いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 朝凪 --- -- 1 -- 闇が、背後の彼を仄かに映す。 甘い不安は、いつしか日常になり、心の中に溶けていく。 あれから3ヶ月あまり。 彼との関係はさほどの変化を見せることなく、相変わらずの日常が続いていた。 「おはよう」 「おはようございます」 一日の始まりを感じさせてくれる笑顔と声。 俺よりも一つ年下の彼との会話は未だ敬語の状態で それは彼の性格なのか、まだ二人の関係が曖昧なせいなのかは分からない。 けれど、ホンの少しずつ解けていく言葉の一句一句が耳に届く度に 何となくその距離が縮まるようで嬉しかった。 同性愛者である彼と、そうではない俺。 この短い間、今まで考えたこともなかったことに思案を巡らせる時間が多かった。 複雑な感情への葛藤。 将来への不安。 そして、人を愛することの意味。 誰に答えを求めている訳ではないし、一朝一夕に答えが出るものではないことも知っている。 「あなたには、先が見えないでしょうから」 切なげな表情でそう呟いた彼の言葉は全くもって間違っておらず それを落ち着かせる為に、俺は知らず知らず、思考を働かせているのかも知れない。 何故、男は女と恋に落ち、男同士では成り立たないのか。 本能だから、真理だから。 そう結論づけるには、あまりに無慈悲な恋心。 季節が巡り、街に秋の気配を感じ始めたある日。 一通りの精算も終わり、展示会に向けての販促資料を作っていた時、不意に携帯が震え出した。 時間は夜の7時前、携帯のディスプレイには尚紀という名前。 「お疲れ様です。瀬戸です」 少し疲れた様子を見せる優しい声に、心が癒される。 建築関係の環境評価会社に勤めている彼と、平日の夜に顔を合わせる機会はあまり無い。 互いに残業も多く、都合を合わせることが逆にプレッシャーにもなるから どちらからともなく約束はしないことにしていた。 「珍しいね。どうしたの?」 「今日は直帰で、彼女もいないんで……。青柳さんが良ければ飯でもと思って」 彼らの生活スタイルは、俺からすると多少奇妙に見える。 彼には妻がおり、その妻には女の恋人がいる。 法的には夫婦でも夫婦生活の実態は無く、妻は同じマンションの別の部屋に恋人と住んでいるのだそうだ。 ただ、食事は妻と一緒にと決めているらしい。 新作料理の毒味をさせられていると彼は笑っていたが 何処かに抱える不安や寂しさを、その時間で和らげているのかも知れない。 「構わないよ。8時過ぎぐらいになるけど、良いかな?」 「分かりました。じゃあ、その辺で時間潰してますね」 パソコンの画面には作りかけの資料が映っている。 上書き保存をして、電源を落とす。 無意識の内に、喜びが顔に出ていたのか。 向かいの席にいた後輩が、意味ありげな顔で尋ねてきた。 「青柳さん、彼女ですか?」 何でもない質問に、度肝を抜かれた気分になった。 「いや……友達だよ」 返した言葉に、後ろめたさが募る。 けれど、恋人、とは言えない。 二人で育もうとしている感情を公に出来ない辛さ。 こういうことなんだ、そう改めて思い知らされるようだった。 待ち合わせ場所にしていたコーヒー屋の前に着いたのは、8時を少し回った位だった。 窓際のカウンター席に座った彼の姿を認める。 しかし、背の高い彼の影には、もう一人の男の姿。 俺や彼よりも、幾分年上に見えるその男は、穏やかな眼差しを彼に向けていた。 話に夢中になっているのか、俺に気がついた様子は無かった。 普通なら、友達とか同僚とか、そんな関係性に落ち着くところなのに 困惑が混ざる彼の笑顔が、つまらない勘繰りを誘う。 有り得ない、けれど俺の心の中に確実に拡がり始めている感情がもたらす嫉妬か 一向に関係を進められないことに対する申し訳無さなのか。 彼とあの男を結ぶ線が何なのかを考えると、頭の中が混乱してくるようで、落ち着かない。 「ごめん、急に仕事が入って」 電話から聞こえて来る彼の口調が、明らかに暗くなる。 それが逆に、ざわついた気持ちを静めてくれた。 「今度、埋め合わせするから。ホント、申し訳ない」 -- 2 -- かつて、彼と生活を共にしていたパートナーがいたことは聞いていた。 どんな視線を交わし、どんな夜を過ごしていたのかは知らないし 触れない方が良いんだろうとは思っている。 それでも、どうしても考えてしまう。 彼は、その男に、まだ未練があるんじゃないだろうか。 俺は、その男に、勝っているのか。 意味の無い競争心が湧く度に、疑心暗鬼に捕らわれる。 これは、恋愛感情じゃなく、ただの独占欲なんじゃないかと。 偶然帰りの電車で顔を合わせたのは、お得意様でもあり、彼の妻でもある和歌子さんだった。 「お疲れです。今日は随分遅いんですね」 そんな俺の言葉に、彼女は少し疲れたように笑う。 「社員の送別会だったんです。皆、羽目を外しちゃって大変でした」 彼女も多少飲んでいるのだろう。 赤らんだ顔で、艶のある声を出す姿に、少し心がぶれた。 当然の感情であるはずなのに、頭に浮かぶのは一抹の罪悪感。 「和歌子ちゃん」 地元の駅の改札を出たところで、声をかけてきた男がいた。 そちらに目を向けた彼女の表情が訝しげに歪む。 「ここで……何を?」 多分、俺も似たような表情になったのだと思う。 対称的に穏やかな顔をして立っていたのは、あの時、彼といた男だった。 和歌子さんは一瞬俺に視線を送り、男を隅の方へ促す。 近寄るな、そういう意味だと理解して、俺もまた二人から距離を置くように離れた。 何を話しているのかは分からないものの さっきまでとは明らかに違う彼女の雰囲気が、男と彼の関係を示していた。 あれが、彼の過去。 改札を通る男を厳しい目で見送り、彼女は俺に近づいて来る。 複雑な顔をして、言葉を選んでいるようだった。 「決めるのは……尚紀だしね」 つい口を衝いた言葉は、彼女にどう響いたのか。 負けを認めたと、彼を手離そうとしているのだと、思ったのかも知れない。 小さく首を振った彼女は、俺を見上げる。 「決める権利は、あなたに、あるんですよ?」 傷ついた彼を間近で見ていたであろう苦悩の溜め息が漏れた。 「私たちは、常に受け身の立場にしか、なれない」 気持ちを押し殺し続け、何度も感情を諦めてきた彼女の言葉が、心に刺さった。 俺と過去の男とのニアミスを、妻から聞いたのだろう。 土曜日の夜、休日出勤帰りの俺を駅で待っていてくれた彼の表情は冴えなかった。 晩飯代わりに入った居酒屋。 話題に上げるのは、彼に任せよう。 そう思いながら過ごした時間の中、結局、最後まで昔話は出て来なかった。 店を出ると、季節を先取りした冷たい風が吹いていた。 僅かに強張った肩に、彼の手が触れる。 「……何?」 俺が振り向くと同時に、その手は離れていく。 やりきれない視線が足元に落ちる。 決める権利は、本当に、俺にあるのか。 確証が持てないまま、一つの提案をしてみた。 「少し、俺の家で、飲み直さない?」 彼の家と俺の家は、同じ駅圏内でも多少離れた位置にある。 休日に限らず、互いの部屋に行くことは無く 店を転々としたり、公園の風景を眺めたりと、たわいもない時間を共有するだけ。 それで満足していたし、幸せだった。 それ以上のことを求めると、この喜びを失ってしまう気がして、踏み込め無かった。 狭い部屋で見る彼は、いつも以上に大きく見えた。 自分以外の誰かがいる環境に慣れていないせいかも知れない。 カウンターキッチンに置かれた椅子に浅く腰掛けた彼は、俯き加減のまま、俺を見ていた。 「彼に、会ったそうですね」 重い口が開いたのは、缶ビールの水滴がカウンターを濡らすくらいになってからだった。 「見かけた、くらいだよ」 「……そうですか」 「でも、その前にも、見た」 顔を上げた彼は、俺に視線を向けながら息を呑む。 「ごめん、あの時、外から見てた」 責めるつもりは、これっぽっちも無かった。 ただ、俺の中には、彼に決めて欲しいという気持ちが未だ燻っている。 その結論がどんな形であれ、受け入れようと思っていた。 「あの男と、ヨリ、戻したい?」 カウンターを挟んだ位置にいた彼は、何も言わずに立ち上がる。 瞬間、その腕が首に回り、身体ごと引き寄せられた。 至近距離で軽く息を吐いた男は、静かに優しく、唇を奪う。 柔らかい感触に追い立てられる鼓動を悟られたくなくて、必死に気分を落ち着けようとしたけれど 首を傾げる度にリセットされる感覚が、そんなことを許してくれるはずも無かった。 息苦しさで開いた隙間から彼の呼気が入り込む。 薄い視界の向こうにあったのは、あまりにも切なげな表情だった。 -- 3 -- 熱い息を引き摺りながら離れた唇が、首筋に滑る。 後頭部を掴む手が、抵抗を拒む。 彼の舌が耳の後ろを掠めることで与えられる、痺れるような甘い刺激。 くすぐったいだけではない官能が得体の知れない感覚を身体中に走らせた。 俺の頬の震えを感じたのか、その動きが徐々に大胆になる。 「なお、き……ちょっ、と」 言葉を発することが出来たのは、もう一方の手が上半身を弄る段になってからだった。 揺れる吐息に応えるよう、彼の溜め息が耳に響く。 抱き締められた身体に、悲恋が沁みるようだった。 あの男に出会ったのは、本当に偶然だった。 既に家族を持ち、過去に住んでいた街に仕事で訪れた元恋人。 たまたま早めに家路についた彼を見かけ、声を掛けて来たのだそうだ。 カウンターに頬杖を突きながら、俺と目を合わせること無く、彼は言う。 「青柳さんは……昔の女、簡単に忘れられますか?」 男は "名前を付けて保存"、女は "上書き保存"。 過去の恋愛に対して持つ感情の男女差を、そんな風に例える話を聞く。 今まで付き合ってきた女なんて、数えるほどしかいないけれど やっぱり、不意に思い出して、過去と比べてしまったりすることは確かにある。 引き摺る方でも無い、かといって、すっぱり忘れられる訳でも無い。 「昔に戻れれば、正直、そう思う時もあります」 俺は、まだ、あの男に負けている。 伏し目がちな表情に、その状況を突き付けられた気分になった。 「……俺のこと、何か、言った?」 「一応……想いを寄せてる、相手は、いると」 どうしてなんだ。 悔しさが、顔を引きつらせる。 俯く顔に手を寄せ、こちらを向かせた。 「俺は、お前の気持ち、受け止めてるつもりなのに」 細く歪む眼に、感情が溢れそうになる。 「忘れろなんて言わない。でも、俺はどうしたら良い?」 小刻みに揺れる唇から、答えは出ない。 この至福の時は、見せかけだったんだろうか。 俺だけが一人、舞い上がっていただけなのか。 彼の元に歩み寄り、腕を引く。 ベッドの方へ身体を追いやるように、その肩を強めに小突いた。 「ヤったら、変わんの?」 ネクタイを緩めながら、彼の顔を真っ直ぐに見つめる。 辛うじて視線を受け止める怯えた顔が、左右に揺れる。 「だから、キスして来たんだろ?続きがしたいんだろ?」 放り投げたネクタイがベッドに歪んだ曲線を描く。 「……違います、そうじゃない。僕は……」 「じゃあ、どうして欲しいんだよ?!はっきり言えよ!」 感情の爆発が、彼の身体と表情を固まらせた。 「俺はこんなに本気なのに、離れていってんのはお前だろ?」 目の前のうなだれた頭を引き寄せ、唇を重ねる。 鼻の頭に彼の頬の感触を感じながら、何度も、繰り返す。 「頼むから、俺のこと、好きだって……言ってくれ」 傍にいて欲しい。 互いに支え合う存在になりたい。 心を溶け合わせたい。 色々な願望を包含する、抽象的すぎる一言を、彼の口から聞きたかった。 頬に唇を寄せ、首筋に頭を沈める。 密着した身体に彼の息遣いと囁く声が響いた。 「好きです……好きです。……言葉じゃ、足りないくらい」 腰に添えられた彼の手が、背筋を撫でる。 「だけど、怖い。言い表せない程、不安で、堪らない」 男が男を好きになる。 彼にとっては自然なこと、俺にとっては不自然だったこと。 手を広げて待っているのに、未だ彼を苦しめているのは、その秩序。 でも、どんなことだって、初めは不自然なもので、時間の経過が自然なものに変えていく。 何より、俺自身がそれを強く実感している。 「俺だって、同じくらい、好きなんだよ。同じくらい、怖いんだ」 首を絡めるように、彼の唇が俺のうなじをなぞる。 「隙間は、埋められますか?……一つに、なれますか?」 彼の望みに一瞬冷えた心が、首筋を滑る吐息の熱に溶かされた。 「……なれるさ」 悦びに歪む顔、熱く激しく波打つ身体。 飲み込まれる恐怖も、迎え入れる期待も、快楽と共に混ざり合う。 彼と過ごす初めての倒錯した時間を、自らの心に刻み込む。 一つになれる。 カーテンの隙間から射す陽に照らされた表情が、それを確信させてくれた。 事務機器の展示会にヘルプで呼ばれた日の夕方。 「今日、早めに直帰出来そうなんだけど、飯でもどう?」 「ええ、良いですよ」 「7時には駅に着くと思うから」 「やっぱ、彼女なんじゃないですか?」 電話を閉じると同時に背後から掛けられた声に、思わず表情を整える。 覗き込むように窺ってくる後輩は、好奇心剥き出しの顔をしていた。 「……だったら、何だよ」 「マジですか?」 「そんなにおかしいのか?」 「だって……」 「だってじゃねぇよ。じゃ、お先」 闇に浮かぶ背後の彼の姿に心が癒されること。 隣に笑顔の彼が座っていること。 歪んだ視界の中の彼と唇を重ね合わせること。 一つ一つが、俺の中でゆっくりと自然なものになっていく。 「おはよう」 「おはようございます」 甘い期待に削り出された心と心が嵌る喜びを噛み締めながら、今日も一日が始まる。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.