いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 道標 --- -- 1 -- 夜11時半。 帰宅するサラリーマンに混ざり、同僚と二人、程ほど混んだ電車に乗り込む。 向かう先は、神奈川の中核都市にある駅。 作業服にヘルメットを提げたカバンを持った二人組は、若干浮き気味。 つまらなさそうに携帯で麻雀をする彼を横目に、俺は下品な文字を並べた中吊り広告を眺めていた。 「では、今晩も事故ゼロを目標に、頑張りましょう」 終電が終わった地下鉄の駅構内に、作業員たちが散っていく。 仮設の資材置き場に置かれた足場を組み直す作業から、工事は始まる。 駅での空調工事の監理を任されて2ヶ月。 工事が可能な時間は終電が過ぎる夜の12時半から、初電が走り出す朝4時半まで。 当然朝から会社に出ることは出来ないので、特別なことが無い限り、夜からの出社になる。 お陰で、部署内ではすっかり "あの人、誰?" 状態だ。 「随分眠そうだな、岸」 同僚の岸は、電気工事の監理を担当している。 空調工事専門のサブコンの中で、彼がいるのは電気設備に精通した人間が集まる部署。 数年前から続く不況を受け、空調と電気抱き合わせで工事を受注できるようにと新たに作られた。 「永瀬こそ、よく、こんな生活が平気だな?」 「元々夜型だし。そんなにきつくないよ」 「オレはまともな人間だから」 「何だよ、それ。俺がまともじゃないみたいじゃねぇか」 「年明けからは、また昼の仕事なんだぞ?」 今やっている工事の工期は年末いっぱい。 正月の休みを挟み、生活スタイルは元に戻さなければならない。 「一日寝てりゃ、元に戻るだろ」 「嫁と子供の前で、そう言ってやってくれ」 ホームの向こうから、空調機を吊っている作業員が俺を呼ぶ。 「ま、後2週間ちょっとだから、頑張ろうぜ」 疲れた笑顔を見せる同僚の肩を叩き、仕事に戻った。 朝4時。 工事時間の期限が迫り、現場では仮設足場の撤去作業と片付けが始まる。 同時に、各工事の監理者が進捗状況の取り纏めを行うのが、一日の最後の工程だ。 「電気は随分先行してる感じですかね?」 「そうですね、後は制御関係が主になってくるかと」 「空調はどうです?」 「思った以上に苦戦してますね。工期には間に合うと思いますけど」 今回の工事は、今まで床置だった空調機を、全て天吊に取り替えるというもの。 撤去はスムーズに行ったものの、天井に空調機を吊る段階になって、部材の耐震性に問題が発生した。 公共性の高い駅のような建物には、より厳しい耐震基準が設定されている。 それをクリアする為に、設計段階には無かった工事が追加されてしまったのだ。 「厳しいようでしたら、適宜人員追加で、お願いしますね」 「分かりました」 外に出ると、細かな雪がちらついていた。 「さみぃな、おい」 「冬だからな」 これから眠らなきゃならないと言うのに、目が覚まされるような寒さ。 でも、こんな寒さは、嫌いじゃない。 駅前のバスロータリーには、一台のワンボックスカーが停まっていた。 「奥さんも、毎朝大変だな」 煙草に火を点ける俺に視線を向けた岸は、意地の悪い笑みを浮かべる。 「お前も、早く身、固めろよ」 「その内な」 「じゃ、お疲れ」 俺に背を向けた彼は、軽く手を上げて奥方の運転する車に乗り込んだ。 ハザードを2、3回点滅させた車が、夜明けの街に消えて行く。 そのテールライトを眺めながら、冷たい空気と一緒に、煙を吸い込む。 迎えに来てくれるような相手がいない俺は、毎朝タクシーでの帰宅を許されている。 現場から車で15分ほどのところにある岸の家と比べ、俺の家はここから1時間かかる場所。 初電を待って帰れとは、流石にウチの会社でも言えなかったのだろう。 特別だからな、と眉をひそめた上司の顔を思い出す度、してやったりの気分になる。 とは言え、さほど大きくも無い駅のタクシー乗り場には、客待ちの車は殆どいない。 初めの内は、わざわざ電話して呼んでいたのだけれど 2、3回同じ運転手に乗り合わせた時、向こうから、この時間に来ることを約束してくれた。 視線を上げると、絶妙なタイミングでやって来る、一台のタクシー。 煙草の吸殻を灰皿に入れ、俺はその車に向かう。 「お疲れ様です。毎日、大変ですね」 軽く微笑みながらそう話しかけてくれる彼は、多分俺と同じくらいの歳だ。 タクシーの運転手としては、まだ若い方だろう。 事実、この職に就いてからそれほど経っていないんだと話していたことを思い出す。 「後、ちょっとなんで。今が踏ん張り時ですよ」 柔らかな声に、少し明るさを乗せて返した。 すっかり見慣れた夜明けの街。 車が信号に捕まったタイミングで、彼はこちらを振り向いた。 「そうだ、これ、良ければどうですか?」 そう言って手渡されたのは、袋いっぱいのリンゴ。 赤いのだけではなく、黄色や黄緑、様々な色で溢れている。 「え……これ」 「田舎から大量に送られて来たんですけど、一人じゃ食べきれなくて」 「でも、良いんですか?」 「家には、その10倍位ありますから」 呆れたような笑い声とともに、信号が青に変わる。 「そりゃ、3食リンゴでも無くなりませんね」 -- 2 -- 全体会議の為に早出した夕方。 俺にも食べきれないであろう幾つかのリンゴを、久しぶりに顔を合わせた白石さんに手渡した。 「どうしたんですか?これ」 「貰ったんだけど、食べきれそうにないからさ」 「じゃ、明日のお昼にでも、頂きますね」 一つ手に取り、香りを味わうように鼻に近づけた彼女は、何かを伺う様に俺を見る。 「話は変わるんですけど……永瀬さん、難波くんの予定とか、聞いてません?」 「何、それ?」 難波は部署の後輩で、同じ大学の出身と言うこともあり、よく付き合いがある奴だ。 ただ、夜間工事を担当するようになってからは、殆ど顔を合わせていない。 「最近話してないしなぁ……自分で聞いたら良いじゃない」 心無い俺の一言に、白石さんの表情が曇る。 「そんなことしたら、下心見え見えじゃないですか」 そう言うことか。 直近の大イベントと言えば、狙いは一つ。 若い女の子の淡い恋心を目の前に、何となく微笑ましくなる。 「会議で一緒になるから、その時にでも聞いといてあげるよ」 会議開始の夕方5時半。 他の現場の最終検査に出ていた難波は、少し遅れて部屋に入り、俺の隣に腰掛ける。 「何か、凄く久しぶりな感じですね」 「2週間位だろ?」 「毎日見てた顔を2週間見ないって、相当ですよ?」 ヘルメットで乱れた髪を整えるように頭を撫でながら、彼はそう言って笑った。 遅延している工程をしつこく追求されながらも、何とかやり過ごすことが出来た2時間。 今日の仕事はこれからなのに、既に疲労感でいっぱいだった。 そんな気分の中、貯まった書類を片付ける俺の横で、後輩は帰り支度を始めている。 「そう言えば、難波さ」 「何ですか?」 「クリスマスとか、予定あんの?」 「……は?」 不思議そうな、かつ若干怪訝な顔をして、彼はその動きを止める。 すんなり笑って流してくれるだろうと思い込んでいた俺は、その予期せぬリアクションに軽く動揺した。 「え、何ですか?それ」 「いや、別に。どうなんだろうって思って」 「永瀬さんは、工事ですよね」 「俺は、そう、だけど」 微かに目を細めた、探るような眼差しが刺さる。 有りもしない下心を見せまいと、あくまでも自然に振る舞おうと試みる。 取り繕いは成功しただろうか。 「別に……何も無いですよ。いつもと変わらない、平日の夜かと」 不機嫌とは少し違う。 何て表現したら良いのか、適切な言葉が見つからない感情。 後輩は、工事頑張って下さいと呟きながら、俺にそんな視線を投げて会社を後にした。 本当は何かあるのに、俺に気を遣って、無いと言ったのか。 何かあったけれど、直前で拗れてダメにでもなったのか。 色々な邪推を繰り返したところで、彼の真意が分かる訳でもない。 『さっきの件、特に用事は無いとのこと』 そんなメモを白石さんの机に残し、工事の準備に取りかかる。 12月も半分を過ぎた現場は、いつも以上に慌ただしさを増している。 当然の様に、休日返上で現場に出る毎日。 疲労もピークに達していたのかも知れない。 「危ない!」 ホームに響く、誰かの声。 振り返ると、脚立の上から落ちる岸の姿が、まるでコマ送りの様に飛び込んできた。 頭を打たなかったことだけが、唯一の幸いだった。 「大丈夫か?」 問いかける俺の声に、彼は身悶えながら答を返す。 「あ、あぁ……ちと、背中、打ったみてぇ」 救急車の手配に走る者、担架を用意する者。 焦燥感を急き立てる雰囲気が、却って冷静な思考を産み出していく。 工事完了までは、あと僅か。 大詰めの段階で、一体誰が電気工事を仕切る? こんな年末の忙しい時期に、代役を立てられるだろうか。 「奥さんには、連絡しておくから」 苦しそうに眉をひそめる同僚に声をかけながら、この先への思案を巡らせた。 「で、岸の容態はどうなんだ?」 「肩の骨にヒビが入った程度ですが、来週は当然出て来れないとのことで……」 朝6時半。 駅の事務室で事故対応に追われる中、上司から連絡が入る。 「参ったな、こんな時に」 空調・電気とそれぞれの工事を担当する部署は異なるが 同一現場の場合に限り、一人の部課長クラスの人間が統括することになっている。 「電気の方に、誰か暇そうな奴とか……」 「暇そうな奴なんかいたら、さっさとクビだ」 朝から無理難題を突きつけられ声を荒げる上司は、しばらく何かを考えた後で俺に訊ねて来る。 「永瀬、お前、電気も見られるな?」 「え、いや、出来ないことは無いですけど」 「じゃあ、お前が電気の方に移れ」 「でも、空調と一緒に見るのは、無理が……」 「そっちは、何とか人手を作る。とりあえず、今日はなるべく早く会社に来い」 -- 3 -- 現場監督、職長、上司、そして電気工事監理は殆ど経験の無い俺。 打合せスペースの机に広げられた施工図を見ながら、何とか引き継げるだけの情報を共有する。 朝の9時過ぎまで事故対応に追われ、今が夕方4時。 誰もが睡魔と疲労を背負いながら、崩れかけた工程の修復に必死になっていた。 「失礼します」 そう言って部屋に入ってきたのは、難波だった。 少し眠そうな顔に、作業服姿。 彼の顔を認めた上司は、俺に向かって言う。 「お前の代わりは難波がやるから、軽く引き継いでくれ」 朱書きのチェックが所狭しと入れられた施工図を見ながら、後輩に現状を報告する。 「一先ず、天井内は概ねケリがついてるから、後は機械室の配管切り回し部分だな」 「ここまでが既設ですね?」 「そう。この竪部分までは撤去が済んでるから、後は、ここから繋ぎ込みする感じで」 俺の話を聞きながら、後輩は自らのノートに細かな字でチェックするべき部分を書き込んでいく。 メモ魔と揶揄されるほど神経質に物事を書き留める癖は、新人の頃から変わらない。 少しやりすぎだろうと思うこともあるけれど、見習うべき部分であることは、重々承知している。 「何かあれば、聞いてくれれば良いし」 「分かりました。頼りにしてます」 電車の外に流れる家々には、色とりどりの電飾が輝く。 やがて地下に吸い込まれた車窓は、黒い背景に俺たちの姿を映しだした。 隣に立つ後輩は何をする訳でもなく、ぼんやりと吊革にぶら下がっている。 休みも出ずっぱりで、正直曜日感覚もあまり定かでは無くなって来ているが 確か、クリスマスイブはもうすぐだ。 脳裏に、白石さんの顔が浮かぶ。 「お前、クリスマス、予定無いの?」 窓越しに問う俺に、彼はやはり窓越しに答える。 「無いって、言いませんでした?だから、監理も引き継いだんですよ?」 「いや、まぁ……そうだけど」 俺の伝言は伝わったはずだし、多分、彼女も何らかの行動を起こしたはずだ。 濁した語尾に、何か感づいたのか。 難波は俺に視線を投げ、何か言いたげな表情を見せる。 居た堪れなくなってあらぬ方向に眼を向けると、彼はそれ以上、何も言わなかった。 工事もほぼ終盤となれば、作業員たちの方がその流れは良く分かっている。 「ホント、迷惑掛けてすまない」 現場がよっぽど気にかかるのか、夜中の3時過ぎに電話をかけてくる同僚にも助けられつつ 周りに教えを乞いながらの監理は、何とか形になっていたようだった。 それは突然職務を押し付けられた後輩も同じようで 若輩者である姿勢を前面に押し出しながら職人たちと話し合う姿は 彼なりの現場への溶け込み方なんだろうと、若者の特権を少し羨ましく思ったりもする。 「夜間って、思った以上にハードですね」 目まぐるしく過ぎた一日を終えた朝。 疲れた素振りを隠そうともしない後輩は、そう言って苦笑する。 「夜はやったこと無いんだっけ?」 「初めてです」 喫煙所の壁に寄りかかる彼は、溜め息をつきながら煙草に火を点ける。 「よく何ヶ月も続けられますね、こんな生活」 岸に同じようなことを言われたのを思い出し、何となく卑屈になる。 「まともじゃないからな、俺は」 「そんなこと、言ってませんけど」 共に会社の借り上げマンションに住む俺と難波は、最寄り駅が一緒だ。 だから、タクシーは1台で済む。 そんなことまで考えているのかどうかは知らないが、会社には都合が良いだろう。 「今日は、お二人なんですか」 運転手の彼は、そう言いながら車を発進させる。 「ちょっと後輩に手伝いに来て貰う事になったんで」 「大変ですね、この年末に」 「先輩のピンチを救う為ですから」 まどろみを湛えた目をした後輩は、そう言って笑った。 肩にかかる頭の重みが腕を痺れされる。 すっかり寝入ってしまった後輩の身体を無碍に押し返すことも出来ず 倒れかけた身体を支えながら、流れていく街を見ていた。 「年末は、帰省したりするんですか?」 運転手の彼は、明けて行く空に向かって、話しかける。 「今年はバタバタしてるんで……どうしようかと思ってますけど」 実家は宇都宮にある。 日帰り出来る距離と言う意識が、却って足を運ぶ機会を奪っているような気もする。 「運転手さんは、帰省されるんですか?」 「私たちの仕事は年末も何も無いですけど、一応帰ろうかと」 「田舎はどちらなんですか?」 「秋田の北の方なんですよ」 日本地図を思い浮かべて、何となくの場所を想像する。 「じゃ、冬は大変でしょう」 「雪は深いところですね。でも、待っててくれる人がいるんで」 「ご家族?」 「仲の良い友達がいまして。盆暮れには酒を飲もうって決めてるんですよ」 何処と無く嬉しそうな彼の声で、学生の頃の友達の顔を思い出す。 もう、何年も会ってない。 多分、改めて機会を作らなければ、この先も会うことは無いのかも知れない。 「この歳になると、そう言う繋がりが、無性に恋しくなるものなんですよね」 彼のそんな言葉に、背中を押される。 久しぶりに連絡してみるか、そう思いながら、携帯のアドレス帳を眺めた。 -- 4 -- 談笑しながら会社の玄関を出て行く女の子たち。 クリスマスイブの夜、俺が出社するタイミングで、彼女たちが退社していく。 その中の一人と目が合う。 引っ張られるよう、俺は彼女の元へ近づいた。 「仕事だから、しょうがないですよね」 開口一番、彼女は何か吹っ切れたような顔でそう言った。 「難波には、何か、言ったの?」 「誘うには誘って、OKは貰ったんですけど……何か乗り気じゃないみたいなテンションで」 「照れてるだけじゃない?あいつ、そう言うとこあるし」 「でも、結局夜間工事が入ったって、断られちゃった」 ふと見せた寂しげな仕草が、罪悪感となって心に残る。 俺のせいじゃないし、プライベートよりも仕事を優先させるのは、当然だと思う。 けれど、今回の件については、上司の提案に他の若手が渋る中 難波がわざわざ名乗り出たという話を、後日聞かされた。 何やってるんだ、あいつ。 予定は無いと言い切った理由は、何なんだ。 申し訳の立たない俺の顔を見た白石さんは、俺と、自分を慰めるように笑顔を作る。 「だから、今日は皆で女子会して、楽しんで来ます」 一方、男ばかりの夜間工事現場。 仮設足場の一部分に、何処から持ってきたのかLEDのチューブライトがグルグルと巻きつけられている。 場違いな赤いイルミネーションが、雰囲気を少し軽くさせているようだった。 「今日だけだぞ」 現場監督は呆れたようにそう言って笑う。 工事もラストスパート。 何処からかクリスマスソングが流れてきそうな雰囲気の中で、夜が更けていく。 作業も終わりに差し掛かる午前4時過ぎ。 機械室の中から数人の叫び声が聞こえて来た。 駆けつけてみると、すっかり濡れ鼠になった作業員と難波の姿。 「……何があった?」 「流量確認しようとしてたら、流量計が外れて……」 情け無い声で話す後輩の隣で、黙々と流量計を設置し直す作業員。 「水浴びには早すぎるだろ」 「温水で、良かった」 近くに置いてあったモップで水を掃き出しながら、その光景に思わず口元が弛んだ。 遅れが懸念されていた空調工事も、ほぼスケジュールに追いついた。 「冷温水の流量も、空調機の風量も問題ありません」 髪の毛をタオルで拭きながら、難波は手書きの測定表を机に広げる。 「後は、制御系の検査を明日予定しています」 「電気の方での連携は終わってますから、問題無く進められるかと」 「週末には予定通り終われそうですね」 「ええ、年末はゆっくり出来るんじゃないですか」 このところピリピリしていた進捗会議も、やっと先が見えてきたこともあり、和やかな雰囲気。 岸の離脱と言う大きなアクシデントも、若い力で何とか克服出来ている。 身体の重い疲れを感じ始めてきたのは、精神的に少しずつ解放されている証だろうか。 「お疲れ様です……どうされたんですか?」 車に乗り込むと同時に、運転手は心配そうな声を後輩にかける。 「半年早い、水遊びです」 わざと不貞腐れた様にそう答えた後輩は、自らの作業ズボンを擦りながら言った。 「ちょっと、シート濡れるかも……大丈夫ですかね?」 頭上から降ってきた温水は、当然のことながら全身を濡らした。 上着は防寒着で代用できたが、ズボンはそうも行かない。 大型のハロゲンヒーターで応急処置はしたものの、どうやらまだ湿っているようだ。 「構いませんよ。ちょっと、エアコン強くしますね。風邪引くといけませんから」 「すみません。助かります」 いつもと変わらない道を走るタクシーは、ある橋の手前で少しスピードを落とす。 「左側に見える橋に、今日だけ電飾が点いてるんですよ」 ハンドルを握る彼は、楽しげな声で話しかけてくる。 後輩の向こうにある窓の外には、青白い小さな光が纏わりついた橋の概形が浮かんでいた。 「へぇ……何か、富士山みたいですね」 「ああ言うちょっとした遊び心って、何となく和むなって思って」 「男3人で見るもんじゃない気もするけど」 「まぁ、この時期じゃないと見られませんから」 過ぎていく光の山を何も言わずに見ていた難波が、不意に俺の方へ顔を向ける。 「……何だ?」 「いえ。別に、オレは良いですよ」 そう呟いてシートに身を任せる彼は、酷く穏やかな表情を見せる。 その言葉の意図がつかめないままの俺は、俄かに気持ちの所在を失いかけていた。 最寄り駅に着いたのは朝6時前。 明るくなりかけた街を、各々家路へ向かおうとした時。 「永瀬さん、ちょっと、飯食って行きません?」 「今から?もう寝るだけだろ」 「腹減ったんですよ」 目の前には、24時間営業のファミレス。 昼夜逆転の生活から見れば、これは晩飯。 そう言う後輩に押し切られるよう、俺たちは店に入った。 「飯を食うタイミングが、イマイチ分かんないんですよね」 難波の前には、薄いステーキとハンバーグとエビフライが乗ったプレート。 朝からこんなものを食べる客も、なかなかいないだろう。 「まぁ、それは分からんでもないけど」 言われてみれば、確かにこの生活を続けるようになって、飯を食うのは一日一回になった。 夜勤明けに食う気もせず、かと言って起きたばかりの夕方前に食う気もせず。 結局、現場に出る前、会社の近くの定職屋で採る晩飯だけになっている。 「不健康過ぎません?」 「元から健康的な生活なんか送ってなかったしな」 -- 5 -- 本番が24日になったのは、いつからなんだろうか。 影の薄い、聖誕祭の朝。 店の内装はまだまだクリスマス仕様で、出来ればお祭り騒ぎをもっと続けたい、そんな気概を見せていた。 過ぎ去った夜、後輩の些細な嘘に思案を巡らせる。 白石さんに元から気が無いのであれば、誘われた時点で断るべきだろう。 彼女の方が年上だから、気を遣ったんだろうか。 予定が無いといったのも、俺に余計な気苦労をさせない為か。 モヤモヤする気分を薄いコーヒーで押し流そうとした時、晩飯を平らげた彼が口を開いた。 「永瀬さん、白石さんに何か言いました?」 穏やかな表情、では無かった。 彼が俺に何かを隠しているように、俺だって彼に隠し事をしている。 「別に……何も?」 「クリスマスの予定は?って聞かれた次の日、白石さんから声かけられて」 「へぇ、そう」 「24日に、飯食いに行こうって」 「いいじゃん。予定は無いって言ってただろ?」 「無かったですよ。入れる気も、無かったし」 その声に徐々に覇気が失われていく。 不穏な空気に、少しだけ、言葉が揺れた。 「断った、のか?」 「一応……受けましたけど」 「なら、何で監理の代理に名乗り出たんだよ?」 「……こっちの方が、良かったから」 「何だよ、それ」 嫌な沈黙がテーブルの上に圧し掛かる。 煙草の煙を吐き出す彼の唇は、微かに震えていた。 「女の子から誘うなんて、よっぽど勇気要るんじゃねぇの?」 「……そうでしょうね」 「その気が無いんなら、初めから断れよ」 「申し訳ないと、思ってます」 煮え切らない様子に、つい責め立てる様な口調になっていることに気がつく。 俯いてしまった後輩を前に、新しい煙草に火を点ける。 100円ライターの着火音に重なるよう、呟くような小さな声が聞こえた。 「どうせ会えないなら、一人よりは、気が紛れるかと、思って」 遠距離か、片思いか。 断片的な難波の言葉から、想いを寄せる存在を手繰り寄せる。 かと言って、これ以上詮索することも出来ない。 「ちゃんと、埋め合わせしとけよ」 その一言に、彼の頭が数回揺れる。 それは、まるで、自分に何かを言い聞かせるような、そんな仕草だった。 運転手の気遣いは、どうやら手遅れだったようだ。 翌日の現場作業が終わり、タクシーを待つ間、後輩はしきりに寒いという言葉を口にする。 虚ろな目、紅潮した顔。 明らかに、風邪だ。 「難波、今晩は休んでも良いぞ?」 実際、制御系の調整も済み、後は全体的なチェックと検査のみ。 そこまでくれば、俺一人で電気・空調の双方を見ることも出来る。 「大丈夫、です。今日中に、何とか」 やってくるタクシーが目に入り、しゃがみ込んだ身体を引き上げる。 力が入らないらしい身体が、寄りかかるように密着してくる。 吐く息が、その身体を苦しめる熱の重さを知らしめた。 後輩のマンションの前に、タクシーが停まる。 「お待ちしてましょうか?」 「いえ、ここで」 右側のドアを開けて貰い、左側から意識を失いかけた身体を引きずり出す。 「お大事に、して下さい」 心配そうな表情の運転手に見送られながら、俺は後輩の身体を背負い、その部屋を目指す。 「入るぞ」 キーチェーンに繋がれた鍵を使って、オートロックと部屋の扉を開ける。 彼の家を訪れたのは初めてだった。 それほど広くない部屋は、何と言うか、とても無機質で 綺麗に整頓された空間に充満する煙草の匂い以外、生活感を感じさせるようなものは無かった。 部屋の面積の1/3程を占めるベッドに、その身体を横たえる。 言葉も発せられない様子の後輩は、充血した目で、小さく唇を動かした。 上着を脱がし、作業服とワイシャツのボタンを2、3個開ける。 首筋に手を添え体温を確かめると、その手の冷たさに幾分落ち着いたのか 目を閉じ、肩で深い息をする。 「風邪薬とか、ねぇのか?」 薄く目を開けた彼は、その言葉に首を小さく振った。 確か、駅前のコンビニで薬を売っていたような気がする。 「鍵、借りるぞ」 作業ズボンからチェーンごと鍵を外し、立ち上がる。 縋るような視線が、俺を見上げていた。 「すぐ戻るから、ちょっと待ってろ」 -- 6 -- 風邪薬、冷却シート、スポーツドリンク……。 とりあえず、必要そうな物を買い込み、後輩のマンションに戻る。 俺の家とは駅を挟んで反対側。 遠くなる自宅のベッドを思いながら、疲れた身体を引き摺るように歩く。 苦しそうな息遣いが、額に張られた冷却シートで少し緩和されていく。 上体を起こさせ、薬を飲ませる。 喉が渇いていたのか、彼はコップの水を飲み干して、大きく溜め息をついた。 「課長には言っておくから、今日は休め」 ベッドに肘をつき、床に座る俺の顔を、彼は潤む眼で見つめる。 風邪をこじらせて年末年始をベッドの上、なんていう生活も不憫すぎる。 「動けるようになったら、病院行って来いよ?」 そう言って立ち上がろうとする俺の腕を、後輩の手が不意に掴む。 思わぬ障害にバランスを崩し、彼の身体に覆い被さるように倒れた。 何とか肘で支えた身体が、首に回された腕に引き落とされる。 抱き締められるように密着した身体に、強烈に火照った身体の熱が伝わってくる。 「おい、何、する……」 「行か、ないで……なが、せ、さん」 すぐ側に迫った後輩の口から囁かれた言葉に、身も心も強張った。 聞こえなかった振りも、出来たはずだ。 どう行動するべきなのか、咄嗟の判断が、冷たい耳に触れる頬の熱に浮かされる。 彼の身体に体重をかけない体勢を考えていた。 不安定な状態で、かと言って後輩の腕を振り解くことも出来ないまま、緊張の時が過ぎていく。 全ての辻褄が合う、一つの仮説。 そんなこと、あって良いのか。 単なる想像に、得も言われぬ違和感が沸き上がる。 俺の首を抱えていた腕の力が抜ける。 「……すみません」 弱弱しい言葉を合図に、自分の身体を持ち上げた。 眼下にある難波の表情が、一瞬歪む。 「すみません」 再び口にした謝罪の一言と共に、虚ろげな瞳が大きく揺れた。 その光景が、仮説を、証明するようだった。 自宅のベッドの上で、ぼんやり天井を眺める。 睡魔は確実に襲ってきているのに、眠れない。 上司には、後輩の体調不良を連絡しておいた。 携帯には、懐かしい名前の旧友たちから、年末の誘いの返事が戻って来ている。 日常は何も変わらず進んでいるはずなのに、俺の気分は固まったまま動かない。 明日の朝、様子を見に来るからと言った俺に、難波は頷いて答えた。 同性の後輩から向けられる想い。 有り得ない、そう思っているはずなのに、差し出されている手を振り払えない。 その手を取ったら、俺は、どうなるんだろう。 どうすれば、この混迷の闇を掃うことが出来るのか、見当もつかなかった。 雪がちらつく早朝。 玄関先で出迎えた後輩の顔は、赤みが抜け、幾分まともになっていた。 「体調はどうなんだ?」 「大分良くなりました。ご迷惑おかけました」 「今晩は、行けそうか?」 「はい、大丈夫です」 それなりの覚悟は、して来たつもりだ。 距離を置いてベッドに座る難波の気配を感じながら、気分をなだめた。 持ってきたペットボトルのお茶を一口飲んだ彼は、小さく息を吐く。 俺の所作一つ一つに、怯えているように見えた。 後輩に視線を投げる。 切なげな表情を浮かべ、彼は呟いた。 「……そろそろ、帰らないとまずいですよね」 下手な嘘。 それに俺が気が付いていることも、分かっているんだろう。 「疲れてるところ、いつまでも引き止める訳には……」 取り繕うように付け加えられた言葉が、気分を逆撫でするようだった。 「バカだね、お前」 寂しそうに眉間に皺を寄せる顔が、俺を見る。 「俺が訳分かんなくなってんのに、お前まで迷うなよ」 カーテンの隙間から、光が漏れている。 いつもなら、とっくにベッドに入っている時間。 でも、このまま帰ったところで、どうせ今日も眠れない。 それなら、ここにいたって、同じだ。 「帰って欲しいのか、欲しくないのか、はっきりしてくれ」 「……帰って欲しく、ない」 彼の素直な気持ちに、不思議と迷いが晴れて行く。 闇を照らしてくれるのは、その想いなのかも知れない。 「じゃあ、初めから、そう言えって」 視線を外そうとする身体を引き寄せ、耳元で冗談めかしく呟く。 「お前のベッド、狭いよなぁ。二人で寝れんの?」 「な……」 「冗談だよ。飯買って来るけど、何かあるか?」 この闇は、きっと一生、無くならない。 震える手を取り、歩く先は、未知の世界。 名付け方の分からないおぼろげな感情は、二人の足元を照らすだけ。 けれど、例え、その手が離れたとしても、想いが点す光が互いの道標になる。 狭いベッドに背中合わせで眠る後輩の息遣いを感じながら、そんなことを考えていた。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.