いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 花火(R18) --- -- 1 -- 面白い人。 それが褒め言葉になったのは、いつからなんだろう。 ルックスでも、知性でも勝負出来ない。 だから、自分が明るい性格ではないと分かっていても、そうせざるを得なかった。 思った以上に、無理をしているのかも知れない。 ひとしきり盛り上がった時間の後で襲ってくる虚無感が、毎度、心を穿っていく。 「宗像くんって、いっつも面白いこと言うよね」 「ムードメーカー、みたいな?」 「合コンでもモテるでしょう?」 梅雨の走りのある夜。 大きな物件が一段落したタイミングと言うこともあり、部署の有志で飲みに出た。 女性陣にこうやって弄られるのは、毎度のこと。 けれど、彼女たちにとって俺の存在はあくまで付け合わせ。 メインは、俺の隣で煙草を咥えている男だ。 「真砂くん、この後何か、予定ある?」 やや艶を加えた声で先輩に話しかけたのは、部署の中でも一目置かれている東郷さん。 恐らく、惹かれない男はいないであろう魅力を、彼女自身も弁えているのだろう。 僅かに垂れた大きな瞳と、厚めの唇、程よい大きさの胸。 単純だと分かっていても、他の面々と相違わず、俺も彼女に淡い想いを抱いていた。 「特に、無いけど。ちょっと、疲れたから」 つまらなさそうに煙を吹き出す先輩は、そう言って彼女の誘いをあしらう。 端正な顔立ちにナロースクエアの眼鏡、高身長、気さくな性格。 如何にもデキるサラリーマン風情の彼もまた、女性の目を集めてやまない。 身長も低く、愛嬌があるとしか言われないアンバランスな顔をコンプレックスとして抱えてきた俺には 5つ上の先輩に対し、つまらない嫉妬心と、卑屈な想いばかりが募っていた。 「何か飲む?」 空になりかけた俺のグラスを見て、彼はそう声をかけてくる。 俺の気持ちを知ってか知らずか、いつも優しく接してくれることが、却ってプライドを傷つける。 「俺は……そろそろ、烏龍茶で良いです」 「そう。じゃ、オレも烏龍茶で」 情けない警笛の音が、夜空に響く。 「一回?」 「ですね」 「じゃ、まだ良いか」 駅の程近くにある喫煙所で、真砂さんはそう言ってもう一本煙草を取り出す。 「5分くらいで、最終が来ますよ」 「まぁね」 コンペで競われる化粧品会社の研究所新築工事。 真砂さんを頭に、今、そのデザイン設計を進めている。 住宅・マンションを手掛けることが殆どだった会社が、初めて挑む大規模設計だけあって 上司の気合の入れ方は半端ではない。 お陰で、一番下っ端の俺まで、終電までの残業が毎日のことになっている。 「あ、二回鳴りました」 「じゃ、帰るか」 会社の近くにある私鉄の駅では、終電近くになると警笛を鳴らして報せてくれる。 終電一本前では一回、終電になると二回。 警笛から発車までは少し余裕があるから、最悪、会社の玄関からでも走れば間に合う寸法だ。 吊り輪を掴む腕が大きく曲がり、手の脇についた色とりどりのインクが見えた。 「いつも悪いね。こんな時間まで」 「いえ、大丈夫です」 一人が受け持つ物件は、当然一つではない。 日中は他物件の設計をやり、夜になってから研究所設計のエスキスを描く。 真砂さんのこのところのスケジュールは、そんな調子になっている。 カラーペンで描かれたラフスケッチを、CAD化していくのが俺の作業。 その図面に色を載せ、ディテールを書き加え、徐々に建物の形を作り上げていく。 彼の頭の中にあるイメージが具現化していく行程は、経験の少ない俺にとって興味深く 残業とは言え、貴重な勉強をさせて貰っているような、そんな気分だった。 「どうなんですか、ああいう、研究所って」 ぼんやりと車窓を眺める彼に、聞いてみた。 「そうだな……マンションってさ、普通、如何にコストを抑えるかを重点に設計するけど」 建築設計において、最も重要なのはコスト意識。 入社当時の研修でも、それは耳が痛くなる程教えられてきた。 「今回のはさ、企業イメージをどう表現するかが一番重要なんだよね」 「イメージ?」 「そう、会社が持ってる理念とか方向性とかを、形にするって感じかな」 「……難しくないですか?」 「難しいさ、そりゃ。ダメ出しも半端無いしね」 そう笑う彼は、ふと挑戦的な目を見せる。 「でも、遣り甲斐も大きいよ。先が見えない分、やってやろうって気になるから」 降りる駅のアナウンスが流れる。 後輩の労をねぎらうように、彼は俺の肩を一つ叩いた。 「お疲れ様。明日も、宜しく」 尊敬すべき先輩であるはずだ。 にも拘らず、窓に映る二人の残酷な相違が、劣等感を蘇らせる。 「……お疲れ様でした」 本当に、情けない。 -- 2 -- 「ねぇ、宗像君。ちょっと飲みに行かない?」 真砂さんが出張で不在だった夕方。 彼から頼まれていた作業に取り掛かろうとしていた矢先、憧れの女に声をかけられた。 「すみません、真砂さんから頼まれてる作業が、まだ……」 ふと表情を曇らせた彼女が、手元のスケッチを手に取り、眺める。 「明日じゃダメなの?」 「一応、今日中にって話を……」 なるべく下心を見せないように目を逸らす俺の顔に、彼女の気配が近づいてくる。 「今日が、良いんだけどな」 仄かな甘い香りに、気持ちがほだされる。 馬鹿な期待に、言い訳を組み立てる思考回路が冴える。 「……分かりました」 大きく開いた胸元まで紅潮の気配が見える。 「やっぱり、宗像君と来て、良かった」 酔いの回った表情で、東郷さんは微笑みながらワインを更に口にした。 「人を笑わせるって、やっぱり才能の一つよね」 「そう、ですか」 仕事を残してきた罪悪感を押し込めながら、滑稽な自分を客観的に思い返す。 無様だと分かっていても、自分の言葉で笑ってくれる彼女の顔を見られるだけで幸せだと 何度も、言い聞かせた。 「一緒にいて楽しいって、大事だもん」 呟きと共に伏せられた眼に、彼女の想いが映る。 こんなに近くにいても、幾ら笑わせても、結局、心には手が届かない。 どうして俺は、この惨めな恋心を手放すことが出来ないんだろう。 俺を窺う潤む目が、やけに色っぽく見えた。 邪な気分を撫でるように、彼女は口を開く。 「実はね、このお店、前にも来ようとしたことがあるの」 思い出したくない顔が、否が応にも思い出された。 「……真砂さん、とですか」 「ん~……そう。そしたら、彼、何て言ったと思う?」 「……さぁ」 「禁煙の店なんて、有り得ないって。そっちの方が有り得ないと思わない?」 彼はいつもそうだ。 女に対して、とりわけ東郷さんに対しては冷たい程にそっけない態度を取ることが多い。 好意の裏返しだと女たちは囃し立て、何てもったいないことをするのかと男たちは憤る。 後輩として、先輩を悪く言うのは憚られる。 とは言え、男として、強大なライバルを庇い立てすることは釈然としない。 「そういうところ、気が利かない部分、ありますから。真砂さん」 「そうなの。だからね、今日、宗像君が付き合ってくれて、凄く嬉しかった」 前屈みになった彼女の胸元に、視線が試される。 目の前の女は知っている。 男が如何に、単純な生き物であるかを。 俺の心の奥底にある、想いを。 「もうちょっと、付き合ってくれる?」 女にモテた記憶は、今までに一度も無い。 子供の頃から小太りで、大学生になってやっと人並みの体型を手に入れても 陰気な性格までもが変わる訳も無く、オタクなサークルで暇を潰す不毛な毎日を過ごす。 同士だと思っていた奴に彼女なんかが出来たりすると どうしようもない遣り切れなさを抱えながら、笑いで昇華しようと躍起になっていた。 思えばあの頃から、俺は何にも変わってない。 部屋に入る前までに、淡い想いは捨てておくべきだった。 俺が特別な存在ではないことは、店を出てホテルに入るまでの間に気が付いた。 「初めてなの?……そっか」 薄手のカーディガンを脱ぎながら、彼女はベッドに座る俺の腕を引く。 外では逆転していた身長が、靴を脱いで、何となく俺の方が高くなっていた。 「じゃあ、ゆっくり、しようね」 滑らかな腕が首に絡みつき、急激に顔が近くなる。 躊躇う間も、戸惑う間も無いまま、唇が重なり合う。 俺には初めての行為でも、彼女にとっては、ごく当たり前の余興。 優しい感触が身体に沁み渡る度に、彼女の心が更に離れていく様で、堪らなかった。 寒いくらい空調が効いた部屋の中で抱きしめた彼女の身体は、溶けそうなくらい柔らかく、温かい。 背中から腰に向かって手を下ろしていくと、見た目では分からない凹凸が掌に残る。 向かい合うように横になった身体を引き寄せると、適度に豊満な胸が上半身を刺激した。 ベッドサイドの照明が、誘惑の眼を照らす。 気を急く衝動を抑えながら、彼女のうなじに舌を這わせた。 女の身体は、皆、こんなに敏感なものなのだろうか。 胸に顔を埋めるような体勢で存在を主張する突起に舌を伸ばすと、身体が小さく跳ねる。 片方を唇で擦りながら、もう片方を指で撫でると、甘い声が耳を刺激する。 俺の頭に手を添えたのは、ぎこちない動きが物足りないからなのか、それとも。 「んっ……やぁ」 硬くなっている乳首を指で摘むと、彼女は耐えきれず声を上げた。 鼓動が急に早くなる。 こうやって、男は、女に囚われていくのだと、初めて知った。 腰から太腿に手を伸ばし、秘部へと指を這わせていく。 僅かに開いた隙間の中で、纏わりついてくる濡れた感触が背筋を寒くした。 目の前でキスをせがまれ、それに応える。 襞に隠れた突起を軽く撫でるだけで、彼女は愛おしい吐息を俺に投げつける。 誘われるがままに滑り込ませた先には、得も言われぬ触感の狭苦しい空間が待っていた。 俺の腕と交差するように、彼女の手が下腹部へ延びてくる。 性的興奮を覚えれば、時としてそうでは無くても、そこは反応するはずの器官だった。 「緊張、してる?」 女の指が触れた時、気づかされる。 心は間違いなく彼女を求めているはずなのに、身体は、全く何の反応も見せていなかった。 -- 3 -- シャワーから上がると、小さな鏡の前で化粧を直す彼女がいた。 「一緒に出るとこ見られても、あれだから、先に出ちゃうね」 僅かに紅潮した顔は、男と交わることが無くても、絶頂に達した証し。 満足そうな瞳に、惨めな想いだけが大きくなっていく。 「今日は、ありがとう。楽しかった」 ヒールを履いた彼女は、少し屈んで俺の頬にキスを残し、部屋を出ていった。 「何なんだよ!」 ベッドに枕を投げつけても、モヤモヤが晴れる訳じゃない。 もう二度と訪れないであろうチャンスを逃した徒労感。 男としての尊厳を砕かれた絶望感。 こんなことなら、いっそのことフラれた方がよっぽど、マシだ。 ホテルを出ると、小雨がぱらついていた。 折り畳み傘は、あいにく持っていなかった。 見ると、薄暗い裏通りに何枚ものダンボールが散乱している。 きっと、酔っ払いが蹴飛ばしていったんだろう。 迷惑な奴だ、そう思いながら、避けて歩く。 先客がいなかったら、俺がやりたかった。 「やっておいてって、頼んだよね?」 次の日の夕方。 真砂さんは珍しく厳しい口調で俺に言った。 「まだこれしか出来てないって、どういうこと?」 「……ちょっと、急用が、入って」 「どうでも良い作業を頼んでる訳じゃないんだよ。流れが止まるって、分かるでしょ?」 俺が書いた図面を基に、詳細を詰めていく。 その予定は、事前に聞いていた。 「まだ、時間があるかと……」 「時間があるかどうか決めるのは、オレだよ」 「すみません、今日中には、必ず」 煮え切らない溜め息を吐いた彼は、眼鏡を指で押し上げて俺を見る。 「どうしても無理な時は、オレに言って。スケジュール、組み直すから」 「分かりました……本当に、すみません」 顔を上げた先には、東郷さんの姿があった。 俺と一瞬目を合わせた彼女は、すぐに視線を脇の男に移す。 まるで、昨日の夜のことなど何も覚えていないような、そんな素振りだった。 最悪な気分の中に、警笛の音が潜り込む。 俺は未だに、自分のパソコンに向かっている。 画面にはやりかけの図面。 背後でペンを走らせていた音が止む。 無意味な夜を過ごす為に投げ出した時間の代償は、大きい。 深呼吸のつもりで吐いた溜め息が、気力まで奪ってしまうようだった。 「帰ろう。まだ、走れば間に合う」 背後から俺の肩を叩いた先輩は、そう言っていつもの疲れた笑みを見せる。 「え、でも、まだ……」 「良いよ、明日で。時間は、まだあるから」 無理矢理奪われたマウスのポインタが、画面を閉じ、パソコンの電源を落とす。 「ごめん、少し、言い過ぎたね。……ほら、早くしないと、二回目が鳴るよ」 今年の梅雨は、少し長めらしい。 7月の下旬、コンペの一次審査を通過したという連絡を受けた日。 夜飯を買いに会社を出たところで、雨の中で立ち話をする二人を見かけた。 真砂さんと、東郷さんだった。 相変わらず冴えない表情の男と、勝気な表情を見せる女。 厄介な雰囲気を避けるよう距離を置こうとした時、彼女の声が耳に届いた。 「真砂君、彼に随分優しいけど。あの人、あなたの仕事投げ出して、私とデートしてたのよ」 思い出したくない夜の記憶が蘇る。 どうして、そんな事を言う必要があるのか。 俺を貶めて、彼の気分を煽る材料にしようとしているかも知れない。 「……それが、何?」 「でもね、折角ホテルまで誘ってあげたのに、勃たなかったの」 彼女に対して少しでも気があれば、その話は男にとって抜群の効果を表す。 自分だったら、そんな思いをさせない。 本能的な自信が、他人を踏み台にして芽生えてくるはずだ。 けれど、彼女の目の前の男に、その手法は通じなかったらしい。 「最低だな」 聞いたことの無い、冷たい声。 「はっきり言っておくけど、オレ、あんたのこと、嫌いだから」 蒸し暑い空気が、一気に凍えるようだった。 「何それ。……最悪」 女の捨て台詞を背に、男はこちらに向かって歩いてくる。 「飯買いに行くの?オレも行くよ」 困ったような、ホッとしたような、そんな顔を、俺には見せた。 「……良いんですか」 「別に。やっと、すっきりした」 肩に腕を回され、彼女に向けた俺の視線が引き剥がされる。 彼は振り向くことなく、歩き始める。 雨は随分勢いを増し、店に着く頃には、スラックスの裾はすっかり変色してしまっていた。 -- 4 -- 「オレ、プレゼンってあんまり得意じゃないんだよね」 コンペの二次審査に向けた資料に目を通しながら、真砂さんはそう呟いた。 「がっちり理論武装しておけば良いんだけど、アドリブが効かないっていうかさ」 質疑応答をしながらの45分程度のプレゼンテーション。 その内容に、彼は幾ばくかの憂鬱を抱えているらしい。 どんなに隙が無い男に見えても、何処かに弱点がある。 確かに彼は、何かに向けて進んでいる最中、寄り道をすることを極度に嫌がるところが見受けられた。 それはもちろん長所でもあるが、短所にもなり得る。 「宗像君、こういうの、得意でしょ?機転も利くし」 資料作りに向けたデータを集めている俺に、彼はそう聞いてくる。 「え?でも、あまりそういうのは、やったことが……」 得意な訳がない。 仕事でそういった機会は無かったし、学生の頃やらされた学級委員でさえ、憂鬱で仕方なかった。 「オレがフォローに回るからさ、発表は宗像君がやってみない?」 「そんな……これで、決まるんですよね?」 「そう。だから、協力して欲しいんだ」 一ヶ月以上、苦労に苦労を重ねて積み上げてきた成果。 こんなところで足を引っ張りたくない。 狼狽える俺の姿をしばらく見つめ、それでも彼は言った。 「大丈夫。二人でやれば、何とかなるさ」 会社を出たのは、やっぱり終電間近の時間だった。 雨は降っていなかった。 お定まりのように喫煙所の前で足を止めた真砂さんは、煙草に火を点ける。 あんたのこと、嫌いだから。 彼がそう言った瞬間の彼女の顔が思い出される。 悲しい、と言うよりも、悔しさが先んじていたような顔。 どんなにそっけない態度を取られても、何処かに勝機があると思っていたのだろうか。 本命以外の男を翻弄しながら、それでも一途な想いを彼に向けていたのだろうか。 泣き出しそうな空を見上げる彼に、それとなく聞いてみた。 「あれだけ、アプローチされても……心は動かないもんなんですか?」 静かに煙を吐いた彼が、俺に視線を移す。 「東郷さんのこと?」 「ええ」 「人として、好きじゃない。ただ、それだけだよ」 「……羨ましいです、正直」 口をついた本音に、レンズの向こうの彼の眼が僅かに細くなる。 「あんなこと言われて、まだ、そういう風に言えるんだ」 「あれは……」 羨ましいのは、彼女の想いだけじゃない。 容姿も、実力も、経験も、俺は彼に、全てが劣っている。 散々な思いをさせられたからこそ、あの女に攫われて欲しい、そんな風に思っていた。 灰皿に煙草を投げ入れ、またすぐに次の煙草を取り出す。 小さく上がった煙が、強めの風に流されていった。 「もし、男に好きだって言われたら、君はそれを受け入れられる?」 「は……?それとこれとは、話が違うでしょう」 「同じだよ。オレにとっては、そういうこと」 不可解な言葉で答えを濁しながら、彼は俺に背を向けるよう体勢を変える。 「女には興味無いんだ。昔から」 瞬間、その言葉の意味が分からなかった。 細かな雨が降り出し、時折、滴が頬を掠めていく。 「……え?」 ぼやけた警笛が、一回鳴った。 思わず視線を駅に向けた時、真砂さんの声が聞こえる。 「先帰ってて。オレ、もう一本吸ってくから」 表情は分からなかった。 けれど、彼の意図を問いただすのも怖くて、お疲れさまでした、と残し、その場を後にした。 短い駅のホームからは、本降りになってきた雨の中、灰皿の前に佇む男が見える。 一本見送った後にやって来た電車が入線してくる直前、警笛が二回、鳴った。 車両には、程々の人が乗っている。 ホームに出た車掌がしばらく周りを見渡し、やがて発車ブザーに手をかける。 それでも彼は、動かなかった。 「すみません、降ります」 人波を掻き分けて外に出たタイミングで、ドアは閉まった。 忘れ物をしたと理由をつけて、駅を出る。 今日は傘を持っている。 煙草も吸わずに立ちつくす先輩に、背後から傘を差し向けた。 「風邪引きますよ」 振り向いた表情の切なさに、居た堪れない気持ちが湧き上がる。 「……電車は?」 「行っちゃいました」 「どうして」 急に覇気を失ってしまった彼を一人にするのが辛かったのもある。 本当のことを知りたかったのも、ある。 「一緒に、帰りましょう」 -- 5 -- 大きい駅じゃないからか、タクシー乗り場にはなかなか車がやって来ない。 相変わらず押し黙った彼を横に、庇から落ちる水滴をぼんやりと眺めていた。 「……オレね、ずっと気になってる奴がいるんだ」 独り言のような呟きが、静寂を破る。 「オレに無いものを、そいつはいろいろ持ってて。二人でいると、気持ち良い位ピッタリ嵌る感じで」 「友達、ですか」 「どうかな。オレは、そんな風にも思ってるけど」 表情に幾分穏やかさが戻ってきたような気がして、一歩、踏み込んでみた。 「……男、ですか」 静かな溜め息が雨音に溶けていく。 一旦目を伏せた彼は、俺の方へ視線を移した。 「そう」 友情でも、興味でも、信頼でも、尊敬でも無い、同性への想い。 俄かには想像できない心情だった。 「相手は、知ってるんですか」 「言ってない。言う必要も、無いと思ってる」 「何故?」 「今のままで、十分満足だからね。それに……」 不意に彼が視線を上げる。 その先に、遠くから、一台の車がやって来るのが見えた。 「言った瞬間、花開いて……それで、終わるから」 水音を上げながらロータリーに入ってきたタクシーが俺たちの前で停まる。 俺よりも遠くに住む真砂さんは、先に車に乗り込んだ。 遂げられないままで漂う想いが、この世には溢れている。 縺れて、結ばれて、また解けて。 それなのに、彼の想いは誰と縺れることなく流れていく。 誰にも気づかれず、受け止めて貰えないまま。 「……辛くないですか」 見慣れた車窓を見送りながら、そう呟いた。 「もう、慣れたよ。この感情は恋じゃないって、自分に言い聞かせればいいだけ」 自分に嘘をついてまで守りたい、その感情。 受け止める男は、どんな色を見るのだろう。 好奇心が、僅かに羨望に傾く。 「どんな人なんですか」 「何が?」 「その、人」 タクシーは大通りを左折し、俺の家に近づいていく。 残り時間は僅かだった。 「……ごめん、言えない」 顔を上げた彼の眼に躊躇いが映る。 小さく息を吐き、発した言葉に、心が重くなった。 「まだ……終わらせたくないんだ」 秘めた想いを見送るように、彼は俺から目を逸らした。 目印にしていたコンビニの前に車が停まる。 「ここで一人降りられるんですよね」 運転手が振り向き、そう声をかけてくる。 「あ、すみません……二人とも、ここで」 「ええ?困りますよ」 あからさまに不機嫌な表情を見せる中年の男に、5千円札を一枚差し出す。 「お釣り、いらないんで」 俺の意図を推し量れない様子の先輩の手を引き、無理矢理外に出した。 傘を差そうかどうか迷うような霧の雨が闇に舞う。 敢えて、自分の気持ちは整理しなかった。 彼の袖口に手をかけたまま歩き続けて数分、マンションのエントランスが見えてくる。 「狭いですけど」 俺の言葉に男は立ち止まり、細かな水滴が付いたレンズを左右に揺らす。 「良いんだ。もう……」 無性に悔しかった。 「始まっても、いないのに……勝手に終わらせないで下さい」 腕を掴み、大きな身体を間近に引き寄せる。 「どうしたら良いですか、俺。どうすれば……」 見上げた先にあった表情は、今まで見たことも無い薄弱なものだった。 指に絡まる感情の糸は、今にも零れ落ちそうになっている。 彼の首に腕を回し、頭を引き寄せる。 爪先を立て、自分の顔を近づける。 すぐにやってきた男の唇の感触は、霧に湿り、とても冷たかった。 身長差と眼鏡のフレームの具合がしっくりくるまで、何度も、何度も、首を傾ける。 触れ合う度に心の距離が縮まっていく様な、そんな気がした。 腰に添えられた手が、伸ばしていた足の力を少し緩めてくれる。 「ごめん……こんなこと、させて」 鼻頭が触れるほどの距離で、彼の声が響く。 「真砂さん、言いましたよね」 背中へ下ろした手に、濡れそぼったワイシャツの感触が纏わりついた。 「二人でやれば、何とかなる、って」 「それは……」 「なら、二人で、もう一度……始めれば良いじゃないですか」 -- 6 -- 踏み付けられた恋心を、今更拾い上げる気は無い。 美男美女でくっついてくれれば、嫉妬の中にも安堵するところに落ち着いたはずだ。 それなのに、俺は、漂っていた男の想いを掬い上げた。 こんなことになるとは思ってもいなかったから、部屋の中は日常のままだった。 ガサツで下世話な空間に置いておくのは申し訳なくて、先にシャワーを促した。 微かな水音が聞こえる中、こんがらがった現実を片づけるように、散らばった物を重ねていく。 青みがかった闇の中、薄い吐息を混ぜ合わせながら繰り返したキスを思い返す度に、背筋が寒くなる。 女とだって、あの夜の一回だけなのに。 多分俺は、この後も、彼と唇を重ねることになるはずだ。 背徳感と裏返しの多幸感が、身体を震わせながら湧き上がってくるようだった。 ユニットバスのドアを開ける音がする。 身体を拭き、着替える気配が続くまで、振り返ることなく手を動かす。 「もう、大丈夫?」 そんな声が聞こえてから、初めて彼の存在を確認した。 Tシャツにスラックスの姿で、ワイシャツを手にしたまま濡れた前髪を眼鏡にかける男の姿。 「ええ……すみません、散らかっていて」 「いや、良いよ。それに、すぐ……」 「今日は、泊まっていって、下さい」 このまま彼を帰したくない。 その一心で、言葉に言葉を被せた。 「……お願いします」 シャワーから上がると、先輩はベッドに寄りかかり身体を屈めていた。 俺の気配に彼は顔を上げる。 向けられたその表情が、頭の中に疑問符を生んだ。 「どうして、そんな顔……するんですか」 怯えた様な、寂しげな顔。 彼の想いを受け止めようとしている意図が見えていないのだろうか。 思い描いていた成就の場面と、何かが食い違っているのだろうか。 「何か、間違ってますか?こんなはずじゃ、なかった?」 「君と……こんなことになるって、考えてもいなかったから」 恋心は、ある程度の妄想をもって大きくなるものだと思っている。 突然の告白、物憂げなキス、声を押し殺したセックス。 想いを寄せる相手に対して猥雑な期待をすることで、自分自身の感情を盛り上げる。 俺が東郷さんに対してそうしていたように、彼が、俺に対して何かを期待していることは 内心複雑な部分はあるにしても、理解出来ない振る舞いじゃない。 シャワーを浴びる短い時間でも、俺は、彼の身体に手を滑らせることを想像してみた。 そうやって、唐突な気持ちに勢いを付けようと思った。 「ここまで来ても、何かの冗談じゃないかって、思ってる」 彼は夢を見ようとはしなかったらしい。 同性に秘めた想いを寄せ続ける辛さは、俺には分からない。 けれど、その不甲斐ない姿は、いつもの彼とは全くの別人だった。 「同情してくれなくて、良いんだ。ホントに」 男の肩を掴んで、床に押し倒す。 驚愕の眼差しを受け止めながら、息を飲んだ。 「別に、良いでしょう。きっかけが、同情だって、何だって」 馬乗りになった格好で、顔を近づける。 「……覚悟決めて下さい、真砂さん」 迷いの言葉を封じ込めるように、彼の唇に、唇を重ねた。 頬に手を添えながら、うなじに小さなキスを繰り返す。 身体の強張りに強調された鎖骨を下唇で刺激しながら、徐々に顔を下げていく。 滑らかな感触のTシャツの上から上半身に手を這わせると、押し殺したような息が一瞬止まる。 視線を彼の顔へ向けたけれど、床に臥せるように傾いでいて、表情を見ることは出来なかった。 シャツをたくし上げ、その場所を舌で軽く愛撫する。 僅かに身を捩るその仕草に、気分が昂ぶってくる。 何に於いても敵わない、彼に対する劣等感。 誰からも必要とされてこなかった自分の中に燻る飢餓感。 それらが覆されていく満足感に、囚われていく様だった。 指を、舌を、男の身体に這わせていく毎に終点が見えなくなる。 前戯から挿入、絶頂と言う通常のセックスの流れと、彼らの行為は、恐らく同じなのだと思う。 入れる場所が違う、だけだ。 タイミングはいつにしたら良いのだろう。 俺が勃ったら?彼がイってから? それとも、各々が、そこで絶頂を迎えるものなんだろうか。 入れられるのは、流石に、怖い。 そもそも、俺はこんな状況で勃つのか? 今まで考えたことも無かった疑問が、頭の中でグルグル回る。 みぞおちの辺りに、彼の興奮が感じられるようになってくる。 服の上からでも、局部の膨らみは明らかだった。 そのことで、過程が間違っていないことを認識した。 スラックスのファスナーを下ろし、手を差し入れる。 指先に当たったのは、他の男のモノ。 完全とは言えないまでも相当に昂ぶった状態に、少しだけ気持ちが怯んだ。 深い吐息と共に、俺の肩を彼の手が滑る。 ずれた眼鏡の向こうの眼は、酷く切なげだった。 半開きの口が、何かを言おうとしている。 抗う言葉は聞きたくなかった。 唇で塞ぎ、モノに二本の指を這わせていく。 喉の奥から響いて来た振動が、俺の鼓膜の奥まで刺激した。 -- 7 -- 仕事をしていく上での相性は良いのだと思う。 欠点だらけの俺を、優秀な彼がフォローする。 力不足を悔しく思うこともあったけれど、今の関係が丁度良いのだと思っていた。 手の中のモノは、間違いなく大きさを増している。 下着の外に引き出し、ゆっくりと扱く度に、彼の顔が大きく振れる。 腕で抱えるように頭を押さえ、刺激に耐える彼に向かって囁いた。 「顔、見せてて下さい」 眉間に皺が寄り、悶える瞳の中に自分が映っている。 確固たる上下関係が崩れていくような気がした。 吐く息がどんどん深くなる。 中途半端に衣服を肌蹴られた先輩の身体が、大きく波打つ。 俺の肩を掴む彼の手の力が強くなり、快楽に翻弄されている様を知らされる。 普段の完璧な姿と乱れた姿のギャップにもたらされる違和感が、身体を熱くさせた。 彼の手が肩から腕を滑り、腰を撫でる。 向かう先を悟り、小さく息を吐きながら身体を浮かせた。 やがて震える指先が捉えた場所は、あの時とは違う様相を見せていた。 躊躇いがちな指が、ハーフパンツの上からモノを撫でる。 官能に惑わされていた眼が、俺の眼を真っ直ぐに見つめ、問いかける。 俺はそれに、浅い吐息で返した。 互いの手の中で、互いのモノが興奮を露わにしていた。 彼の身体に覆い被さるように上半身を触れ合わせ、下唇を舌でくすぐる。 小さく顔を出した彼の舌に舌先をつけ、徐々に絡ませていく。 微かな喘ぎが喉の奥から漏れてくる。 このタイミングなのだと、思った。 「……入れて、良い、ですか?」 ふと彼の手が止まる。 表情に逡巡を浮かべながら頭を揺らした彼は、強張った声を絞り出した。 「この、まま……で」 上半身を起こし、Tシャツを脱ぐ。 「取りますね」 そう言って彼の眼鏡を外し、悶える身の下敷きになっていた服を脱がす。 幾分痩せた上半身はうっすらと汗をかき、反対にがっしりとした太腿を撫でると短い毛が纏わりつく。 「……ベッドに」 掛け布団を引き剥がしたベッドに大きな身体が横になるのを見ながら、自分の服を脱ぎ捨てた。 彼の身体を再び下にした俺は、胸を密着させるように身を折り、口づけを交わす。 指に触れたモノは、双方然程萎れることも無く存在を示していた。 腰を沈めると、自分のモノが彼のモノに触れる。 得も言われない刺激が鼓動を早くした。 擦り合わせるように、静かに身体を揺らす。 同じ快感を味わっているであろう彼は、目を閉じて息を吐く。 亀頭がカリに引っかかる感覚が腰を浮かせ、玉袋が互いを叩き合う刺激が衝動を押し上げた。 二本のモノを手で掴み、腰の振りを早める。 親指で先端を撫でると、ぬるついた感触と共に強烈な快感が筋肉を引きつらせる。 もう片方にも指をかけると、呻くような声が響き、更に濡れた質感が官能を暴き出した。 彼の手が俺の手を支えるように被せられ、溺れるように身体を弄び合う。 目を細めて唇を震わせる狂おしい表情に、頭の中が真紅に染まっていく。 彼の肩口に顔を埋め、彼と、自分の身体を絶頂に導く。 切なげな二人の声が絡み合うように部屋に響いている。 腰に回された掌の熱が肌に溶ける。 「……っあ」 抑えきれない喘ぎが発せられ、彼の頭が小さく浮き上がった。 瞬間、腹の辺りに生暖かい液体が飛び散る。 間を置かず、突き抜けた激情が追いかけるように飛び出していった。 汗と残渣をそのままに、唇を求め合う。 落ち着いてきた鼓動を重ねるように、身体を預ける。 「こんな、はずじゃ……なかったのに」 耳に届いた彼の声に、思わず顔を上げた。 そこにあったのは、いつもの穏やかな、優しい表情。 「……初めて、自分の気持ちに、素直になれそうだよ」 程よく空調が効いた広い会議室では、5人の上役と十数人の社員がスクリーンに注目している。 「南西側に突き出した庇は、御社のブランドロゴを模した意匠となっております」 「建物の機能としては、何か効果的な部分があるの?」 「ガラス面から約2m程突出させることで、昼間の日射負荷を30%程低減することが出来ます」 映し出されているのは、研究所の3Dパース。 真砂さんの操作に合わせて、設計趣旨を説明していく。 息苦しくなるような緊張感は、時間と共に落着き、質疑の声でまた跳ね上がる。 「それ、数値で具体的に示せるかな?」 「あ……はい」 「では、こちらの計算書でご説明します」 一瞬の戸惑いも、常に交わしている視線にフォローされる。 これが嵌り合う感覚なのかと、俺に替わって説明を始める先輩を見て、実感した。 それから2週間程経ち、上司の元にコンペの結果が届く。 居た堪れない想いを胸にした俺と真砂さんに対して、彼は意地悪い笑みを浮かべて書類を手渡してきた。 「また忙しくなるぞ?覚悟しておけよ」 表紙には、木々の中、深緑に染まるガラスに囲まれた白い建物。 それは、彼と俺とで描き上げた渾身の絵だった。 週末の夜、彼の家で一つの成果を労う。 窓を開けて煙草を吸う彼の向こうに、ふと色が散った。 「ああ、そう言えば、近くで花火大会があるんだった」 建物の陰から僅かに見えるだけだったけれど、遅れてやってくる音に気分が上がる。 「これが終わると、夏も終わりなんだなって、少し寂しくなるんだよね」 振り向いた彼の後ろに、また大輪の、小さな花が咲く。 彼が抱えていた恋心に、似ているような気がした。 けれど、今はもう、そこで終わりじゃない。 「その分、次の夏を待つ楽しみが増えるじゃないですか」 「……そうだね」 伸びてくる手が耳を掠め、吸い込まれるように唇を重ねる。 耳に入ってくる低音が意識の中に白い閃光を残す。 間近で縺れ、嵌り込む視線が、堪らなく幸せだった。 Copyright 2013 まべちがわ All Rights Reserved.