いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 証跡 --- -- 1 -- 一人暮らしをするようになってから、めっきり魚を食わなくなった。 外食・コンビニを繰り返す毎日。 当然と言えば、当然かも知れない。 小さい頃は嫌と言う程食べていて、やっと解放されたと思っていたのは若い内だけで 30代も半ばになり、嗜好が元に戻って来たような気がする。 昼よりも夜の方が活気のあるこの街。 定食屋らしき店も多くなく、昼食をとる場所もおのずと決まってくる。 「いらっしゃいませ~。お一人ですか?」 最近、ちょくちょく通っている、ランチもやっている居酒屋。 魚メインのメニューが多く、何回か訪れる内にすっかり落ち着いてしまった。 今日は妙に混んでいる。 狭いテーブル席に座れただけでもラッキーだったのかも知れない。 ぼんやり携帯を眺めていると、席に促してくれた女の子が近づいて来た。 「すみません、お客様」 「はい?」 「相席、お願いしても良いですか?」 店の入り口に視線を向けると、つまらなさそうな顔をした若い男が立っている。 「ええ……構いませんよ」 金髪の男は大して表情も変えず、俺に軽く会釈をして、向かいの席に座る。 そのちょっとした行為に、見た目から受ける印象が少しだけ良い方に傾いた。 日替わりの金目鯛の煮つけがやって来る。 小さ目の魚が頭付きで丸々一匹。 やっぱり冬はこれだよな、そんなことを考えながら、柔らかい身に箸を入れる。 箸を付けて間もなく、彼の前にも同じものが置かれた。 しばらく携帯を弄った後、彼は箸を持ち、俺の皿に目を向ける。 不意に向けられた視線に居心地の悪さを感じながら、箸を進める。 しばらくして見飽きたのか、左腕を下ろしたままで彼は食事を採り始めた。 人の食べ方が気になるのは、自分ではあまり良い癖だと思っていない。 母の躾が厳しかったせいか、唯一人から褒められるのが食べ方。 特に海沿いの街で育ったせいか、魚の食べ方は、他人に言わせれば実に見事らしい。 「食べ方が綺麗な人って、それだけで良い人に見えるよね」 と言う思わせぶりな言葉を、何回女から聞いただろう。 しかし、そう言われれば言われるほど、他人の食べ方が気になってしょうがない。 目の前の若者の食べ方は、そんな俺の癖を掻き立てるものだった。 適当な箸の持ち方に、迷い箸、ねぶり箸。 ご飯粒が付いたままの茶碗。 酷い姿になってしまった煮魚。 前髪が食べ物に付いてしまうんじゃないかと思う程の犬食い。 若いからって許されるもんじゃないと思いつつ、いちいち腹が立ってしまう自分が情けない。 そんな俺の思いを、もちろん気にすることも無く 後から食事が来たにも拘らず、彼は余韻を楽しむことも無く、さっさと食べ終わり席を立つ。 その背中と、まだまだ食べるところが残る金目鯛を眺めながら、手元の味噌汁を飲み干した。 ふと顔を上げると、振り返った彼と目が合う。 あどけない中に浮かぶ何処か寂しげな表情に、思わず動きが止まった。 一瞬だけ心に留まった彼は、そのまま向きを変え、店から出て行った。 今まで周りを気にしていなかったからなのか、単なる偶然なのか。 あれから、昼時、例の彼を見かけることが多くなった。 サラリーマンだらけの中で、チャラい風貌の男は良く目立つ。 席が近くなることもあれば、全く見えない時もある。 時間帯もバラバラだったけれど、入口に立つ姿が何故か目に入る。 きっと、歳は一回り以上違うだろう。 食べ方だって不愉快だ。 それなのに、素性も分からない男を気にかけてしまう理由が、分からなかった。 ある日の昼休み。 仕事が押し、出遅れた形でいつもの店へ行った。 「すみません、今、いっぱいで……相席でも宜しければ」 申し訳なさそうな顔をした女の子が、そう告げる。 別に構わない旨を伝えると、彼女はそれを引き受けてくれる客を探しに店の奥へ戻った。 しばらくして、通路の角から顔を出して俺を呼ぶ。 赴いた先にいた顔を見て、何となくホッとした自分がいた。 「悪いね、ありがとう」 その言葉に、相変わらず無作法な食べ方で食事をかき込む彼は、視線を上げる。 「……前に、オレも、して貰ったから」 早い時間に来たのだろう。 彼の前から、定食の姿は殆ど消えつつあった。 俺が頼んだホッケの開きが来たのは、彼が箸を置き、携帯を弄り始めてすぐだった。 皿の上に置かれる視線を何となく感じながら、目の前の食事に集中しようとする。 多少焼き過ぎの感があったものの、魚は十分美味い。 小鉢に入った竹輪の煮物を一つ口に入れたタイミングで、小さな呟きが耳に入った。 「綺麗に食べるよね」 手元にあった麦茶で竹輪を押し込み、その言葉に答える。 「そう?」 「オレのオヤジも、そんな風に食ってた」 父親と一緒にするなよ。 そう思ったすぐ後で、多分、彼の父親とはそれほど歳は変わらないんだろうと気が付いてガッカリする。 「良い親父じゃない」 「……もう、いないけど」 思いも寄らない突然の独白に、つい、箸が止まった。 -- 2 -- 昼休みのスタートが遅かった分、会社に戻るのも遅くて良い。 客もまばらになった店内で、俺は狭いテーブルに彼と向かい合わせに座っていた。 正確に言えば、その父は、二人目の父だと言う。 高校を中退し、同じ年の彼氏の子供を産んだ母。 当然と言うべきなのか、彼女はシングルマザーとなり、彼を育てて来た。 程なく再婚したのが、パート先のスーパーで出会った男。 小学生になるかならないかの彼にとって、初めての父と言う存在は大きな衝撃になったのだろう。 良くも悪くも、彼はその男から様々な影響を受け、徐々に惹かれていく。 「でも、おふくろは、あの人に飽きたんだろうな」 再婚して2、3年も経つと、両親の仲が冷えて来ていることを子供ながらに感じるようになる。 「ある夜、どっかに出てって、それっきり」 自分が飽きた男に懐いた子供に、未練は無かったのだろうか。 未だに、母からの連絡は無いと言う。 彼が中学校に上がる頃、結局家族の輪は切れる。 妻の実家に血の繋がりの無い子供を預け、父はその元から離れて行った。 愛が足りなかった、そう結論付けるのは性急なのかも知れないけれど 彼は、誰からも必要とされない苦しみを一人抱え、歪んで行く。 「オレ、戸籍のこととか、よく分かんないけど」 女の子が注いでくれたお茶を飲みながら、彼は薄く笑う。 「どうなってんだろ、オレ、ちゃんとこの世に存在してんのかなって思うと……怖い」 彼があんな話を俺にしたのは、恐らく、俺に父の姿を重ね合わせているからなのだろう。 想像するなり、不思議な気分になる。 別にそれは不快な感情ではないまでも、少し重い感じがして、戸惑いがあることも確かだった。 それでも、昼時、彼と卓を共にすることが多くなるにつれ たわいも無い若者の戯言を聞いている時間が、迷いを和らげてくれるような、そんな気がしていた。 北風に雪のようなものがちらつき始めた冬の日。 ダウンジャケットを脱いだ下に現れた服装は、珍しいものだった。 「……何?」 乱れたスーツ姿の彼は、ネクタイを外しながら尋ねる。 「いや、珍しいなと思って」 「ちょっと……就職活動」 お世辞にも着こなしているとは言えないスーツ、しかも髪の毛は金色のまま。 どう頑張っても、そこら辺のホストかポン引きにしか見えない。 「俺が人事なら、そんな格好で来た奴は門前払いだぞ?」 「そん時は、ちゃんと着るし」 いつものように携帯で間を持たせながら、彼はそう言って俺を見た。 そういや、こいつの金の出どころは何処なんだろう。 やって来た定食に箸を付けながら、そんなことを考える。 就活をしていると言うことは、学生か、フリーターか、水商売か。 仕事の話になったことは無いし、かと言って金に困っている風の話も無い。 気にならない訳では無いけれど、自ら話すまでは聞かないでおくのが良いんだろうとも思う。 「葛西さんは、どんな仕事してんの?」 ケンゴ、と名乗った彼は漬物を小気味良い音を立てながら食べ、聞いてくる。 「ん?営業」 「へぇ……何か売ったり?」 「いや、ゼネコンとか行って仕事貰ってくる、御用聞きってとこかな」 少し自虐を込めて言った言葉に、彼の表情が少しだけ曇った。 「じゃ、羽振り良いんだ?」 「んな訳無いさ。いつまで経っても、不況のまま」 傍から見れば、好況に見える業界なのだろうか。 数年前に一気に冷えてから、浮き上がる予見は微塵も無い。 「ま、お勧めできる業界じゃ、無いぞ」 気が滅入る様なメールが来たのは、その日の夕方だった。 『明日の夜、開けとけよ』 同期の首藤から来たのは、お得意様のゼネコンの忘年会に関する報せ。 「勝手なこと言いやがって……」 都合を聞くことも無く、もう既に参加決定と言わんがばかりの文面に、つい愚痴が出た。 今月に入り、忘年会はもう5回目。 正直、酒を見るのも嫌になって来ている。 『一次会で帰るから、後宜しく』 半ば自棄気味に、そんなメールを同僚に返した。 翌日、珍しく昼時に同期と顔を合わせる。 「葛西、一次会で帰れるなんて思うなよ?」 「俺にだって、都合ってもんがあるんだよ」 「客の前で、そう言ってくれ」 「そもそも、何で俺なんだ」 基本、大手のゼネコンは決まった人間が担当することになっている。 俺の担当は中堅ゼネコンかサブコンが多く、そこの忘年会に出るのは初めてだった。 「他の大手とぶつかったんだよ。オレだけじゃ、忠誠心を示せないってさ」 「いつまで経っても、ゼネコン様、か」 俺たちは尽きない愚痴を言い合いながら、いつもの店へ向かった。 タイミングが早かったのか、若者はまだ来ていなかった。 今日は相席は無理だな、そう思っていた時、入口に立つ姿が見える。 しかし、こちらを見やった彼は、酷く驚いた顔をし、踵を返して店を出て行った。 その背中に疑問を投げかける俺の視線を、同僚は追いかけたのか。 「知り合いか?」 「ん?最近、ちょくちょく飯食ってる時に会うんだよ」 「ふ~ん……」 何かを考えるような顔をする首藤の前に、海鮮丼を乗せたお盆が運ばれてくる。 「どうした?」 「いや、どっかで見たような、気が」 「この辺歩いてれば、顔くらい目にするんじゃないのか?」 -- 3 -- 場末の料亭で開かれた忘年会。 寂れた広い座敷に、ざっと50名ほどの大所帯がひしめき合っていた。 空調が上手く効いていないのか、寒々しい空気が眠気すら呼び起さない。 下座で大して美味しくも無い料理に手を伸ばしながら、たまに客の元へ酒を注ぎに行く。 人数が多いことが却って、面倒事を減らしてくれているようだった。 上座に座るのは、ゼネコンの取締役であるご老体。 酒宴が好きで、外部役員と言う名目にも関わらず こう言う場にちょくちょく顔を出すというのは、下請けにも知れ渡っているらしい。 その男の隣には、甲斐甲斐しく世話をする若いスーツ姿の男。 一見すると学生にも見える程の青年は、老人の視線を一身に浴び、奇妙な雰囲気を醸し出していた。 「何だ、あれ?」 温くなったビールを呷り、一つ溜め息をつく同僚に、それとなく聞いてみる。 「ああ、あの爺さん、ああいう趣味なんだってさ」 「ああいう趣味?」 呆れたような表情を作る彼は、嫌悪感を纏わせた声を出す。 「いっつも違う若い男、連れて歩いてんの」 「秘書とか、社員じゃなくて?」 「まさか。若くて可愛い、男が好きなんだってさ」 「マジで……気持ち悪」 孫と祖父ほどの歳の差があるであろう二人の男。 その関係を想像するだけで、底冷えが酷くなる気がする。 客の接待にうんざりしていたところにやって来た、好奇の対象。 「あいつらって、もちろん、金貰ってるんだろ?」 「ホントかどうか知んねぇけど、札束で金渡してんのを見たって、内装屋が言ってたぞ」 「何だよ、それ」 「お前なら、やる?」 「やる訳ねーだろ?」 「でも、一晩で100万だぞ?」 「勘弁してくれよ。酌するのだって、仕事だからやってんのに」 各種贈答品、飲み会、ゴルフコンペ……とかく下請けが上に金を流す機会は多い。 その金がこんな使われ方をしていると考えると、自分の安月給も相まって無性に腹が立つ。 「あんなのにくれてやる金があるんなら、少しでもこっちに回せってな」 全くだ、そう笑う内に、会は何となく収束の雰囲気を見せて来る。 「思い出した」 帰り際、コートを羽織りながら首藤が呟く。 「何を?」 「お前が、いっつも飯食ってるっていう男」 「何だよ?」 少し眉間に皺を寄せた同僚は、座敷の奥を見やり、答える。 「爺さんの世話してた。ちょっと前の、飲み会で」 彼の視線の先では、若い男が老人に肩を抱かれ、引き寄せられていた。 戸惑いの表情を浮かべる青年は、それでも抵抗することなく、されるがままになっている。 周りの大人たちは、見て見ぬ振りをしながら帰り支度を始めている。 自分に火の粉がかからないように、それが正しい態度だと信じきっているのか。 醜い欲求を一人押し付けられた若者が、少し、不憫に思えてくる。 そして、脳裏に浮かぶ、ケンゴの愁いを帯びた顔。 「俺、ここの担当じゃなくて良かったわ」 わざと聞こえるように言った独り言に、同僚は苦笑いで答えた。 あの時、彼が去って行ったのは、同期の顔を覚えていたからなのだろう。 警戒しているのか、それから彼を見かけることは無くなった。 昼休みギリギリの時間まで待ってみたりもしたけれど、やっぱり、彼は現れなかった。 忘年会ラッシュもひと段落し、今年も残すところ1週間ちょっととなった年末の日。 挨拶回りで大きく昼時を逃した為、店に入ったのはランチタイム終了間近の時間だった。 「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」 手持無沙汰そうにカウンター席に座る女の子は、そう言いながら立ち上がる。 中を見回しても、客は殆どいない。 奥の広いテーブルにでもと足を進めた後で、先客がいることに気が付いた。 「ここ、良い?」 気まずそうな視線を受け止めながら、4人掛けの席の対角線に座る。 「……こんな時間、珍しいね」 「外回りで、飯食ってる暇無かったんだよ」 コートを脱ぎながら、テーブルの上に置かれた彼の膳に目が行く。 すっかり綺麗になった皿から、今日のメニューを察する事は出来なかった。 見下ろす視線を、見上げる眼差しが揺らがせる。 「見てる内に、何となく、コツが分かって来たって言うか……」 バツが悪そうな顔で、彼はそう言う。 「成長したじゃん」 「ガキ扱いかよ」 「俺から見れば、十分ガキなの」 どうやら今日の日替わりは、カレイの煮つけだったらしい。 減り過ぎた腹が逆に食欲を削っているのか、あまり箸が進まない。 休み休み口に運んでいると、心配そうな声が聞こえてきた。 「調子、悪いの?」 「いや、そう言う訳じゃ無いけど」 顔を上げた先にあった彼の面持ちに、改めて幼さを感じる。 あれが、お前の仕事なのか? 何で、あんなことやってるんだ? 向けられた素直すぎる表情に、つい、溜め息が出た。 -- 4 -- 「何か……聞いた?」 珍しく残してしまった定食を前に、彼は窺うような目をして聞いてくる。 疑念を見透かされたような気がして、言葉に詰まった。 「……別に、何も」 「……そう」 軽く俯いた彼は、携帯を閉じて席を立つ素振りを見せる。 「俺、来週の水曜が仕事納めだから」 薄いダウンジャケットに袖を通しながら、その言葉に小さく頷き、席を離れて行った。 だから、ちゃんと、昼時に来い。 俺が付け加えたかった欠片を、彼は読み取ってくれたのだろう。 仕事納めを明日に控えた昼休み、店の前で彼と顔を合わせた。 「どうした?混んでるのか?」 その問に、彼は軽く首を横に振る。 紅潮した頬が、しばらくの間ここに立ち、寒風に晒されていたことを想像させた。 「風邪ひくぞ」 そう言って彼の肩に軽く手を置き、店の中に促した。 今日の定食のメニューは、イワシのつみれ汁とサンガ焼き。 故郷でよく食べられる味に懐かしさを感じながら、口に運ぶ。 「年末は、どうするの?」 左手で茶碗を持つことを覚えた若者は、そんなことを聞いてくる。 「ん?休みも短いし、ちょっと帰省して終わりだろうな」 「帰省?」 「千葉の、御宿ってとこ。こんな時じゃないと、帰らないから」 「へぇ……いつ?」 「大晦日に帰って、元旦には戻って来るよ」 「短いね」 「4日から仕事だからな。あっちにいたって、何もすることないし」 実際、友人の殆どは所帯を持ち、実家にも姉夫婦が同居。 地元に帰ったところで、肩身が狭い思いをするだけ。 父との関係も、正直良好とは言えない。 家族に顔を見せた後は、旧友がやっている旅館の部屋で酒を飲みながら年を越すのが ここ数年の正月の過ごし方だった。 それでも帰りたいと思うのは、あそこの海と空気が好きだからなんだろう。 「ケンゴは、どうするんだ?」 「オレは……バイト」 ふと逸らされた眼が、その内容を語っているようだった。 「明日は、来れないから。今日が、最後かなって」 「そ、か」 「良いな、オレも、帰省とかしてみたい」 「お祖母さんが、いるんじゃないのか?」 「今更戻ったって、嫌な顔されるだけだし」 複雑な過去、猥雑な現在。 その心の内を想像もできない俺には、今のこの一瞬だけでも、素の彼に戻してあげることが精一杯だった。 「また、来年な」 店の外でそう笑いかけた俺に、彼は自らの手を差し出して来る。 握った手は、食事の後とは思えない程、冷たかった。 「また……会えるかな」 寂しげに呟いた彼の指が、俺の指の間に割って入る様に絡んでくる。 たった一週間の空白すら、彼には不安なんだろうか。 「お前がそう思うなら、会えるだろ」 手に力を込めると、彼の表情が心なしか柔らかくなる。 揺れる瞳をこちらに向けながら、僅かに唇に笑みを湛えて、彼はその手を離した。 その流れを堰き止めることは、出来ないんだろうか。 無情な世の中に流されて行くだけの彼に、俺は時々、手を振るだけ。 行く末に幸せなど無いと諦めきっている心を温めてやることも出来ない。 風に煽られる金色の髪が、陽の光を受けてキラキラと輝く。 自分の無力さを、しみじみ思い知った。 晴れ渡った空に、僅かに感じる海の気配。 年末の故郷は、実に穏やかな雰囲気で出迎えてくれた。 『まもなく、御宿駅に到着します。お出口は……』 高校時代まで過ごした、懐かしい街。 青と黄色に彩られた特急電車が駅に入線して行く。 ホームに降り立つと共に、顔を撫でる潮風。 温暖な気候とは言え、真冬の日暮れ時は流石に寒い。 コートの襟を立て気味にして改札に向かう途中、駅のベンチに座っている人影に目を奪われた。 どうして、ここにいるんだ。 -- 5 -- 乗降客が消えた駅のホームで、若者は身を屈めていた。 俺が近づいていくと、その顔がこちらを向く。 まるで道に迷ってしまった子供のように、歪んだ表情をしている彼は やおら立ち上がり、俺に抱きついて来た。 「会いたかったんだ……どうしても、会いたかった」 何度もそう言葉を繰り返しながら、身体を震わせる。 「ずっと、待ってたのか?」 コートに顔を埋めながら、彼はゆっくり頷いた。 顔に触れる髪の毛すら、冷たく感じる。 耳を温めるように手を当て、顔を上向かせた。 「俺が、来なかったら……どうするつもりだったんだ?」 今にも泣きだしそうな眼が、揺らぐ。 考えないようにしていたのかも知れない。 その顔に、言ってしまったことを後悔した。 「……ごめん」 声を絞り出した彼の頬を、涙が伝っていった。 「連れがいるなら、事前に言ってくれよ」 旅館の若旦那である植草は、困ったような笑い声を上げながら部屋に案内してくれる。 「ま、二人なら問題ないと思うけど」 「悪いな、ちょっと急だったんで」 旧友は、僅かな距離を置いて後ろを歩く若者にふと視線を向けた。 「どういう関係なんだ?」 「ちょっと、友達」 「あんなのと?」 「おかしいか?」 「おかしいだろ?隠し子とかじゃないんだろうな?」 「んな訳ねーだろ?」 「……ま、良いけど」 窓の外には、一面の太平洋。 傾いた陽が、折り重なる様な暖色のグラデーションを生みだしていた。 「こんな部屋じゃなくて、良いって言ってんのに」 初日の出をいち早く拝みたい、そんな旅行客が多く泊まるこの宿。 海を臨まない、それほど人気の無い部屋で良いと毎年言っているのに、友は必ず特等席を用意する。 「友達だろ?年に一度くらい、良い格好させてくれ」 その理由は、恐らく、彼と彼の奥さんを引き合わせたのが俺だった、と言うことにあるのだろうが もう20年も前の中学生の頃のことを、彼は義理堅く、今でも感謝しているらしい。 「飯は良いんだよな?」 窓際に設置された炬燵のスイッチを入れながら、植草はそう聞いてくる。 「ああ、実家から貰ってくるから」 「酒とソバくらいは出してやるよ」 「恩に着る」 部屋の隅に佇む若者に一瞬目をやり、ごゆっくり、と言って友は部屋を出て行った。 「入ったら?寒いだろ?」 そう声を掛けると、彼は何も言わずに炬燵に入り、俺を見た。 「何で、実家に泊まんないの?」 当たり前の疑問を、改めて突き付けられる。 いつも聞き役で、自分の身の内を彼に話したことは無かった。 「俺、親父、大っ嫌いなんだよね」 厳しい、と言うよりは、理不尽な父だった。 自分の気に入らないことは決して受け入れない。 子供の頃から、やることなすことに反対されて来た。 当然の如く俺が家業を継ぐものと考えていた父は、大学進学の意思を伝えた時、一笑に付した。 「出来の悪いお前が、大学なんかに行って、何になる?」 結局、高卒で就職し、夜間の大学を出たのは25歳の時。 姉が結婚し、義兄が店を継ぐと言う話が決まるまで、一切、実家には顔を出さなかった。 「そう、なんだ……」 神妙な面持ちで話を聞く彼の顔から、夕日の赤みが徐々に消えていく。 年の瀬の静かな雰囲気が、部屋に充満していた。 「もう、今いないとしても、良い思い出で残ってくれてる方が、良い親父なのかもな」 拗れた関係を憂う溜め息が消えていく。 いつもは一人、この部屋で悶々としていた憂鬱な時間が、傍に座る男のせいか少し明るく感じた。 不意に響く携帯の着信音。 相手は、姉だった。 何やってるんだ、何処にいるんだ、そう早口でまくしたて、一方的に電話を切られる。 そう言えば、夕方には顔を出すからと言う約束をしていたことを思い出す。 「ちょっと、実家に行ってくる」 立ち上がる俺に、彼の視線が刺さる。 「すぐ戻るよ。心配しないで良いから」 -- 6 -- 「遅いじゃない」 不機嫌そうな姉の声に迎えられ、俺は一年ぶりの実家の玄関に立った。 店は年末ギリギリまで開けており、父と義兄が家にいないことは知っている。 「電車が遅れてさ」 「なら、連絡くらいしなさいよ」 なだめるように、彼女の後ろで顔を覗かせる姪に土産の袋を差し出した。 「義之くん、ありがとー」 女の子は満面の笑みで抱えながら、家の奥へと走って行く。 「ひかり、走っちゃダメ!」 「……あの呼び方、何とかなんないの?」 「しょうがないわよ。パパの呼び方、真似ちゃうんだもん」 台所では、忙しそうに夕飯の準備をする母の姿があった。 「遅かったのね」 手を休め、彼女はそう言って微笑んだ。 「ああ、ちょっと」 「今日は、泊まって行かないの?」 「今年は……友達と来てるから」 「一緒でも構わないのよ。部屋だって、空いてるし」 「……気にしないで」 小さく溜め息をついた母は、紙袋に入った小さな折を手渡して来る。 「お友達と一緒なら、もう少し持って行く?」 寂しげな目でそう言う姿が、切なかった。 「いつも多い位だから、丁度良いよ」 一年の最後にこんな気持ちにさせることが申し訳なくて、俺は無理やり笑顔を返す。 母が出してくれたお茶を飲みながら、自分の存在が消えた家の中を眺める。 「家族って、何なんだろう」 つい口を衝いた言葉に、母は少し間を開けて答えた。 「そうね、自分が確かにそこにいる、証明みたいなものかしら」 「証明?」 「お父さんと、お母さんがいるから、千春と義之がいる。千春と彰さんがいるから、ひかりがいる」 脈々と続く、家族の流れ。 母は何かを想像するように、宙を見つめながら続ける。 「決して一人じゃないって言う、証明」 家族の輪から零れ落ちてしまったと思っている俺に、彼女は言い聞かせるような口調で言った。 部屋に戻ると、日はすっかり暮れていた。 夜の闇が空間を染め、窓から入ってくる仄かな月明かりが金色の髪を照らしている。 天板に頭を乗せて窓の外を向く彼は、寝入ってしまっていたのだろうか。 起こさないように、灯りを付けずに近づく。 炬燵の傍に立つタイミングで、声が聞こえた。 「お帰り」 「寝てたか?」 「ううん、外、見てた」 ゆっくりと上半身を起こした彼は、静かに俺を見上げる。 「……良かった」 安堵の声が、胸に沁みる。 しゃがみ込み、彼の頭を胸元に抱え込んだ。 深い息が、コートを抜けて肌を温める。 「腹、減っただろ?」 「……うん」 繁華街で男に声を掛けられたことが、始まりだったと言う。 金持ち相手に若い男を斡旋するブローカー。 大金と引き換えに、自分の身体を差し出す毎日。 渡された金の殆どは雇い主に抜かれ、手元に残る金は、それほど多くは無いのだと言う。 「こんなの嫌だとか、こんなの違うとか、そんなこと、思わなくなった」 植草が持って来てくれた地元の酒を飲みながら、彼はそう溜め息をついた。 「オレの人生、こんなもんなんだって、思う以外になかったから」 「今は、違うのか?」 俺から外れた視線が、二人が映り込む黒い窓に移る。 「こんなオレ……嫌いでしょ?」 彼の頭に手を伸ばし、髪を撫でる。 「嫌われたくない……だから、変わりたいって、思ってる」 「別に、嫌ってなんか」 「オレが、どんなことしてるのか知ったら、絶対そんなこと言えない」 窓に映る彼の顔が、苦しげに歪んだ。 傍から見ているだけなんて、もう、出来ない。 「こっち向けよ」 彼の目に映る自分の姿が、上下に揺れる。 炬燵の天板に投げ出された手を握りしめた。 「何があっても、嫌ったりしないから。手、離すな」 目が覚めてすぐに視界に入って来たのは、窓際に佇む若者の姿だった。 微かな衣擦れの音に、彼は振り返る。 明るくなってきた外の陽光が、その表情を暖かなものにしていた。 「もうすぐ、太陽が出るみたい」 言葉通り、窓の外には白く輝く水平線が見えた。 浴衣に袢纏を羽織って尚寒そうにしている彼の身体を、背後から抱きしめる。 「ケンゴ」 「……何?」 「もう、一人じゃ、無いから」 海から僅かに太陽が顔を出して来る。 眩しさで細くなった視界に、彼の髪の毛が光を纏って入り込む。 首に回した手に、水滴が落ちた。 「すげー……綺麗」 「ああ、そうだな」 耳を重ねるように顔を触れ合わせ、二人で同じ日の出を眺める。 ありがとう、そう小さく呟く声が、迷いを溶かした。 戸籍の父の欄に、名前は無かった。 母の欄には、死亡、の文字。 一枚の紙を真剣に見つめていた彼は、顔を上げて問う。 「本当に、良いの?」 幾分不安を抱えた肩を叩き、窓口へ彼を促す。 一人じゃない証明。 それを得る為に、手にした用紙を差し出した。 「養子縁組、したいんですけど」 Copyright 2011 まべちがわ All Rights Reserved.