いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 車窓 --- -- 1 -- 週末開かれた彼の送別会は、つつがなく終わった。 いつものように別ルートを辿り、駅で再び顔を合わせたのは1時間後。 「引っ越しの準備は、順調?」 「あんまり、進んでなくて」 「手伝おうか?」 「いや、大丈夫」 同じ職場で過ごした部下と上司としての関係は、間もなく終わる。 「慎也さんは、来週、でしょ?」 「オレはそんなに荷物も多くないから。楽なもんさ」 「俺も、物持ちな方じゃないけど……」 「でも、家電は尚紀の方が立派なやつ、持ってるだろ?」 「それは、俺のが新しいからだよ」 不服そうに声を発した俺に、彼は目尻に皺を寄せながら微笑む。 1年以上続いた忍ぶ恋の結実。 春から始まる、彼との新しい関係。 永遠に訪れないと思っていた幸せな時間に、心ゆくまで思いを馳せた。 「尚紀君、まだ寝てるの?」 朝は強い方じゃない。 起きる気配の無い俺に、妻である彼女が電話をかけてくることは珍しくなかった。 「……あ、ごめん」 「早くしないと~、いつもの電車に遅れるよっ」 その向こうから聞こえてくるはしゃいだ声が、悔しいことに、寝ぼけた頭を目覚めさせる。 「ご飯、どうする?」 「ちょっと、無理かな」 「じゃ、夜のお皿洗いは宜しくね」 寝坊癖を直そうとしてくれているのか、単なる悪戯心なのか。 彼女の作る朝食を抜いた日は、夕食の皿洗いをさせられるペナルティが待っている。 「……了解」 急ぎ足でホームに向かう。 妻の恋人が言ったいつもの電車、には何とか間に合ったようだった。 既に人の乗降を終えた電車のドアが閉まる。 案内板を背に、その光景を眺めていた。 イヤホンから流れてくるのは、流行りの洋楽。 大して造詣が深い訳でもなく、知り合いが勧めてくるものを、ただ何となく聞き流しているだけだ。 ふと感じた気配に、視線を上げる。 距離を置いて立っていたのは、名前も知らない一人の男。 彼に視線を向けた瞬間、次の電車がホームに滑り込んでくる。 前髪が風に煽られる、その姿にもたらされた一瞬の心の凪が、毎朝の歓びだ。 頭を軽く振って僅かに残る眠気を飛ばしながら、ホームに入って来た電車に近づく。 早出だった日の朝、俺と同じ車両に乗り込もうとしている男がいた。 一通りの乗降を待っていると、彼は小さく手を車内に向けて先に乗るように促す。 軽く頭を下げて車両に乗った俺の前に、彼が立った。 間もなくドアが閉まり、走り出した電車はやがて闇の中を進む。 黒い窓に映る彼は、時折ぼんやりと視線を泳がせ、目を閉じる。 何でも無いその光景に、惹きつけられていく自分。 急激な感情の動きに躊躇いながらも、彼の気配を感じているのが悦ばしい。 強烈な一目惚れだったのだと思う。 電車を降りた後、名残を惜しむように振り向いた。 一瞬、目が合ったような、気がした。 発車ブザーと共にドアは閉まり、地下鉄は去っていく。 もう一度、彼に会えたら。 そんな想いに駆り立てられ、俺は出勤の時間を変えるようになった。 顔を上げる喜びが、そこにある。 同じ空間で同じ時を過ごす僅かな時間が、平凡な毎日の中の、小さな幸せだった。 毎朝顔を合わせていても、通勤時以外に顔を合わせることは無い。 当然と言えば当然のことに、縁の薄さを重ねてしまうのは、きっと大人げないことだろう。 もう1年近く同じ毎日を過ごしているのに、それでも、会えない日には気分が落ちた。 忘れようとしていた単純な感情が、疎ましくもあり、喜ばしくもある。 ある夜。 いつもの駅に降り立った俺の背中を、誰かの手が数回叩く。 「良いタイミング。お買い物、付き合ってくれる?」 振り向いた表情は、どんなものだったのだろう。 視線を合わせた彼女は、不意に意味深な笑みを浮かべた。 「何だか、ガッカリしてるみたい」 「そんなこと……無いよ」 数秒見つめ合ったその眼には、女の勘が滲む。 「美緒は?一緒じゃないんだ?」 図星を悟られないよう、ちゃちな誤魔化しを口にする。 それでも、彼女は多分、気付いているのだろう。 「急きょ、ディスプレイの手伝いに駆り出されたって」 「……そう」 3つ年上の和歌子さんと、3つ年下の美緒。 彼女たちと出会ったのは、数年前のことだ。 手頃な部屋は単身者不可、身元を詮索されないような部屋は、利便性も治安も悪い。 男二人で住む部屋を探すことに苦慮していた彼が選んだのは、偽装結婚という手段だった。 知らない女と、形式上とは言え籍を入れるのには当然抵抗もあったが 既婚であることが社内での地位を上げる、旧態依然の会社に勤めていることもあり、渋々了解した。 この共同生活は、幾らか歪な部分はあったにしても、良い距離感を保っていたと思う。 互いが仕事を持ち、社会的にも独立した大人同士の交流。 男女の間に色恋は介在せず、けれど些細なことを補い合える仲間。 深まりゆく恋人との時間に、夢を見ていたのかも知れない。 綻びを見せ始めた関係に、俺は、気が付くことが出来なかった。 -- 2 -- 「女々しすぎる」 夕食の席で、妻の恋人は俺に向かって言い放った。 「美緒、そういう言い方は……」 「だって、そうでしょ?いつまで引き摺ってんの?」 感情的な女の声が、却って思考を冷静にさせていく。 そんなことは、分かっている。 でも、心を落ち着ける場所が、見つからない。 万に一つの出会いだったはずのパートナーとの別れによってもたらされた酷い無力感は ごく当たり前の日常の過ごし方さえも忘れさせていった。 夜、眠ることが出来ず、遅刻を繰り返す。 食欲が出ず、体重が減り、倦怠感が付きまとう。 それまでの人生を否定されたような失意。 偶然以上の縁に再び巡り合うことは無いだろうと、結論付けては心を落としていた。 「結婚した男とヨリ戻そうなんて、思うのやめなよ」 両性愛者だった恋人に、子供が出来たと告白されたのは、冬の夜。 話を理解出来なかった、しようとしなかった俺に、彼は一晩中語り続けた。 自分が生きてきたことを証明するものが、欲しい。 ぼんやりと陽の光が射すベッドの上で聞いたその言葉が残したのは、絶望だけだった。 「別れが出会いのチャンスって言うじゃない。どうして前向きになれないの?」 「そんなに、簡単なことじゃ、ないだろ?」 「そりゃ、殻に閉じこもってれば、そーでしょうよ」 彼が去ってから、半年余り。 立ち直る気配も見せない俺に、彼女は業を煮やしていたのだろう。 イライラを爆発させながら絡んでくる口調に、俯くしかなかった。 「例え、慎也さんより良い人が目の前に立ってても、それじゃ気づかないよね」 忘れたくても、決して忘れられない名前。 他人を愛することも、痛みさえ融かしていく快感も、全て彼に教えられた。 俺の一部だと思っていた存在が無くなっても尚、その空隙すら、愛おしかった。 彼以上の男が現れるなんて、有り得ない。 「美緒は、良いよな」 つい口を衝いた一言に、目の前の女の顔が歪んだ。 「何、それ?……ああ、そうか」 「ちょっと、二人とも……」 「オレはゲイだから、出会いなんて無いって?あたしはバイだから、出会いがいっぱいあるんだろ?って?」 同性愛者と両性愛者、異性愛者から見れば同じように思われているのかも知れないが 俺から見れば、異性を恋愛対象に出来ること自体に違和感がある。 それは決定的な違いだと思っていたし、妬ましさがあったのも、確かだった。 「バッカじゃないの?男だろうが、女だろうが、出会いなんてほ~んの一握りなのよ?」 雑な音を立てて、彼女は立ち上がる。 「だから、ちゃんと前見てなきゃ、逃がしちゃうよって言ってんの」 怒りが収まらない様子の女は、自室へと姿を消す。 自分が作った料理を眺めながら、呆れたように妻は笑った。 「心配してるのよ」 「……そう」 「もう、下向いてる尚紀君、見てられないって」 冷めてしまった揚げ物が乗せられた小皿を受け取り、手元に置く。 「気持ちは、凄くよく分かる。けど」 真摯な眼差しに、彼女が抱える過去の辛苦が映っているようだった。 「そろそろ、顔を上げても良いと思うの。足元に、思い出を置いておいても良いから」 フラワーアレンジメントの教室に通っていた女と、そこの講師をしていた女。 講師と生徒の関係は、やがて友人となり、月日を重ねることで恋心が絡むようになった。 今の俺と同じように恋愛を諦めかけていた時期、妻にとって彼女は、掛け替えの無い存在だった。 「……和歌子さんは、どうやって、乗り越えた?」 「乗り越えては、ないな」 「え?」 「まだ、引き摺ってる。多分、一生、引き摺るんだと思う」 恋人が引きこもってしまった部屋のドアに視線を向け、彼女は言った。 「でもね、美緒がいる限り、足元は見ないようにしてるの」 足に絡みつく、過去の恋愛。 先に進めないのは、それに縋りつこうとする自分の弱さのせい。 思い出は、もう、戻ってこない。 「おはよう」 モーニングコールを受け取る前に彼女たちの部屋を訪れた俺に 朝食の準備をする妻は、ホッとしたような表情を見せた。 「早出って言ってたけど、こんなに早いの?」 「何か……目覚めが良くて」 「そう。じゃ、急いでご飯作るね」 「美緒は?」 「まだ、寝てる」 買い物帰り、駅前の公園を横切る。 その入り口付近にある喫煙所に、ふと目が行った。 皆バラバラな方向に目をやりながら煙草を吸っている、数人の男たち。 視線を戻そうとした時、思わず息が止まる。 朝とは違う、緊張を緩めた顔。 紛れも無く、彼だった。 「どうしたの?」 「あ……いや。朝、よく、見る人だな、って思って」 「ふ~ん……」 俺の背後を覗き込むように、そちらを見やる彼女。 妙な緊張感が、歩みを少し早くさせる。 離れていく、距離。 もう、訪れないかも知れない機会から手を離すのが悔しくて、もう一度振り向いた。 瞬間交わった視線に、初めて出会った時の想いがぶり返す。 その時、俺は、叶わぬ恋を現実として受け止めたんだろう。 -- 3 -- きっかけは、不可抗力だった。 数日前の朝、いつものように彼は俺の前に立っていた。 駅を出た直後、電車が急停止したはずみにぶつかった彼の身体に上半身が押し付けられる。 思わず発せられた苦しげな息遣いが耳を掠める。 乱れた理性を整えながら、背後に圧し掛かる力に耐えた。 その状態は俺が下車するまで続き 罪悪感に苛まれながらも、言いようの無い悦びを否定することが出来ない自分がいた。 彼の面影で身体を慰めたことは、それまで無かった。 スーツ越しに感じた儚い体温でさえ、欲求を湧き上がらせることは無かった。 届かない故に神格化しようとしていた感情を引きとめたのは、脳に沁みる吐息。 それだけのことが、身勝手な希望の火を灯す。 もっと、彼に触れたい。 殻に閉じこもった快楽が、虚しい身体を震わせた。 混雑した車内で、偶然を装うのは簡単だった。 電車の揺れに合わせて立ち位置をずらし、距離を詰める。 ドアに手をついて身を支えるよう、前に立つ身体の間に手を滑り込ませる。 周りからは殆ど見えていないだろうし、彼自身、それほど気にかけていないようにも見えた。 背徳感でぎこちなかった動きも、日を経るごとに慣れてきて 悟られないようにする為にはどうすれば良いのか、そんなつまらないことをも考えるようになる。 この浅ましい行為は、痴漢と変わらない。 俺の腕の中に納まるような形で立つ彼と、窓越しに目があった時 不意に視線を逸らした自分の行為で、そのことに気づかされる。 何処か困惑した、怪訝な表情。 けれど、抵抗する素振りは見せない。 それに付け込んだのは、望みの無い恋心のせい。 正当化しようとする惨めで情けない自分を闇に映しながら、同じ朝が、幾日も続いていった。 独り善がりな幸せの終焉を覚悟していなかった訳じゃない。 いつだって、心の根底には別れの痛みが横たわっている。 幾らもがいたところで、上手く行くはずがないという諦めから逃れることは出来なかった。 いつもの朝。 彼は、俺の傍らに立って電車を待っているようだった。 突然途切れた音楽。 「すみません」 その声に削られた冷静さを、必死に取り繕った。 「……何でしょう」 普段よりゆっくり目に発した声は、少し震えていたかも知れない。 初めて交わった視線は、決して、俺が望んでいたものではなかった。 「あの……」 後ろめたさも手伝って、彼の雰囲気全てが、俺を否定しているように見える。 けれど、彼の口から次の言葉が出てこない。 居た堪れなさを吹き飛ばすように、乗るべき電車がホームに滑り込んできた。 彼の言葉を聞く勇気は、まだ無い。 乗降客を見やりながら、彼の肩に手をかけ、精いっぱいの言葉をかけた。 「嫌なら、態度で、示して下さい」 けたたましく発車ベルが鳴る。 彼は拒絶の視線を投げて、他のドアへ乗り込んでいった。 最低だ。 俺は、いつまで、こんな風に諦めに飲み込まれていかなければならないのか。 一人で映る車窓の闇に、孤独が広がっていく。 それでも翌日、俺は同じ時間にホームに立った。 次の日も、そのまた次の日も、同じ朝を迎えた。 こんなにも、週末を待ち望んだことはあるだろうか。 後悔と言う言葉が薄っぺらなものに思えるような、自らへの憎悪。 闇にはもう、何も映っていなかった。 「お休みだからって、こんな時間まで寝てるのはどうかと思うわよ」 何度となく鳴らされたチャイムにドアを開けると、呆れたように笑う妻が立っていた。 「あれ……今、何時?」 「もう、お昼過ぎた」 「ごめん。ちょっと……夜、遅くて」 眠れないまま夜を過ごし、朝方やっと意識を失った、と言うのが本当のところだったけれど あまり心配をかけるのも嫌で、何となく誤魔化した。 「ご飯、どうする?」 「あれば……」 「今、美緒が作ってるから。着替えたら、来て」 あの爪が取れるものだとは、知らなかった。 「あれで仕事してると思ってる訳?」 食事をよそってくれる美緒は、そう言って笑う。 「ホント、女の子に興味無いんだね」 ゴテゴテした爪は、彼女のトレードマーク。 いつも違った装いをしていることには気が付いていたが、スッキリした爪を見るのは初めてだった。 「花も、肌も、傷つけちゃ、ダメでしょ?」 彼女の指が、妻の首筋を撫でる。 「ちょっと、美緒……」 「ふふ」 二人の間に流れる、匂い立つような甘い空気。 俺には、それを微笑ましく思える余裕すら、無かった。 -- 4 -- 「青柳さんって、言うそうよ」 昼食後、結婚式場のコーディネートの打合せに出かけた恋人のいない部屋で 妻は、コーヒーを飲みながら俺を見た。 「え?」 「尚紀君が、見てた人」 「何で……」 「ウチの会社に来てくれる、営業さんだったの。私も、この間初めて会ったんだけど」 俺が知る由もない人柄を、彼女は教えてくれる。 誠実そうで、でも、ちょっと弱気な感じ。 多分、歳は俺と同じくらい。 曖昧な相槌を打ちながら、その面影を追いかける。 彼のことを知れば知るほど、罪悪感が心を蝕んだ。 「でも、焦っちゃダメ」 その言葉は、まるで俺の心を見透かしているようだった。 「彼は、尚紀君とは、違うと思うから」 「……分かるの?」 「男の人ってね、何て言うか……値踏みする、みたいな目をする時がある」 要するに、それは、彼の興味が女に向いているということなんだろう。 いよいよ確信を得たらしい彼女は、目を逸らした俺に、諭すように言った。 「だから、あんまり、急がないで」 その進言は、後悔を膨らませるだけだった。 性急な行為を恨むほど、足元の過去に目が向かう。 自分が生きてきた証。 俺にとって、それは、去って行った彼になるのだと思っていた。 もう、何も無い。 逃げ出したい、こんな人生から。 あんなに焦がれていた姿を見ないで済むことにホッとしているのは、希望が潰えた証拠なのか。 出張明けのある朝。 灰色の空の元、色彩を失いかけている日常の風景に視線を泳がせる。 少しだけ音量を高くしていたからか、その存在に気が付いたのは、電車が入ってくる直前だった。 息が止まるほどの緊張感が全身を包む。 折角、断ち切れると思っていたのに。 窓を見ることは出来なかった。 体勢を変えるには難しいほど混雑した車内で、彼の感触を避けるよう、もがき続ける。 耐えられない、そう思ったのは、その手が俺の手を捕えた時だった。 偶発的ではない、意図的な行動だったことは、確かだった。 窓に映る男と目が合う。 何かを窺うような表情を浮かべながら、彼は自身の手に力を籠める。 試されている、そんな気がした。 俺が彼にした行為を、分からせようとしているのかも知れない。 普通の男なら、どんな気分を味わわされるのか。 どれだけ、不快で不可解な行動なのか。 動揺で強張った身体を引き摺るように、車両から降りる。 落ち着かない心を宥めながら、必死で改札を目指した。 去って行く電車が巻き起こす風がホームを抜ける頃、やっと動悸が収まってくる。 そこには、恋愛に怖気づいた自分だけが残されていた。 逃げたい、でも、逃げられない。 嫌われたくない、でも、ここで終わるのなら、せめて、彼が何を考えているのか知りたい。 幾ら考えても、結論は出なかった。 不毛な考えが頭を巡っても、同じ朝はやってくる。 どうしたら良いのか、どうしたいのか、迷いの中で、俺は彼を待った。 階段を上がってくる彼に、目を向ける。 その表情には、何かしらの覚悟が見えた気がした。 「……どういう、ことですか」 軽く見上げられる視線を受け止めないように、問いかける。 「何がですか?」 「どうして……」 問いただすには、知らな過ぎた。 俺と彼の間には、互いの想定しかない。 想定に想定を重ねても、溝は埋まらない。 「態度で示せ、そう言ったのは、あなたですよ」 入線してくる電車の風に煽られながら、彼は言った。 視線を車両に移し、俺の背中に手を添える。 「……そうでしょう?」 人間関係は、感情の探り合いの連続。 それが楽しいのだと、誰かに言われたことがある。 あの日から、彼の行動は積極性を増していった。 手を取られ、身体が僅かに触れ合う。 闇が走る窓には、俺に視線を向け続ける彼が映っている。 けれど、そこに、彼の行動の示す意図は、映っていなかった。 緊張と不安の中での探り合いは、心を徐々に疲弊させていく。 -- 5 -- 駅のホームに鳴り響く、けたたましいサイレン。 緊急停車の放送を期に、乗っていた電車から人が続々と降り始める。 目的地までは、あと一駅。 このまま待つ方が賢明だろうと車内に残ることを決めた。 それは、目の前の彼も同じようだった。 ガランとしてしまった車内は何となく居心地が悪くて、彼から少し離れるように、身体を移動させる。 そのタイミングで、彼が不意に振り返った。 視線を交わさないよう、顔だけ彼に向けて足元を見る。 「あの……」 ややトーンを落とした彼の声が構内の雑音に混ざり込んでいく。 「あなたのこと、奥さんから……聞きました」 何のことを言っているのかは、聞くまでも無かった。 「その上でのことです」 一瞬のうちに、様々な思考が巡る。 何処まで、俺のことを知っているのか。 どうして、知った上で踏み込んで来ようとしているのか。 「……困ります」 彼の行為の答が益々見えなくなる中で、発することが出来たのはそれだけだった。 「ちょっと、良いですか」 腕を引かれ、ホームに下ろされる。 戸惑いを振り払うように一息ついた彼は、問い質すような口調を投げかけてきた。 「あなたの気持ちを、聞かせてくれませんか?」 こんなところで言えるはずもない。 同性に抱く恋心。 彼にとっては、酷く不自然な現実。 軽蔑を向けられるのが怖い。 真剣な眼差しが心に突き立てられるようで、身体が震えた。 「3番線に停車中の電車は、信号が変わり次第の発車となります。ご乗車になってお待ち下さい」 ホームに響くアナウンスに、彼は諦めの溜め息を残す。 「これ……携帯の番号も、書いてあります」 彼はそう言って、俺のスーツの胸ポケットに自身の名刺を挿し込んだ。 決意を促すかのように俺の胸元を軽く叩いた彼は、発車間際の車両に乗り込んでいく。 程なく発車ベルと共にドアは閉まり、長い車体がゆっくりと動き出す。 手に取った名刺に書かれている名前に、心臓が止まる思いがした。 青柳慎也。 悪戯にしては、残酷過ぎる。 同じ名を持つ、過去と現在の男の面影が脳裏を漂い、霧散する。 それが却って、決心を固まらせた。 この縁は、どんなに手繰り寄せても、無駄だ。 その日の予定は講習会直行。 余裕の無い行程に電車の遅延が加わり、会場に着いたのは開始時刻ギリギリだった。 近年の需要の多さから改正された評価方法が、大きなスクリーンに映し出され、流れていく。 『よりフレキシブルかつサスティナブルへ』 そんな題字が書かれた資料を手元に置いたまま、その内容は、一向に頭に入らない。 建物が持つ省エネルギー性を可視化する評価会社に勤めて、もう5年以上経つ。 若手と言う箔も取れてきて、より実践的なやり方が求められるようになった。 一生の仕事だと思っているし、サラリーマンとしての自分の立場も、分かっているつもりだ。 それなのに、あの別離から、どんどん人間性が劣化しているような気がする。 このままじゃダメだと思っているのに、踏み出すどころか、背を向けることしか考えられない。 「講習会、どうだった?」 会社に戻ったのは、夕方過ぎ。 同僚から声をかけられ、やっと自分の疲れを認識した。 「ああ……それほど大きく変わったって感じじゃなかったよ」 おぼろげな記憶の中から、印象的だった部分だけを摘み取る。 「計算アプリの数値は変えないとならないけど」 「それが厄介なんじゃないか」 「まぁ、そうだな」 机の上に置かれたメモを手に取る。 「新しい案件の話だってさ。近々に打合せできないかって」 そう言って、彼は束になった図面や資料を手渡してきた。 「病院?」 「そ。老人ホーム兼ねてるようなとこ」 軽く目を通しただけでも、その広さに圧倒されるような規模。 「……面倒だな」 つい発した言葉に、同僚は苦笑いを浮かべる。 「珍しいな、瀬戸がそんな風に言うの」 「あ、いや……」 無意識の内に、仕事に対する意欲まで削がれていることに気が付く。 気を取り直すように、笑って答えた。 「ちょっと、疲れてるだけだから。……大丈夫」 -- 6 -- 時計は夜の9時を目指して、ゆっくりと歩みを進めている。 誰もいない社内で、一人資料をめくっていた。 自分を取り戻そうと、少し、意固地になっていたのかも知れない。 思いっきり背筋を伸ばし、大きく息を吐いた時、手に入れた一つのきっかけを思い出す。 全てを謝罪し、全てを無かったことにする。 気持ちを聞きたいと言った彼の本意は未だに分からなかったけれど それが、最も自分が納得できる結論だった。 携帯を手にして、番号を押していく。 震える息を抑えるように、発信ボタンに手をかけた。 コール音は、何回鳴っただろう。 「はい」 電話越しに聞こえてくる無機質な声に、身体が強張った。 「瀬戸、と申しますが」 「あ、お疲れ様です。青柳です」 相手の身元が明らかになったからか、その声に少し、明るさが混ざる。 それでも、ぎこちなさは否めなかった。 「少し、お会いできませんか」 既に帰宅の途についていた彼は、しばらくの会話の後、そう切り出してきた。 いつか傷つくのを恐れるよりも、傷を癒す孤独の方が、まだ耐えられる。 一人頷きながら、その提案に答えを返した。 「……分かりました」 ここに佇む彼を見かけたのは、それほど前のことではなかったと思う。 俺の姿を認めた彼は、持っていた煙草を大きな灰皿に入れ、近づいてくる。 会釈をし合い、促されるまま、隣接する公園に足を向けた。 「お疲れのところ、すみません」 「……いえ」 風が殆ど無い夜の空間。 想いを寄せる男を隣にして、躊躇いから背を押したのは、傷ついた自分の姿だった。 「私の気持ちを、聞きたいと、言うことですよね」 「そうです」 「私が……」 同性愛者であること、それを、彼は知っているはずだった。 「それは、知ってます」 そして、彼がそうではないであろうことも、俺は知っている。 「あなたは……違うでしょう?」 「……違います」 「なら、何故……」 無視しないのか、拒絶しないのか。 続けなきゃならない言葉が、出てこない。 「先にアプローチしてきたのは、あなたですよ」 下を向く俺とは対照的に、夜を真っ直ぐに見つめる彼。 「あれは、つい……」 「でも、オレのことは、受け入れてくれませんよね」 「踏み込んだのは、間違いだったと、反省してます。あなたにも、迷惑を……」 「オレは……態度で、示したつもり、ですけど」 落ち着いた口調が、ますます混乱を深くする。 全てを否定される前に逃げられれば良いと思うのは、甘いのかも知れない。 「あなたは……オレのこと、どう思ってますか?」 また、あの視線を受け止めなければならない。 畏怖の混ざる嫌悪の眼。 車窓越しに見えた、困惑の表情。 俺自身、未だに違和感が拭えない感情を晒したところで、誰も得はしないのに。 顔を上げた先には、見慣れた光景が広がっていた。 「……好きです」 誰にともなく、そう、呟いた。 すぐ近くにいる男の呼吸の乱れが、木々のさざめきに溶けていく。 「でも、あなたが受け入れきれないことは、分かっているんです」 強張る彼の顔を捉えながら、その手を振り払おうと必死だった。 「あなたには……先が、見えないでしょうから」 つまらない好奇心で火傷を負う彼の姿は、見たくない。 言葉に詰まる彼に、畳み掛ける。 「仮に、あなたと付き合ったとして……いずれ、私は、あなたに色々なことを求めてしまうでしょう」 一息ついて、無理矢理、微笑んだ。 「そんな望みを抱いている私と……一緒に、いられますか?」 これで良い、そう思った。 戸惑いの表情を浮かべながら息を飲んだ彼は、想像し難い世界を思い描いているのかも知れない。 それなのに。 「今のオレには……これが、精一杯です」 言葉と共に乗せられる、彼の手。 その手が俺の手を覆うほど、身体の震えが抑えきれなくなっていく。 「気持ちが混ざり合うまでには、まだ、時間がかかると思います」 視界に入り込む彼の表情から、戸惑いが消える。 「それでも、良いと、言ってくれませんか」 澱んでいた想いが、彼の声で俄かに流れ始める。 螺旋を描きながら混ざらんとする様が、微かに見えたような気がした。 組んでいた手を解き、彼の掌を受け入れる。 焦らないで、そう言った妻の言葉が、頭を過った。 「本当に……」 震える声に、彼は指を絡めて答える。 やがて握り締められた手が、心を動かした。 「分かりました。……信じて、待ちます」 望みは、その全てが叶えられるとは限らない。 叶えられたものもある、叶わないだろうものもある。 それでも、足元を見るばかりの日常からは解放された。 車窓の向こうから出て来た彼を、少しずつ、実体として捉えていく過程が幸せで、嬉しかった。 ただ一つ、あれから数か月経った今でも、乗り越えられないことがあった。 彼の名前を、口に出来ない。 「青柳さんは……」 そう声に出す度、彼の顔が一瞬困ったように曇ることは気が付いていた。 距離を縮めてきてくれている彼に申し訳なさが無かった訳ではないけれど、どうしても、出来なかった。 -- 7 -- その出会いは、あまりに唐突だった。 妻たちが不在だったある夜、地元の駅で彼と待ち合わせの約束をした直後のこと。 改札を出た俺の目に飛び込んで来たのは、一人の男だった。 「久しぶりだね」 「……どうして、ここに?」 「仕事で、たまたまね。まさか、会えるとは思って無かったけど」 柔らかな表情も、温和な口調も変わらない。 年相応に齢を重ねた笑顔に、皺が寄る。 「元気にやってるかい?」 「おかげさまで……」 「和歌子ちゃんたちは?」 「ええ、変わらず……」 嫌いになった訳じゃない。 捨てられた、と卑屈に思う感情が無い訳でもない。 約束があるからと誘いを断る俺の口調には、何処か引き摺っているものが滲んだのかも知れない。 待ち人が来るまでの僅かな時間、過去に縋ることを、心の中で詫びていた。 彼なりに気を遣ったからなのか、その口から出てくる言葉は今の彼のこと。 仕事や家族、そんなありきたりな、けれど聞きたいとは思えないことばかりだった。 聞き流せるようになれと、もう自分のことは振り切れと、男は言いたかったのだろう。 「そろそろ、良い人は、見つかった?」 不意に向けられた質問に、咄嗟に答えが出なかった。 「なかなか……そう、上手くは、行かないよ」 作り笑いを返しながら、混ざり合うまで待って欲しいと言った彼の表情を思い浮かべる。 不自然な恋愛関係の歩みは、遅い。 焦燥感と共に不安が過るようになっていたのも、確かだった。 携帯の着信で、時間の経過を思い出す。 後ろめたさを抱えて出た電話の向こうから、申し訳無さそうな彼の声が聞こえてきた。 「ごめん、急に仕事が入って……」 興味深げに俺の表情を窺う目の前の男から、視線を外す。 「……そうですか」 「その分、週末、楽しみにしてるから」 二人の狭間で揺れる感情は、最後に付け加えられた言葉に、何とか引き留められた気がした。 溜め息と共に電話を置いた俺に、彼は当然の質問を投げかける。 「待ち合わせの相手?」 「……そう。都合、悪くなったって」 「友達?それとも……」 すぐに答えを返すべきだった。 どうして、躊躇ったのか。 「……分からない」 予定の無くなった俺を、引き留めることはしなかった。 ただ、カウンターの椅子から降りる彼は、最後にこう言った。 「オレと彼は違う。同じ幸せを求めようとしちゃ、ダメだよ」 思い出から抜け出せないことも、新たな現実に飛び込めないことも、彼にはお見通しだったのだろう。 これからも、何度か来る機会がある、その言葉に自分の未練がましい気持ちを思い知らされた。 「慎也さんと、会ったわ」 あの夜から数日後、幾分不機嫌な表情で、妻はそう言った。 「……何処で?」 「駅」 二人きりの空間が、何処か強張っていくようだった。 「青柳さんと、偶然一緒になった時でね」 過去と現在の交錯。 互いの心にどんな感情が生まれたのか、想像することも怖かった。 「何か、言ってた?」 「何も言ってないけど……気が付いては、いたと思う」 「……そう」 「彼、尚紀君とも話したって、言ってた」 彼女は未だ、昔の男に良い思い出を持っていない。 同じ時間を過ごして来たとは言え、今では彼がいなくなってからの時間の方が長くなった。 目まぐるしく変化していく俺の心境を、多分、本人よりも良く知っているからなのだろう。 「ちょっと、前に……会ったんだ」 「そう」 静かな溜め息を一つ吐き、彼女は立ち上がる。 用が済んだ食器を片づけながら、俺に向かって問いかけを呟いた。 「青柳さんを待ってるの、不安?」 「それは……」 「ちゃんと、前、向いてる?彼に、向かってる?」 思い出は縋るものじゃない。 思い出は、噛み締めるもの。 それは、分かっているのに。 -- 8 -- 「ただいま~」 玄関から聞こえる甲高い、けれど疲れた声。 「おかえり。遅かったんじゃない?」 「ん、ちょっとね」 「何か、ご飯作る?」 「ううん、だいじょーぶ」 相変わらず派手な化粧の彼女は、俺の向かいの椅子に座り、意味ありげな笑みを見せる。 「青柳クンも、そ~んな浮かない顔してた」 「え?」 「何ぃ?何か、ケンカでもしちゃった訳?」 「美緒、青柳さんと一緒だったの?」 「駅出たところで偶然会ったから、ご飯でもどうって誘っちゃった」 「何で、そんなこと……」 「おやぁ……妬いちゃった?」 鬱陶しい口調にイラつきながらも、否定する気持ちが大きくならない。 彼が多少なりの下心を持つことは当たり前だし、仕方が無いことも知っている。 俺に羨む資格なんか無いんじゃないか、何処かでそんな風に思っていた。 「でもねぇ、一つだけ、すっごい収穫があったの」 妻が入れた紅茶を飲みながら、彼女はゴテゴテした爪先を俺に向ける。 「……収穫?」 「青柳クンはねぇ、凄く真面目に、尚紀クンのこと、想ってる」 「どうして……」 「そんなの、長々惚気話聞かされてれば分かるよ」 呆れたように笑った彼女の眼は、瞬間、好奇心だけではない何かを帯びて、俺を刺す。 「悩んでるのはね、尚紀クンだけじゃ、無いってこと」 待ち合わせていた駅に現れた、スーツ姿の彼。 少し遅れたことを詫びる言葉を口にする彼を横に、夕食代わりの居酒屋に向かう。 今まで話してこなかった過去を手繰られることは、覚悟の上だった。 その結果、揺れる想いを探られても、仕方ないと思っていた。 互いを想う気持ちが深いほど、困難の山は高くなり、迷いの幅が大きくなる。 同じ時を過ごすことが出来るだけでも、幸せであることには変わりない。 平坦な幸せに満足出来ない自分がもどかしい。 彼は、何を考えているのだろう。 俺は、何を望んでいるのだろう。 その想いが一つになる時は、いつ来るのだろう。 店の外には、幾分季節を外した風が吹いていた。 明日も会える、それなのに、別れの雰囲気が切なく心に影を落とす。 危惧していた話題に触れられること無く過ぎた時間。 いつか聞かれることを恐れているより、自ら話してしまった方が、気が楽になるのかも知れない。 もう少し、そう口にしようとした瞬間、彼が振り向いた。 「時間があれば……少し、俺の家で、飲み直さない?」 愁いを帯びたその眼に、覚悟を決めて、頷いた。 彼の家へ行くのは初めてだった。 単身者用のマンションであろうその部屋は、意外な程に整頓されている。 「適当に座ってて」 そう言って彼が示したカウンターの椅子に腰を下ろす。 冷蔵庫から缶ビールを取り出す彼の姿を見ながら、言い知れない緊張が肩を震わせた。 「……彼に、会ったそうですね」 俺が発した一言に、彼は足を組み直す。 恐らく、話を切り出されることを待っていたのだろう。 「見かけたぐらいだよ。駅で、ね。直接話した訳じゃないし」 口調は、冷静だったように思えた。 「そうですか」 「でも」 声色に、微妙な感情が被る。 「……その前にも、見た」 それがいつのことなのか、推測が過ると共に顔を上げ、彼を見た。 細くなった彼の視線は、まるで俺を断罪するようだった。 「ごめん……あの時、外から見てた」 不信感を纏う声が、耳から離れない。 何から話せば良い? どうすれば、彼に、理解して貰える? ビールを一口煽った彼は、俺の戸惑いに追い打ちをかける。 「尚紀は、あの男と、ヨリ戻したいと思ってるの?……オレじゃなくて」 雑多な感情は、入り混じっても闇しか残さない。 でも、目の前の存在は、その中に一筋の光を射し込む。 見失っちゃいけない、ただ一つのもの。 立ち上がった俺を見上げる彼の表情には、幾ばくかの警戒感が見て取れた。 その頭を抱えるように腕を伸ばし、吐息を感じる距離まで引き寄せる。 真っ直ぐ前だけを見据えて視線を交わしたのは、初めてだったのかも知れない。 違う、そうじゃない。 俺は、彼だけを、心に留めておきたい。 そう思いながら、彼と唇を重ねた。 -- 9 -- 過去と同じ幸せを求めてはいけない。 少し乾いた、柔らかな感触に、その言葉を思い出す。 息苦しさから逃れるように僅かに位置を変えながら、何度も、唇を触れ合わせる。 顔を離した瞬間に感じた視線には、戸惑いすらも浮かばない驚きの感情が込められていたように思う。 後頭部を手で支えながら、首筋に顔を埋め、軽く舌を滑らせる。 形容しがたい甘い吐息が耳を掠めた。 「尚紀……ちょ、っと」 暴走しかけた理性を止める、彼の声。 「ちょっと、待って」 冷静さを欠いたその姿に、逸る気持ちが抑えられない。 頭を抱えるようにきつく抱き締め、何とか自分を落ち着かせようと目を閉じる。 「……すみません」 子供をあやすように俺の背中を撫でるその手は、本当に優しかった。 「青柳さんは、別れた女のこと、簡単に忘れられますか?」 過去の男との邂逅を話している途中、一つの問を彼に投げかけた。 それは、紛れも無く、俺自身が過去を引き摺っていると言う告白に他ならない。 怪訝な表情をする彼から視線を外し、フローリングに泳がせる。 「……昔に戻れれば、正直、そう、思う時もあります」 溜め息と、缶を小さく叩く音が、彼の機嫌を教えてくれるようだった。 「オレのこと、彼に何か言った?」 口には出していない。 それでも、年上の男は、俺の逃げ口上の意図に気が付いていただろう。 「一応、想いを寄せてる相手は……いる、と」 頬に触れた手に呼ばれるよう、彼の方へ向き返る。 「寄せてる、相手?」 感情を露わにした彼の口調が、徐々に強張っていく。 「オレは、お前の気持ち、受け止めてるつもりなのに。そんな、一方的なもんなのか?」 「それは……」 「過去を忘れろなんて、言わない。でも、オレはどうしたら良いんだよ?」 迷いで鋭くなった眼差しに、言葉が出ない。 勝手に想いを寄せて、悪戯に不安を煽り、我儘な感情を投げかけるだけの自分。 どうして俺は、この期に及んで素直になれないのか。 立ち上がった彼は、俺の側に立ち、腕を引く。 されるがまま、ベッドの方へと追いやられた。 「ヤったら、変わんの?」 自棄気味にネクタイを外す彼は、俺を見つめながら言い放つ。 「だから、キスして来たんだろ?続きがしたいんだろ?」 放り投げられたネクタイが視界から消えていく。 こんな終わり方は、したくない。 「違います、そうじゃない……僕は」 「じゃあ、どうして欲しいんだよ?!はっきり言えよ!」 煮え切らない俺に、彼は感情を爆発させる。 「オレはこんなに本気なのに、離れていってんのは、お前だろ?」 頬に寄せられた手の感触のすぐ後に、唇の儚い感触が身体を包む。 立ち尽くしたままの俺に、彼は、幾度とないキスをくれた。 「尚紀、オレのこと、本当に好きか?」 吐息が絡む呟きが、耳を抜ける。 「なら、頼むから、オレのこと……好きだって、言ってくれ。言葉に、してくれ」 想いを寄せ合っていても、伝えなければ、何の絆も生まれない。 日々の喜怒哀楽に薄められていく根底の想いは、時折、掘り返すことも必要だ。 彼の頭が、肩口に収まる。 首に回された手が、二人の身体をより密着させる。 「……好きです」 自分に言い聞かせる様、求められた言葉を口にした。 「好きです、言葉じゃ……足りないくらい。だけど……」 「だけど?」 「怖い。言い表せない程、不安で……堪らない」 深い息を吐いた彼は、その唇を俺の耳元へ寄せる。 「オレだって同じくらい、好きなんだよ。同じくらい、怖いんだ」 囁く声が、拗れた心を解きほぐすようだった。 「でも、お前となら、大丈夫だと思ってる」 来し方も、考え方も違う二人の人間が、同じ人生を歩む。 そこには、偶然を超えた何かがあるのだろうと思う。 歪な感情がぴったり嵌りあうことなんて無いのは、分かっていた。 「……隙間は、埋められますか?」 それでも、これが、俺が彼に望むこと。 「慎也さんと……僕は、一つに、なれますか?」 窓を開けて煙草を吸う彼の姿を、ベッドの上から見ていた。 まだ夜は明けたばかりのようで、僅かな陽の光が彼の髪を照らしている。 揺れながら空に溶ける煙を、目で追いかけた。 その時、床に放り出されていた携帯電話が不意に鳴り始める。 「誰?」 振り向いた彼は、煙草を咥えたままで聞いてきた。 「……ちょっと、面倒な女」 誰のことなのかは、すぐに分かったのだろう。 「ま、見かけに寄らず、良い娘だと思うけど」 「それは、そうなんですけどね」 第一声からして想像がつく。 ここで無視して、後からいろいろ勘ぐられるのも面倒だ。 そう思いながら、通話ボタンを押した。 「オレって、もしかしたら、スーツケース一個で暮らせる性質なのかも」 トラックに積み込まれた少なめの荷物を見ながら、彼は呆れたように笑う。 「家電とか家具が無いからですよ」 「そうだけど。……尚紀は服持ちだもんな」 「あれは、美緒がせっせと勧めてくるから」 「へぇ……じゃ、オレは和歌子さんに見繕って貰うか」 悪戯っぽく笑うその表情に、単純な嫉妬が、つい顔に出た。 走り始めたトラックを追いかけるように、彼は歩き始める。 「別に、お前でも良いぞ?」 振り向きざまの笑顔が、心に光を射し入れる。 「じゃ、僕の貸しますよ」 「デカいだろ?」 「大して変わりませんって」 車窓に映る彼は、疲れていたり、少し気合が入っていたり、日々変化を見せる。 時折交わる秘めた視線に心からの安堵を覚えるのは、二つの心が馴染んできたからなのだろう。 冬の訪れと共に始まった共同生活に想いを馳せる。 車内灯に照らされた滲む彼の姿を見て、俺は幸せを噛み締めた。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.