いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 交錯(R18) --- -- 1 -- いつもと同じ朝。 簡単に身支度を整えてから家を出て、コンビニへ朝食を買いに行く。 5分程度で店を出て、同じマンションの違うフロアの部屋へ赴く。 雑然とした室内に、南向きの窓から部分的な朝日が射しているのを見て また、一日が始まったことを実感した。 築20年も経とうかという分譲マンション。 2LDKの一室は事務所用に購入し、1DKの一室は自宅用の分譲賃貸。 5年前に前の会社を辞めてから、独立を機に引っ越してきた。 最初は事務所兼自宅でやっていたものの、一日中仕事から離れられない苦しさは想像以上で 結局、2つ上のフロアの部屋を借り受けた。 夜遅く戻って寝るだけだけれども、逃げるように身を投じるベッドが無ければ、身が持たない。 そう思っている。 全国でも最上位に入るゼネコンでの仕事は、確かにやりがいに満ちていた。 40歳で年収は一千万円を超え、日々実務に追われる対価としては、十分だったのだと思う。 アジア地域での大型プロジェクトにも駆り出され、年単位での海外生活も経験した。 忙殺される毎日を充実していると思い込ませていたものが、ふと消え去ったのはいつの頃だっただろう。 突然襲い来る不安や焦燥、原因の分からない身体の倦怠感。 踏ん張ろうにも踏ん張れないことを、加齢のせいだと誤魔化すことも難しくなった時 企業医から言い渡されたのは、鬱という病名と、休職の勧めだった。 業界では勝ち組と呼ばれる会社でも、同じようにドロップアウトしていく人間は多く見てきた。 課長職に届かんとしていた時期に、こんなことで戦線離脱することには耐えられない。 ゼネコンマンとしてのプライドも捨てきれなかった。 それでも、周りの視線は尊敬の念から憐みの情へ変わっていく。 他人から引導を渡されるくらいなら、せめて、自ら身を引こう。 苦渋の決断をするに至るまで、自分の身体の変化を知ってから、半年の時間が過ぎていた。 唯一の安心材料は、養うべき家族がいないこと。 結婚はおろか、恋愛すらも諦めた日々を送るようになって随分経つ。 もしかしたら、自分に守るべき大切な存在がいたのなら、耐えきれたのかも知れない。 自らの性指向を心の底から恨んだのは、この時が初めてだった。 「水森です。お忙しいところ、すみません」 上司や後輩、客やメーカーなど、あの会社で築いてきた様々な人脈。 独立してから、それこそが、貴重な財産であったことを改めて実感してきた日々だった。 広大な敷地のプラント工場から、小さなテナントビルまで、様々な物件を回してくれる。 慣れない作業に右往左往しながらもやっていられるのは、彼らの尽力あってこそだと思っている。 「新しい製品のパンフレットが出来たので、お持ちしようと思うんですが」 中でも、入社当時から懇意にしてきた計装メーカーの営業とは 歳も近いということもあり、プライベートでの付き合いも続けるほどの関係になった。 その彼が、海外拠点への栄転を言い渡されたのは半年ほど前。 後任となった若い営業も、上司の意を汲んでか、足繁く通って来てくれている。 「午後から打合せが入ってるんで、夕方くらいはどうかな」 「分かりました。5時くらいでも大丈夫ですか?」 「ああ、むしろそれくらいの方が助かるな」 「では、一度お電話入れてから、お伺いします」 期待の新人だから、と友は笑っていたが、やはり経験不足は否めない。 特殊な設備図面を前にして固まる表情を見ながら、苦笑することも少なくないけれど 技術的な話から、たわいもない日常の話をする内に、人として悪い奴ではないことは分かってきた。 ともすれば、親子ほどの歳の差がある人間と仕事を共にするようになるのは 俺の歳になれば当たり前のこととは言え、ふと不思議な感覚に陥ることもある。 圧倒的な若さを無意識の内に見せつけながら笑う彼の表情に、軽く嫉妬を覚えつつも 少しずつ、信頼関係が築かれていくのを感じていた。 すっかり陽が落ちた秋の夕方。 相変わらず大きな鞄を抱え、若い営業は事務所を訪れた。 「お時間頂いて、申し訳ありません」 「構わないよ」 ホッとした表情を見せながら、彼は紙袋を打合せ用の小さなテーブルに置く。 「磐城さんは……カフェラテで良いんですよね?」 取り出したのは、近所にあるコーヒーショップの紙コップ。 たまたま出先の店で顔を合わせた際、俺が頼むところをを覚えていたのだろう。 いつからか、事務所を訪れる時には毎度買って来てくれるようになった。 「いつも、悪いね」 「いえ」 はにかみながら、もう一つ小さなカップを取り出す彼。 多分、自分も飲みたいからなのか、そんな意地の悪いことを考えては可笑しくなる。 太陽光や風力といった自然エネルギーによる自家発電の監視・制御も兼ねた総合制御盤。 年々需要が高まるこれらの電源を、より効率的に運用する為にはどうすれば良いのか。 そんな観点から開発された新製品のカタログを並べながら、彼はメリットだけを掻い摘んで説明する。 省エネ・節電と声高に叫ばれている昨今、一部の企業が力を入れているのは確かだ。 けれど、それは金のあるところだけ。 種々提案されたところで、コストがペイ出来ない現実を知れば、気概が挫かれるのは当然のことだろう。 「まあ……今のシステムをダイナミックに変える必要があるので、なかなか厳しいとは、思いますが」 メーカーの立場である彼も、それは重々承知しているのだろう。 「これだけコストがかかるとなると、難しいだろうね」 「一応、インフラと組んで、補助金貰える方向には持って行こうとしてますけど」 「環境推進の工場とか、そんな物件が狙い目かな」 「なるほど……」 -- 2 -- 早々に新製品の営業を切り上げた雰囲気で、今日の目的が別の点であることを察する。 「ところで、磐城さん。来月の初めくらい、お仕事忙しそうですか?」 プラスチックのコップにコロコロと氷を当てながら、彼は尋ねてきた。 「何件か物件はあるけど……大きいのは月末で終わるから、少し落ち着くと思うよ」 良かった、と呟いて鞄の中を漁る彼。 「急な話で何なんですけど……実は、弊社で新しい工場を建てまして」 示されたパンフレットには、山の中に建つ真っ白な建屋の写真がある。 太陽光・風力発電や壁面緑化、ガスコージェネなど様々な省エネ設備を備えた次世代型工場。 「もう、まさに磐城さんが仰った通りで、さっきのシステムも初めてここで運用されるんです」 「羽振りが良いみたいで」 「いえいえ、ここまでの設備投資は、もうしばらく無いと思いますよ」 工場の概要を説明してくれた彼は、更にもう一枚、資料を取り出す。 「で、日頃お世話になっている事務所さん対象に、工場見学を行う予定でして」 「場所は……伊東か。結構遠いね」 「こちらで特急を手配しますし……一応、一泊二日の予定で温泉に宿泊して頂こうと」 この不況のご時世でも、施設見学や懇親会を開く業者は少なくない。 とは言え、ここまで豪勢な研修は昨今珍しくなってきた。 それは、彼の会社が如何に優良な経営状態なのかを示しているようだった。 「俺みたいな小っちゃいところの人間でも良いの?」 「大手さん向けは、また別にやるそうなんで」 「そう……ちょっと、調整してみるよ」 「是非、ご参加頂ければ。磐城さんには、いつもお世話になってますから」 何処となく嬉しげな顔で笑う彼は、一応、と言いながら参加申込書を手渡してくれる。 「水森君も、来るんだよね?」 「もちろんです。……でなきゃ、お誘いしません」 自他ともに認めるワーカホリック。 それは、今までも、そしてこれからも、変わらないんだろう。 気持ちの切り替えが不得手なのも、その気性のせいなのかも知れない。 旅行なんて、前の会社での社員旅行くらいしか記憶にないし、あまり好きでもないのだけれど 若い営業が置いていった手作りのパンフレットを眺めながら、久しぶりに心の躍動を感じていた。 市街地を抜け、海を抜け、山を抜け、また車窓に海が広がってくる。 秋空を背景に、目まぐるしく変わりゆく背景を眺めていた。 こんな何も無い時間を過ごすのは、いつ以来だろう。 「折角なんだから、一か月くらい旅行でもして来いよ」 送別会でそう笑った同期の言葉も、頷いたままで流してしまった。 抗えない現実から逃げ出した後ろめたさが、あったのかも知れない。 「後、30分くらいで着くそうですよ」 若い男は、そう言いながら隣の席に座ってくる。 「案外、退屈しないもんだね」 「僕も、この電車に乗るのは初めてなんですが、風景に見とれてるとあっという間です」 見る見るうちに窓を占拠していく海に目を向けながら、彼は明るい笑みを見せた。 「磐城さんは、旅行とか、されます?」 「いや、殆どしないな」 「お忙しいですもんね」 気分が緩んでいたのだろう。 極力言わないようにしていたことが、口をついた。 「まあ、それもあるし……この歳で一人旅っていうのも」 独身であることを訝しまれるのは、精々30代までだと思っていたのは、身勝手な妄想。 家庭を持ち、家族の為に働くことが当然という男の性は、いつまでも付いて回ってくる。 気の置けない友人に独身貴族と揶揄されることには慣れたけれど 結婚出来ない身の上が、卑屈な感情を生み出すことは少なくなかった。 「たまには気晴らししなきゃ、やってらんないんじゃないですか?」 そんな心情を知ってから知らずか、彼はそう言ってくる。 「まぁ、そうなんだけどね」 「他人のことは言えませんけど……僕も」 「水森君は、結構アクティブな感じに見えるけどな」 「仕事で外を回っているからですかね。休みの日は、殆ど家の中ですよ」 「彼女が不機嫌にならない?」 「まあ……いれば、そうかも知れませんね」 仕事柄もあるのだろう、それ相応に身だしなみに気を遣っている彼。 容姿も決して悪くない。 直接、その存在を耳にしたことはなかったけれど、当然、いるものと考えていた。 自分が聞かれたくない質問はしないようにと心がけていたのに 先入観で軽い口を叩いてしまったことを、少し低くなったトーンで後悔する。 「加治とは、よくゴルフに出かけていたそうですが」 取り直した彼の口調が、昔の思い出を蘇らせる。 営業畑一筋で歩んできた友人は、滅法ゴルフが上手かった。 「客相手じゃ、本気出せないからな」 「俺だったら、良いのかよ」 「当然だろ。その為に連れて来てるんだから」 「酷い奴」 「でも、気晴らしにはなってるだろ?」 ラウンドを終え、遅い昼食をとりながら、友はいつもそんな風に笑っていた。 目的地を報せる車内放送が流れ、彼は静かに席を立つ。 「僕も、その内、ご一緒させて下さい」 「ゴルフ、やるの?」 「いえ。でも、そろそろ、覚えておこうかと」 そう微笑んだ彼は、俺の答を待たないまま自席へ戻っていく。 社交辞令と分かっていても、関係を深めようとしてくる気配に嫌悪感は無かった。 -- 3 -- 新しい建物に入った時、真っ先に天井を見るのは設備屋。 半ば職業病とも言える癖は、やはり同業者にも身についているようで 独特の真新しい空間に入った一行は、皆一様に高い天井を見上げていた。 吹き抜けのエントランスの向こうに見えるのは、太陽光パネルが敷き詰められた中庭。 受付脇の壁には、自然エネルギーによる発電量を示す大きなディスプレイが掲げられている。 まだ工場が稼働していないからだろう、良く晴れた空から降り注ぐ太陽の電気は売電の状態だった。 「あちらのパネルはごく一部でして、屋上にもパネルを設置しております」 今回の旅行を取り仕切るベテランの営業の声が、空間に響く。 「後程、屋上もご覧頂く予定ですので、ご質問はその際にお受け致します。では、まず機械室から……」 屋上の見学を終え、少し遅めの昼食をとったのは午後1時過ぎだった。 隣接する保養所で、社員向けとは思えないほどの豪勢な食事を前にする。 「こんな場所で申し訳ございませんが……夜は、ホテルの方で懇親会を設けておりますので」 過剰な謙遜を言葉にしながら、営業の男は挨拶を締めくくる。 東を向く窓に目を向けると、高台に位置した建物から見えるのは、山間に見え隠れする海原。 それが改めて、小旅行の気分を掻き立てた。 一人親方の生業を続けている同業者たちのバイタリティには、いつも感心させられる。 組織に囚われることなく、組織と共生していく。 幾重もの工程を経て成り立つ建設工事の中で、常に血液として巡り続ける存在。 初見の彼らと交換する名刺に、実力に裏打ちされた自信が滲んでいるようだった。 「食事の後は、自家発とコージェネ関係を見て頂く予定になってます」 テーブルの上の昼食が無くなる頃、忙しく動き回っていた若い男はそう声をかけてきた。 「大変そうだね」 俺の言葉に、彼はフッと微笑む。 「ホストですから、当然です。……どうですか?こちらの工場の設備は」 「如何にも次世代の工場、って感じだね。ここまで複雑なシステムは滅多に無いな」 「これからは電源の多重化が求められるでしょうし、ウチの会社としても自信になってると思います」 「じゃあ、心置きなく設計をお願いできるね」 「その言葉を頂く為に、お招きしたようなものですから」 窓から射す陽の光が、彼の髪と頬を淡く照らす。 一瞬、意識が飛んだような気がした。 「……どうしました?」 「いや、別に。……この後は、何時から?」 「2時半からになりますんで、それまで自由に見学されていて下さい」 他人との距離感の違いが分からない歳じゃない。 それが分からなかった若い頃、一度だけ、自らの処遇を告白した相手がいた。 仄かな恋心を抱いていたのだと思う。 困惑した男の目に浮かぶ激しい拒絶を、今でも夢に見ることがある。 あまりにも純粋な恐怖。 諦めるには大き過ぎる感情を、俺はその時、その場所に、置いてきた。 年の頃は、甥と同じくらい。 まだまだ頼りない子供の様に思っていた彼に抱き始めた感情が、心に不安を宿す。 気のせいだと思い込ませようとしている自分が情けない。 過酷な挫折から、やっと立ち直ってきた。 掠り傷一つで自分がどうなってしまうのかも、分からない。 だからこそ、必死で、仕事に逃げてきたのに。 この短い時間で気の合う人間を見つけられたのは、幸運だったのだろう。 誰かと話していさえすれば、立場をわきまえた者なら間に入ろうとはしない。 予定より少し遅れて始まった宴席の場でも、労いの挨拶以外、彼が近寄ってくることは無かった。 距離感を見誤ってしまったのかも知れない。 歳が離れているからこそ、年甲斐も無く感情が揺れたのか。 慌ただしく動き回る彼を時折目で追いながら、居た堪れなさが募った。 宴も終盤になり、少し疲れと酔いを感じ始める。 早めに部屋に戻ろうと席を立った時、一人の男が話しかけてきた。 「いつも水森がお世話になっております」 赤ら顔で頭を下げるのは、若い営業の上司だった。 「加治とも懇意にさせて頂いていたそうで」 風貌からして、恐らく俺や友人と同じくらいの年齢だろう。 笑いながら差し出される盃を丁重に断り、立ち話を進める。 「いえ、こちらこそ。独立してからもお付き合い頂いているのには、感謝しています」 「とんでもない。これからも、何卒宜しくお願い致します」 暫しの談笑の後、彼はある一つの提案をしてきた。 「ところで……この後、カラオケでも如何ですか?」 「あ、いや……少し、疲れてしまったようで」 「そうでしたか。では、折角ですから、温泉にでも浸かって、日頃の疲れを癒して下さい」 「ありがとうございます」 日頃使い慣れた笑顔のままで再び頭を下げた彼は、背を向けて去っていく。 男を見送るように広間に向けた視線が、ある視線と交錯した。 何か言いたげな表情を浮かべた彼は、こちらに向かって来ようとする姿勢を見せる。 避けていたことを勘ぐられたくない。 気が付かなかった、そう自分に言い訳をしながら、目の前の襖を開けた。 -- 4 -- 酒に浮かされ、心地の良い眠りに落ちたのは、部屋に戻ってすぐのこと。 ベッドに倒れ込んだ体勢が良くなかったのか、身体の節々が痛む。 枕元に置いていた携帯を手に取ると、留守録が入っていることに気が付いた。 『もう、休まれましたか?すみません、一言、御礼だけ。今日はありがとうございました』 時間は既に、夜中の1時を過ぎている。 流石に寝ているだろう、そう思って、申し訳なさを感じつつ携帯を閉じた。 静まり返ったホテルの中。 パタパタという自分のスリッパの音だけが廊下に響いている。 間もなく開けた大浴場前のロビーのベンチに、ある人影が見えた。 目が合った彼女は、確か、ホストである営業チームの一員。 一番下っ端であろう彼に、あれこれと指示を出していた姿を何となく覚えている。 長い髪を後頭部でまとめた浴衣姿の女の表情は、冴えなかった。 軽く頭を下げた後、言葉を選ぶ様子で口を開く。 「あの……これから、お風呂ですか?」 「ええ、そのつもりで」 「でしたら……あの、中に、水森がいると思うんですが」 隣り合って配置されている浴場の入り口から、当然、中の様子は窺えない。 ただ、長い暖簾の下から見えるスリッパが、誰かの存在を示していた。 「なかなか戻って来なくて……様子を、見てきて頂いて良いですか?」 不自然な行動であることを、彼女自身も分かっているのだろう。 風呂上がりの、しかもこの時間に薄く化粧を施している顔からも、彼女の抱く心情が読み取れる。 「構いませんよ」 「すみません……ありがとうございます」 不安に苛まれつつ心を揺らす一時。 それに少し羨ましさを感じながら、俺は暖簾を掻き分けた。 勢いよく流れ込む湯の音が、天井の高い空間に籠もっている。 広々とした浴槽に探していた男の姿は無く 大きな窓に目を向けると、外に建てられた簡素な小屋組みと、その下で空を仰ぐ彼が見えた。 その視線の先には、闇しかない。 けれど、彼は一点を見つめたまま動かない。 若干の気まずさを抱えつつ、彼の元へ赴いた。 「こんな時間まで、大変だね」 眠っていた訳では無いんだろうが、俺の声に対する反応は鈍かった。 「あ……磐城さん。起きられたんですか」 「電話貰ってたのに。気が付かなくて、申し訳ない」 「いえ、こちらこそ……疲れさせてしまったようで」 俺よりもよっぽど疲れているだろう若い男は、くたびれた笑顔を見せる。 軽く掛け湯をして露天風呂に身を沈める。 「そういえば、外で……何て言ったっけ、営業の女性が待ってたよ」 待たせている罪悪感からか、彼の表情がふと曇った。 「ああ……そうですか」 「水森君、長湯なの?」 「別に、そうでは……無いんですが」 気怠そうに細い身体を伸ばした彼は、深い溜め息を一つつき、立ち上がる。 「磐城さん、まだ、いらっしゃいます?」 「いや、長居はしないつもりだけど」 「……そうですか」 社内恋愛だろうか。 そのしなやかな肢体の向こうに浮かぶ女の姿。 置いてきたはずの感情が蘇るようだった。 室内へと通じる扉を開け、一回振り返った彼は、夜の闇に曇らされた顔のままで出ていく。 見送った視線を、彼が見つめていた漆黒の風景に移す。 この中に、彼は何を見ていたのだろう。 湯に浸かり、全身が熱に包まれても尚、その答えは分からなかった。 温めの内湯が、全身の疲れを拭い取ってくれるようだった。 普段からあまり長風呂はしないからか、身体が驚いているのかも知れない。 妙に目が冴えたまま、脱衣室に戻った。 ガランとした室内には扇風機の風が心地よく流れている。 落ち着いてきた頃に流れてきた汗が、温泉の余韻を感じさせてくれた。 入口の方から聞こえた物音に、思わず壁の時計を見やる。 時計の針は2時を指そうとしているところ。 俺と同じように、変なタイミングで目を覚ましてしまったのだろうか。 しかし、その気配は脱衣室の中までには入って来ない。 些細な疑問を抱きながら浴衣を羽織り、外へ出る。 そこにいたのは、いるはずの無い男の姿だった。 「……どうしたの?」 俯いたままでベンチに座る彼は、俺の問には答えなかった。 「彼女は?」 「そうじゃ、ないんです」 噛み合わない答を、彼は絞り出すように口にする。 「上司、だから。でも、僕は……」 狼狽えた様子の彼に、かける言葉が見つからない。 「どうしたら良いか、分からない。仕事だなんて、割り切れない」 「水森君、今日は遅いから、部屋に戻った方が……」 浴衣の上から触れられる手の感触に、思わず言葉が止まる。 縋るように俺を見上げる彼の眼は、僅かに潤んでいるように見えた。 -- 5 -- 尊敬すべき人間が身近にいることは、仕事人として大きな幸運だ。 入社してすぐに今の課に配属されて以来、時に優しく、時に厳しく指導してくれた先輩。 やがて、彼女は昇進し、先輩から上司へと変わった。 親身になり過ぎた故の誤算だったのか。 古株だった友人の海外転勤を機に、彼が俺の担当になった頃 彼女の彼に対するアプローチが、少しずつ、歪み始めた。 「本当に、尊敬しています。多分、社内で、一番頼りにしています」 彼の隣に腰を下ろした俺は、薄暗い廊下の先に目をやりながら、呟きを聞いていた。 「でも、そういう……感情は、持てないんです」 「恋愛、感情?」 「……はい」 「それを、彼女には伝えて無いの?」 「何て言えば良いのか……言ったら、どうなるのか。考えるほど、怖くなって」 社内恋愛で結婚するカップルは、前の会社にも多くいた。 とは言え、それは男から女に対するアプローチによるものが殆どで 彼のように、女の上司からというのは、正直珍しいことだろう。 何処から話が広まってしまうか分からず、同期や先輩に相談することも出来ない。 ちょっとした関係の拗れが、業務の効率までにも響いてくるかも知れない。 若い男がまだ見ぬ結末を恐れる気持ちも、分からないではなかった。 「すみません。こんな話……」 ひとしきり口に出して、何処か気持ちが落ち着いたのだろうか。 顔を上げた彼の表情には、幾ばくかの穏やかさが戻ったように見えた。 「いや、構わないよ。少しは落ち着いた?」 「……ええ」 「俺は、どうこう言える立場じゃないけど……でも、その気持ちは、はっきり伝えた方が良いと思う」 「そう、ですよね」 「君も、彼女も、辛いだけだろうから」 自分に言い聞かせる様、彼は何度も小さな頷きを繰り返す。 叶わぬ想い。 散々経験してきたけれど、いざ目の前にすると、その痛みがぶり返してくるようだった。 「戻ろう。朝も、早いだろうし……」 そう言って腰を上げようとした瞬間、彼の腕が、俺の頭を抱えるように巻きつく。 何が起こったのかを理解出来たのは、その事後のことだった。 傾いた身体は背後の壁に押し付けられ、火照ったままの上半身が密着する。 一瞬重なりあった唇から、溜め息が漏れる。 逸らせない位置で俺に向けられている眼差しを受け止めながら 彼の感触が身体に沁みていくのを、感じていた。 「何……するんだ」 俺の声で我に返ったような彼の目に、狼狽が見て取れた。 「もう、僕は……」 揺らぐ声と共に、彼の手が浴衣の帯にかかる。 思いも寄らなかった行動に混乱しつつ、語気を少しだけ強くした。 「止めないか」 「……どうなっても、いい」 余りに切なげな声に、ほだされそうになる。 再び襲う柔らかな感覚が、抗う気持ちを削いでいく。 それでも、彼の手を、制した。 「水森君、いい加減に……」 「好きです……磐城さん」 その特別な感情を向けられたのは、生まれて初めてだったと思う。 気が付かなかっただけなのかも知れないが、少なくとも、直接受け止めた経験は無い。 通じることの無い自分の気持ちには、いつも、目を瞑ってきた。 これまでも、これからも、それで良いと思って生きてきた。 「冗談は、よしてくれ」 「すみません……すみません、でも、本気、なんです」 引き離そうとする俺にしがみつくよう、彼は自分の腕に力を込める。 「お願いです、何でもします……だから、僕に」 多分、彼も、心情を吐露したのは初めてだったのだろう。 混乱で壊れそうな囁きが、身体の震えを纏って耳に届く。 「一回だけ……僕に、夜を、下さい」 胸元に埋もれる若い男の頭に手を添える。 「……男しか、好きに、なれないんです」 その言葉を発するのに、どれだけの覚悟が必要なのか、よく知っている。 それなのに、俺は未だ、自らの素性を明かすことが出来なかった。 「気持ち悪く思われるのは、分かります。嫌われても、仕方ないと思ってます」 「なら、どうして……」 「全てを失っても良いと、思うほど、好きだから」 ここまでの情熱を持つ前に諦めてしまうのは、臆病者だからだろうか。 「失くしてしまったら……意味が無いだろう?」 「良いんです。僕は、その思い出だけで……一生を過ごしていけます」 想いを成就させるためには、相手が誰であれ、覚悟が必要だ。 「この旅行が終わったら……もう、二度と、顔を出しません」 俺が彼に抱いている淡い想いなど、比べ物にならないほどの深い情。 「……お願い、します」 それを受け止めるだけの覚悟が、俺には、あるのか。 -- 6 -- 室内を照らす小さな灯りが、壁に大きな影を映す。 ベッドに腰掛ける俺と、床に膝立ちになっている彼。 スーツ姿で甲斐甲斐しく自社の製品を説明している面影は、何処にも無い。 客と営業、そんな関係も、ここには無かった。 想いを寄せる男と、それを受け止めようと狼狽える男がいるだけ。 夢の様な、現実の夜。 彼の手によって解かれた帯が腰回りに纏わりつき、浴衣が肌蹴られていく。 目的は、明確だった。 交わり合うことではなく、奉仕すること。 唇を重ねることも、肌の感触を確かめることも無く、彼は俺の下着に手をかける。 知識に埋もれて埃を被ってしまった官能は、上手く機能するのだろうか。 若い頃、付き合いで連れて行かれた風俗で、当然のように勃起しなかったことを思い返す。 相手が女だったから、そう自分を慰めてはいたけれど、実際のところは分からない。 他人から与えられる快楽に心身を委ねることが、怖いのかも知れない。 躊躇いがあるのか、動きを止めた眼下の彼の頬に手を寄せる。 向けられた眼は、過分な憂いを秘めていた。 「無理、しなくて良い」 彼が望んだこと。 けれど、それは、悲壮な覚悟に押し出された行為。 この夜が過ぎれば、今生の別れが待っている。 首を振る彼の姿に、自分の卑屈さを思い知った。 立ち上がった拍子に、浴衣の帯が床に落ちる。 驚いた表情で俺を見上げる彼の手を引き、立ち上がらせた。 「……すまない」 震える身体を抱き寄せ、覚悟を決める。 一つ息を吐き、唇を重ねた。 背中に腕を回し、より身体を密着させていく。 甘い息を吐き出しながら、彼の手が浴衣の中に入り込む。 官能を掬い上げるように、幾度となく、唇を触れ合わせた。 浴衣の下に隠された痩せた身体と共に、ベッドに横になる。 互いの肌の感触を確かめるように、身体を寄せあう。 静かに滑り落ちていく舌が残す感覚に、息が震えた。 時折交わる眼差しを受け止めながら、心が融けていく。 ヘッドボードに寄り掛かる俺の股間に、彼の頭が沈む。 下着の上から擦られるモノには、ある程度の昂ぶりが籠められつつあった。 やがて取り出された部分に、彼の唇が触れる。 不意に湧き上がった背徳感と、得も言われぬ優越感が、快感と共に身体に沁みた。 そっと髪を撫でると、彼の頭はゆっくりと動き出す。 微かな吐息までもが、刺激に変わる。 心と身体が繋がっていることを、改めて思い知らされた。 彼の想いを受け止めたからこそ、俺は、この快楽を味わうことが出来ている。 歳を取ると、感覚は衰える。 自らを慰めることも、若い時に比べれば随分減ってきた。 種を残すこと機会を与えられなかった身体は、けれど、男としての尊厳を保っているようで 彼の舌がもたらす刺激が、徐々に性器を奮い立たせる。 声を忍ばせた深い息に、彼は顔を上げ 何処か満足そうに目を細めながら、モノの先端を唇で挟み込む。 「……う」 いかがわしい音と、その中で揺れる舌が、身体を強張らせた。 上下する頭の動きに合わせて、細い背中の筋肉が盛り上がる。 浮き沈みする肩甲骨が、妙に艶めいて見えた。 時折漏れ聞こえて来る息遣い以外、彼の心情を知る術が無い。 冷静さが失われていく自分の身体。 一人で浮かされることが、怖かった。 首に回した俺の手に導かれるよう、彼の頭が胸元まで戻ってくる。 更に引き寄せ、半開きの唇に口づける。 紅潮した、感情の溢れる顔が不安を掻き消す。 官能を途切れさせない気遣いから添えられた手が、モノを擦り始めた。 絡まり合う舌が引き摺る唾液の感触。 湧き上がる衝動が、激しく鼓動を鳴らす。 噴き出しそうになるのを抑えながら、彼の手淫に身を委ねた。 華奢な肩に縋るよう顔を埋める。 耳を滑る唇が絶頂へ誘う。 「……っは」 瞬間背筋に走った痙攣が、射精と共に身体から抜けると共に 彼の手から零れる精液の感触が満足感に変わっていく。 それでも、顔を上げた、すぐそこにある表情は、未だ寂しさを抱えていた。 余韻がティッシュで拭き取られても尚、冷静さを欠いた自分がいる。 横になる俺の側に腰かけた彼は、視線をほの暗い部屋に泳がせていた。 「本当に……すみません」 微かな声が、耳に届く。 ベッドに置かれた手に、自分の手を重ねた。 「良いんだ」 「本当に、どうか、してる……」 俯いたままで肩を震わせる彼を、これ以上見ていられない。 起き上がり、背後からその身体を抱き締める。 上半身に伝わってくる彼の震えが、俺の覚悟をゆっくりと固めていく。 -- 7 -- 事の顛末を憂い、覚悟を決められないのは、愚かなことだ。 決断の場面は、幾度もあった。 失敗も、成功も、あらゆる結果が今に繋がっていることも、分かっている。 目の前に現れた分岐点。 先は見えない。 それでも、構わなかった。 俺の想いを口にしなくても、彼の気持ちを受け止める事は出来る。 けれど、それは余りにも浅ましい行為。 自分が抱いた感情すらも否定しなければならない苦しさは、彼だって背負っている。 「俺も、君と……同じなんだ」 うっすらと汗ばんだ背中から、彼の脈動が響く。 「すれ違う、ところだった」 耳に唇を寄せ、静かにその身体をベッドに横たえる。 仰向けになった彼の瞳には、状況を把握しきれない、そんな惑いが映っていた。 そっと口づけ、眼差しを交わす。 「本当に、君を……好きになって、良いのか?」 暗がりの中の彼の表情が、歪む。 頬に添えられた手に呼ばれ、顔を寄せ合う。 言葉は、無かった。 ただ、震える吐息と、頬骨を掠めた涙の感触が、彼の安堵を伝えてくれた。 「おはようございます」 朝食場所であるビュッフェレストランに現れた彼は、眠たげな顔をして俺の前に立つ。 開き切らない赤い目を、口元の笑みで誤魔化そうとしているのは明らかだった。 「おはよう……眠れた?」 伏し目がちに首を振った彼の顔を、朝日が照らす。 「でも、まぁ……後は帰って、社内でミーティングが終われば、明日は代休なんで」 「そうか」 俺の顔に、夜のひと時が過ったのか。 つい数時間前の出来事を懐かしむような表情を浮かべ、一つ息を吐いた。 「では、また、後程」 「ああ。あと少しだから、頑張って」 「ありがとうございます」 帰りの特急の中、トイレに立った際に目にした彼は、座席に埋もれるよう微睡に落ちていた。 隣には、その様子を愛おしそうに眺める女。 通り過ぎた一瞬、心の中を居た堪れなさが覆う。 皮肉な運命に、彼は、立ち向かうのだろうか。 犠牲を生まない恋心は、存在しないのだろうか。 傍らの車窓には、既に市街地の光景が流れ始めていた。 旅に出る。 敢えてそう伝えておいたから、この一泊二日、携帯に業務連絡が入ることは無かった。 その代わり、事務所のパソコンには何通ものメールが届いている。 仕事に身を沈めて来た本領が発揮されたのか、溜め息一つで旅の余韻が飛んでいく。 プリンタが吐き出したスケッチを手に、机に向かい、頭の中で構想を組み立てる。 身体の疲れを実感するにつれ、更に思考が冴えてくるようだった。 不意に鳴りだした携帯電話が、時間の流れに気づかせてくれる。 顔を上げた先の窓では、夜が大分深くなっていた。 電話のディスプレイに表示された名前に、鼓動が僅かに乱れる。 闇の中で抱き締めた身体の感触が、全身に絡みつくよう蘇る。 「すみません、こんな時間に。もう、お休みでしたか?」 そういう声で、今の時間を正確に把握する。 「いや、大丈夫。仕事してたよ」 「お疲れ様です」 労いの言葉に被る、走りゆく車の音。 「今、帰り?」 「ええ、ちょっと……」 そのトーンの低さは、疲れや睡眠不足だけが原因では無さそうだった。 しばらく無言の時が流れる。 入り乱れる感情に決着を付けたのかも知れない。 電波に変換された彼の溜め息には、深い心痛が込められていた。 「……声が、聞きたくて」 引きつった口調に、どんな真意が隠れていたのかは分からなかったけれど 手を差し伸べられていることは、確かだったと思う。 「今から、来られるかい?」 誰も招き入れたことの無かった部屋に立つ男に、心がざわめく。 俯く彼の身体を、ただ、抱き締めた。 冷えたスーツの中にある身体の強張りが徐々に解けるのを感じながら ひたすら真っ直ぐな想いを、互いに寄せ合っていた。 「もう少し……このまま、で」 「構わない。君の気が、済むまで」 俺の声に目を閉じた彼の顔が、肩口に埋もれていく。 誰も傷つけたくない。 大切な人だから、だからこそ、悲しい顔をさせるのは耐えられなかった。 狭いベッドに腰掛けた彼は、そう呟いた。 自らのことを何処まで話したのかは、聞かなかった。 「分かってくれるさ。そう、信じるしか、無い」 静かに頷く彼は、何処かに罪悪感を抱えているように見える。 すれ違ってしまった二人、手を取り合うことが出来た二人。 残酷な現実を、憂えているのかも知れない。 「だから、今は」 その肩を抱き、視線を重ねるようにこちらを向かせる。 「俺だけを、見てれば良い」 齢を重ねた心は、遅すぎた春に浮かされることは無いものの 短い夜を重ねる毎に、感情を彩る色が増えていく。 それはとても新鮮な出来事で、今まで知らなかったことに悔しさすら感じる。 共にいられる時間は、それほど長くは無いのだろう。 だからこそ、一瞬の交錯を逃さないように、手を伸ばしていたいと思う。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.