いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 光陰 --- -- 1 -- 「須崎、今何時だ?」 駅前にある喫煙所で、後輩に時間を尋ねる。 彼は自身の左手首を覆うスーツの袖を少しだけ捲り、時間を確かめた。 伏し目がちな眼が、俺に向かって滑ってくる。 「もう、10分前ですよ」 「じゃ、行くか」 今日は、黒のゴツいやつ。 大柄な彼の身体には、まぁ、丁度良い感じの大きさなのかも知れない。 そんなことを頭の中で考えながら、俺は灰皿に吸殻を放り込んだ。 会社の周りの飲食店は、何処も昼時になると禁煙になる。 だから、飯を食った後、近くの喫煙所で一服して、後輩に時間を確認してから会社に戻る。 それが、ここ最近の俺の昼休みのサイクルだ。 「辺見さん、いい加減、時計買ったらどうですか?」 会社に戻る道すがら、須崎はいつものようにそう言った。 時計は嫌いだ。 特に腕時計の、あの手首に纏わりつく感じが苦手だし、時間の確認は携帯で事足りている。 「買ったって、壊したり、失くしたりするだろ?」 「オレも同じ仕事してますけど、壊したことも、失くしたことも無いですよ?」 「お前はマニアだからだよ」 「それは関係ないですって」 一方で、須崎は腕時計の収集を趣味にしている。 俺の部署に配属されてから2年経つが、新しい時計を買ったという話を何十回聞いただろう。 国内のみならず、インターネットで海外の時計を取り寄せることもあるらしい。 若い彼にとって、それは既にファッションの一部らしく 気分やスーツの柄によって着ける物を選んでいるのだそうだ。 「辺見さんに合いそうなものも、ありますよ?」 「だから、言ってんじゃん……俺は」 「いずい、んですよね」 隣を歩く後輩が、俺の方に視線を落としながら悪戯っぽく笑う。 「……そ」 いずい、と言うのは、俺が生まれ育ったところで使われている方言。 何となく居心地が悪いとか、しっくり来ないとか、そんな時に出る言葉だ。 「時計って言っても、腕時計ばっかりじゃないのに」 呆れたような表情の向こうに、会社が入るビルが見えてくる。 それに、すぐに見られる時計なんかしたら、サイクルが狂うじゃないか。 あの短い時間が、俺の大切な、一瞬なんだから。 同性に対して恋愛感情を抱くことは、ごく自然なことだと思っていた子供の頃。 それが世の常識から外れていると知った時、すぐには事実を受け入れられなかった。 誰にも心の中は覗けないと分かっていても、周りの人間に見透かされているような不安。 秘密を抱える恐怖が、何かを慕う情を無意識の内に敬遠させる。 だからなのか、人にも物にも、あまり執着することが無い。 食べ物やタレントのような単純な嗜好ですら、他人に話すのが憚られる。 そこから、知られたくない心の奥底が透けてしまうんじゃないかと、勘ぐってしまうからだ。 それが、この3ヶ月余り。 左手首に視線を落とすあの表情が、頭から離れない。 会社の人間に惹かれるなんて、有り得ないはずだったのに。 自分の気持ちを押し殺すのは、得意だったはずなのに。 眼差しを向けられる時計にすら、嫉妬を覚える。 情けない。 こんな気分に振り回されている自分が。 「そろそろ、行くか」 「そうですね」 須崎と共に打ち合わせに出かける午後。 彼はふと、視線を下に向ける。 青い文字盤に黒のベルト。 文字盤には何の表示も無く、長針と短針が追いかけっこをしているだけ。 お気に入りなのか、よく見かける時計だ。 「そんな時計じゃ、正確な時間なんか分かんないだろ?」 「別に、正確さを求めてないんで」 それじゃ、時計の役割、全否定じゃないか。 「ちゃんとした時間なら、駅にある時計とか、携帯で分かりますし」 「……何の為に、それ、してるんだよ?」 「好きだから、かなぁ。無いと落ち着かないんですよ」 時計の文字盤を指でなぞりながら、彼はそう言って笑う。 好きと言う気持ちをストレートに表現できる羨ましさ。 つまらないことですぐ卑屈になるのは、きっと精神が安定していない証拠だ。 正確な時間を刻む駅のホームの時計は、概ね予定通りの時を示している。 電車をぼんやり待つ俺の耳に、彼の問い掛けが入ってくる。 「そう言えば、最近彼女さんとは会ってるんですか?」 「あ?……ああ、会ってないな、しばらく」 「遠距離って、大変ですよね。オレには無理だな」 -- 2 -- 後輩についた、一つの嘘。 彼が異動して来て、昼飯を一緒に食いに行くようになったくらいのことだろうか。 彼女がなかなか出来ないとぼやく彼から尋ねられた問に、つい発してしまった答。 「辺見さんは、彼女いないんですか?」 「……ああ、地元に、いるよ」 「地元って、北海道ですよね?」 「ん、そう」 「頻繁に会えないんじゃ?」 「まあ、そうだな」 興味深げに質問を繰り返す後輩に、後ろめたさが募った。 性指向を隠す為、自分の恋愛対象は女なんだと軽くアピールする為の言葉が、徐々に心に圧し掛かる。 有りもしない話を作って、他人の関心を満足させる。 どうして、ここまでしなきゃならないんだろうと言う虚しい疲労感が、更に卑屈な自分を作るようだった。 「やっぱオレ、好きなものは傍に置いておきたいんだろうな」 流れる車窓を眺めながら、彼は言った。 「時計と女を一緒にするなよ」 「物と人の違いはありますけど、好きなものってカテゴリでは一緒じゃないですか」 「それは、そうだけど」 こんなにすぐ傍に立っているのに、永遠に辿り着けない距離。 北の大地にいるはずの仮想の彼女の方が、よっぽど現実的にも感じられる。 「他人の気持ち、信じきれないのかも」 ぽつりと呟いた言葉に、思わず視線を上げて彼の顔を見る。 何処と無く寂しげな表情をした後輩は、俺に向かって目を細めた。 「見えないから……でも、傍にいれば、何か感じられるんじゃないかって」 「全部見えたら、ますます信じられなくなるんじゃないのか?良いとこばっかな訳じゃ、無いんだから」 「辺見さんは、本心を見せない人間を信じられます?」 それは、俺のことか。 目の前の男にだけは知られたくない本心をひた隠しにしていることが、少し声を強張らせた。 「その時言っていることが本心か、そうじゃないかなんて、誰にも分からないだろ?」 「まぁ、そうですね」 「俺は、お前の本心が何処にあるかは分からないけど、信用してるぞ?」 伏し目がちな眼が、俺から車窓に移る。 「どんなに傍にいたって見えやしないんだから、お前が本心だと思うことが、本心なんだよ」 「……それくらいの気の持ちようじゃないと、遠距離恋愛なんて続きませんよね」 手繰り寄せて欲しくない部分に、彼は手をかけようとしている。 この会話は、長く続けるべきじゃない。 絶妙なタイミングで、電車は目的の駅に滑り込む。 安堵の溜め息を軽くつきながら、後輩をドアの方へ促した。 平べったく、角ばった文字盤には、歪んだ数字が描かれている。 珍しい時計は散々見せられて来たはずだが、その時計はまた一風変わっていた。 さほど興味の無い俺の眼に留まる様な物を、後輩が見逃すはずは無かった。 打ち合わせが終わり、場の雰囲気が緩んだのを見計らったように、須崎は口を開く。 「その時計、フランスのブランドのものですよね?」 俺より少し年上、40前くらいであろう小出係長は、自身の右手首に視線を落とす。 「ああ、そうなんですよ。ちょっと前にたまたま見つけて」 時計に金をかけるのは、若い独り者の道楽。 そんな風に考えていた俺の認識は、どうやら間違っていたらしい。 左手の薬指には結婚指輪。 独身時代ほどは買えなくなったけれど、今でも時折物色しているんだと楽しそうに話す彼を見て、思う。 「私も、それのちょっと前のモデル、欲しいなって思ってたんです」 「一年とか半年とかで生産中止しちゃいますもんね」 「見つけた時には、既に売り切れてました」 エレベーターホールで話に花を咲かせる二人を見ながら、悶々としてくる。 それがまた、情けなくて、悔しい。 「時計、お好きなんですね」 「ええ、周りから呆れられるくらい」 趣味を同じくする同士を見つけた喜びで綻んだ顔が、こちらを向く。 「本当に。毎日、違う時計着けて来てますから」 気分を取り繕うように、無理やり穏やかな表情を作る。 「結婚するまでに、存分に楽しんでおいた方が良いですよ?なかなか理解して貰えませんから」 人生の先輩のアドバイスに、後輩は幾分的外れと思うような答えを返した。 「でも、これだけは分かって貰えるって、信じたいんで」 いつものように昼食後の喫煙タイム。 喫煙所で携帯を弄っていた後輩が、ふと驚いたような声を上げる。 「あ、小出さんだ」 「え?」 思わず周囲を見回す。 「いや、違います。ブログにコメントが」 「ブログ?」 もしかしたら聞いたことはあったかも知れないが、記憶の中からはすっかり消え去っていた。 須崎が書いているという時計に関するブログ。 自分が持っている時計や、興味を持っている時計に関して綴られた文章が、小さな画面の中に並ぶ。 何日か前に彼が書いた時計のレビューに、小出係長がコメントを寄せたらしい。 「律儀な人だなぁ」 嬉しそうに話す後輩をよそに、ある一点がどうしても気になった。 「お前、時計失くしたことなんか、無いんだろ?」 「無いですよ、オレは」 「これ、お前のブログだろ?」 「そうですよ?」 ブログのタイトルは『時計を失くした男』。 なら、これは誰のことを言ってるんだ? その疑問に、彼は笑って答える。 「別に、誰って訳じゃ無くて。これ見て、気に入るような時計を見つけてくれる人がいれば良いな、と」 -- 3 -- この会社の良くないところは、辞令の発表があまりにも急すぎるところだ。 半期末が迫った9月の下旬。 入社以来所属していた工事部から、営業部への配置転換の辞令が下りた。 しかも、主任から係長への昇進付。 普通なら喜ぶべきところなのかも知れないが、工期が迫った現場を複数抱えた状況の中 引き継ぎや工事費の清算、挨拶回りなど多忙を極める毎日。 降って湧いた朗報を満喫する余裕は無かった。 転属前日の9月末。 課の面子で、ささやかな送別会を開いてくれた。 無礼講とばかりに盛り上がる場の中で、隣に座る須崎も、例外では無かった。 「係長っすか、辺見さん。凄いなぁ」 赤ら顔で発せられるテンションの高い声。 明らかに許容量を超えている。 「新しい名刺とか、もう、あるんすか?」 「あ、ああ……今日の昼くらいに貰ったよ」 好奇心に満ちた顔に負けて、鞄から真新しい名刺の箱を取り出す。 営業部 営業二課 係長。 改めて見る自分の新しい名刺に、期待と不安が入り混じる。 一枚抜き取った紙を後輩に手渡すと、彼はそれをしばらく見つめ、小さな溜め息をついた。 「お前だって、俺くらいの歳になれば係長になるよ」 「そーかもしんないですけど」 少しふてくされたような彼は、傍に置いてあるビール瓶から手酌でコップに注ぎ、それを一気に呷る。 「ちょっと飲み過ぎじゃないのか?」 「いーじゃないですか。このところ、バカみたいに忙しかったんだし」 こんなんじゃ、タクシーで連れて帰ってやるしかないか。 そう思いながらグラスに手を伸ばした時、彼の左腕が視界に入った。 捲ったワイシャツの袖の先に、時計は無かった。 「今日、時計は?」 俺の言葉に、彼は腕に視線を落とす。 「ん?ああ、今日はね、とことん飲むつもりで来たし、失くしたら困るんで」 眠たげな目をしばらく俺に向け、何かを思い出したように鞄の中を探り出す後輩。 「どうした?」 「いや、ちょっと……」 意図の見えない行動を不思議に思いつつ、煙草に火を点ける。 部署が変われば、こうやって彼を隣にすることも無くなるのだろう。 会社と言う組織に所属する以上、いつまでも同じ状況が続く訳でも無いことは覚悟していたけれど 誰にも言えない寂しさは、払拭できそうも無かった。 離れてしまえば、この気持ちは薄れて行くだろうか。 遠過ぎる距離に失望することも、無くなるだろうか。 虚像を語って自己嫌悪に陥る機会が訪れなくなることだけが、救いなのかも知れない。 俺の背後で何かが動く気配がある。 振り向くと、須崎が俺と壁の間で、何かをしようとしていた。 「何、やってんだよ?」 「ちょっと、失礼しますね」 おどけたように言う彼は、スラックスのポケットに入っていたキーチェーンを引き出す。 「おい……」 デカい図体に阻まれ、彼が何をしているのかは見えない。 チェーンの先に付いたリングに嵌る何本かの鍵が、チャラチャラと音を立てた。 「須崎」 「オレからの、昇進祝いです」 鍵束を再びポケットに収めながら、彼は笑った。 「は?」 気になってチェーンを引き出そうとする俺の手を、彼の手が制する。 「見るのは、後で」 「何で?」 一瞬言葉に悩んだような彼の顔から、笑みが消えた。 「辺見さんがどんな顔するのか、怖くて見たくないから」 後輩からの祝いの品を服の中に収めたまま、宴の時間は終わりを迎える。 案の定、潰れかけた須崎を引き摺るように、タクシーに乗り込んだ。 彼の家を経由するように目的地を告げると、車は走りだす。 上がり切った高揚感を、一息ついて鎮めた。 「時間が止まったら良いって、思ったこと、ありますか?」 シートに身を任せ、逆方向の窓に顔を向けたまま、須崎は呟いた。 「え?」 「オレは、今まで、時間が何でも解決してくれると、思ってました」 「まぁ……大抵のことは、そんなもんじゃないか?」 「時間の進みを確かめることで、何となく安心してたんですよね」 街の灯りを受けた彼の顔が、こちらに向き直る。 「ああ、オレは、ちゃんと前に進んでるって」 さっきまでの雰囲気が嘘のような、切なげな表情。 感傷的な想いが、一気にやって来たのだろうか。 「でも、今日は、立ち止まってたかった。だから、時計はして来ませんでした」 おぼつかない足で自宅のアパートへ入って行く後輩を、タクシーの中から見送る。 いつでも前を向いていたような彼の、後ろ向きな言葉が胸に残った。 先に進まないと言うことは、将来にあるかも知れない幸せに、淡い期待すら抱くことも出来なくなる。 心を侵食している様々な不安も、溜まったままになってしまう。 俺なら、こんなところで、時間が止まって欲しくは無い。 シートに座り直した時、やや重みを増したポケットの中身のことを思い出す。 チェーンを引き出し、その先に付いた鍵と、新たに付けられた物体を掌に載せた。 500円玉より少し大きなくらいのそれは、青い文字盤の懐中時計。 彼のお気に入りの時計と同じように、文字盤には文字は無く、二本の針がゆっくりと動いていた。 流れて行く街の灯りを受けて、文字盤が淡く輝く。 これが彼の言う、いずくない時計、なんだろう。 思わぬプレゼントに、嬉しさと、寂しさが込み上げた。 この時計と引き換えに、あの表情が、日常から消えて行くのだから。 見慣れた風景が車の外に広がってくる頃、スーツの胸ポケットに入れていた携帯にメールが届いた。 「今日はお疲れ様でした。たまには、覗いてみて下さい」 そんな文面の下に並んだURL。 アクセスすると、彼のブログに繋がった。 前に見た時と少し雰囲気が変わったのか、若干の違和感が小さな画面から伝わる。 最新の記事に張られていた画像は、今まさに、俺の手の中にある時計。 -- 4 -- これは、オレが初任給で買った超お気に入りの時計です。 そんなに高価なものではないけれど、何よりデザインに惚れて、ずっと欲しいと焦がれていたもの。 時計にハマるきっかけとも言える物かも知れません。 持ち歩くのも怖くて、本当に特別な時にしか身に着けませんでした。 でも、今はもう、手元にはありません。 大切な人に、あげてしまいました。 後悔が無いと言ったら、嘘になる。 でも、その傍で、いつも時を刻んでいてくれるなら、それだけで幸せです。 ちゃんと、前に進めるように。 文章を最後まで読み終わり、違和感の正体に気が付いた。 ブログのタイトルが、前と違う。 『時計を見つけた男』 俺が言った通りじゃないか。 どんなに傍にいたって、やっぱり、本心は分からないんだ。 慣れない営業の仕事に就いてから1ヶ月。 外回りの業務が殆どなこともあり、会社にいることは少なくなった。 たまたま社内で昼食時間を迎えた、ある日。 久しぶりに会社の近くで飯を済まし、喫煙所で一服をする。 すっかり習慣になった、時間の確認。 ポケットの中から覗く文字盤は、あと一本煙草を吸う余裕を教えてくれる。 火を点けて、溜め息と共に煙を吹き出す。 流れて行く霞を目で追いかけた先に、見知った顔が揺らいだ。 「久しぶりですね。今日は会社にいたんですか」 穏やかな笑顔で、そう声を掛けてくる。 「ああ、午後から、また出るけどな」 「忙しそうで、何よりです」 「その分、工事部だって忙しくなるんだぞ?」 「ま、そうですけどね」 懐かしい日常が帰って来たような感覚。 時計に刻まれた彼の想いだけに縋って過ごした時間が思い起こされる。 また、あの顔が、見たくなった。 「須崎、今何時だ?」 「え?」 不思議そうな顔をした後輩が、意を解したように、左手首に視線を落とす。 まるで俺の時計とお揃いみたいな、彼お気に入りの時計が見えた。 向けられた視線を受け止めた一瞬が、改めて彼への想いを突きつける。 「もうちょっとで、50分ですよ」 「じゃ、そろそろ行くか」 顔を合わせることが無くなった代わりに増えたのは、後輩が綴る文章を読む時間。 このところ彼が取り上げる話題は、腕時計から懐中時計にシフトして来ているようで その見え見えな魂胆が可笑しくもあり、嬉しくもある。 誰もいなくなったフロアの机で、お気に入りの時計を手にする。 一秒一秒を刻んで行く針を追いかけながら、確実に前に進んでいることを実感した。 安心できると言った彼の気持ちが、少し理解できるような気がしてくる。 何周分、見続けていたのだろう。 「今、何時ですか?」 不意に聞こえた声に、思わず振り返った。 薄暗いフロアに、大きな影が映る。 「え……?今……9時、半前」 「まだ、仕事残ってます?」 「いや、もう、終わるけど」 「じゃ、久しぶりに飲みに行きません?」 笑いながら隣の席の椅子に座る後輩は、そんな提案をして来た。 突然なことで、しどろもどろな俺とは対照的な表情を浮かべる彼が、俺の手を取る。 重なり合った手の中で、細い針が着実に円を描いていく。 すぐ傍で、時計に目を落とす彼の気配。 薄れて行くはずも無い。 妙な緊張感の中で吐き出した溜め息が、目の前の男の前髪を揺らした。 「気に入って貰えました?」 帰り支度をする俺に、彼は尋ねた。 「ああ、大分手に馴染んで来たよ」 「オレの役目、もう、終わりかな」 「そんな訳、ねぇだろ」 つい口を衝いた言葉に、次が続かない。 軽い音を立てて、PCがシャットダウンした。 空間が、フッと暗くなる。 「やっぱ、オレ、好きなものは傍に置いておきたい」 立ち上がった彼が、更に視界を遮る。 恐くて、目を合わせることは出来なかった。 彼の身体を避けるように、廊下に向かって歩みを進める。 「……奇遇だな」 もどかしげな雰囲気に押し出されたのか、本心が顔を出した。 「俺も、一緒だ」 着実に歩みを進める、手の中の時計。 期待も、不安も、少しずつ俺の中で形を変えて行く。 仮想の彼女に別れを告げ、素直に好きだと言える存在を傍に感じながら 青い文字盤に映る想いを噛み締めた。 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.