いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 幻想(R18) --- -- 1 -- 居間の片隅に置かれた小さな木の戸棚の前に、ささやかな花とお菓子が置かれている。 横目で見ながら通り過ぎようとする俺に、父はネクタイを締めながら言った。 「月命日くらい、手を合わせてやっても、良いんじゃないか?」 居た堪れない彼の心情を表す様な覇気の無い声が、足を止めさせる。 俺も父も、未だ現実を受け止めきれていない。 「……そうだね」 屈みこむ俺の後ろに立った彼は、それと悟られないように、小さな溜め息を吐く。 こんな思いをするのなら、ずっと幻想を見ていた方が良かったのかも知れない。 真新しい青磁の壺には、いつもと変わらないはずの光景が白く映る。 俺たちの幸せは、一体、何処に行ってしまったのだろう。 自分に兄がいた、と言う話を初めて聞いたのは、いつの頃だったか。 気が付けば、毎朝、母と共に、小さな壺に向かって手を合わせるのが日課になっていた。 生まれてから半年足らずで事故死してしまった兄に、母がずっと後悔の念を抱き続けているのは明白で 時折見せる普通では無い態度が、子供ながらに怖かった。 ある夜のこと。 幼い俺が母を求めて居間を覗くと、いつも手を合わせている壺を抱えて座る母の姿があった。 声を掛けようとした瞬間、何かの音が聞こえてくる。 固いものを齧るような、けれど軽く、細かな音。 そして、母の荒い息遣いと、低く呻くような声。 壺の中に何が入っているのか、彼女が何を口にしていたのか、その時の俺には分からなかった。 それでも、光景と共に思い返される言葉。 『お母さんが、お兄ちゃんを、食べている』 あれ以来、家の中で兄について口にすることは、めっきり減った。 今でも、何かを噛む音を聞くと、心が落ち着かない感覚に陥ることがある。 写真の一枚も無い彼の存在は、やがて俺の中で大きな違和感になり 家族の関係をぎこちないものにしている厄介者、そんな感情を植え付けていった。 疑いもしなかった日常の真実を知らされたのは、それから大分経ってからのことだ。 看護師をしていた母が職場に復帰し、彼女の奇行を見る機会も減った。 俺の感情が幾らか落ち着いてきていたのを、父は分かっていたのかも知れない。 母が夜勤だった夜、父は居間の片隅に変わらず置いてある壺に視線を送りながら、話を始めた。 「敏典とお兄ちゃんは、実は、お父さんが違うんだ」 父と、2つ年上の母が出会ったのは、父が就職してすぐの頃。 大学時代の友人の紹介だったと言う。 惹かれ合い、結婚に至るまでは2年程あったにも関わらず、彼女から兄のことを聞いたのは婚約直前だった。 「お兄ちゃんのお父さん、つまり、お母さんの前の相手はね、今は何処にいるか、分からない」 母が初めて結婚し、子供を授かったのはまだ高校を出て程ない時。 「お兄ちゃんがいなくなって、お母さんは何日も何日も悲しんでいたのに、そいつは、いなくなったんだ」 不幸な事故で兄を失った母を見捨て、その男は行方知れずになった。 彼らの間に流れる複雑な事情や感情を理解することを、その時の俺には出来なかったけれど 父はその男を心から憎んでいるのだろう、そのことだけは、はっきりと感じることが出来た。 「……可哀想だね、お母さん」 「そうだね。でも、そのことが無かったら……」 幼い言葉に、父の眼が悲しげに歪む。 「お父さんとお母さんは結婚しなかっただろうし、敏典も生まれてこなかったかも知れない」 人は皆、喜怒哀楽の点を繋いだ線を引き摺りながら歩いている。 あまりに皮肉な人生を振り返るよう、父は俺の頭を撫でた。 「お父さんは、それでも、敏典とお母さんと三人でこうやって暮らしていることが、幸せだと思ってる」 「でも……お母さん、時々、泣いてる」 「それはね、きっと、お兄ちゃんがいなくなった寂しさを乗り越えようとしているからだよ」 不意に、あの気味の悪い光景を思い出す。 優しげな父の言葉と、母の行動が、どう考えても結び付かなった。 「お母さんも、頑張ってるから。敏典も、もう少し、見守っててあげて欲しいんだ」 家族と言う枠の不安定さを決定的にしたのは、そのすぐ後で出された一つの宿題だった。 自分の名前の由来を調べてくる。 極単純な質問を、俺は結局、両親に問うことは出来なかった。 相模敏典。 あることをきっかけに、大人になってからも素直に受け入れられない自分の名前。 亡くなった兄の名前は、敏也。 兄弟であれば、同じ漢字が入っていることはおかしいことでは無い。 けれど、俺と兄は、父が違う。 母が押し切ったのだろうか。 そんなに我を張るような人間では、無いと思う。 家族の中の点が線として繋がらない漠然とした不安が、小さな心に圧し掛かる。 所縁の無い字、顔の見えない兄、心を隠した母。 人が変わったように勉強に打ち込み始めたのは、拠り所を失いかけた恐怖心からだったのかも知れない。 元々地頭は良かったのだろう。 聡明な父の血を受け継いでいるはずだと、親戚からも言われていた記憶がある。 小学校を卒業し、地元でも有名な中高一貫の進学校に入学した俺は、益々勉学にのめり込んだ。 平穏を取り戻しつつあった家族の形が再び見えなくなり始めたのは 俺が高校生になり、父が単身赴任で海外へ行き、2、3ヶ月経った頃。 酒に酔って帰宅した母が、一人の男を連れて帰ってきたことがきっかけだった。 父と同じくらいの歳の男は、母の古い友人だと言う。 人当たりの良さそうな笑顔と、喋り口調が印象的だった。 兵藤と名乗った彼は、妙なテンションの母を宥めながら距離を詰めているようにも見える。 抱く必要のない父への罪悪感を少しでも軽くしたくて、俺は自室の扉の鍵を閉めた。 -- 2 -- 「敏典君に、聞こえたら……」 物音と共に聞こえた男の声に、集中力が切れる。 「良いじゃない」 「飲み過ぎだよ、真沙子」 「ずっと、待ってたのよ。私」 「それは……」 優しい父と、気立てのよい母。 一流企業に勤める家長は郊外に小さな家を建て、経済的にも苦労は無い。 誰もが理想だと言う家族の実態は、外面からでは決して想像出来ないだろう。 何が不満なのか。 どうして父を裏切るようなことをするのか。 「トシユキが突然いなくなって、本当に寂しかったんだから……」 頼むから、これ以上肉親を幻滅させることは、止めて欲しい。 席を立った反動で、机上のテキストが音を立てて落ちた。 乱暴にドアを開け、思いの丈を叫ぶ。 「出てけよ!」 こんなに大きな声を出したのは、久しぶりだったと思う。 浮かれた嬌声が一瞬止み、家の中が静まり返る。 再びドアを閉め、鍵をかけ、ヘッドホンから流れてくる音楽で居た堪れなさを押さえつけた。 次の日の夜、顔を合わせた母は、何事も無かったように振る舞っていた。 言い訳も、詫びる言葉も聞くことは出来なかった。 それが、彼女なりの誠意だったのかも知れない。 納得出来る訳も無く、反抗心だけが膨らんでいく。 歯車が狂った時流の中で、逃げ道は更に細くなるようだった。 両親共に、煙草は吸わない。 けれど、家の近所にある小さなタバコ屋で 父に頼まれたと言って黒い箱とライターを手に入れることは簡単だった。 適当な空き缶を灰皿に、煙草に火を点ける。 瞬間、口の中に充満する煙に言い知れない不安が過った。 すぐに吐き出した靄が、目の前からフッと存在を消していく。 眉間の辺りがぼんやりするような感覚が纏わりついて離れない。 不快感を手繰り寄せるように、幾度も煙を吸って、吐いた。 やがて、2、3本吸う内に、徐々に違和感が緩和される。 力でも、言葉でも、親に反抗出来ない弱い自分にも出来る、些細な抵抗。 そんな思いが、煙と共に部屋の中に消えていった。 あの男と再び顔を合わせたのは、初めての訪問から1ヶ月ほど経ってからのことだった。 帰って来ない母を心配することも無くなる程、一人で過ごす夜が増えた時期。 二人の関係が未だ続いていることは分かっていたけれど 気を遣っているのか、それまで彼が家に顔を出すことは無かった。 真夜中近くに開いた玄関のドアの音と、癪に障る甲高い笑い声に呼ばれ、自室を出る。 三和土に座り込んだご機嫌な母を、その男は抱えるように立っていた。 「お母さん、少し、飲み過ぎたみたいでね」 詫びる言葉を口にした彼の表情は、何か困った風で、まるで同情を誘っているように見える。 それが却って、二人への想いを頑ななものにした。 「……そう」 「休ませてあげて、くれないかな」 「あんたがやれば」 君の気持ちは分かる、でも。 そう言いたげな溜め息が玄関に響く。 「じゃあ……お邪魔するよ」 「どーぞ、ご勝手に」 階下の二人が何をしているのか、想像するだに吐き気がするようだった。 どんな振る舞いが自分を納得させるのかも分からないまま、煙草に縋る。 父が帰ってくれば、こんな最悪な時間は終わるのだろうか。 もしかしたら、離婚、なんてことになったりするんだろうか。 幾ら考えても無駄なことに、思考回路が奪われていくようだった。 不意に聞こえたノックの音で、思わず振り返る。 「敏典君、まだ、起きてるかい?」 正体不明の男に呼ばれた名前に、咄嗟には反応出来なかった。 「良ければ、灰皿を貸してくれないかな」 「……そんなもん、無いよ。親父は煙草、吸わないから」 手に持っていた短い煙草を机の上の灰皿に押し付ける。 とっとと出てけ、そう口から出そうになるのを必死で堪えていた。 「そうか……でも、君は吸うんだろ?」 子供のすることなんて、全てお見通しだ。 そんな態度が、悔しく、腹立たしい。 「自分では気が付かないのかも知れないけど、髪や服についた臭いは、結構消えないもんなんだ」 「……だから、何だよ」 「一本吸ったら帰る。約束するよ」 嫌悪感の中に僅かに覗く彼への好奇心が、ドアノブに手をかけさせる。 けれど、この扉を開けることが、拭いきれない一生の咎になることが分かっていたならば 皆が悪夢を見ることになると気が付いていたのなら 俺は、必死でその感情を、抑え込もうとしていたはずだ。 -- 3 -- 俺のベッドに腰を下ろした彼は、銀色のケースから煙草を一本取りだした。 「僕のオリジナルのブレンドなんだよ」 警戒の眼差しを送る俺に、彼はそう言って目を細め、火を点ける。 細めの煙草は、明らかに店で売っているものとは違って見えた。 白い薄紙で包まれた葉が透けており、吸い口にフィルターは付いていない。 漂う煙は、一瞬の内に部屋中に仄かな甘い香りを纏わせる。 今までに感じたことの無い感覚が、少しずつ警戒心を解いていく様だった。 「興味、ある?」 煙草の先を見ていた俺に、彼は問いかける。 ゆっくりと吸い込み、しばらく煙を味わってから、またゆっくりと吹き出す。 彼の姿に大人への憧れを重ねてしまったのは、やはり幼かったからだろう。 「とは言え、子供に勧めるのは憚られるからね」 その言い方には、俺が求めればやぶさかでは無い、と言う意図が見えた。 「……ちょっと、吸わせて」 咥内に張り付くような粘つく味覚が顔をしかめさせる。 「香草なんかも混ぜてるから、初めは慣れないかも知れないけど」 ニコチンの苦い刺激と、濃い蜜のような甘ったるい味が混ざり合った煙が鼻から抜けていく。 「軽く深呼吸する感じでゆっくり吸うと、その内、沁みてくるよ」 葉がぎっしりと詰められた煙草は、吸い込む度にチリチリと音を立てた。 やがて、微かな赤い火がぶれ始める。 男の気配も忘れる程に、俺はその煙を追いかけ続けた。 首筋に触れた指の感覚に、有り得ないほど身体が震える。 「……な、に?」 その主を追いかけるよう、いつの間にか傍らに立っていた彼に視線を移した。 視点が定まらないと気が付いたのは、その時だった。 意識はある、けれど、脳が麻痺してしまったような、何かに掻き乱される様な感覚。 危険を知らせる本能が、身体中に寒気を走らせる。 「気に入って貰えたかな」 椅子に座った俺の背後に回った彼は、片方の手を首から顎へ、もう片方の手を肩に流す。 「何、すん、の」 抵抗しなきゃ、そう思うのに、身体が言うことを聞かない。 「どんな気分だい?」 「何、が」 「分かるだろ?何か、おかしいって」 自慰行為を覚えたのは、中学生になってからだったと思う。 ネットで目にした画像とか、駅で見かける同じ歳位の女の子とか その姿から何となく妄想を広げ、時折湧いてくる衝動を発散させる。 自らの手で扱き、自らの手で果てる。 セックスとは違う、あくまで独善的な行為。 それでも、女と恋に落ちると言う経験が無かった俺には、それが性的行為の全てだった。 耳の後ろを這う舌の感触が、唇を震えさせる。 「こういう気分になるのは、初めてだろう?」 心なしか鼓動が早くなっているような気がした。 男の囁きが、やけに遠く聞こえる。 肩から回された手が静かに上半身を弄る度に、恐怖が、未経験の刺激に攫われていく。 「ガキのくせに、火遊びなんかする君が悪いんだよ」 少しトーンの高くなった声に、俺は、溜め息のような吐息でしか答えを返せなかった。 夏も過ぎ、短い秋の始まりの季節。 たくし上げられるTシャツの下の肌に、少し冷たい空気と、彼の手が触れる。 「効きが早いな」 父とは違う、白髪混じりの髪が視界をちらつく。 「やっぱり、若さかな。羨ましいね」 背もたれの後ろから抱えるような体勢を取ったまま、男は俺の身体に手を這わせる。 その気配を自らのベルトで縛られた手に感じながら、一所に集まろうとしている衝動に耐えた。 肩口まで寄せられた服で視線を遮られた場所に、指が伝う。 「……ん、っ」 その反応を嘲笑うような鼻息が耳を掠めた。 「どうした?」 痺れる様な初めての刺激に、首を振ることでしか抵抗できない。 男の指の予期せぬ動きが、頭の中を更に白くしていく。 首筋から這い上がる舌が、視線を呼ぶ。 振り向くように顎を動かすと、細くなった男の眼がぼんやりと見えた。 父ほどの歳の男の唇が、半開きのままの俺の唇に触れる。 気持ち悪い、そんな感情が彼の指によって揺らがされ 痛いほどに乾いた唇の感触が身体と心に突き刺さるようだった。 「舌、出して」 幾度か触れ合った唇から、静かな声が発せられる。 言われるがままに外に出した舌先に、ざらついた男の舌が絡みつく。 息苦しさから荒くなる呼吸が、徐々に鼓動を激しくする。 初めてもたらされる、他人の秘めた器官との交わり。 セックスよりも薄く、けれど、確実に自分の中の何かを変える行為。 僅かに煙草の味がする唾液が口の中に入り込み、小さな水音が耳の奥に沁みる。 唇に挟み込まれた舌が軽く引っ張られた瞬間。 「ん……ふっ、う」 二つの乳首が摘み上げられ、身体が仰け反る。 椅子が軋み、大きな音を立てた。 もやもやした頭の中が、その快感で一気に晴れていく。 「あんまり大きな声出すと……お母さんに聞こえるよ」 官能を弄ぶ指は、動きを止めない。 喘ぎを飲み込むほどに、自分の身体がおかしくなっていくのを感じていた。 -- 4 -- 自分でも知らなかった悦びを穿り返される恐怖が、徐々に融けていく。 ジーンズの上から太腿を擦る男の手に焦らされる身体は、微かに椅子を軋ませながら左右に揺れていた。 耳元にかかる男の荒い息が、今の、この時間の異常さを物語る。 ボタンが外され、ファスナーが鈍い音を立てて下ろされる。 彼の戯れと、他の何かがもたらした変化が目の前に曝された。 「子供なのに、随分立派だな。こういうのも、遺伝するんだね」 同級生の中では、確かに大きい方かも知れない。 優越感を抱いていない訳でも無かったけれど、逆にそれはコンプレックスでもあり 事あるごとに幼稚な羨望を受け止める度、居た堪れない気分にもなった。 「これじゃ、女の子が痛がってうるさいだろう?」 そう言って笑う男は、半勃ちになったモノに指を這わせる。 快感の筋が根元から先端まで駆け上がっていくのを受け止めながら その時間の長さに、持って生まれた特徴へ少し感謝した。 片方の手でモノを支えながら、彼はもう片方の指でゆっくりと先端を撫でていく。 天井を仰ぐように息を大きく吐き、その刺激に耐えた。 ベタベタとした感触は、やがてヌルヌルとしたものに変わり、快感がより増大する。 気配を察した男が、粘液を引き摺りながらモノを扱きだすと 俺の喉から出たひきつった音が、部屋の中へ消えていった。 身体が熱く、息苦しい。 キモチイイコト、そのイメージが覆される様な現実。 早く出して、楽になりたい。 でも、この快感を、もっと味わっていたい。 自慰行為と何ら変わらない過程のはずなのに、身体に刻まれていくのは、全く新しい痕。 「少し、休もうか」 我を忘れかけていた頭の中に彩りが戻ってくる。 駆け上がっていた急な上り坂が、突如として緩やかな下り坂になった。 俺のモノから手を離し、彼はポケットから取り出したハンカチで手を拭く。 「……あ」 焦燥感を漏らした俺に意地の悪い視線を俺に向けながら、甘い煙草を口にする。 「もうちょっと、楽しませてあげるよ」 ライターの火で炙られた煙草の先から立ち上る煙が鼻を衝く。 一息吸い込んだ彼は、俺の頭を掴み、唇を重ねた。 口移しで吸わされた煙が再び意識に霞をかけ、躊躇いを剥ぎ取っていく。 もう、待てない。 「は、やく」 目の前に迫る男に、懇願を口にする。 「何?」 「イき、たい」 その言葉を聞いた彼は、満足そうに口角を上げ、目を細めた。 締め切っていたカーテンが開けられると、闇を背景に自分の姿がガラスに映る。 椅子に座ったままでモノを勃てている、恥ずかしい姿。 幹線道路に面した少し小高い場所に家が建っている為、窓の向こうから誰かに見られることはないけれど 客観的な視点に立たされた状況が、身体を強張らせた。 「後は、自分でするんだ」 「……え?」 背後からガラスの中の俺を見る男が、囁く。 「イきたいんだろ?」 ここまで男の手に委ねておいても、その行為を誰かに見られることは抵抗があった。 手を後ろで組んだまま躊躇う俺の首筋に舌を這わせ、耳を舐る彼。 腹から上がってくる手の気配が、背中を寒くさせる。 「それとも、このままで帰って良いのかな」 指で与えられる刺激は、心なしか、さっきよりも強く感じられた。 「……っく」 「無駄な抵抗は、止めといた方が良いよ」 顔を上げ、闇の中の男に視線を投げる。 無様な格好の自分の顔には、服従のサインが滲んでいたように思う。 両手を拘束していたベルトが緩む。 自由が戻ってきた右手が、彼によって自分のモノに添えられた。 「その前に」 俺の耳に寄せられた唇から、言葉が発せられる。 「窓に向かって言ってごらん。僕のオナニー、見て下さい、って」 顎を掴まれ、無理矢理前を向かされる。 虚ろな目で唇を震わせる時間すら、もったいなく思えた。 羞恥心は、何処かに落としてきてしまったようだった。 「ぼく、の……オナニー、みて、ください」 手の中にあるモノが、ピクピクと波打つのを感じる。 あっという間にゴールまで達してしまうのは、分かり切っていた。 イきたい、でも。 ちぐはぐな感情が、右手の動きを鈍くさせる。 その時、背後から左手を掴まれた。 「ほら、ここも」 行き先は明確だった。 「摘んで」 小さく膨らんだ突起を指で擦り、軽く挟み込む。 「……ん」 浅い刺激が首筋を駆ける。 けれど、物足りない、さっき感じた快感が、欲しい。 その想いが、男の手を呼んだ。 「こ、こ……」 「何処?」 「ちく、び」 男の指が柔らかく乳首を擦る。 「固くなってるよ」 頬に寄せられた唇を求め顎を突き出すと、甘苦い名残が口の中に拡がっていく。 瞬間、身体中を痛みが走り、衝動が全てを吹き飛ばした。 「んん……っ」 「いやらしいな、敏典君は」 「は、っあ」 右手の動きが早くなる。 爆発しそうなほどの心臓の脈動が頭の先まで突き抜けて行った。 「いっ……く」 圧倒的な解放感と、最高の快感。 額に滲んでいた汗が流れ落ち、右目に沁みる。 飛び散った精液が右手に残した感触が、しばらくの間、俺の身体を捉えて離さなかった。 -- 5 -- 机の上に置かれた銀色のケースと、電話番号が書かれたメモ。 小さな箱の中には、数本の煙草が入っている。 火を点けないままで鼻に近づけると、甘い匂いが眉間に沁みて 徐々に、忌まわしい記憶が身体中に蘇る。 一秒でも早く忘れたいのに、男の指が首筋を這う感覚が、それを許さない。 男が置いて行った煙草に何かが混ぜられていると確信したのは 勉強に疲れた真夜中、それを吸いながら窓に目を向けた時だった。 闇に映る自分の恥ずかしい姿が、煙の向こうに見えたような気がして 下半身から衝動が湧き上がるのを抑えられなかった。 誰にも言えない欲求を解放する為、足の付け根に手を伸ばす。 これは、きっと、この煙草のせいだ。 こんなの、本当の俺じゃない。 本能に言い聞かせるように、椅子にもたれたまま、自分の身体を慰め始めた。 「君が僕に付き合ってくれれば、お母さんにはもう会わない」 ぶちまけられた性欲の残渣を拭いながら、彼はそう言って俺を見上げた。 「それに」 近づいて来た指が頬を撫で、顎を滑り、喉仏をくすぐる。 「もっと、気持ち良いこと、教えてあげるよ」 未だ甘露な夢心地の頭の中に、その言葉が響く。 酔った母を介抱していた男の顔とは、まるで違う鋭い表情が声を失わせる。 「勉強するのに疲れたら、電話しておいで」 塾の授業が終わったのは、夜の9時過ぎ。 「今日は自習して行かないの?」 同じクラスの女の子が、出口に向かう俺にそう声をかけてきた。 名前は、何て言っただろう。 「ちょっと、用事があるから」 男ばかりの学校生活の中、女と言葉を交わす機会はこんな時くらい。 真剣な眼差しで授業を受ける姿勢は目を引いたし、タイプじゃない訳でも無い。 「何?デートとか?」 それでも、後ろめたさが些細な苛立ちを大きくさせる。 「バカじゃねぇの?」 ふと曇った彼女の表情にやり場の無い罪悪感を引き摺りながら、建物を出た。 友達の家で勉強する。 自宅にいるであろう母に、短いメールを送る。 今までもよくあったことだから、疑われることは無いだろう。 酔っ払いたちが大声を上げながら通り過ぎて行くのを、SLを背にして眺める。 顔を上げると、汐留のビル群が虚勢を張るように夜空に伸びていた。 制服のボタンを一つ外したタイミングで、視界に影が差す。 「お母さんには、ちゃんと連絡してある?」 「……大丈夫」 「今日は、帰れないよ」 スーツ姿の男は、そう笑って俺の肩に手を乗せた。 駅から遠くない、微かに水の気配がする辺りのマンションに入る。 慣れた手つきでオートロックのドアを開けた男の後ろについて行く。 彼の自宅だろうか。 俺はこの後、この男とどんな時間を過ごすのだろう。 乗り込んだエレベーターが、静かに階数を重ねる。 「なかなか、度胸が据わってるね」 不意に肩に乗せられた手で、身体が我に返る。 一瞥し、視線を床に落とす。 あまりに大きな不安は却って恐怖心を麻痺させるのだと、その時に初めて知った。 家族の気配が全くしない空間だ、と思った。 通された小さな部屋には、幾つかの家具と小さなテレビが置いてある。 ガラステーブルには、石の灰皿と煙草の吸殻。 スーツの上着をソファの背にかけた彼は、俺の部屋に置いていったものと同じ銀色のケースを取り出した。 「僕があげたやつは、もう吸っちゃったかな」 一本差し出し、俺の方へ向けてくる。 手に取り口に咥えると、唇に拡がる甘みが身体を強張らせた。 ソファに沈みこむように座る俺の顔を、男の手が包む。 「効いてきたみたいだね」 近づいてくる唇を避けることなく、その熱を求める。 シャツの中に入り込んでくる手の冷たさが、心地良かった。 漏れていく吐息が、官能をますます大きくする。 「たっぷり可愛がって貰うと良いよ」 ぼんやりとした意識の中、男の高ぶった声が頭に響いた。 アイマスクをつけられ、男に手を引かれて部屋を移動する。 軽く背中を押された先にいたのは、彼とは違う人の気配。 太い指が首筋から顎に向かって動き、顔が上向かされた。 「なかなか、上物だな」 「その制服、有名な学校のだろ?」 「こんなところで油売ってて良いのか?」 部屋にいるのは、一人じゃない。 耳をそばだてると、小さな小さな音が様々に感じられる。 背後から腰に手を回してきたのは彼なのだろう。 ベルトを外そうとする手に思わず自分の手を添えた。 得も言われぬ恐怖心が、俺を貶めたはずの男でさえも味方に変えたのかも知れない。 声は、出なかった。 けれど、俺の心は見透かされていたはずだ。 「もう逃げられないんだ。それなら、頭まで快感に沈んだ方が、良いだろ?」 息を殺していたような空気が、一気に立ち上がる。 怯む隙も与えられないままでベッドに押し倒された。 流されるしかない、甘い欲求に浮かされた身体は、この夜、初めて男に犯された。 -- 6 -- 週末の朝、適度に空いた電車に乗り込む。 眠気と、怠さと、刺すような身体の痛みが相まった感覚が、妙に心地良い。 携帯を取り出そうとポケットに手を突っ込むと、数枚の紙片が指に当たった。 やり場の無い夢の代償。 急に現実に引き戻されたような気がして、無理矢理、奥に押し込んだ。 薬と性欲の呪縛から解放された俺の元に残されるのは、数枚の万札。 才能や実力では無く、本能に支払われる対価。 それまで軽蔑していたような行為に加担している事実に不快感は拭えなかったものの 帰り際、黙って手渡される金を、黙って受け取っていた。 でも、使うあても無い、使いたくも無い。 金を握り締めたまま誰もいない家の中を見回すと、居間の一角の棚が目に入る。 小さな頃から続けてきた日課を繰り返さなくなって、どのくらい経つだろう。 申し訳程度に置かれたお菓子と、青白い壺を見下ろしながら、歪んでしまった日常を思い起こした。 ちょっとした好奇心から、壺の蓋を開ける。 もう骨の欠片は残っておらず、僅かに白い粉が溜まっているだけだった。 これが人間の末路。 父も、母も、俺も、いずれこうなる。 急に悪寒が背筋に走る。 咄嗟に万札を放り込み、蓋を閉めた。 男との逢瀬は、父が単身赴任から戻るまで続いた。 父が戻ってくる、そう口にした翌週、彼との連絡手段は突然絶たれた。 初めの内は、快楽の飢えを癒す為に電話をかけ、夜の街で彼を待ったりもしていたけれど 形だけでも元に戻った家族の輪に引っ張られ、時を経るごとに呪縛は和らいでいった。 家族を取り戻す為、自分を取り戻す為、必死に忘れようとしていたのかも知れない。 一度閉めた蓋が二度と開かないように、全身全霊で押さえつけていたのかも知れない。 その試みは、多分、上手く行っていたはずだ。 希望していた大学に入り、そこそこ有名な企業に就職する。 時に流される内に、甘い夢は幻想だったのだと思い込めるようにまでなっていた。 「同窓会はどうだった?」 「みんな歳取ってたなぁ……当然だけど」 疲れた顔でそう言った父は、笑いながら自分が買ってきた土産物の和菓子を口に入れる。 「そりゃあ、30年くらい経ってるんだから」 「今振り返ると、昨日の、いや一週間くらい前のことに思えるんだけどな」 「そんなもんかね」 テーブルの上に置かれたパンフレットの間から、小さなメモリーカードが顔を出している。 「これ、何?」 「ああ、同窓会の写真だよ」 カードを指で摘み上げ、彼は何処かしら苦々しい顔した。 「プリントして全員に郵送するより、メディアを配った方が早いだろってね」 仕事でパソコンを使うことには慣れていても 父の年代になると、こういったものをデジタルデータで保管することには抵抗があるのだろうか。 「近くの量販店に、プリントする機械があっただろう?暇な時に、やっといてくれないか?」 「自分で行ったら良いじゃない」 「ああいう騒々しい雰囲気は、好きじゃないんだ」 会の概要が書かれた紙と共に受け取ったメモリーカードの中身を、自分のPCで覗き見る。 社会人になり、父と同年代の人間と付き合う機会は格段に増えた。 その中でも彼は若く見える、そう思っていたけれど 画面の中の大人たちは、実に様々な歳の取り方をしていて、皆が同年代だとは思えない程だった。 ふと目に留まった一枚の写真。 父を中心に何人かが肩を組んでいる後ろに見切れて写る男の顔に、瞬間心が凍った。 歳を取り、円熟味を増したその顔が、記憶を抉り出してくるようで気分が悪くなる。 ウインドウを閉じて、メモリーカードを引き抜き、PCの電源を落としても尚 不気味な影に鼓動が収まらない。 母の古い友人。 父の学生時代の同窓生。 そして、俺の心身を貶めた男。 交わることの無いそれぞれの線が、一人の存在によって繋がれていく不安。 手元の紙に書かれた幹事の連絡先には、忘れかけていた名前と電話番号が並ぶ。 兵藤敏行。 全てが仕組まれていたことなのか。 そんなことあるはずが無い。 煙草を手に取り、火を点ける。 少しずつ震えが収まってきて、冷静さを取り戻す。 窓に目を向けると、映っていたのは成長した自分の姿。 途端に身体中に甘い夢が蘇る。 パンドラの箱の蓋が、少しずつ、動いていく。 スピーカーの向こうから機械的な留守電のメッセージが聞こえてくる。 非通知で掛けたから、わざと出なかったのかも知れない。 10秒ほど言葉に迷い、一言だけ、メッセージを残した。 「煙草、一本、ちょうだい」 -- 7 -- 本当は分かっていた。 煙草のせいなんかじゃない。 これが俺の、本性なんだと。 こんなことを父と母が知ったら、何と言うだろう。 彼を責めるだろうか。 俺を責めるだろうか。 「久しぶりだね」 6、7年振りに再会した男は、当時と変わらぬ柔和な笑顔を見せる。 「……また、会えると思ってたよ」 同じ男を求めるにしても、子供と大人とで扱い方は変わる。 何も知らない無垢なものを汚す悦びと、確立した人格を壊す快感。 口の中に粘つくように残る煙が、覚悟を決めようとする理性すらも奪い去る。 「本当に、君は……お母さんによく似ているね」 間近に迫った男の顔に、半開きの唇を差し出す。 久しぶりに感じる他人の感触に、耳の奥が痛くなるほど、意識を攫われる。 同性愛者では、無いのだと思う。 自分から女に好意を寄せることは殆ど無くても、一方的に寄せられる感情が不快な訳じゃない。 男の手でなされた狼藉だけが自分の身体を昂ぶらせるのだと思っているのも、怖かった。 センター試験を控えた冬の夜。 自習室に残っていた彼女が帰るのを見計らって、声をかけた。 女の好意は、本物だったはずだ。 俺の性欲も、彼女を捉えていただろう。 小さな資料室で声を押し殺す彼女の体温を感じながら、見よう見真似のセックス。 蕩けそうな、それでも急かすように締め付けてくる感触は、信じられない程気持ち良かった。 果てた後、彼女の小さな唇に軽くキスをする。 それでも、男として当たり前に感じられるはずの幸せが、心を塗り潰さない。 結局、隅に残った隙間の正体が分からないまま 遠方の大学に進学を決めた彼女とは、それっきり疎遠になった。 ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを2つほど外す。 革の首輪が一瞬喉を締め付け、僅かに緩んだ。 頬骨まで覆う大きなマスクが、視界を闇に変える。 「良い体つきになったね」 肩から腕に下がっていく掌の感触をシャツの上から追いかけた。 「楽しんで、来ると良い」 絶望の宴を告げる声が、耳元で囁かれる。 手を引かれ連れて行かれた部屋の床は、妙に冷たかった。 小さな金属音と、空調機のモーター音と、幾人かの息遣いが空間に満ちている。 息を吐く間もなく首元の鎖が思いっきり引っ張られ、身体が倒れるように傾いた。 「いーとこ、勤めてんだって?」 男の声が、耳のすぐ傍で鳴る。 短い髭の感触を伴いながら、その頬が俺の頬に擦り付けられた。 「普段、どんだけ他人を見下してるか、知らねぇけど」 緊張と恐怖で甲高い耳鳴りがする。 喉が震え、鼻で笑う声が聞こえる。 「今日は、てめぇが、オレらの犬だ」 過去に殴られたような記憶は殆ど無い。 身体にめり込んでくる拳や膝の感触が、髄まで響く。 男たちが笑いながら何かを言っているのは聞こえても、暴力の余波が頭を霞ませ理解は出来ない。 痛覚が鈍っていたのは、薬のせいだろうか。 初めの内は身体を起こそうと些細な抵抗を試みたけれど 口の中に広がる錆臭い味を飲み込む度に、徐々にその気力も失われていく。 「寝てんじゃねぇよ」 縮こまろうとする身体を、首に繋がれた鎖が引き伸ばす。 拍子に、生暖かい液体が鼻の辺りから首筋を流れていくのを感じた。 聞きなれない風切音が耳を掠め、焼ける様な痛みが背中を襲う。 「……あ、がっ」 床に座り込む格好だった身体は、上半身が引っ張られ、這うような形になる。 「四つん這いになんな」 腰の辺りに溜まった痛みが、体勢を変えることすら拒むようだった。 「さっさとしろっつってんだろ?」 「ぐ……っ」 再び振り下ろされる強烈な刺激に身体中が悲鳴を上げる。 二本の腕では支えきれなくなった上半身が床に臥したタイミングで 誰かの足が浮いた腰回りを撫で、股の間に差し込まれた。 「何だ?早く犯してほしいってか?」 その指が、スラックスの中で燻るモノを軽く突く。 求めていた、ほんの小さな愛撫にすら、身体は正直に反応した。 「腰揺らしやがって……躾がなってねぇなぁ」 脇腹が蹴り上げられ、闇の中に火花を散らしながら身体が床に転がる。 「結構デカチンじゃね?」 無防備に晒された股間を足で踏みつけ、男は笑った。 乱暴な快楽にさえ抵抗出来ない惨めな自分が、恨めしい。 「でも、あいにく」 悟られてはいけない官能を、溜め息に溶かす。 それでも、もう、何も隠し通せる訳も無かった。 「てめぇが突っ込む穴はねぇからな」 -- 8 -- 欲しいものは、それなりに手に入れてきたはずだ。 学歴、名の通った就職先、平均よりも頭一つ出た給料。 会社での人間関係も悪くなく、仕事も充実していると思う。 こんなことで何かを埋めようとしているのなら、一体、俺には何が足りなかったのか。 全裸にされた身体の両手足が鎖で繋がれる。 口には堅い感触の球体が押し込められ、息を吐くと壊れた笛のような音を立てる。 「エリート面してたって、所詮、俺らと同じなんだよ」 腰回りに垂らされた液体が割れ目に沿って流れ、誰かの手によって塗り込められた。 気配に怯える間もなく、その指が穴を侵す。 「頂点まで行きゃあ、後は堕ちるだけなんだから」 息苦しさが呻き声に変わり、指の動きに呼応するように笛が鳴る。 指の替わりに入り込んでくる異物に背筋を強張らせながら、仕打ちに耐えた。 やがて穴は何かで蓋をされ、太腿の辺りを毛の束がくすぐるように揺れる。 「望み通り、引き摺り落としてやるよ」 鎖を引かれ、背中が弓形に反る。 不意に襲う、激しい熱さと痛み。 空気に触れ、じわじわと硬化していく間もなく、次の滴が落とされる。 「んっ、う」 避けることも出来ず、降り続く突き刺さるような刺激に掻き乱される感情は、何と形容して良いのか。 斑に渦巻くような意識は、まともに機能しそうもない。 跳ねる身体で鎖が鳴る度に、俺の背中は赤く染まっていくのだろう。 肌が赤い鱗で埋め尽くされた姿、啼きながら、その光景を想像すると 何かが、満たされるようだった。 「思った以上の変態だぞ」 耳元で発せられた声と共に訪れる、明確な快感。 わざと意識を背けていた器官を、男の手がゆっくりと扱き始める。 「ロウソク垂らされて、こんなおっ勃たてる奴、初めてじゃね?」 「鞭が好きって奴はいたけどな」 「そんなにロウソク好きか?ん?」 先端を撫でられ、自分がどんなに昂ぶっているのかを知らしめられた。 腰が浮き、喉が鳴る。 辛苦の先に辿り着いたご褒美に、身を委ねていたかった。 「こんなすぐ発情する犬には、お仕置きが必要だろ」 嘲笑うように吐き捨てながら、男は、その手を放す。 目隠しを外されても、すぐに視力は戻ってこない。 それほど明るくない部屋にもかかわらず、やけに眩しく感じて目を細める。 目の前に立っている男は2人。 あの男は、いなかった。 壁に設えた鉄パイプの柵に括り付けられた手枷が軽い金属音を立てた。 大股開きにさせられた脚は、同じように柵に括られ、閉じることも出来ない。 視線を落とすと、目に入ったのは、いきり立った自分のモノと尻尾のような毛の塊だった。 しゃがみこんだ一人の男が手に持っているのは、細い金属の棒。 釘のような尖った先端を一舐めし、俺の目の前に突き付ける。 「何だか分かるか?」 自由になった口から、言葉は出なかった。 何をするものなのか、俺にどんな苦痛を与えるものなのか、想像もつかなかった。 「お前みたいなマゾ野郎には、ぴったりなアクセだよ」 歪んだ口元につけられたピアスが、その動きに合わせて不気味に光る。 濡れそぼった先端に添えられた金属棒は、そのまま狭い穴へと侵入してくる。 奥歯を噛み締め、酷い異物感に抵抗する。 委縮しようとする身体は背後の壁と拘束具によって、目論見を外され 未体験の感覚が、下半身から全身に広がっていくようだった。 物体を飲み込んだモノは、それでも、興奮冷めやらない。 先端から顔を出す小さな穴が開いた菱形の金属片が、我慢汁であっという間に照りを帯びていく。 「幸せな奴だな」 ピアスの男はそう言って俺のモノを指で弾いた。 「何されても感じやがって」 尿道にまで異物を入れられ、尚、快楽を求める自分。 あらゆる刺激が性感になる、その事実が、ますます身体をおかしくする。 「っ……あ」 細い棒の振動に重なるよう、アナルに入れられた玩具も震え始める。 前屈みになろうとする上半身を、傍らの男の足が阻む。 蔑むような彼の視線を受け止めた。 堕ちても良い、堕ちて行きたい。 これで、俺は満たされる。 喉を割るような声と共に、精液が床に飛び散っていった。 二人の男のモノを、交互に口に含む。 「おら、根元まで咥えろ」 乳首に付けられたチェーンクリップに呼ばれるよう、身体を捻り、太いモノを求めた。 尻尾が取り除かれた穴には、太めのバイブレーターが刺さり 金属棒は、萎れた竿の中に残ったまま。 腰が跳ねるのを我慢しながら、満たされないままの性欲を舐ることで紛らわせる。 「玉、パンパンじゃねぇか。ん?出したいのか」 紐で根元を縛られた睾丸は、痛々しいまでに腫れ上がっていた。 一人の男に頭を掴まれる。 「代わりに、ミルクでもくれてやるよ」 喉の入り口を突き上げる程の動きに、瞬間、呼吸が出来なくなった。 勢いよく引っ張られるクリップが、上半身に痛みを快感を与えてくる。 裏返った喘ぎ声が降り、やがて、男の精液が口の中を満たした。 気道を塞ぐ粘液を、必死の思いで飲み込む。 抜き取られていくモノをぼんやり見ていた俺の身体を、背後の男が呼んだ。 「ほら、おかわりだぞ?」 -- 9 -- どんなに楽しいことでも、いつかは終わりを迎える。 味わった快感を思い返しながら、次に訪れるであろう新たな楽しみに思いを馳せる。 夜更けまで男たちに弄ばれ続けた身体は、奥まで精液に汚されていた。 ベッドから立ち上がると、腿の内側を他人の液体が垂れていく。 朦朧としたままシャワーブースへ向かおうとした時、隣の部屋から男が入ってきた。 「楽しかったかい?」 シャワーの湯と共に、様々な物が流れていく。 背中を撫でる男の手が、行為の跡を一つ一つ消してくれる。 まるで子供をあやす親のように、彼は優しく穏やかに俺の身体を愛撫する。 項垂れ、頭から湯を被りながら、その時間が過ぎるのを待っていた。 「親父と、知り合いなんでしょ」 身体中を駆ける鈍い痛みに耐えながら、別室のソファに腰かけた彼に改めて問うた。 「母さんは……それ、知ってるの?」 煙を吐き出しながら、彼は俺に一瞥をくれる。 「本人に聞いたら良いじゃないか」 聞ける訳がない。 不安定な繋がりを、これ以上揺さぶるようなことはしたくなかった。 「それは……」 短くなった煙草を灰皿に押し付けた彼は、ふと目を細める。 「君は今、人並みの幸せを手にしているだろう?」 それでも、ずっと付き纏っている違和感を払拭したい。 「本当のことを知れば……もう二度と、元には戻れないよ」 男と母が知り合ったのは、男が高校生の時だった。 2つ上の看護学生だった女とは、バイト先で知り合った。 ある夜、彼氏に振られたと落ち込む女を慰める内に、身体の繋がりを持ったと言う。 互いに深い関係を求めていた訳では無かったものの、女の身体の異変で、その状況は一変する。 思いも寄らなかった妊娠、流されるまま書かされた婚姻届。 子供の親になると言うことに、逃げだしたくなるほどの不安が圧し掛かった。 男は高校を辞め、働くようになった。 女は看護学校を辞め、身体が動く限りバイトを続けた。 親からの金銭的なサポートはある程度あったと言うが 幼い二人に必要だったのは、精神的な支えだったのかも知れない。 慣れない仕事で疲労困憊の男の身体を、女は半ば狂ったように求めるようになった。 彼女は、満たされない何かを、セックスで埋めようとしていたんだろう。 それは子供が産まれてからも変わらず 赤ん坊が泣き続けても尚、女は夜な夜な官能に縋っていた。 眠りの浅い夜が来る日も来る日も続いた。 子供の泣き声が夢の中のことだったのかも定かでない意識が、激しく鈍い音で覚める。 暗がりに立つ女の足元には、横たわる子供の姿。 「……真沙子……敏也?」 嫌な予感を振り払うように、目を凝らす。 女は感情を顔に表すことも無く、虚ろな声を漏らした。 「ねぇ、これは……事故、よね……そうでしょ?」 救急隊が駆け付けた時には、子供は既に息を引き取っていた。 自らの行為を忘れてしまったかのように取り乱す女は、警察官に宥められても泣き叫んだ。 突然失われてしまった命への哀しみを上回る、女が抱える闇への恐怖。 夜明けの事情聴取では、事故だったと証言した。 けれど、もう元には戻れない。 心身を病んでいると診断された女は、実家へ戻って行った。 男は、それを機に、女の前から姿を消した。 「驚いたよ。まさか、本当に看護師になってたなんて」 元妻との再会は、偶然だった。 たまたま健康診断の為に訪れた病院で、男は母と顔を合わせた。 新たな家族を持ち、人並みの幸せを手に入れた女。 過酷な、それでも幸せだと思っていた人生を必死で走っていた自分に、足をかけた存在。 「まぁ、どんなに歳をとっても、根本は変わらないってことは分かっていたけど」 面影を残したまま月日を経た眼の奥に、男は、あの闇を見たのかも知れない。 人間の欲求は、心身の枯渇の証し。 男からのアプローチを、女は拒まなかったと言う。 夫とでは経験できない激しいセックスを与えた夜、男は初めて女の家族の素性を知る。 自らの名前の文字を冠した子供。 幼かった心に、劣等感を植え付けた同級生。 大きな喪失感から立ち直れないままの男にとって 自分の手で壊した幸せの欠片を掻き集め、一人でやり直そうとしている女が、どうしても許せなかった。 「ここまでは、僕の計画通りだよ」 「……計画?」 俺の怪訝な視線を受け止めながら、彼は新しい煙草に火を点ける。 「君は、もう、僕からは逃げられない」 母と似ている、彼が口癖のように言っていたのは 俺の身体に潜む卑しい因子を、見抜いていたからなのだろう。 「もちろん、これで終わりじゃないさ」 立ち上がった彼の手が、俺の顎を撫でる。 薬の効果は既に切れていたはずだった。 吐息を受け止めた男の目元に細かな皺が寄る。 「ありふれた生活が粉々になるのを見届けるまで」 触れ合った唇の感触が、与えられた快楽を蒸し返す。 この期に及んでも、俺は、狂った時間が再び訪れることを望んでいた。 「僕に、付き合って貰うからね」 -- 10 -- バラバラだった点が線となり、歪な形を成す。 こんなはずじゃなかった、そう思うには、全てが遅すぎた。 男の口から語られた家族の過去を心に仕舞い込むことに悶えていた夜。 階下から、短い悲鳴と何かが割れる音が聞こえてきた。 「……母さん?」 父は、まだ帰宅していなかった。 居間の片隅に立ち尽くす母は、足元に広がった壺の破片と、何枚もの紙幣を見下ろしていた。 「どういう、こと?これは……何?」 振り向いた顔に映る狼狽につられるよう、言葉を失う。 「敏典、何か、知ってるの?」 「いや、それは……」 「悪ふざけのつもり?」 「そうじゃ、なくて……」 「ここには、お兄ちゃんが、いるのよ?!」 ヒステリックな声に心が委縮する。 常軌を逸しつつある母の姿が、心底怖くなった。 「しかも、こんなにたくさん……どういうお金なの?ちゃんと説明しなさい!」 彼女は、自身の過去を俺が知っているとは夢にも思っていないだろう。 そのことを告げるべきかどうか、正常な判断が甲高い罵声に揺らされた。 「……母さんだって、隠してること、あるだろ?」 息を飲む音が、部屋の中に静寂を呼んだ。 母と兄に背を向けるよう身体を傾け、言葉を口にする。 「それは、兵藤に、貰った」 男との関係、金の出所、母の過去。 誰を責めるでもなく、誰も庇うでもなく、俺が知り得ることを淡々と話す。 床に座り込んだままで半ば放心状態の母は、時折鼻を啜っていた。 これは、真実なのかも知れない。 それでも、彼女に対して負の感情を持つ者が口にした言葉、あくまで片側から見ただけの真実。 「本当のことを、知りたい。奴の言葉だけじゃ、嫌なんだ」 俺の声に、母は俯き、けれど首を振る。 「……少し、時間を、頂戴」 か細い声がその心痛を表す。 ありふれた生活が壊れていく。 その様が、手に取るように分かった。 週末の夜、待ち合わせ場所に立つ男の元には先客がいた。 何かを言い争うような二人を遠目に見ながら、どう行動するべきなのかを考える。 宥めるように女の肩に手を添えた男は、狼狽えた態度は見せていない。 徐々に激しくなる女の声が、道行く人たちの視線を集める。 居た堪れない、そう思った瞬間、周囲の空気が凍った。 憎しみは憎しみしか生まない。 崩れ落ちる男の姿が、脳裏に焼き付く。 「……母さん!」 騒然とする中、通行人に抱きかかえられた男は苦しげな息を吐いていた。 返り血を浴びて茫然自失のまま、その傍らに座り込んだ母を抱きしめる。 「ごめんね……ごめんね」 繰り返される震えた謝罪の言葉を遮るよう、男の声がする。 「だから……言った、だろう?」 おびただしい出血でスーツを赤く染めた彼は、僅かに口角を上げた。 「もう、幸せだった、頃には……戻れないん、だよ」 落ちていた血染めの包丁は、自宅で母が使っていた、見慣れた物だった。 男が一命を取り留めたと言う話を聞いたのは、事情聴取で訪れた警察署の中だった。 母は現行犯で逮捕され、その一報を聞きつけた父が署に着いたのは、夜半のこと。 「怪我は……無いのか?」 血で汚れた俺の姿に、彼は明らかな狼狽を見せる。 「俺は……平気」 「お母さんは……」 滅多に聞くことの無かった弱弱しい声を発したタイミングで、背後の警官から声がかかった。 「相模さんですか?聴取はこちらで行いますので」 「あ、は、はい……」 彼だけが、何も知らない。 そして、このすぐ後に、彼は全てを知ることになる。 取り乱す父の背中を軽く叩き、無理矢理微笑んだ。 「待ってるから、一緒に帰ろう」 警察署のガラス窓に映る白んだ空を見上げながら、煙を吐き出す。 自動ドアの開く音に振り返ると、疲れた顔で俺を見る父がいた。 「お疲れ」 「随分、待ったんじゃないのか」 「良いよ、別に。平気」 大きな溜め息を吐きながら項垂れた父の肩を抱くと、小刻みな震えが伝わってくる。 「この後、家宅捜索があるって言うから」 「……そう」 「車に……乗ってけ、って」 潤みを増していく声を、これ以上聴きたくなかった。 彼の身体を強く引き寄せ、哀しみを飲み込んだ。 「行こう、か」 署の裏手にある駐車場に向かう途中、父は、母が拘留されているだろう2階の窓を見上げる。 檻が嵌め込まれた窓の向こうを窺うことは、当然出来なかった。 「オレはずっと、自分が、家族が、幸せに暮らしていると思ってきた」 「……うん」 「でも、オレが見ていたのは……幻想だったのかな」 その呟きに、言葉が出なかった。 父の手を取り、無言のままで、何度も何度も首を横に振る。 握り締められる手の力だけが、俺に残された唯一の幸せだった。 Copyright 2012 まべちがわ All Rights Reserved.