いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 紐帯 --- -- 1 -- 「今なら、NO.1がすぐに付きますよ?どうですか?」 場末の駅から更に少し離れた歓楽街の入り口。 そこに立つ男たちは、皆一様に黒いスーツに身を包み、疲れた身体を引き摺る獲物に声を掛ける。 「一番って言ったって、たかが知れてるじゃん」 「そんなことないですよ。ウチは、あっちの店と違って、顔で勝負してますから」 餌に食いつきそうなサラリーマンを、オーバーアクション気味の身振りで煽った。 「でもなぁ……」 迷いを覗かせた時点で、勝負は見えた。 白髪の混じる頭に顔を近づけ、決まり文句を囁く。 「でしたら、初めの1時間だけ、特別にお安くしておきますよ」 「ホントに?」 「ええ、とにかく一回来て頂ければ、気に入って頂けると思いますので」 離れた場所でそれを見ていた他のボーイが、憐れな客を店まで案内して行く。 「お一人様、ダブルプランです」 「りょーかい」 携帯で連絡を入れると、やる気の無さそうな声が返ってくる。 「ガンガン飲む女、付けてやるか」 あっけらかんと笑う電話の主の意図は、明確だった。 シングルプランは通常料金、ダブルプランは入店料金を下げる代わりに酒代が割高になる。 どう転ぼうと、店に損は無いからだ。 「そうですね」 とは言え、時給で働くバイトの俺には、あまり関係が無い。 一先ず、今日のノルマは後二人。 物色するべく目を向けた景色の中に通り過ぎた影に、俺はその時、気が付かなかった。 歳の離れた兄貴がいる。 同じ東京に住んでいながら、それほど顔を合わせる機会は無く、頻繁に連絡を取ることも無い。 俺が進学で上京する際、同居を提案した両親に反対し、学生寮を勧めて来たのも彼だった。 10歳も離れているからだろうか、それ以上に、俺が母の連れ子であることが大きいのだろうか。 彼の父と俺の母が再婚したのは、俺が中学生の時。 その頃、彼は既に就職しており、実家にはいなかった。 濃密だったのは、父と母の関係だけで、俺は一人蚊帳の外にいるような感覚。 殆ど他人の様な希薄な家族の関係が、わだかまりになっていることは確かで 未だに彼のことを家族だと思いきれない自分がいた。 狭いバックヤードで、休憩中の女たちの視線を集めながら私服に着替える。 派手なドレスを纏い、脚を露わにしながら咥え煙草で携帯を弄る一人の女が、声を掛けてきた。 「ねぇ、セイちゃん。こないだ出来たお店、知ってる?」 「何処ですか?」 「そこの角曲がった、奥の所」 おぼろげに浮かぶ路地の映像には、ショットバー的な店が映る。 「ああ、あったかも知れないですね。行ったことは、無いですけど」 「今度、お店ハケたら行ってみない?」 「……良いですよ」 金を稼いでいる自立した女、と言う自負があるのだろう。 彼女達は、大学生である俺を全くの子ども扱いしている。 可愛がって貰っていると好意的に受け取っていたのは初めの内だけで その本性を知るにつれて、うっすらと積もっていた下心は、すっかり掃き取られてしまった。 金を稼ぐ為の踏み台、互いにそう思っているのだから、スタッフと嬢の間に何かが起こる訳も無い。 いじり倒してストレスを発散する存在でしかないと気が付くまで、時間はかからなかった。 「アイカはあれでしょ?あの店の隠しフロアが見たいんでしょ?」 「まぁね~。だって、興味無い?」 「振り向かないオトコ物色したって、楽しくないじゃん」 「……何ですか?隠しフロアって」 興奮気味に煙を吐き出すアイカさんに、恐る恐る尋ねる。 「あのバーね、裏でゲイバーやってるんだって」 「はぁ……」 「聞いたら、男同伴なら女でも入れるって言うのよね」 「俺、全然、興味無いですけど……」 「アタシが一回行ってみたいの」 俄然気乗りしなくなった心情などそっちのけで、女達のボルテージは上がる。 「男だってだけで十分だから」 「やだ、セイちゃんが男にモテたらどーする?」 「いいじゃん、付き合っちゃえば?」 「勘弁して下さいよ……」 逃げるようにキャバクラを後にしたのは、終電も過ぎた時間だった。 ごみ置き場の脇に置いた自転車を引き摺り出し、家路に着く。 何の気なしに、話題に上がっていた店の前で、中を窺ってみる。 青白い照明に照らされた薄暗い店内。 一見すれば、ただのこじゃれたショットバーだった。 平日のこの時間だと言うのに、そこそこ客は入っている。 客は、やや男が多い。 その光景と、この店の裏の顔が繋がった頭の中が、得体の知れない薄ら寒さに包まれる。 出来れば踏み込みたく無い。 きっと、向こうだってそう思っている。 興味本位で立ち入っちゃいけない領域だって、あるはずだ。 同じ男として、何となく居た堪れなさを感じながら、自転車を走らせた。 「いらっしゃいませ」 学生寮の近くにあるコンビニに立ち寄る。 適当な雑誌を数冊眺め読みしてから、飲み物を持ってレジへ赴く。 対応してくれたのは、すっかり顔馴染みになったバイトの店員だった。 大学の構内で何回か見かけたことがあるから、同じ学校の学生なんだろう。 どちらかと言うと真面目で地味、といった印象で、風俗でバイトするようなタイプじゃない。 「ありがとうございました。お疲れ様」 「どうも」 交わす会話はいつも短くて、特別なことは何一つ無いものの 雑多な夜から現実に帰ってくることが出来る一つのスイッチとして、毎晩待ちわびている時間だった。 -- 2 -- 「何やってんだよ、桐生。もうコーリキ始まるぞ?」 友人からの電話で起こされたある日。 何かと実習系の授業が多い学科に入ったからと、比較的時間が空く夜のバイトを始めたは良かったけれど 結局、身体が持たずに昼まで寝てしまうことが往々にしてあった。 3年生にもなれば、ほぼ午後からの講義で済むようになっては来たものの 最も苦手とする構造力学の授業は、嫌がらせのように1コマ目に設定されている。 「あ~……うん、すぐ行く」 「寝起きかよ。何だ?キャバ嬢と遊び過ぎたのか?」 「そんなんじゃねーから」 「良いから、すぐ来いよ」 寮から大学までは、直線距離で500mも無い。 ただ、その間は急勾配の上り坂で、自転車にせよ、走るにせよ、かなりの体力を要する。 取る物も取りあえず、ダッシュで坂を上りきった時には、流石に目の前が霞んでいた。 息を整えて歩く先に、坂の途中で俺を抜いて行った原付が停まっている。 ヘルメットを取ったその顔に、思わず足が止まった。 俺の気配に振り向いた彼は、幾分眠たげな眼をしながら軽く微笑む。 「やっぱ、同じ大学なんだ」 「ですね。オレも、何回か見かけたことがあったから、そうかなって」 「何年生?」 「3年生。化学科の」 「化学科か……じゃあ、殆ど顔合わせないはずだ」 「何科?」 「建築科で、同じ3年」 総合大学としてはそれほど大きな規模ではないウチの大学。 それでも学部・学科毎に校舎は分かれているから 違う学科の学生と顔を合わせるのは、一般教養の講義か、サークルくらいしかない。 「建築かぁ。実習とか、大変そうだな」 「ひたすら図面書いて、模型作ってって、そんな感じ」 「ま、ウチも試験管振って、顕微鏡覗いてってしてるけどね」 しばらく同じ方向へ歩いていると、始業を知らせるベルが聞こえて来る。 「やっべ……5分経つと、締め出されるんだった」 「オレは図書館行くから。頑張って」 「そっちも」 小さく手を挙げ、校舎に向かって走り出す。 さっきまで身体を包んでいた倦怠感は、朝のちょっとした出会いに掻き消されていた。 斎木、と言う苗字はバイト先の名札に書かれていたから、知っている。 昼時の学食で見知った顔を探すのは、案外簡単だった。 窓際のカウンター席でノートパソコンを弄る彼を見つけ、近づく。 「ここ、良い?」 英語だらけの文書を閉じた彼は、こちらに目を移して頷いた。 「斎木君、で良いんだよね?」 ランチを乗せたトレーをテーブルに置き、椅子に腰かける。 「そう」 「俺は、桐生」 そう名乗った瞬間、彼の表情が僅かに変わったような気がした。 「……桐生君か。珍しい名字だね」 友達は多くも無く、少なくも無く。 サークルに入っていない俺には同じ学科の友達しかいなかったから、彼の存在は新鮮だった。 「いつも、遅い時間に来るよね?」 「ああ、キャバクラでバイトしてるから」 「へぇ……金、良いの?」 「そこそこかな。拘束時間が短いから、悪くないかなって」 「女の子目的?」 「初めはねぇ、そうだったけど。やっぱキャバ嬢こえぇって、今は思ってる」 「ははは」 控えめな笑い方も、ガテンなクラスメートとは違う。 自分の周りの環境だけが全てだと思っていた考えが、徐々に覆されて行く。 何だかいつもの学食の雰囲気が変わって感じたのは、大袈裟じゃないんだろう。 午後の講義を知らせる予鈴が響く。 彼は手元のパソコンを鞄に仕舞い、席を立った。 「授業は?」 「俺は3コマ目無いから、製図室でちょっと一眠り」 「そっか。じゃ、また」 「頑張って」 窓から射す初夏の陽を浴びた彼は、眩しい笑顔を見せて去って行った。 大学院への進学を考えていること、実家が山梨にあること。 俺と彼の間に目立った共通点は無かったけれど、たわいも無い話をして過ごす時間が増えた。 友達として仲を深めるにはまだ時間がかかると思う。 そんな誰かと新しい関係を紡いでいく過程が、平坦な毎日に彩りを与えてくれるようで嬉しかった。 その場所は、何と言うか、感じたことの無い空気が流れている。 俺にとっても、彼女にとっても、アウェーな空間であると言うことを、周囲の視線が知らしめる。 まずは偵察ね、と意気込んでいた雰囲気は何処へ行ったのか。 スタンディングの小さなテーブルで煙草を咥えるアイカさんは、小刻みに震えているようだった。 表のバーよりも広い店内には、当然のことながら男の客しかいない。 こっちが本業なんだろう。 棚に並んだボトルの数も、種類も、ウチの店より遥かに多い。 「何か……落ち着かない」 「そりゃ、そうでしょうね」 「表で、飲み直そうか」 「まだ、10分くらいしか経ってませんよ?」 「だって……」 キャバ嬢メイクそのままで顔をしかめる彼女。 むしろ、付き合わされた俺の身にもなって欲しい。 その時、背後から誰かが俺の肩を掴む。 瞬間の恐怖に、息を呑んだ。 「ここは、お前の来るところじゃない。さっさと失せろ」 -- 3 -- 警告の声が、耳から剥がれない。 いつも変わらない、不機嫌そうな低いトーン。 彼と視線を合わせることも無く出て来た店を離れながら、頭の中は混乱する一方だった。 寮へ帰る途中、電話をかけてみた。 当然、出なかった。 出られても、何を話していいのか分からないから、それで良かったのかも知れない。 真っ暗な住宅街の中に、コンビニの灯りが見えて来る。 こんなおぼつかない夜は、早く終わりにしたい。 兄貴からの着信に気が付いたのは、そう考えながら自転車を降りた時だった。 「お疲れ」 店に入ると、斎木はそう声を掛けてくれた。 気分は落ち着いたけれど、心からの笑顔は出てこなかった。 炭酸飲料と、ライターと、煙草を一箱買う。 「煙草、吸うんだっけ?」 「何となく……そんな気分」 「どうした?」 「いや、別に、何でも無い」 俄かに心配そうな顔をする彼に、大丈夫、そう声を掛けて店を出る。 その言葉には、自分にハッパをかける意味も含まれていた。 「何の用だ?」 父に瓜二つの響きが、俺の心を強張らせるのかも知れない。 家族と言う囲いの中で、誰にも興味を持って貰えなかった自分。 卑屈になっている俺を、兄は何処かでせせら笑っているんじゃないか。 情けないと思っても、この声で、つまらない妄想が蘇ってくる。 「今、良い?」 「ああ」 彼の後ろには、街の喧騒が流れていた。 俺の後ろには、日常を呼び覚ましてくれる友達がいる。 様々な要因が完全な二人の世界を邪魔していることに、些細な安心感を持っていた。 「何で、あんな所に、いたの?」 「お前には関係ないだろ?」 極単純な問いを、極単純な答えで返してくる。 「それは、そうだけど……」 「つまらないことに、首突っ込むな」 出会った時は既に大人だった兄貴の口調は、まるで他所の子供を諌める様なものだった。 俺は、あの人のことを何も知らない。 家族だという意識も、薄いままだ。 だから却って、配慮の無い言葉が出たのだと思う。 「兄貴……ゲイなの?」 舌打ちの後に続く溜め息が、耳を通って背筋を凍らせる。 震える手が徐々に汗ばんで来るのを感じていた。 「だったら、何なんだ」 「……別、に」 人に言えないであろう秘密を知った、浅ましい優越感。 それを超える、言い知れない恐怖と拒絶。 力が抜けた身体が、地面にへたり込む。 コンビニのガラスに身を預け、揺らぐ息を吐いた。 「……ごめん、もう、切る」 「清輝」 「……何?」 「忘れろ。今日のことは、全部」 声色は変わらなかったはずなのに、妙に優しく聞こえた言葉。 思わず込み上げたものが、声を歪ませる。 「そんな、の……無理だよ」 「桐生、大丈夫か?」 情けない顔のまま振り返った先には、友人の姿が見えた。 救われた、心から、そう思った。 兄が出来る、母からそのことを聞いた時の喜びを、今でも覚えている。 子供の頃から持っていた、兄と言う存在への憧れが消え去らない。 どんなにそっけない態度を取られても、いつかは俺の期待に応えてくれるんじゃないか。 自分勝手な想いが、更に失意を深くする。 手元に届いた2通の招待状。 父方の従妹の結婚式の案内だった。 バラバラに送れば良いのに、何故か兄弟二人分が同封されている。 手渡すか、郵送するか。 数日迷った末、その週の土曜日、俺は封筒を手に家を出た。 俺が住む街から兄貴のいる街までは、3つの路線を乗り継いで30分ほど。 東京駅を中心に、ちょうど東西正反対の場所に位置している。 訪れたのは、1回か2回か、その程度だったと思う。 必死に記憶を辿りながら、頭の中に地図を広げていた。 複々線の線路がホームの間を走る駅で降りる。 6両編成の赤い電車を見送りながら、ふと、向かいのホームに目が行った。 そこに立っていたのは、血の繋がりの無い二人の男。 穏やかな顔で微笑み合う姿は、俺の憧憬、そのものだった。 -- 4 -- あの人にとって、俺はどんな存在なのか。 血も繋がっていない、歳も離れている、一緒に住んでいたことも無い。 ともすれば、全くの赤の他人であると言っても、過言じゃないのかも知れない。 二人は、程なくやって来た反対方向の電車に乗り、去って行く。 後に残ったのは、レールに響く車輪の音と、虚しさだけだった。 大学はテスト期間も過ぎ、長い夏休みに入る。 と言っても、休み明けの展示会に向けて、製図室に詰める毎日が続く。 人の少ない構内は何となく落ち着く雰囲気で、あれから煙草を手放せなくなった俺は バルコニーに出ては、青い空に煙を吹き付けていた。 手繰り寄せていたはずの糸も、中途半端なままで放置されている。 兄貴と歩く斎木の姿が、瞼に焼き付いて離れない。 ああいう出来の良い弟が、彼は欲しかったんだろうか。 想像し難い、それ以上の関係があるのだとしたら、敵う訳も無い。 悔しさよりも、羨ましさが募る。 どうして、俺は、アイツになれなかったんだろう。 どうすれば、俺は、アイツになれるんだろう。 バイト帰りにコンビニの前を通り過ぎる度、暑苦しい風が友との関係を溶かしていく。 「社会勉強にでも来た?」 自分の行動が浅はかであったことが分かったのは、そう声を掛けられてからだった。 「……別に」 「君、キャバクラの客引きやってるよね。たまに見かける」 馴れ馴れしい距離感で俺の顔を覗き込む男は、優しげで性的な笑みを浮かべる。 身体の中をえぐる様な眼が、煙草を持つ指を震えさせた。 「興味あるんだ?」 「どんなもんかと……思って」 「じゃあ、少しはそう言う素養があるのかもね」 薄暗い店内、小さなテーブルの前に立つ俺の身体に、男の手が触れる。 煙草から昇る煙が、緩やかなカーブを描いた。 「普通の男は、一人でこんなとこ、来ないよ」 「俺は……」 こめかみ辺りに触れた指が、髪を掻き分けて耳の後ろに滑る。 反応したら負けだと、強張る身体と気持ちを必死に抑えた。 「試してみようか」 向かい合わされた男の顔に、兄貴の顔が重なる。 そうすれば、俺は、弟になれるのか。 冷静な思考が、グラスを滑る水滴と共に落ちて行った。 「行くぞ」 突然引き離された身体が、背後の誰かにぶつかる。 「悪いけど、オレのもんだから。手ぇ、出さないで貰えるか」 放たれた言葉に、目の前の男は口を歪ませた。 「そんなに大事なら、フラフラさせないで、箱にでも入れとくんだな」 「ああ、そうするよ」 入って来たドアとは違う扉から外に出る。 俯く俺の手を取った彼は、細い路地を大通りへ向かう。 無言で前を行く兄貴の姿を見ながら、酒と恐怖で火照った俺の手に、心地良い冷たさが沁みた。 「……ごめん」 「何がしたいんだ、お前」 「……分かんない」 不意に立ち止まった白いワイシャツが、溜め息と共に大きく揺れる。 振り向きざまに抱き寄せられた身体が、その腕の中に納まった。 「オレがいなかったら、どうなってたと思う」 「……分かんない」 「あんまり、心配させんなよ」 心配なんか、してくれるんだ。 そう感じた時に、気が付いた。 兄弟としての意識も薄く、弟なんか気にもかけていない。 若い男に、友達に、弟を求めているんじゃないか。 そんな勝手なイメージを兄に植え付けていたのは、俺だったと言うことを。 「ごめん……兄貴」 台風が去りつつあった日の夜。 学生寮に、友人が訪ねて来た。 ずっと避けていたのもあって、気まずさは拭えなかった。 しかし、どうしても話したいことがある、そんな文面のメールを拒む事も出来なかった。 今時学生寮なんて流行らないんだろうか。 基本二人使いの寮の部屋には、借りる学生が少ないと言う理由で、殆どが一人で住んでいる。 主のいない二段ベッドの上の段は、すっかり物置と化していた。 そんな部屋に、濡れ鼠の彼を招き入れる。 「……どうした?」 寂しげな表情をした斎木は、静かに息を吐き、話し始めた。 「オレさ、9月から留学するんだ」 「え……?何処に?」 「アメリカ。休学して、1年、行って来る」 「そんな、突然?」 「ごめん、少し前に決まってたんだけど、タイミングが掴めなくて」 「そうか……」 距離を置いていたのは俺の方なのに、身勝手な寂しさが心を覆う。 その気持ちをどう言葉にして良いのか分からない中で、嫉妬の光景が頭を過る。 「……兄貴は、もう、知ってるんだよね?」 つい口を衝いた一言に、友の顔色が変わった。 -- 5 -- 出会いは、2年前の冬だった。 勢いだけで彼らのテリトリーの前まで行ったはいいが、躊躇いが興味を凌駕している時 一人の男が声を掛けて来たと言う。 「ここは、君が来るところじゃないよ」 未成年者であることに気付いた上での警告だったのか、誘い口上だったのかは分からなかった。 不安で何も言えなかった少年を置いて、彼は去って行こうとする。 今まで誰にも話すことが出来なかった、圧し掛かる様な悩みを聞いて貰えるかも知れない。 「待って」 縋るような気持ちで、彼の手を取った。 「偶然が運命だと思ったのは、きっと、あれが初めてだな」 その夜を懐かしむ様に、斎木は目を細めて微笑んだ。 俺が友人を知るずっと前から、彼と兄貴の関係は続いていた。 知る術も、知る由も無かったけれど、言い知れない羨望が募る。 「彼の弟が同じ大学にいるって言うのは、聞いてたよ」 「……そう」 「だから、名前聞いた時、びっくりした。まさかって、思った」 「何で……そのこと」 「彼から口止めされてたから。余計な心配、かけたくないって」 俺が彼の弟になってから8年。 斎木が彼と知り合ってから1年半。 それでも、彼が兄貴と過ごした時間は、俺よりもずっと多いはずだ。 秘密を共有し、時間を共有し、彼と兄貴の関係は深く、濃くなっていったのだろう。 「羨ましいよ」 「何が?」 「俺は、あの人のこと、何も知らない。ただ、戸籍上、弟ってだけで」 「オレだって、別に……」 「笑った顔すら、思い出せない。お前の方が、よっぽど……」 惨めな言葉を吐く俺に、彼は諭すような口調で言う。 「彼も、悩んでたよ。どう、弟に接して良いか分からない、って言ってた」 「え?」 「もしかして、彼は……」 途中まで言いかけた言葉を溜め息に溶かした彼は、誤魔化すように微笑んだ。 友人の声を通して、畏怖と憧れが作り出していた幻想が実体化する。 空が白み、僅かに覗いた朝日で、嵐が去ったことを知った。 「たまにはメールでもくれよ」 「英語でも良いか?」 「嫌がらせかよ」 割と本気で顔をしかめた俺を、彼の明るい笑い声が包んだ。 「元気で」 「桐生も」 俺の手を握る彼の力が腕に響く。 大きな決断をしたその姿が、自分のことのように誇らしかった。 兄貴と共に帰省をするのは、初めてだった。 新幹線の隣の座席の彼に、会った記憶の薄い新婦のことを聞いた。 「この、慶子さんって、どんな人?」 「ああ……オレも小さい時しかあったこと無いけど。オレより3つ上の……」 「何?」 「いや、あんまり褒めるところが見つからない感じの人」 「それ、酷くない?」 苦笑する俺に、何処か居心地の悪そうな顔をする兄貴。 「何か、すげぇ虐められた記憶しか無いからさ」 「兄貴を虐める人がいるんだ……ある意味、凄いな」 暗いトンネルが切れると、緑の田園風景が飛び込んでくる。 青い空に、一筋の飛行機雲が見えた。 「斎木がいなくなって、寂しい?」 彼を見る俺に、その視線が一瞬向き、外れる。 「当たり前だろ」 「……俺がいても?」 幼いやっかみの言葉で、彼の顔に微かな狼狽が現れる。 思いも寄らない変化に緊張が走った。 通路の反対側の窓に目を向け、しばらく黙りこんだ兄は、振り向かないままで呟く。 「アイツに合わせる顔が無くなるから……それ以上は、聞くな」 冬の足音が聞こえてきた11月。 俺は学生寮を離れ、大学から少し離れた街に引っ越した。 「一人にさせておくと、何をするか分からないだろ?」 笑いながらそう言った兄貴の一存で決まったことだった。 キャバクラのバイトも止めさせられ、あの歓楽街も、あの店も、訪れることは無くなった。 と言っても、サラリーマンの兄貴と学生の俺では、生活リズムが若干ずれる。 それを分かっているのだろう、彼は玄関傍の狭い部屋を俺に宛がった。 「夜中に起こされちゃ、堪んないからな」 二人の部屋の真ん中に位置するリビングでパソコンを弄る俺に、彼は意地悪い笑みを向けた。 本気で嫌がらせをしてきたのだろうか。 異国の友人から届いたメールは、全て英語だった。 アメリカの飯はどれも大量だ、便器がデカくてケツが嵌りそうで怖い。 大体、そんなどうでも良い日常のことが綴られている。 何とかかんとか摘み読みし終わり、最後の追伸まで行き着いた。 『We found a chemical reaction. Maybe...it's Fate.』 肩の辺りに感じられた、画面を覗きこむ顔。 「運命って、ホントにあるのかな」 「自分がそう思うなら、それが運命なんだろ」 「信じる?」 不意に肩に回された腕が、彼との距離を急激に近づけた。 耳と頬に兄の感触を感じながら、当て所の無い視線が画面を泳ぐ。 「……ああ」 溜め息のような答えを吐いた兄貴の心の中にいたのは、誰だったのだろう。 その答えを知りたくて、俺は、彼に身を預けた。 見えない糸が、人々の間に張り巡らされている。 家族、恋人、友人……糸の結び方も細さも様々だけれども、日々、何本もの糸が絡みついては解けていく。 彷徨う糸先が結びつくのは、偶然なのかも知れない。 でも、共に時間を過ごす内、二人を結ぶ糸はより複雑に綾なす。 化学反応がもたらす変化に戸惑いながら、浮き立ちながら、憧れが少しずつ形になる。 繋がり方なんて、関係無い。 彼と繋がっているこの事実が、俺にとっては、運命なんだ。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.