家族の方から、今日はお休みさせて頂きたいって連絡があって」 「家族?」 「ええ、浜中の家族ですがって、おっしゃってましたけど」 妙な不安が、心から消え去らない。 休み時間、彼の携帯に電話をかけてみたが、すぐに留守電になってしまった。 一体、彼に何があったのか。 何かに苦しんでいるのなら助けてあげたいと思うのに、俺にはその術が無い。 夜、いつものように喫茶店に入る。 窓際の席に一人で座り、煙草に火を点けたタイミングで、携帯に着信があった。 咄嗟に出ようとすると、電話は切れた。 履歴には、浜中君の名前。 すぐにかけ直すと、電話に出たのは知らない男の声だった。 「あんたが、安斎か」 尋常じゃないトーンに、少し声が震えた。 「は?あんた、誰?」 「浜中に、あんまりちょっかい出すなよ」 「……何言ってんの?」 「邪魔なんだよ、あんた」 意味が分からない。 噛み合わない会話に、苛立ちが募る。 「浜中君、いるなら、代わってよ」 「代わる訳ねぇだろ。こいつ、オレのもんだから。手ぇ出したら、ただじゃおかねぇぞ」 気味の悪い捨て台詞と共に、電話が切られる。 その後、何回かけても、一向に電話は繋がらなかった。 彼と仕事をするようになって、もう5ヶ月。 それなのに、俺は、あまりにも彼のことを知らない。 そして、あの男は誰なのか。 父、兄、友人……男を "俺の物"と呼ぶような関係性が、俺には想像も付かない。 しかも、俺は彼とは同僚という関係なだけで、それ以上の繋がりは何処にも無い。 電話越しに放たれた捨て台詞が、頭にこびりつく。 知らない内に、厄介なことに巻き込まれているような気がして、気分が悪くなった。 -- 5 -- 2、3日の欠勤の後、浜中君は通常の業務に戻った。 けれど、職場での浮き具合は、更に大きくなっていく。 俺との会話も、業務で必要なもの以外、全くと言って良いほど無くなっていた。 もちろん、あの電話のことも聞けないままで、ただ時間だけが過ぎる。 彼が半年の契約を延長しないという話を聞いたのは、6月も中旬になってからだった。 再就職が決まったからだという理由らしいが、真意は分からない。 「浜中君、6月いっぱいで辞めるんだって?」 帰り際、急ぎ足で帰ろうとする彼を呼び止めた。 「ええ、やっと、就職が決まったんで」 「設計事務所?」 「そうです」 「そうか、良かったね」 「はい、ありがとうございます」 軽く微笑んだ彼は、俺に背を向けて歩き出す。 その態度に、寂しさと悔しさが募る。 何でなんだよ、俺が何かしたのか? 「ちょっと、待ってよ」 「すみません、早く、帰らないと」 「あの男のとこに、帰るの?」 一瞬足を止めた彼が、振り返る。 辛そうな目をしたその表情が、心に刺さった。 「……お疲れ様でした」 少し頭を下げ、再び背を向けた彼は、早足で去っていく。 それが、彼とまともに話を交わした最後の機会だった。 全てを謎に包んだまま、同僚は会社を去って行った。 当然、携帯は通じない。 何処に就職したのかも、分からない。 俺に出来ることは、何も無かったんだろうか。 姉にせがまれ、ことあるごとに買わされるマカロンの味が、彼の笑顔と重なって、辛かった。 *********************************** サポートセンターでの通話記録は、全て録音されている。 思いも寄らない人物からのコールに落ち着かない気分をなだめながら、質疑に答えた。 「では、折り返しのご連絡先をお伺いしても宜しいでしょうか」 そう訊ねた俺に、彼は遠く離れた地の電話番号を返す。 もう、会うことは無いんだろうか。 もう、彼とたわいも無い話をして時間を過ごすことは、出来ないんだろうか。 急に込み上げた感情を押し込めるように、一つ溜め息をついて、言葉を付け加えた。 「もし、何か相談に乗れるようなことがあれば、私の方に、ご連絡頂けますか」 緊張で震える声に、彼は優しい物腰の口調で分かりました、と答え、電話を切った。 俺の真意は、あの言葉で、伝わっただろうか。 そう思いながら技術資料を検索しようとした瞬間、携帯の振動を感じる。 ディスプレイには見知らぬ番号。 逸る気持ちが、抑え切れなかった。 「お電話、ありがとうござい……」 「私用の電話にも、そうやって出るんですか?」 思わず口から出た言葉にうろたえる俺に、彼はそう笑う。 「いや、つい……」 「すみません、なかなか、ご連絡できなくて」 「……久しぶりだね」 「ご無沙汰してました。お元気でしたか?」 改装も済んで、少し明るくなったような気がする喫茶店の中。 申し訳程度に置かれた小さめのクリスマスツリーが、視界の隅でチカチカと派手な光を放っていた。 いつものように窓際に座り、煙草を吸いながら、携帯電話を手にする。 程なく、半年間探し続けた答えが、小さなスピーカーから漏れ聞こえて来た。 彼とあの男が、恋人同士であったこと。 俺と彼との関係を怪しんだ男が激昂し、彼に暴力を振るい続けていたこと。 「情けないことに、それでも、嫌いになれなかった」 男同士の恋愛、俺の想像を遥か上を行く事実。 返す言葉も見つけられないまま、俺は黙って彼の話を聞いていた。 「でも、安斎さんに、話をつけるとか言い出して……急に、怖くなって」 その時の恐怖がぶり返したのだろうか、彼の声に幾ばくかの震えが混ざる。 「逃げたい、そう思うようになりました」 「だから、九州に?」 「偶然、前の会社の社長のツテで話が来ていたので、すぐに乗る感じで」 「どうして、俺に、何も言ってくれなかったの?」 「すみません……つまらないことで、ご迷惑かけたくなくて。それに」 一呼吸置いた彼は、何かを吹っ切るような口調で続けた。 「ゲイだなんて、知られたくなかった」 確かに、俺はこの話を、彼の目の前で聞く勇気は無かったかも知れない。 同性愛に特別な嫌悪感がある訳でもないけれど、ああそうですかと聞き流すことも出来ない。 そんな複雑な表情を見たら、きっと、彼は傷つくだろう。 それでも。 「それでも、俺は、言って欲しかったよ」 火が消えてしまった煙草を灰皿に押し付け、遠くのツリーを見遣る。 改めて、テーブルの広さを実感する。 向かいの席に誰もいない寂しさ。 どうやったら、紛らわせるんだろう。 切ない溜め息だけが、携帯電話にこだました。 「何それ、私に?」 「まさか、違うよ」 年の瀬、大きめの包みを持った俺を見た姉は、物欲しそうな視線を浴びせてくる。 「姉ちゃんの分も、買ってあるから」 そう言って小さな包みを渡すと、あからさまに不服そうな顔をした。 「これは……片思いの子に、あげるんだよ」 「まだ片思いしてるの?まさか、いい歳してアイドルとかじゃないでしょうね」 「だから、違うって」 時計を見ると、もうそろそろ新幹線が着く時間。 短い正月休みに帰省してくると言う彼とは、彼の地元で待ち合わせをしている。 得も言われない緊張感。 こんな気分は久しぶりかも知れない、そう思いながら、俺は大きなマカロンの包みを手に家を出た。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.