いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 片生 --- -- 1 -- 狭い部屋の壁を一面覆うガラス窓の外には、街の灯りが煌めいている。 空調が少し効き過ぎているくらいの部屋は独特の緊張感に満ちていた。 「すみません、お待たせしました」 そう言いながら入ってきたのは、俺よりも一回り程年上の男。 クールビズを推奨する季節にも拘らず、ネクタイを締め、上着を羽織った彼の姿は、けれど何処か涼やかで それは、彼の面持ちや立ち居振る舞いのせいなのだろうと思った。 「どうですか?幾つか候補は絞れました?」 何枚もの資料を机に並べ、彼は俺にそう聞いてくる。 「そうですね……こちらの会社なんかは、条件も良いかなと思うんですが」 「少し、給与が下がるんじゃないですか?」 「これくらいなら、許容範囲内かと」 軽く微笑んだ男は、小さく頷きながら手元のタブレットを弄り始める。 「古屋さんの経歴なら、もっと上を目指しても良いと思いますよ」 程なく出力された数枚の紙が、俺に差し出された。 「昨日来た案件なんですけどね……」 転職を思い立ってから2ヶ月弱。 初めは、登録制の転職サイトを頼りに探していた。 とは言え、30歳転職限界説はあながち間違っていないようで 引っかかるのは希望にマッチしない求人ばかり。 個別面談式の転職エージェントの扉を叩いたのは、現実を知り、焦りを感じ始めた頃だった。 待つだけの登録サイトとは違い、面談からレジュメ作りまでかかる手間は多い。 その分、新天地への歩みは確実に進んでいるような気がする。 30代前半で進路変更を決意したのは、会社の経営方針が変わってきたことが一つのきっかけだ。 勤めている設計事務所は規模としては中堅クラスだが、このところ人員増強を精力的に行っていた。 業務内容の拡大を狙っているらしく、そのための布石だと知ったのは、つい最近のこと。 設計だけではなく、施工管理やコンサルタントなど、幅広い業種に対応できる会社への転換を図る。 この不況下、敢えて手を広げることで、会社としての生き残りを懸けるつもりなのだろう。 保守的な人間ではないと思っていたけれど、10年近く同じ仕事を続けている内に 何処かに安定を求める気持ちが芽生えてきたのかも知れない。 過渡期に突入しようとする会社に対して、それほどの忠誠心を持っていなかったのかも知れない。 煮え切らない気分で転職活動を行うにつれ、将来への不安がいよいよ煽られるような気分になっていた。 担当のエージェントである喜連川氏は、前職がファイナンシャルプランナーと言う異色の経歴を持つ。 珍しいですね、そう問うた俺に対して、彼はそうでもないんだと笑っていたことを思い出す。 この会社に集まる人材に求められるスキルは、相手の要望を的確に引き出すこと。 各担当業種に関する研究は、長い間に培われてきた過去の実績が既にある。 彼らは、それをベースにして、求職者と人材を求める会社との間の橋渡し役をするだけなのだと言う。 就職してから、ずっと同じ会社に勤務してきた俺は 様々な業界、多様な職種があるのだと、彼の話を聞いて、改めて思い知らされた。 「勤務地は横浜ですけど、やりがいは十分だと思いますよ」 受け取った求人票に書かれていたのは、某独立行政法人の名前。 設計事務所時代、物件を担当したこともある。 「即戦力になる経験を持った人材を探しておられるということで、古屋さんにはピッタリなんじゃないかと」 「下請けとしてお付き合いさせて頂いたことがあるんですが……大丈夫なんですかね」 「想定内でしょう。それに、その方が、あちらとしてもやりやすいんじゃないですか?」 提示される会社は、業界では概ね名の通った大手企業ばかり。 客先として見上げるだけの存在だった企業に籍を置くことが出来る。 自分にそれだけの能力があるのか不安になることもあったけれど エージェントや先方との面談を繰り返す内に、自分の本当の実力が分かるようにもなってきた。 新たな何かに挑戦する機会を得ることも悪くないと、前向きな変化が出てきたのも確かだ。 「回答期限は来週末なので、それまでご検討してみて下さい」 2時間ほどの面談を終え、ビルの隅に設置されている喫煙所で煙草に火を点ける。 ふと顔を上げると、真っ暗な空に輝く赤い航空灯が目に入った。 時間は夜の10時を回ろうとしているのに、ビルの窓からは多くの光が漏れている。 仕事に追われる毎日は、自分だけに訪れているのではない。 見も知らない企業戦士たちの面影を思い浮かべながら、気合を入れ直した。 いつか出さなければならない書類は、未だ鞄の中に仕舞い込んだまま。 仮に新しい会社が決まったとしても、すぐに今のところを去ることが出来るという保証は無かったけれど 転職が上手く行かず、無職のままで放り出されるのも怖かった。 入社のタイミングは採用から1、2か月程度の猶予がある。 そんなエージェントの言葉を頼りに、先延ばしにしているものの 部署の異動や組織の編成変更など、慌ただしく動く会社の状況を見ていると、焦りも生じてくる。 活動のことは、会社では一切公にしていないだけに、一人悶々としていたのも確かだった。 「古屋さん、知ってました?」 ある朝。 神妙な面持ちでそう声をかけてきたのは、後輩の紺野だった。 「何を?」 「構造の鈴木さん、会社辞めるって話ですよ?」 「……ホントに?いつ?」 「今月末だって、さっき課長が話してて」 鈴木とは設計部の同期で、入社以来の付き合いだ。 課が違うこともあり、頻繁に顔を合わせることは無かったが、腹を割って話せる仲だと思っていた。 それだけに、彼の決断に驚きと羨ましさが募る。 先を越されたと言う、くだらない競争心もあったような気がする。 「いや、初めて聞いたな」 なるべく感情を出さないように答えた俺に、彼はあからさまな不快感を示した。 「ちょっと、酷くないですか?」 「どうして?」 「会社がこんな時に、中堅どころが抜けるって……無責任過ぎる」 -- 2 -- これからの会社を牽引するべき年代だと言うことは、よく分かっている。 主任から係長、課長補佐に足を掛けようとする立場。 組織と命運を共にする、諦観が僅かに混ざる決断を迫られるほどに、息苦しさが増していく。 「残される部下の気持ちとか、考えないんですかね」 相変わらず不機嫌なトーンの後輩は、そう言って一つ溜め息をついた。 「自分だけ逃げおおせ様としてるみたいにしか、見えなくて」 「前から、転職の意思はあったんじゃないかな」 同期の本心は、分からない。 それでも、紺野の言葉に居た堪れなくなった自分を擁護するように、彼を庇った。 「この状況が決断を促したのかも知れない、けどね。彼は、上を目指せる人間だから」 「それは……そうかも知れませんけど」 会社の業務拡大には、俺を含め、懐疑的な社員も多い。 恐らく、彼もその一人なのだろう。 けれど、後輩を初めとする若い社員は、就職難をくぐり抜けて職を得た世代。 経験値も少ない中、転職と言う手段を選択することも出来ないのなら、会社に留まる以外道は無い。 「上の人に抜けられたら、僕ら、どうしたら良いんですか?」 その一言に、彼らの本心が見えるようだった。 将来への不安を一つずつ排除する。 生きていく上では必要不可欠な行為だ。 それを逃げだと言われても、仕方ない。 困難に立ち向かうのも、回避するのも、間違いじゃないと思っているが 残される者の心情を改めて突き付けられると、もともと強固では無かった意思が揺らぐようだった。 「もしかしたら、一番の障壁はそこなのかも知れませんね」 先週なされた提案の答を告げに赴いた俺に、中年の男は幾分寂しげな表情を見せながら言った。 「信頼されていればいるほど、きつい足枷になるのは確かです」 「ご経験が、ありますか?」 「……まぁ、誰もが経験することだとは思いますが」 「出来れば円満に、と思っているんですが……難しいんでしょうか」 諦め半分に笑った俺を見て、居た堪れない過去を思い出したのだろう。 感情を抑えるように口を閉じ、目を伏せた彼は静かに話し始めた。 「目をかけていた部下がいましてね。上司に退職の意思を告げる前、彼だけに、話したんです」 当然のように引き留めようとする部下。 けれど、男の意思は固かった。 「彼の態度は、正直嬉しかった。でも、それは私の決意表明でした」 既に転職先を決め、内々に引き継ぎ資料も作成していた。 進路を変更してしまってからの事後報告に、部下の気持ちは憤りを通り越す。 「私がいなくなることは、彼にとってもチャンスなんだと、そう諭しても、無駄でした」 真面目だったはずの、残される彼の勤務態度は豹変。 注意を促しても、二言目に出てくるのは「貴方はもう上司では無い」と言う言葉。 ほだされると言うよりは、諦める、と言う心情になりかけたと彼は言った。 頭に浮かぶのは、同期に批判の声を投げた後輩の姿。 「それでも、転職、されたんですよね」 「ええ」 「どうやって……振り切りました?」 自分にも訪れるであろう修羅場を想像すると、背筋の辺りが落ち着かなくなる。 真っ直ぐに信頼を向けてくれていた眼が、不信に染まる瞬間を、いずれ迎えなければならない。 「最後は……冷たいようですけど、どちらに自分の利があるか、で決めました」 目の前のエージェントが何を意図して転職を決意したのか、その本心は分からないまでも 結局彼は、新天地へ踏み出すことを選択した。 やりがい、収入、人間関係。 仕事に何を求めるかは人ぞれぞれだ。 働く上で、俺の利になるものは何なのか。 今の選択が、将来どういう結末を招くのかなど、誰にも分からない。 「……転職して、正解だったと思いますか?」 だからこそ、誰もが求めるであろう答のヒントが、欲しかった。 優しく、涼しげな視線と交わった瞬間、情けなさが込み上げる。 「いや、あの……こんな気分になるのかと、ちょっと、思ったので」 「良いことばかりじゃないですからね。……よく、分かります」 不意に逸らされた眼差しの先では、予定の時間の超過を示す時計が時を刻んでいた。 「でも、転職しようと考えた決意は、大切にするべきです」 面談を希望する旨の書類を整理しながら、彼は眼を細める。 「私は、あの時の選択は間違ってなかったと、今は、思っていますよ」 「そうですか……」 「転職した立場から、一つだけ、アドバイスするとすれば」 一つの溜め息が、小さな部屋に充満する。 「大切に思う人間には、敢えて、話をしないことでしょうね」 「社内で公になるまで?」 「特別な感情だけを残して去ることが如何に残酷なのか、痛感しましたので」 煙を吸い込みながら見上げた空には、厚い雲がかかっている。 先方に対する勝算は十分だと言ってくれる喜連川氏の言葉もあるのに、気分が晴れないのは何故だろう。 同じ部署で数年仕事を共にしてきた仲間。 この期に及んで、袂を分かつことに抵抗を覚え始めているのかも知れない。 闇から立つ水音に、雨の気配を感じる。 あっという間に勢いを増していく水の流線が、視界を霞ませた。 道を行く人々は、傘を開き、もしくは駆け足で過ぎていく。 バシャバシャと音を上げ、鞄を抱えて喫煙所に駆け込んで来る一人の男を見やりながら 持って来た傘を面談場所に忘れたことを思い出した。 -- 3 -- 「……古屋さん?」 その声を聞き、男の正体を知る。 思考回路は、咄嗟に体の良い言い訳を探しに走り始めた。 ここからはかなり遠い現場での定例会議から直帰と言う予定を利用して、この場に赴いた。 付き合いのある会社は近くに数か所あるものの、行き先としては不自然過ぎる。 店らしい店も無いオフィス街のど真ん中、飲みに来たとも言えない。 「こんな所で、どうしたんですか?」 「いや……ちょっとね。紺野君は?」 時間稼ぎとして、質問に質問を重ねる。 ずぶ濡れの前髪から水滴を垂らしながら、後輩は訝しげな表情を浮かべた。 「急に、打合せに呼ばれたので……その帰りです」 「こんな時間に?」 確か、面談を終えたのは8時過ぎ。 どれだけ打合せを行っていたのかは分からないが、呼ばれたのは定時を過ぎてからだろう。 「来週じゃ、ダメだったの?」 「担当の人が急に月曜日出張になったとかで、来てくれって」 気怠そうにネクタイを緩め、濡れたワイシャツの裾のボタンを外す彼。 雨足は、未だ激しいままだ。 「……そう。資料は、大丈夫?」 「ええ、多分……」 そう言って自らの鞄を弄る男に対する最適の答は、まだ見つからない。 「古屋さん」 背後から掛けられた声は、窮地の中で救いとなるのか。 振り向いた先には傘を持ったエージェントが立っていた。 「忘れ物ですよ」 どう声を掛けるべきか迷う俺の気配に、彼は傍に立つ男との関係を察したのだろう。 「お気を付けて」 「……すみません、わざわざ」 差し出された傘を受け取る俺に諭すような視線を送り、足早に立ち去ろうとする。 「どちらさまですか?」 無粋な若い声に、思わず苛立ちが込み上げる。 「紺野君」 「マネジメントセミナーの講師をしている、喜連川と申します」 「マネジメント……?そんなの、受けてるんですか?」 「ああ、まぁ……」 「自主的な研鑽は、あまり他人には告げないものですよ。特に、部下には」 怪訝な眼差しを受け止める中年の男は、懐の深い様をまざまざと見せつけるようだった。 「そんなもんですかね」 眉間に皺を寄せ前髪を掻き上げる後輩と、狼狽が収まらない俺に、彼は一つ頭を下げる。 「では、失礼します。……また、来週」 「ありがとうございました」 機転を利かせてくれた男を見送る俺の耳に、不機嫌な声が届く。 「そういうの、胡散臭いって、言ってませんでしたっけ?」 確かに、以前回覧メールで知らされた自己啓発セミナーについて、そんなことを言った覚えはある。 「……会社がこういう状況だからね。必要かなって」 「今のままで、十分だと思いますけど」 それが褒め言葉なのか、皮肉なのかは分からなかった。 ようやく小止みになった雨を見上げながら、煙草に火を点ける。 「ともあれ……初見の相手に、ああいう言い方は無いと思うよ」 「すみません、つい……」 目を伏せた表情は何処と無く悔しげで、若さから来る血気故なのだろうと、思った。 決断への猶予期間を、引き伸ばし過ぎたのかも知れない。 転職先との最終面接を終えた週明け、上司から言い渡されたのは昇進人事だった。 「……課長、補佐?」 係長になってから、まだ1年。 あまりに急すぎる昇進と、タイミングの悪さで目の前が暗くなる。 「組織の改編で、意匠チームも幾つかの課に統合することになってね」 意匠設計がメインのウチの会社では、担当する建物によって部署が細分化されている。 オフィスビル、商業施設、工場、病院、マンションなど、現状では6つの課に分かれているものが 9月から3つに統合されると言う。 お飾り程度の役職とは言え、今までよりも責任は重くなる。 何より、俺は、この会社を去るつもりでいる。 「あの……辞令は、いつ?」 「来週には出る予定だ。まぁ、今まで通り仕事をしていてくれれば、問題ないから」 終業後、会社の外から電話を入れる。 「組織が固まる前に、出してしまった方が賢明かと思います」 けれど、まだ先方からの合否の連絡は無い。 ここで退職の意を表明することは、賭けの様にしか思えなかった。 「大丈夫、勝算は十分です。自信持って下さい」 小さな溜め息に、弱音を溶かす。 「万が一、残念な結果になっても、私が最後までサポートしますよ」 スピーカーから聞こえる優しげな声が、不安を薄めてくれる。 鞄の中に仕舞いこんだ退職願を書いたのは、もうどれくらい前だろう。 希望日をいつにするか、そのことに考えを巡らせながら、分かりました、と答えた。 夜7時を過ぎても、フロア内には多くの社員が残っている。 パンを齧りながらパソコンの画面を眺めていた後輩が、ふと呟いた。 「喜連川、って珍しい苗字ですよね」 「ああ……そうだね」 突然振られた話題が、後ろめたさも手伝って居た堪れない。 少し早まった鼓動を落ち着かせようと席を立った俺に、彼は冷たい口調で言った。 「古屋さん、転職するんですか?」 -- 4 -- あのビルに入居する、それらしき会社名。 殆ど聞くことの無い珍しい苗字。 真実はすぐに明らかになる。 チーフエージェント、と画面の中で紹介された男の写真を、後輩の肩越しに見ていた。 「これって、あれですよね。人材紹介して、会社からキックバック貰うってやつ」 ホームページを雑にスクロールさせながら、振り向くことなく紺野は声を上げる。 「あんなつまんない嘘、つくなんて」 「いずれ、言おうとは……」 「そのタイミングは、幾らもあったと思うんですけど」 確かに、彼は部署の中でも特に懐いてくれている。 昼飯を一緒にとることも多いし、たまに飲みに行くこともある。 事ある毎に相談に乗り、面倒だと思うことも無くは無かったけれど、頼られることが嬉しかった。 振り向いた彼の表情は、やはり、何処か悔しげだった。 「僕、そんなに信用できませんか?」 「そういう意味じゃ、無いよ」 「じゃあ、どうして、ホントのこと言ってくれなかったんですか?」 荒くなる語気を抑える様に、彼の肩に手を添える。 たった一つのアドバイスを実行することは、諦めた。 「……少し、話そうか」 会社が入るテナントビルの1階には、チェーン店のコーヒーショップが入っている。 エントランスホールの片隅に置かれたテーブルに、アイスコーヒーを2つ置いた。 「明日、退職願を出すよ」 俺の決意表明を聞いた後輩の眼に、濁った感情が宿る。 「いつ、辞めるんですか」 「来月末、と考えてる」 「そうですか」 コーヒーを一口含んだ彼が俯きながら問う。 「あの時、会わなかったら……直前まで、黙ってるつもりだった?」 「……そうだね」 「そういうのって、何か……相談とか、して貰えるもんだと思ってました」 告げてしまおうかと言う衝動には、何回も駆られた。 上司と部下の板挟みになる中間管理職。 愚痴を聞く事は出来ても、愚痴を聞かせる事は出来ない立場。 引き留めの言葉が陳腐な自尊心をくすぐり、決断を霞ませることも分かっていた。 だからこそ、言えなかった。 「下手に君を悩ませるようなことは、したくなかったんだよ」 「でも、覚悟も何も無いまま聞かされるよりは、マシです」 「引き留めようと……するだろう?」 「そりゃ、そうですけど……事務的に、辞めます、なんて言われても、納得出来ません」 駄々をこねる子供の様にムキになった口調が、真っ直ぐにぶつけられる。 「古屋さんが決めたことに……もう、とやかく、言いません。でも、僕は」 テーブルの上に手を組み、彼は上目づかいで俺を見る。 「……隠し事されてたことが、悔しい」 若い彼に、逃げだと断罪されるのが怖い。 けれど、会社を去る理由を、理論づけて説明することも難しい。 察してくれと言うのは、あまりにも自分勝手だ。 信頼されていることに甘え、裏切りの境が見えなくなっていたのかも知れない。 「申し訳ない……でも、僕なりに、考えたことなんだ」 瞬間、眼差しが一気に鋭くなる。 怒りの矛先が向けられたのは、多分、俺ともう一人の男。 「あの人に、言われたんですか?他の奴には言うなって」 「そうじゃない」 「示し合わせたように、誤魔化してたじゃないですか」 「あれは……」 「赤の他人より、信用されてないんですね。何年も、一緒だったのに」 「違うって、言ってるだろう?」 わざとらしい大きな溜め息を吐きながら、彼は立ち上がる。 「座るんだ」 「もう、良いですよ。このまま聞いてても……」 怒りを通り越した先に見せた表情に隠れていたものは、何だったのか。 一瞬言葉を詰まらせた彼は、俺に背を向けて呟いた。 「傷が深くなるだけなんで」 居た堪れなさを抱えながら提出した退職願は、思いの外、大きな衝突も無く受理された。 その日の昼休み、エージェントから採用の連絡が届く。 何もかも、上手く行っている。 ただ一つのことを除いて。 「浮かない顔ですね。もう少し、喜んで頂けるかと思ってましたが」 珍しく上着を脱いで俺の向かいに座る中年の男は、そう言って微笑んだ。 「え、いや……ホッとしてます、本当に」 必死で作った笑い顔の意味を、彼は察してくれただろうか。 「こんな時にこんな事を言うのも、何ですけど」 その表情は、全てを受け止めてくれるような、穏やかなものだった。 「どうして人間って言うのは、しなくても良い後悔まで、掘り起こしてしまうんでしょうね」 似ているのだそうだ。 彼が残してきた大切な存在と、大切な存在を置き去ることに悶える男。 「デキる人間なのに、それを認めようとしないところ、とかですね」 幾つかある共通点をそう話しながら、彼は目を細めた。 「自分が後押しすることで一気に伸びるんじゃないかと思わせるような存在、と言うか」 過去の面影に思いを馳せるよう、一つ溜め息を吐く。 「ご法度なんでしょうけれど、どうしても、ね」 求職者に私的な感情を抱くことは、エージェントとしては失格なのだと彼は言う。 優秀な人材を発掘し、それをクライアントに紹介し、会社としての評価を上げる。 そのビジネスモデルを確立する為には、感情論を極力排除することが重要になる。 一人の人間に肩入れすることは、会社間にあって、不利益にもなりかねない。 「私は、あの選択は間違っていないと今でも思っています。でも、何処かで引き摺っているんでしょう」 感情に流されず、自らの利をもって登って来た道。 「古屋さんを見ていると、少し、揺らぐんです」 「揺らぐ?」 「今度、こそ、信頼を失いたくない。その為には、利を捨てても情に流されよう、と」 裏切りへの後悔を滲ませた眼が向けられる。 「呵責に耐えるのは、辛いかも知れません。でも、必ず、私が支えます」 -- 5 -- 社内の状況と、部内の心情を鑑みた上で、送別会も無いまま迎えた退職日。 冷たいもんだよな、進路が確定した後で連絡を取った元・同期が笑っていたことを思い出す。 「ご苦労様です」 社員証、社章、その他細々した備品を差し出した俺に、総務の女は無愛想な態度で言った。 これが、会社からの別れの言葉、そう思いながら、その場を後にする。 エレベーターのタイミングを逃し、階段で自フロアまで上がる途中。 ふらつきながら階段を下りてくる男が見えた。 「……大丈夫?」 俺の言葉に足を止めた彼は、ゆっくりと顔を歪ませ、真っ直ぐに俺を見る。 「いえ」 前日まで風邪で欠勤していた後輩の身体は、まだ万全ではないのだろう。 僅かに紅潮した顔と深い息遣いを見ていれば、容易に想像がつく。 それでも、今日だけは、と思ったのか。 踊り場で手すりに寄りかかり一息つく彼に、居た堪れなさが募った。 浅い傷で済んだのかは、分からない。 俺の決意を聞いた後でも、彼の態度に大きな変化は見られなかった。 仕事にも真面目に取り組んでくれたし、今までの様に昼食も共にする。 ただ、口にする話題は殆どが過去のことで、将来に踏み込んでくることは無かった。 「何の用事?僕が代わりに……」 傍に立ち、そう問いかけた瞬間、彼の身体が傾く。 咄嗟に抱えた上半身から、酷い熱気が伝わって来た。 「紺野君」 「結局……最後まで、頼ることしか……出来なかった」 「え?」 「どうして、ですか?オレが、年下だから?経験が足りないから?仕事が、出来ないから?」 崩れそうな震える声を、彼は絞り出す。 「辛いのなら、頼って、欲しかった。支え合って……行きたかった」 偽りの無い、彼の気持ち。 どの答えも正しくて、どの答えも間違っている。 「君を支えるのが、僕の役目なんだよ」 「じゃあ、古屋さんを、支えるのは、誰ですか?」 自立することを求められ、頼られる存在になることを期待され、益々孤独になる立場。 それがサラリーマンとしての成長の過程であると思ってきたし それを実感する度に、不安の中でも自分の矜持が保たれてきた。 「どうして、オレには、それが……出来ない?」 だからこそ、どんなにきつくても、その選択肢は選べなかった。 不意に、涼しげな笑顔が脳裏に浮かぶ。 古傷を抱えながら、それをバネに伸し上がる強さを持った男。 今の俺を分かってくれる、支えてくれている、唯一の存在。 俺は、彼ほどの強さは、持っていない。 「君には、重荷になる。それに……」 仮に俺が彼を頼り、彼が支えきれなかったら。 若い彼がそれでも良いと思っていても、共倒れは、許されない。 最後の最後に踏ん張れる足場を、俺はまだ、固めきれていないと思っている。 「僕も、まだ……未熟だからだ」 苦しげな呼吸を宥めるように、背中を擦る。 大切な者に、特別な感情だけを残して去って行くことが如何に残酷か。 やっと、その言葉の意味が素直に飲み込めた。 この酷く苦い味を、きっと、彼は分かってくれないだろう。 静かにしゃくり上げる彼の身体を支えながら、これで良いと、自分に思い込ませた。 「新しい会社には、そろそろ慣れましたか?」 ネクタイを緩め、無防備な首元をワイシャツから覗かせながら、彼は相変わらずの笑みを見せる。 「まだまだですね。民間の会社とは、やっぱり何か違う感じで」 9月を過ぎたと言うのに、殺人的な暑さが続いている。 身体に沁みるビールの冷たさが、一瞬の快楽をもたらしてくれた。 「民営化したとは言え、長く行政側にいた組織ですからね。それは仕方が無いかと」 エージェントと求職者、その関係が終わった後でも、彼は何回か連絡をくれていた。 待遇や労働状況が契約通りであるかを確認する為でもあったのだろうが 些細な悩みや愚痴まで受け止めてくれる優しさに甘える内に、ちょくちょく顔を合わせるようになった。 「そういえば、今度……前の会社と、仕事をすることになりまして」 相談しても、結論は変わらない。 そんな話でも、彼は静かに手を差し伸べてくれた。 「同業種に転職すれば、そういうこともあるでしょうし……古屋さんも、おっしゃってましたよね」 「ええ、覚悟はしていたんですが」 目を伏せた俺の手に、彼の指が霞める。 「過去を清算出来る、チャンスが巡って来たんじゃないですか?」 「え?」 「外してしまった筋交を、もう一度掛けることが出来るかも知れませんよ」 法人が抱える団地の大規模修繕。 全体的に経年変化が著しく、住人を一時移転させての大がかりの工事になる。 その設計を、古巣の会社へ下請けに出すことになった。 「お待たせしました」 事前にメールは貰っていたから、心の準備は出来ていた、はずだった。 打ち合わせスペースに入った俺に、立ち上がり頭を下げる姿。 1、2ヶ月ぶりの再会は、得も言われぬ緊張感を心に纏わせた。 多分、彼も同じように落ち着かなかったのだろう。 慣れたはずの流れもぎこちなく、淀んでいたような気がする。 「不明な部分については、連絡貰えれば」 「分かりました」 手元の資料を整理しながら、彼は俺に躊躇いがちな視線を送る。 未だに窺える後悔の念が、見て取れるようだった。 何かを言いかけ、会社名の変わった俺の名刺を寂しげに見つめる、今でも大切な存在。 堪らず、声を掛けた。 「僕のこと、支えてくれる気は……まだ、ある?」 顔を上げた元の後輩は、驚きを隠せないままで唇を震わせる。 「……もちろん」 経験があるとは言え、この会社では新参者だ。 足固めも一からの中、勝手知った古巣に頼ることが出来るのは、心証はどうあれ大きかった。 そして何よりも、再び彼と共に仕事が出来る。 互いに社会人としては、片生りの存在。 「頼りに、してるよ」 距離が離れ、双方にかかる応力は少し、減ったように思う。 時を経て成熟した時、きっと、支え合える関係になれる。 真っ直ぐに向けられた眼差しが、それを期待させてくれるようだった。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.