いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 偽名(R18) --- -- 1 -- どうして、皆、あんな濃い色が好きなんだろう。 非日常を最も感じられるポイントだからだろうか。 ベージュ系の淡い色のリップに、少しだけグロスを乗せる。 キスする時に男が嫌がるじゃない、と言われたこともあるけれど そんな機会は俺には無縁だから、自分の好きなようにする。 折角のストレス解消を、他人の意向に邪魔されたくない。 つまらないことに意固地になっている自分に失笑しながら、パレットを閉じた。 近所のおばさんに言われた一言を、未だに覚えている。 「あら、可愛いわね。女の子?」 色白で、線も細く、背も低い。 徐々に男らしさを増して成長していく友人たちを見ながら、酷い焦燥感に震えた子供の頃。 俺は、どうして皆と違うのか。 中学の時は陰湿な虐めにもあった。 反面、女には好感を持たれ、それがますます立場を孤立させていく。 様々な憂鬱を振り払うように、ひたすら勉強した。 他人とは違う自分を受け入れられるようになったのは 知り合いのいない、遠く離れた土地の大学に入ってからだった。 「樋口、これ、出てみたら?」 夏休みも終わり、やっと学生生活に慣れて来た秋口。 講義に向かう廊下の途中、ポツンと貼られていたポスターを見て友人は言った。 ミスキャンパスコンテストの前座として行われる、女装コンテスト。 トラウマを蒸し返される様な気がして、つい、苛立った。 「出る訳ねぇじゃん」 「いや、普通に優勝狙えるだろ?」 「俺、そういう趣味、無いから」 「優勝者には、学食半年間タダ券だってさ」 「そんなに言うなら、お前が出ろよ」 女みたいな奴、その言葉がどれだけ心を傷つけて来たか分からない。 それなのに、街を行く女たちの服装に視線が流れることは、昔からよくあった。 男らしさが欠片も無い劣等感の裏返しなんだろうか。 浴びせられる声と視線に逆らわない方が楽に生きられるはずだ、そう思いながら 奥底に眠る男としての矜持が砕けそうになるのを、必死に堪えていた。 パンドラの箱が開いたのは、更に時が経ち、就職した直後のこと。 新人歓迎会の二次会で連れて行かれた風俗街で、一人の男に目を奪われた。 彼は明らかに男ではあったが、服装も化粧も、女の出で立ちをしている。 身を屈めるように早足で去っていく姿を見やる俺に、先輩の一人が言った。 「あっちの方にさ、ああいうのが集まる店があるんだよ」 不快な感情を露わにする口調に居た堪れなさを感じながら、興味が深まることを止められない。 背徳の悦びを感じる仲間がいる、そのことが後ろめたさを和らげてくれるようだった。 一人でその場所に立ち入るようになるまで、どのくらいの時間がかかっただろう。 会社帰り、通りすがりを装いながら様子を窺う。 成長しきらなかった身体を抱えた男が、向こうから目を点けられることは不思議なことじゃない。 スーツ姿の俺に対して掛けられた声に、それほど警戒心は感じられなかった。 「良かったら、お店に来てみる?」 幅の広い肩を窮屈そうに淡い色のカットソーに収め、首元をファーで包んだ男。 頬の脇で揺れるルアーのようなイヤリングを見ながら、俺は小さく頷いた。 幾つかのゲイバーが集まる小さなコミュニティの中でも、この趣味を持つ者は更に少数派だ。 ゲイもいれば、ストレートの人間もいる。 身体にまで手を入れている者もいれば、剃毛すらしない男もいる。 様々な思惑が混ざる世界で、表面に浮かぶ享楽だけを掬い取る。 その加減を間違わないように、少しずつ、足を踏み入れていった。 「そろそろ、スカートの丈、短くしたら?」 梅雨が近づく初夏のある夜。 やっと馴染みになってきたバーで、相変わらず大きなイヤリングを揺らす男が笑う。 彼のスカートは見事なまでの短さで、張りつめた布から厳つい脚を覗かせていた。 「ケニーママのが、短すぎるんじゃないの?」 「そんなこと無いわよ」 そう言いながら、彼は俺がはいているスカートをたくし上げる。 「ちょ……」 思わず手を制した俺に、愉快そうな表情が向けられた。 「こんな細い脚してるのに、もったいないわ。もっと見せなきゃ」 「そういうの……怖いから」 バーに併設された脱衣所で、四苦八苦しながら化粧を施し、しっくり来ない女物の服を着る。 その格好で外へ出て行く者もいるが、俺が自我を開放するのは小さな囲いの中でだけ。 女になりたい訳じゃ無い、男と恋に落ちたい訳でも無い。 安全地帯で、ただ、倒錯の時間に溺れていたい。 封印してきた欲求は、それで十分満たされていた。 「そうだ、ミヤコちゃん。ちょっとお使い頼まれてくれるかしら?」 ドラァグクイーンを生業とする男たちが繰り広げるショーを眺めている俺に、ママが近づいてくる。 「え?」 「タバコ、切らしちゃったの」 怪訝な表情を落ち着かせるよう、彼の手が俺の頭を撫でた。 「一度も外、出たこと無いでしょ?」 「無い、けど……」 「大丈夫、この辺の男は女装子なんか見慣れてるわ」 「でも……」 「小屋の外じゃなきゃ分からないことも、たくさんあるわよ?」 -- 2 -- 「へぇ、準も、ちゃんと男なんだね」 幼い頃から仲良くしていた少女は、そう言って俺の下半身をぎこちなく弄る。 「都、何、するん……」 狼狽える身体を押さえつけるように、彼女の身体が折り重さなり、小さなベッドに沈む。 近づいてくる顔を避けることも出来ず、程なく唇が重なった。 けれど、初めての感触の余韻を味わうことを、彼女の手が許さない。 「おっきくなってきたよ?」 楽しげに囁く声が、益々身体を強張らせる。 「ちょっと、都……やめろって」 「いいじゃん。準だって、一人でシたり、するんでしょ?」 制服のボタンを一つずつ外していく指は、確かに、震えていた。 発情した雌の空気を漂わせて潤む瞳に、融かされるような錯覚を見せられる。 「エッチしよ?一緒に、気持ち良くなろうよ」 子供じみた交わりは、その後も何回か続いた。 先走った彼女の衝動に引き摺られただけの初体験が、性的欲求を歪めたのかも知れない。 常に優先権を奪われることに、自尊心が傷つけられたのだろうか。 積み重なる嫌悪感は、やがて男としての生理現象すらも奪い去っていく。 「……あたしのこと、嫌いなの?」 指と舌の愛撫だけで顔を上気させた少女は、俺の身体にしなだれかかり、そう言った。 自分より弱そうに見えれば、無意識の内に優越感が芽生える。 自分には敵わないと認識すれば、どうやってその場をやり過ごすかを考える。 浅はかな深層心理は、きっと誰にでもあるんだと思う。 「何だよ、樋口。こっちは男子便所だぞ。お前はあっちだろ?」 「お前、本当に付いてんの?見せてみろよ」 「気持ち悪ぃんだよ。ホモはどっか行ってろ」 疎遠になった彼女が他の男と校内でも有名なカップルとして噂になる頃 今まで陰で囁かれていたであろう言葉が、表だってぶつけられるようになった。 まともにセックスも出来ない女々しい男、そんな好奇の眼差しが刺さる。 私物が無くなる、トイレで水をかけられる。 やり返すことも、言い返すことも出来ず、下を向くだけの日々。 中学を卒業するまで後何日あるのか、それを数える事だけが、心を落ち着かせる唯一の手段だった。 ケニーママに頼まれた煙草をコンビニで買い、店に戻る。 想像していた以上に、周りの視線が気にならない。 異質な雰囲気に飲まれてしまっているからなのだろうか。 目深に被っていた帽子のつばを、少しだけ上向かせる。 飛び込んできた街の風景は、"男" として歩いている時とは違って見えた。 「よお、ねぇちゃん」 路地から発せられた言葉に、つい、視線を向けた。 ヤバい、男の顔を見て直感が走る。 身体が緊張するのを感じながら、その場を去ることだけを考えた。 「ちょっと待てよ」 暗がりから伸びて来た手が俺の腕を捕える。 「何すんだよっ」 背の低い太った男は、その声を聞いて下品な笑みを浮かべた。 「へぇ、随分出来の良いカマだな。整形でもしてんのか?」 力の差は、歴然だった。 手にしていた小さなバッグでは、奴の身体を怯ませることも出来なかった。 「離せっつってんだろ?!」 スカートを捲り上げ、左足のヒールで足を突く。 呻き声を上げ、身体を屈ませた男は、まるで鼠に噛まれた猫のように一瞬呆気に取られた後 鋭い目を真っ直ぐに向けた。 「オカマが、調子に乗ってんじゃ、ねぇぞ?」 走ることを前提とした靴じゃない。 逃げようとする俺の身体に、奴は自身の全体重を乗せてタックルしてきた。 打ち付けられた地面の堅い感触と、酷い圧迫感が呼吸の仕方すら忘れさせるようだった。 「ぐ……」 「ここがどんな街か、分かってるよな?」 その手が俺の両腕の自由を奪い、身体が仰向けにされる。 荒い鼻息を吹き出す顔が迫る。 「犯されたくて、うろついてんだろ?愉しませてやるよ」 熱を帯びた唇が、俺の口を塞ぐ。 舌が顔の上を這うごとに、全身に鳥肌が立った。 幾ら抵抗しても、抵抗しきれない。 恨めしい、こんな身体が。 捩る身体がアスファルトに擦れて、痛み始めてくる頃。 視界に、影が差した。 瞬間、鈍い音と共に男の身体が仰け反り、遠ざかって行く。 「こんなところでサカってんなよ。邪魔だから」 俺の頭の先に立っているであろう男は、起き上がろうとする肥満体の男に言い放つ。 その眼には、僅かに恐怖の気配が浮かんでいた。 「勃たなくしてやっても、良いんだぞ?」 俄かに殺気立った声に、敵わない、そう思ったのか。 舌打ちを残し、奴は路地の奥へ逃げて行った。 「大丈夫ですか?」 俺の傍にしゃがみ込み、彼は顔を覗き込んでくる。 「すみません……ありがとう……」 身体を起こしながら言いかけた言葉が、その顔に阻まれた。 向こうは気が付いてない、そう自分に言い聞かせて 落ちていた帽子を目深に被り、差し出された男の手を取って立ち上がる。 身体を擦るように乱れた服装を直してくれる彼の顔を、まともに見ることは出来なかった。 「気を付けた方が良いですよ。この辺は、飢えてる奴も、多いから」 「……はい」 大きな身体で出来た大きな影が、徐々に離れて行く。 思いも寄らなかった出会いが、俺の心に、深い影を落とした。 -- 3 -- 「いらっしゃいませ」 出社前、毎朝立ち寄るコーヒーショップ。 俺の姿を認めた店員は、レジに着くと同時にコーヒーを一杯差し出してくる。 予定調和の動きにホッとしながら、大きな手に代金を乗せた。 「おはようございます。今日は暑いですね」 「……そうですね」 いつもと変わらない様子に、やっと、気持ちが落ち着いた気がする。 「明日からは、アイスにしましょうか?」 昨日の夜、俺を助けてくれた男は、ずれた眼鏡のレンズに収まりながら微笑んだ。 彼がこの店に来たのは、1年くらい前。 競合店が近くにオープンし、目に見えて客足が減ってきた頃だった。 そんな時期に店長として配属されるくらいだから、ある意味切り札でもあったんだろう。 日が経つごとに、サービスよりも価格で勝負と言う雰囲気が徐々に緩和され 店内のテーブル配置やディスプレイにも工夫が凝らされていく。 半年も過ぎない内に、感覚的な客の数は元に戻っていたように思われるほどだった。 朝のシフトが多いのか、彼と顔を合わせる機会は多く 淡いグレーの制服に包まれた上背のある姿が、日常になりつつあった。 「昨日はお休みだったんですか?」 たまに立ち寄れない日があると、翌日にはそんな声を掛けてくれる。 ささやかなやり取りで得られる満足感は、支払う代金以上に大きかった。 窓際のカウンターに座り、行き交う車を見ながらコーヒーに口を付ける。 湯気に曇ったレンズがサッと晴れ、再び開けた視界に、一人の男が映った。 スーツを着た、背が低い太った男。 別人だと認識する頭とは裏腹に、カップを持つ手の震えが止まらない。 暗がりに浮かぶ卑しい顔、首筋を舐る熱い舌、下半身を圧迫する体重。 感覚と共に思い返される恐怖が、頭の中を巡った。 ソーサーに戻そうとしたカップが的を外れ、落ち着かない指から滑り落ちる。 陶器が砕ける鋭い音と共に、零れたコーヒーがスラックスに染みを残した。 「大丈夫ですか?」 背後から聞こえた声で、我に返る。 「あ……すみません……」 カウンターチェアから降りた俺に、店長が少し心配そうな顔で近寄ってくる。 「あの、これ……」 「構いませんよ。それより、火傷とか、大丈夫ですか?」 「ええ、大丈夫、です」 屈みこんだ彼が、持っていた布巾でコーヒーがかかった俺の脚を軽く叩く。 柔らかい感触が微かな痛みをじんわりと広げていった。 「しばらく、こうやって叩いてみて下さい。多少目立たなくなると思うんで」 布巾を差し出しながら、申し訳の立たない俺を宥めるように優しい眼を向けてくれた。 若い男の店員が、テーブルを拭き、モップで床を掃除している。 他の席に促された俺の元に、再び彼がやって来た。 「こちら、どうぞ」 差し出された、一杯のコーヒー。 「でも……」 「お気になさらず」 見上げる俺を刺す真っ直ぐな眼差しに、思わず怖くなって目を逸らした。 その手が肩に触れた瞬間に襲った身体の強張りを、彼は感じてしまっただろうか。 何かを言いかけた彼は、口をつぐみ、僅かな笑みを浮かべる。 気付かれているのかも知れない。 微かな不安が、俺の心の影に小さな波紋を残した。 「樋口君、随分疲れた顔してるね」 机に並べられたFAXとメールを手に取る俺に、向かいの席の津久井さんが笑いながら言った。 「ああ、いえ。ちょっと寝不足で」 「若いからって、無茶しちゃダメだよ?」 綺麗に剃られた頭を撫でながら、彼は手元の缶コーヒーを呷る。 確認申請の代行業務を請け負うウチの会社には、他所のゼネコンや設計事務所をリタイアした人が多く 俺のように新卒で入ったのは、ごく少数だ。 経験則がものを言う世界。 今はまだ、法規の読み解きと受領した資料の整理で精いっぱいで 早期退職を経て、この会社にやって来た津久井さんの下、経験値を貯める毎日を過ごしていた。 「府中の条例、取ってくれる?」 幾つか抱える案件の中にある、府中市のパチンコ屋増築工事。 どうやら新築の時点で法令不適合箇所があったらしく、その部分も含めた指摘を何回も繰り返している。 「金が無いのは分かるけど、最低限の法は遵守して貰いたいねぇ」 分厚い束を捲りながら、ベテランは呆れたように笑う。 「やっぱり、コスト優先なんでしょうね」 「何で、こう言う規則があるのか、分かってないんだろうな」 内容に納得したのか、小さく頷いた彼は、細かな字で指摘事項を書き込んだ用紙を手渡してきた。 「じゃ、これ、事務所にFAXしておいて」 「分かりました」 「まだ、お仕事なんですか?」 残業になった夜、気分転換に足を運んだ店に、珍しく彼が立っていた。 「ちょっと、忙しくなってきて」 「大変ですね」 「しばらくはバタバタしそうです」 「じゃあ、行き詰ったら、こちらで息抜きしていって下さい」 コーヒーを差し出してきた彼の指が、不意に俺の手に触れる。 思わず手を引っ込めてしまった俺と目を合わせる事なく、彼は呟いた。 「……早く、落ち着くと、良いですね」 -- 4 -- 街はすっかり夏の装いで、とは言え、薄着には抵抗がある。 ホルターネックになっているロングのワンピースの上にカーディガンを羽織ると 全身鏡に映る自分の姿は、やけに暑苦しく見えた。 「久しぶりねぇ、ミヤコちゃん。もう、来ないのかと思って心配してたのよ?」 満面の笑みで出迎えてくれたケニーママは、細い煙草を咥えながら近づいて来る。 赤いスパンコールに飾られたベアトップを巻いた上半身が、キラキラと鮮やかな光を振り撒いていた。 「ごめん、ちょっと、仕事が」 「なら、良いけど。……あんなことがあったから、傷ついたんじゃないかって」 「ううん、もう、大丈夫」 大きな手で俺の頭を撫でた彼は、少し顔を近づけて愉快そうに囁いた。 「アイツね、ちょっとシメてやったから」 「え?」 「アタシたちを甘く見てると、痛い目見るわよ、ってね」 屈強そうな二の腕に目が行った。 恐らく、男同士のトラブル解決法として、最も簡潔で、最も効果的な手段を取ったのだろう。 繁忙期を超えた解放感からか、週末の夜だからか。 いつもより、酒の勢いが早かったような気がする。 「ちょっとぉ、その格好、暑苦しいわよ?」 ご機嫌な様子で来店した集団が、そう俺に笑いかけてきた。 「そう、かな」 「せっかくセクシーな服着てるのに」 その中の一人が隣に腰かけ、カーディガンに手をかける。 「男に脱がされるの、待ってるの?」 「そんなこと……」 悪戯な言葉に、あの男の顔が浮かぶ。 思いも寄らない願望が、気持ちを居た堪れなくした。 「ほら、あんまりちょっかい出さないで」 ビールジョッキを抱えたママの声に、女装子たちが笑い声を上げた。 「だって、ついイジメたくなるのよね」 「可愛いんだもん」 「女装の嫉妬は見苦しいわよ」 客に対しても平気で辛辣な声を浴びせる。 それが出来るのも、彼が持つ絶大な信頼あってこそなんだろう。 「そうだ、ママ。また、外に例の男がいたわよ」 バーテンから不気味な色のカクテルを受け取った男が、怪訝な顔を見せる。 「また……?でも、何かされた訳でも無いんでしょ?」 「そうだけど」 「女装する感じには見えないわよね」 「あたし、ちょっとタイプかも」 「ええ?ホントに?」 「あのガタイなら、ガンガン突いてくれそうじゃない?」 「アンタ、そればっかり」 一ヶ月ほど前から現れるようになった男。 何をする訳でも無く、店の前の道路にしばらく佇んでいると言う。 「誰か、探してるのかも知れないわね」 パッションピンクの口紅に彩られた唇から細く煙を吹きながら、ママは寂しげな笑みを浮かべる。 「でも、この街の出会いは、一期一会。そう思わなきゃ、やってられないわ」 もう、外には出ないと決めていた。 それでも、予感が決意を覆し、扉を開け放つよう心を急かす。 夏の夜の熱気を全身に感じながら、ネオンに照らされた道路に目を凝らした。 やがて見つけた、喧騒の向こうに佇む男。 車止めポールに寄りかかったまま、切なげに俯く彼に近づいた。 「あの……」 俺の声に顔を上げた彼と、視線が絡む。 彼は僅かに驚きの表情を見せながら立ち上がり、目を細めて小さく手を差し出した。 手を伸ばし、指先が触れた瞬間、俺の身体は彼の中に引き寄せられる。 まるでスローモーションのように、感触に遅れてやってくる感情。 「……やっと、会えた」 安堵が混ざる彼の声が、やっと全てを現実の枠に嵌め込んでくれた。 胸の昂ぶりが、酔いを巡らせたのだろうか。 二本の腕から解放された身体は、自力で立つのが難しいほどの倦怠感に襲われた。 体勢を崩した俺を、彼の腕が支えてくれる。 「大丈夫ですか?」 「すみません……ちょっと、飲み過ぎたのかな」 髪の毛に唇を寄せながら、彼は呟く。 「……送ります。家まで」 非日常をワンピースの裾に引き摺りながら、街を離れる。 仕事用のビジネスバッグを持ち、スーツが入ったキャリーを引く彼の横を歩く。 おぼつかない俺を支える様、彼は荷物を片手にまとめ、反対の手で俺の手を取った。 優しく握られた手の感触が不安を包み、縺れる指が、今まで感じたことの無い官能を芽生えさせた。 男を相手に性的欲求を感じたことは、無かったと思う。 大きすぎる好意が、何処かで捻じれてしまったのだろうか。 それとも、彼が持つ俺への想いを、歪めた形で受け止めてしまっているのだろうか。 彼は程なく現れたタクシーの車列に視線を向けた後、俺を捉える。 「一つ……我が侭、聞いて貰えませんか」 -- 5 -- 「アタシね、本名はケンって言うのよ。男らしくて、素敵な名前でしょ?」 店を訪れるようになってしばらく経った頃、隣に座ったケニーママは、そう笑った。 「あなたのお名前は?そろそろ、教えてくれない?」 「名前……?」 「そ。お化粧して、素敵なお洋服着て、可愛い名前で呼ばれれば、現実逃避完了」 元々中性的な響きの名前が、嫌いな訳じゃ無い。 ただ、劣等感に拍車をかけていたことは確かで、他人にその名前を呼ばれることは、苦手だった。 つまらないことに迷いあぐねる俺に、彼は救いの手を差し伸べてくれる。 「忘れられない恋人とか、憧れの女優さんとか、そういうのでも、良いのよ?」 その時は、あまり深く考える事無く、名前を口にした。 俺にとっての、初めての女。 俺が男であることを知らしめてくれた存在。 眼鏡を外し、スカートを穿き、紅を引いたとしても、本当の自分を見失わないように 知らず知らず、防衛線を張っていたのかも知れない。 「ミヤコちゃん?イメージにピッタリね」 「……ありがとう」 「昔の女?」 「それは、内緒」 けれど、名前を呼ばれる度に思い起こされるのは 彼女の中で味わった快感と、勝ち誇ったような、蔑むような視線を送る表情だった。 中学卒業と共に縁が切れた彼女の現況を聞いたのは、帰省の折、偶然顔を合わせた旧友からだった。 違う高校へ進んだ彼女は、在学中に同級生の子供を身ごもり、中退。 その後、離婚・再婚を繰り返し、今では子供と共に実家に戻ってきていると言う。 地元の歓楽街で風俗に身をやつし、夜な夜な男を漁っていると噂を立てられているらしい。 同情する気持ちは、微塵も無かった。 いい気味だ。 そう思った直後、酷い自己嫌悪に苛まれる。 幼いプライドをズタズタにされた憎しみを、未だに引き摺っている弱い自分。 毎晩、衣装を脱ぎ捨てることで、影が消え去っていくような気がする。 その実、名を騙ることで溜飲を下げているのだと気が付くまでに、時間はかからなかった。 タクシーの窓を横切るのは、見慣れない景色。 彼の肩に顔を寄せたまま、響いてくるその鼓動を感じていた。 腰に回された腕に力が籠もり、二人の隙間がより狭くなる。 この結末がどうなるのか想像もつかないまま、夜は流れていく。 比較的新しいマンションのエントランスに、靴音が響く。 言葉を発することも無く、彼の後に続いた。 「無理言って、すみません」 彼の口からそんな言葉が出たのは、エレベーターに乗り込んですぐのこと。 緊張していたのだと思う。 咄嗟に声が出なかった俺には、首を横に振るのが精一杯だった。 カウンターキッチンから続くリビングダイニングには、微かにコーヒーの香りが漂っている。 「少し、待ってて下さい」 彼はリビングに置かれたソファを指し示しながら、言った。 強張る笑みを見せて、促された通りに腰かける。 窓に映る自分の姿に、高層マンションと、白くぼやける電波塔が重なって見えた。 ローテーブルに置かれる二組のコーヒーカップ。 鼻に深く入り込む刺激が、気分を落ち着かせてくれるようだった。 微妙な距離を取って隣に座った彼は、静かに息を吐き、目を細める。 不安な気持ちを抱えているのは、俺だけでは無かったのだろう。 いただきます、そう言ってコーヒーに口をつける。 程よい苦みと酸味が喉を刺激し、酒に浮かされた頭が僅かに冴えてくる。 「……どうして」 あの街を、あの時間に一人で歩くことの意味が分からない訳ではなかったし 毎朝顔を合わせる得意客、それ以上の感情を彼が持っていることは、確かだった。 わざと目を背けてきた、同性からのアプローチ。 ――― 犯されたくて、うろついてんだろ?愉しませてやるよ。 ――― 男に脱がされるの、待ってるの? 心の奥から否定することが出来なかった言葉が蘇る。 彼になら、そんな気持ちが、目の前の顔から視線を外させた。 「ずっと前から、気には、なっていたんです」 ソファに座り直す様な音を立てながら、彼はそう呟く。 「でも、僕は……自分の感情を真っ向から受け止めることが出来なかった」 カーディガン越しに添えられた手の感触に、顔を上げた。 「あなたにも嫌われたくなかったし、自分が、同性愛者であることを認めるのも、怖かった」 酷く切なげに顔を歪めた彼は、溜め息をつくように声を絞り出す。 「こんな言い方……失礼かも知れませんけど」 「……はい」 「その姿のあなたを見て、自分の中の罪悪感みたいなものが……少し、和らいだ気がして」 「女も、好きになれる、と?」 「ええ」 複雑な気分だった。 女の格好はしているけれど、女になりたいと思っている訳じゃない。 俺の中に女を求められたとしても、それに応える術は、持っていない。 「でも、私は……」 「分かってます。自分でも、分かりきっているんです。結局、僕は、同性にしか惹かれないと」 肩から滑り落ちる手が、俺の手に重なる。 甲を撫でる指に呼ばれるよう、裏返し、握り締めた。 「あなたが……好きです。あなたに、愛されたい」 -- 6 -- 女を演じ、いつもとは違う自分の一面を曝け出す。 若干道を外れた衝動は、そういう欲求から来ているのだと思っていた。 けれど、演じている内に、言いようのない違和感が湧いていたのも確かで 彼の言葉に、もしかしたら、これが本当の自分なのかも知れないとすら思い始めてくる。 誰かに心から想われることに渇望していた心が、幻想を見せているだけ。 こんな自分を認めてくれる存在に、浮かされているだけ。 それでも、良い。 答を待つ彼に身を寄せ、その顔を見上げた。 「私、も……」 前髪に触れた唇が、顔を更に上向かせる。 すぐそこに迫っていた唇に、自ら、唇を重ねた。 儚い感覚と薄いコーヒーの香りが身体を駆ける。 一瞬離れ、また吸い込まれるように重なり合う。 その度に滑るグロスの感触が、これが現実であることを教えてくれた。 背中に回された手が俺の身体を引き寄せる。 青いシャツ越しに感じられる体温に、思わず息を飲む。 「少し休んだら、今度は、本当に……送ります」 その言葉を、素直に受け止められない。 浅はかな欲望に囚われてしまったことを誤魔化すように、再び口づけを求める。 唇に軽く舌を這わせ、小さく開いた口の中に滑り込ませた。 不意に漏れた吐息が、首筋をなぞっていく。 僅かに戸惑いを浮かべる彼に、懇願するよう囁いた。 「……脱がせて、くれますか」 先に立ち上がった彼に手を引かれ、腰を上げる。 羽織っていたカーディガンが肩から抜け、腕が露わになっていく。 男同士なのに恥ずかしさが込み上げるのは、互いを性的対象として捉え始めているからなのか。 ソファに置かれた上着から視線を外し、彼に背を向ける。 首の後ろで結ばれた布だけが、身体を包む衣服を支えていた。 大きく開いた背中に指が触れた拍子にびくついた身体が、背後から抱きしめられる。 俺の首筋に顔を埋め、その手がワンピースを少しずつたくし上げていく。 「……何て呼んだら、良い?」 うなじに唇を寄せながら、服の下に潜り込んだ手が太腿を擦る。 頬の震えを抑えきれないまま、瞬間思考が巡った。 嘘は、吐きたくない。 ありのままの自分で、彼を感じたい。 「ジュン、って、呼んで……」 首に絡みついていた物が、彼の唇によって解ける気配に、言葉が遮られる。 「……下さい」 天谷という苗字は、毎日顔を合わせる中、ネームプレートから教えて貰っていた。 躊躇いながらも大胆になっていく手の動きに、その名を尋ねることも出来ないままで昂ぶりに酔わされる。 上半身を弄る手に辛うじて引っかかっている服が、腰回りに纏わりつく。 脚を撫でていた手は一度腰まで上がってきた後で、股間へと伸びていく。 俄かに起こり始めていた身体の変化を悟られたくなくて、少し腰を引くと、彼の感触が当たった。 自己満足じゃない、互いに望み、求めた結果。 そう思うと、背徳感が消えていく気がした。 化粧を落とした自分の顔を見ると、何となく気分が落ち着く。 ある種の達成感みたいなものなのかも知れない。 それが今日は、まるで感じられなかった。 未知の世界への扉は開いたばかりで、仮面を着けることなく、俺はその前に立っている。 眼を閉じ、一つ息を吐く。 水音が漏れるシャワーブースのドアを、ゆっくりと押し開けた。 大きな背中が湯気の向こうに見える。 振り向いた彼の手が、俺の顔を包んだ。 素の自分に戻った居心地の悪さを、はにかむ顔が消し去っていく。 傾げた顔が近づき、熱を帯びた唇が額に優しく触れる。 背中に回された腕に促されるまま、彼の身体に身を寄せた。 「こんな、俺、でも……」 「片方だけを好きになった訳じゃ無い。僕は……ジュンの、全部が好きだから」 濡れた唇の感触は溶けるほどに柔らかで、背筋に寒気すら走らせる。 隙間から割って入る舌に、官能が翻弄されていくのが分かる。 目を閉じた俺に、瞬間離れた彼は、そっと囁いた。 「目、開けて。僕を、見て」 薄い視界の中には、愛おしさに溢れた表情。 余りに純粋な感情に覚えた恐怖も、再び襲う感触に奪い去られていった。 少しのぼせたのか、空調が適度に聞いた室内は幾分涼しく感じる。 裸のままでベッドに重なる体温が心地良かった。 軽くキスをした彼の顔が、ゆっくりと首筋へ下りていく。 その舌は的確に俺の身体を昂ぶらせ、息を荒くさせる。 やがて胸元に辿り着いた唇が、小さな突起を挟み込む。 「……ん」 恐らく初めてであろう感覚に、思わず喉が鳴った。 ふと顔を上げた彼は、行為を見せつけるよう、視線をそのままに舌を揺らす。 恥ずかしさと僅かな快感が、身体を痺れさせた。 乳首への愛撫で刺激された部分に、手が伸びていく。 自分でも信じがたいほどに張りつめたモノは、浅ましく男の手を待っていた。 俺の身体の脇に身を横たえた彼が、首筋に唇を這わせる。 すぐそこに感じられる指の気配がもどかしい。 焦燥感が吐息となって空気を揺らす。 耳たぶを纏う、その唇から発せられた声が、鼓膜に響いた。 「触って、欲しい?」 -- 7 -- 「幸せに道徳の徳。名前だけは立派だ、ってね、よく言われたよ」 そう笑う彼を見て、男らしい名前だと素直に思った。 「でも、家族くらいにしか、名前呼ばれることなんてないから」 「友達とか……恋人とか、は?」 「学生の時の友達連中は苗字で呼んでくるし……」 拭いたばかりの乱雑な前髪の向こうの彼は、一瞬何かを考え、視線を絡ませる。 「ジュンは、男と付き合ったこと、ある?」 ある訳がない。 声に出すのは、彼を傷つけるような気がして出来なかった。 軽く見上げながら首を振る俺に、彼は何処かしら諦めた様な、そんな眼を見せる。 「相手に恵まれなかったのか、僕に問題があるのか、分からないけど」 額を撫でる彼の手が前髪を掻き上げ、視界が晴れた。 「何回か関係持ったら、終わりっていうのが多くて。名前呼ぶような仲まで、行かないんだ」 「……そう」 「だから、ジュンには、名前を聞いたんだよ」 「え?」 「離したくないから。もっと、君に、近づきたいから」 薄く震えた声が、躊躇いと共に口から出ていく。 「……触って」 指の感触がゆっくりと、粘る様に纏わりついた。 直接的な性感が肩口に走らせた寒気を、彼の体温が和らげる。 首の後ろを回った腕が肩を抱え、指が再び乳首を摘む。 快楽で歪む空間の中に彼の顔が入り込み、大きくなり、やがて重なる。 唇の間から入り込んで来る舌に、なされるがまま、欲求を絡ませた。 荒い呼吸に混ざり込む喘ぎと、互いの唾液が混ざり合う水音が、昂ぶりを激しくしていく。 惑う手が、彼の部分に触れた。 長く続けてきた、独りよがりの自慰行為とは違う。 硬くなったモノに指を遊ばせる俺に、彼は囁く。 「僕のも……触って」 声に押されるよう、軽く握り締め、上下に手を動かす。 溶けるような、低く、淫靡な吐息が、耳元を甘く刺激してくれた。 何となく悶々として、つかの間の快感を愉しんで、射精して我に返る。 男の本能が求めるプロセスは、あくまでそれで完結する。 けれど、単純だと思っていた一連の行為は、傍に他人がいることで複雑なものになっていく。 俺の恍惚が彼の官能となり、彼の興奮が俺の昂ぶりを促す。 ここにあるのは、性欲をぶつけ合うだけの獣の様なセックスとは違う、心と身体の探り合い。 「ん……は、ぁ」 「気持ち、良い?」 「……う、ん」 知らなかった悦びを優しく暴く彼の舌に、俺は、飲み込まれる。 「……っ、ごめん」 彼のモノを緩慢に扱く俺の手に、その手が重ねられた。 勢いを促すように、力を込める。 歪む顔に唇を添えながら、行く末を見届けた。 程なく噴出される、苦しげな息と精液。 掌に纏わりつく充足感の証しに、羨ましさが募った。 他人の体液に塗れた手を、自分のモノに添える。 ヌルヌルとした感触と、汚らわしさが呼び起す背徳感。 「おいで」 肩で息をする彼の声と、追いかけるようにやって来た手が、一気に高みへと引っ張り上げる。 こんな絶頂を知ったら、俺はもう、元に戻れないかも知れない。 くだらない不安は、やがて達した限界点で、儚く消え去っていった。 基本土日休みの俺と、完全シフト制勤務の彼。 「おはようございます。いつもので、良いですか?」 「ええ、それで」 一緒にいられる時はあまり無く、けれど、コーヒーの香りを纏う彼と一言二言交わすだけでも 心は十分に満たされた。 「恋でもしてるのかしら?」 大きくスリットの入ったワンピースを着た俺に、ケニーママは意味ありげな笑みを浮かべた。 「別に……そう言う訳じゃ」 「羨ましいわねぇ。ミヤコちゃんを抱ける男がいるなんて」 「え?」 「冗談よ。アタシも、久しぶりに男の腕の感触を味わいたいわ」 あの夜から、女装した姿を彼に見せることは無かった。 素のままの自分を求めてくれることが嬉しくて、無意識の内に、演じることを避けていたのだろうか。 罪悪感が和らぐ気がする、そう言った彼の表情が思い出された。 クラッチバッグに入れていた携帯電話がメールの受信を報せる。 『今日は少し早く上がれそうなんだけど、ちょっと会えないかな』 予期せぬ興奮が、薄布の中に籠もる。 裾をたくし上げる妄想の手の気配が、身体を震わせた。 「ママ、この間のサンダル、借りても良い?」 「ええ、良いわよ」 俺の頭を軽く撫でて、彼は立ち上がる。 「いっぱい、愛されていらっしゃい」 -- 8 -- スタンドミラーの前に立つ、少し前屈みになった自分の姿。 「自分で、捲り上げてみて」 背後に立つ彼の声が、全身を痺れさせる。 息を吐きながらワンピースの膝の辺りを両手で掴み、ゆっくりと引き上げていく。 処理がなされた脛が現れ、やがて見えてくるのは両足の太腿に付けられたガーターリング。 そこに挟み込まれたえげつない物体から伸びるコードを見て、思わず手を止めた。 「……どうしたの?」 優しげで残酷な唇が、耳の裏を這う。 肩を軽く揺らしながら、目を伏せる。 見るまでも無く明白な変化が身体に起きていることを、認めるのが恥ずかしい。 「ちゃんと、僕に見せて」 キャミソールのストラップが、彼の手によって腕の方へ抜け落ちる。 露わになって行く上半身に、逃げ道は無いと覚悟を決めた。 自宅のマンションで出迎えてくれた彼は、夏を纏った俺の姿を見て、嬉しそうに目を細めた。 「珍しいね」 「たまには……良いかと思って」 玄関先に立ったままの俺の腰に手を回し、そのまま引き寄せる。 「綺麗だよ」 その囁きに追い立てられる鼓動を鎮める間もないまま、唇が重なり合った。 いつもより、情熱的だった、様な気がする。 互いの舌の感触を、貪り合うように味わう。 熱い吐息が顔を紅潮させる。 程なく離れた、けれど僅かな距離の先にある彼の目が、俺を捉え続けた。 「少し……散歩に行かない?」 「今から?」 「このまま脱がすのは、もったいないから、さ」 幾分昂揚した声に、微かな嫉妬心が生まれる。 普段の俺では生まれないであろう、欲情。 それでも、彼が求めているのは、俺と言う一人の人間であることを信じたかった。 「こっちの、私の方が……好き?」 くだらない問に、彼の表情が呆れたように明るくなる。 「そんなこと、気にしてるの?」 「……ちょっと、だけ」 「前にも言ったよね。僕は、君の、全部が好きだって」 鏡に映る自分の股間には、下着に包まれること無く興奮を示す性器が存在を主張する。 下腹部の前で拳を握りしめたまま、目を閉じて、俯いた。 腰に回された手が、脚の付け根を弄る。 「こんなになって……はしたないな」 「……ごめん、なさい」 頬を滑る唇が背筋を寒くさせ、脚を震えさせた。 体内に異物を入れたままでの外出は、10分足らずだったのだと思う。 身体のラインが強調されたワンピースを通る風が、無防備な下半身を舐める度に 歩みはぎこちなくなっていった。 それでも、しっかりと繋がれた手に引かれ、見知らぬ夜の住宅街の中を進む。 嗜虐的な行為と、穏やかな微笑が、少しずつ、俺の身体を狂わせていくようだった。 「お仕置きしないと、ね」 耳を掠めた声に、思わず首を振った。 募る不安と期待。 瞬間突き抜けた小さな振動は、腰を砕くほどの刺激となって身体を駆ける。 「……っあ」 追いかけるように、もう一つの玩具も動き出す。 「は、あぁ……」 背後の彼に身を任せながら、上半身が前傾していく。 「ほら、顔上げて」 彼の腕が、俺の身を抱えるように胸元を弄る。 視線の先に映ったのは、顔を歪めて快楽に耐える、だらしのない顔。 「お尻の中、気持ち良いの?」 強張った唇から出るのは、声にならない呻き声だけ。 「言ってごらん」 優しい声と共に強くされる責めに、酷く壊れた音が口から漏れた。 「い、い……っん」 「いやらしい声。可愛いよ、ジュン」 腹の辺りから上がって来る手の気配を感じた胸元に、汗が滲む。 激しい息遣いに揺れる上半身は既に空気に曝されていた。 官能に溺れる下半身に引き摺られるよう、その昂ぶりは一層増していく。 柔らかく愛撫する指は、けれど、求める場所にはやって来ない。 「どうして欲しい?」 全て分かり切っている彼は、意地悪な口調で問う。 「……さ、わって」 躊躇いを少しだけ残して、そう答えた。 細やかな感覚が乳首を捉え、荒い吐息が宙に放たれていく。 捩れた肩は、彼の腕でしっかりと包み込まれている。 「触るだけじゃ、物足りないんでしょ?」 屈辱すらも、快感に変わるようだった。 「そこ、も……おし、おき……し、て」 -- 9 -- 女を知っている俺と、女を知らない彼。 セックスに対する意識も、多分、根本的に違うんだと思う。 俺が子供の頃に味わった惨めな気持ちは、常に女に主導権を握られていたから芽生えたもので それはつまり、行為においては男が上であるべきだと言う、つまらない本能の末なんだろう。 じゃあ、男同士ならどうなのか。 あの時感じた居た堪れなさを、今感じていないのは 彼に服従することを是とする、裏腹な感情故なのだろうか。 同時に摘まれた二つの乳首から、痛みと快感が全身に伝わっていく。 アナルに与えられている刺激と相まって、増幅し、頭の中を掻き乱す。 「……っは」 乾いた声と共に、視界が僅かに潤んだ。 満足そうな鼻息が耳を掠め、指に力が入る。 更なる加虐を求める様に上半身が反り返り、鎖骨から首にかけての筋肉が盛り上がるのが見えた。 「こんなに硬くして……下も、ピクピクしてる」 突起を摘まれ、引っ張られ、捻り上げられる度に、完全に勃起したモノが小さく首を振る。 「もっとして、って、言ってるのかな?」 肯定も否定も出来ないまま、身体は彼の意のままに快楽に堕ちていく。 薄布を握り締める一方の手を、彼の手が包む。 ゆっくりと促されたのは、欲望を露わにした場所。 「ほら、こんなところまで」 モノの根元から足の付け根の方まで濡れた感触が、指を通して伝わってくる。 「我慢できない?」 「そ……こ」 「まだだよ」 俺の指は、彼の手に支えられ、一回だけ、垂れ流される汁を掬い取る様にモノを擦り上げる。 「う、あ……」 「凄く、敏感になってるね」 名残惜しさを引き摺りながら、その手は腰の後ろに回され、尻の奥へと導かれた。 「な、に……?」 「指、入れてみて」 自らの足で、傍に置かれていたスツールを引き寄せる彼。 その座面に、片足を乗せた。 既に玩具で占領されている穴は、固く閉ざされている。 自らの汁と汗とを潤滑油として、ゆっくりと解していく。 微かな振動が指先から伝わり、言いようのない恐怖が腕を強張らせた。 「大丈夫。力、抜いて」 指先が、めり込む様に体内に入り込む。 背徳感が、熱い肉壁の感触に侵食される。 「うっ……く」 第一関節まで入れることなく、爪先に当たった無慈悲な物体。 「奥まで、押し込んでごらん」 鏡の向こうの戸惑いに、彼は気が付いたのだろう。 俺の手に指を滑らせ、その指を、そのまま穴に差し込んだ。 痛みと息苦しさが、顎を天に向けさせる。 「は、あっ」 歯が噛み合わない程の違和感が喉を鳴らした。 「……すごく、熱くなってる。ジュンの中」 興奮した彼の声が、耳を刺激する。 蠢く玩具を押しのけるように、二本の指を絡め合う。 頬に触れた唇に呼ばれ、唇を重ね合う。 全てを吸収する身体は、ただひたすら、享楽に溺れていった。 こんな風になるまで、自分の身体を焦燥感で満たしたことは無い。 垂れていく液体を太腿にまで感じられるようになる頃、彼は布を掴む俺の手を取った。 「僕が持ってて、あげるから……自分で、して見せて」 半ば朦朧としながら、自らのアナルを掻き混ぜ続ける俺に、そう告げる。 「や、だ……」 「どうして?」 「……ゆき、のりの……手で、イき、たい」 その言葉で、彼の身体はどんな変化をもたらしたのか。 うなじをくすぐる吐息は、俄かに熱を帯びたようだった。 「我が儘だね」 「おね、がい……」 舌が首筋を這い、指が乳首を抓る。 粘液を纏いながら、彼の手が静かにモノを擦る。 身体中の力が抜けそうになるのを、必死で耐えた。 「うあぁ……」 開放感を求めてほとばしる衝動が、脳天まで駆けていく。 「いっぱい責められて、おかしくなりそう?」 「な……る」 「何処が、一番気持ち良いの?」 「そ、こ……」 「そこじゃ、分からないよ?」 意地悪な声が羞恥心を煽る。 「ジュンの口から、聞きたいな」 「あ……ち、んぽ……いぃ」 彼の手に力が籠められる。 「……っう、やっ」 「嫌じゃ、ないでしょ」 寸でのところで留まっていた絶頂が、まさに、襲い掛かってくるようだった。 「ちゃんと、見てて。淫らな、自分の、姿」 挿し込まれた指を圧迫する肉壁のうねりが激しくなる。 閉じることを妨げるよう、半開きの口を荒い吐息が占領する。 イきたい、だけど、この混乱をもっと愉しみたい。 扱き上げる手の動きに合わせて揺れる腰に、彼の興奮が当たる。 「もっと、腰、振って」 纏わりつくように揺れる布の感触は、もう感じられなかった。 「っ……イ、く」 一瞬白くなった視界に自らの精液が飛び散る様が映り、俺の身体はやっと解放された。 -- 10 -- 我に返る感覚を忘れてしまったのだろうか。 鏡を汚した液体が垂れていくのを眺めながら、未だに何かが燻る身体がもどかしい。 腰の奥で蠢いていた玩具が抜き取られ、背筋が寒くなった。 「気持ち、良かった?」 呆然とする俺を抱きしめながら、彼は呟く。 言葉にしてしまうのが惜しくて、何回か小さく頷いた。 「じゃあ、今度は……僕を、気持ち良く、してくれる?」 彼の前に跪いた自分の姿が、精液の間に映る。 ジーンズから取り出した彼のモノは、僅かに先端から欲望の陰を見せていた。 見下ろす視線を受け止めながら、手を添えて、舌を伸ばす。 鼻腔を突く雄の匂い。 それが、官能さえも刺激する。 揺らぐ深い息が、二人の間を埋めるように漂っていた。 根元から舐りあげる度に、太い筋が立っていく。 彼の眉間の皺が深くなり、表情が歪んでいく。 快楽に堕ちるその姿を、もっともっと、見ていたかった。 体勢を変えた拍子に、膝に物体が当たる。 ついさっきまで俺を散々蹂躙していた、性欲を満たす為だけの道具。 手に取ったまま、彼に目を向ける。 一瞬怯んだような顔をした後、覚悟を決めたように、彼は眼を閉じた。 振動を繰り返す玩具を、彼のモノの先端に押し当てる。 「うっ……」 堪えきれない甘い喘ぎが、彼と俺の心を奮わせる様だった。 そのまま手で押さえつけ、裏筋を舌でなぞる。 初めて耳にする、男らしい彼の艶めかしい息遣い。 「気持ち、良い?」 「……ん、い、い」 撫で付けるように手を動かすと、彼の腰が徐々に引いていく。 逃がさない、そう思いながら、腰に腕を回した。 「ま、って」 彼の液体と俺の唾液が混ざり合う音の中に、微かな声が聞こえる。 切なげな笑みを浮かべながら、彼は俺の腕を掴む。 「どう、したの?」 名残を引き摺りながら立ち上がった俺の身体は、不意に鏡に押さえつけられた。 「何?」 ワンピースが腰の上まで捲られていく。 「幸徳……?」 「ここで、イかせて」 露わになった腰に押し付けられる、彼の興奮。 急に、怖くなった。 けれど、彼に抗う理由が見つからない。 「……ダメ?」 尻の割れ目に入り込んでくる、ぬるついたモノ。 躊躇いが、唇を震わせる。 「ごめん、我慢、出来ない」 猶予は、僅かしかなかった。 強張る俺の腰回りに手を当て、彼は尻にモノを挟んだままで腰を振る。 ぶつかり合う肉の弾ける様な音が、全身を包む。 今にも入り込んできそうな気配に怯える気持ちが、漏れ聞こえる声に浮かされた。 彼の動きが激しさを増す。 「イ、く……よ」 息絶え絶えの声のすぐ後で、股間に生暖かい液体が流れ込む。 脚を流れていく精液の感触が、身体を震わせた。 力の抜けた彼の身体が背中に圧し掛かる。 それは、信じられないほど、幸せな感覚だった。 「怖い、思い……させた?」 荒い息を吐きながら、彼はそう言って耳に唇を寄せる。 「ううん、大丈夫」 振り向き、唇を重ね合わせる。 紅潮した表情に、愛おしさが募った。 「次は……平気だから」 「幸せそうなジュンちゃん見てると、こっちまで幸せになって来るわ」 木製のソールが特徴的な白いサンダル差し出しながら、ママはそう笑った。 「ありがと」 「ちょっと、大きくない?大丈夫?」 「うん、ちょうどいい感じ」 足首の上までリボンを編み上げ、少しきつめに結ぶ。 膝が僅かに出るくらいのフレアスカートは、妙にスカスカしていて心もとない。 それでも、鏡に映った自分の姿は、今までとは何かが違って見えた。 「その、羨ましい彼氏は?」 「ん……外で、待ってる」 「あら、じゃあ早く行かなきゃ」 背後から覗きこむ彼が、力任せに背中を押す。 「楽しんで来て。あなたには、その権利があるんだから」 湿気を帯びた風がスカートにはらむ。 思わず手で押さえた先に、彼が興味深げな表情で立っていた。 「どう……かな」 「夏っぽくて、良い感じだね」 「それだけ?」 高いヒールによろめく俺の手を取った彼は、そのまま身体を引き寄せる。 「綺麗だよ」 耳を滑る囁きが、顔を綻ばせた。 「……うん」 「行こうか」 偽りの名前を騙る自分に嫉妬することは、もう止めた。 自らを曝け出す為に演じる必要は無いと、やっと気が付いた。 夏の夜の空気を纏わせながら、互いの指を絡め合う。 寄りかかるように腕に顔を寄せると、二人の距離は更に狭くなる。 すぐ隣に感じる男の存在が、この夜を、また幸せなものにしてくれるのだろう。 悪戯な風に翻弄されるスカートの裾を気にしながら、歩みを進めた。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.