いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 一途 --- -- 1 -- 『Hollyhock』と書かれた小さな木の看板が掛けられたドアを開けると 芳醇なコーヒーの香りが身に纏わりつくように漂ってくる。 「いらっしゃい」 「こんにちは」 カウンターの向こうでカップを拭きながら、男は柔らかい笑みを俺に向けた。 「いつもので良いかな?」 「はい、お願いします」 決して広くない店内には、珍しく数人の客がいる。 その光景で、今日が祝日だったことに気が付いた。 席の間を縫うように歩き、裏の扉から外に出る。 広い庭には、適度な距離を保ってテーブルセットが何組か配置されている。 大きなスズカケノキが良い感じに日陰を作っている席に腰を下ろす。 目線に立っているのは幾本ものタチアオイ。 蕾は膨らみ始め、あと1、2ヶ月もすれば大輪の花を咲かせるだろう。 ここに初めて来たのも、花々が咲き始めた初夏の頃だったと思う。 2年前の春、東京本社で研修が終わった後で配属されたのがこの街だった。 東京からは新幹線で1時間ほどのリゾート地。 オフィスビルや大型施設のメンテナンスを中心に行っている会社が シーズンオフに使われていない別荘などのメンテナンスも長年手掛けていると知ったのは 配属先を告げられてからのことだ。 小さな営業所に、社員は所長を含めて6人しかいない。 それでも、支社・営業所の中で売り上げは上位を占める。 大手デベロッパーが開発すると同時に営業をかけ 分譲を始めた当初から契約を取り付けることが出来たからだと、昔気質の所長は笑って言った。 設備の管理やビル警備、清掃の手配など多岐にわたる業務について受けた研修は ここでは、殆ど役に立たなかった。 給湯器やエアコンの修理、浄化槽の清掃、屋根や外壁の修繕はもちろん 蜂の巣の処理やイノシシ対策に呼ばれることもしばしばあり、まさに何でも屋という状態。 スーツで出勤することは一週間で諦め、毎日作業服で広い街を巡回する。 入社当時の思惑とは何かが違うと思いながら、月日はあっという間に過ぎていった。 シフト制で休日も不定期な生活にやっと慣れてきたのは、1年程経ってから。 毎日街中を巡っているのに、休みの日は惰眠を貪ることが常になっていて 住んでいるアパートの周りを歩いたことも無かったことに気が付く。 中心地から少し離れた住宅街に立ち並ぶ家々は敷地も広く、立派なものが多い。 普段は車で移動しているから気が付かなかったけれど 小高い丘の裾に広がっているからか、道の勾配も随分急な感じがする。 何となく気になった細い上り坂を進む。 初夏の日差しは、避暑地とは言えなかなか厳しく、身体を徐々に疲弊させていく。 しばらくすると丘の中腹辺りで道が開け、小さな建物と、後ろに立つ大きな木が目に飛び込んできた。 ドアに掲げられた看板には『Hollyhock』とぎこちない感じで彫られている。 普段から、あまり冒険はしない性質だ。 それでも入ってみようと思ったのは暑かったからでも、疲れていたからでも、無かったのだと思う。 鈍い鐘の音が、ドアを開けるとともにガラガラと響いた。 すぐに漂ってきた香りで、そこが喫茶店であることを知る。 中はそれほど広い空間ではなく、古い建物なのか窓が小さく薄暗い感じがした。 「いらっしゃい」 カウンターの中から声をかけてきたのは、中年の男。 父より少し年下くらいの彼は、柔和な表情を浮かべて俺を見ていた。 「初めてのお客さんだね」 「ええ、偶然……通りかかったので」 「それはようこそ。どうぞ、好きな席へ。……ああ、今日は庭の方が気持ち良いかも知れないよ」 そう言う彼は、店の奥のドアに視線を向ける。 開け放たれた扉の向こうに、陽の光を受けた空間が見えた。 巨木が広い影を作る空間には、幾つかのテーブルセットと背の高い花が並ぶ。 平日だからか、先客はいない。 木の下にある席に座ると、心地の良い涼風が吹いてきて、暑さを冷ましてくれた。 見上げると、小さな手のような形の葉っぱが風に揺れている。 幾重もの葉擦れの音が降り注いでくるのを一身に浴び、懐かしい感覚に囚われる。 「大きい木だろう。スズカケノキだよ。ここまで大きいのは、この辺でも珍しいんじゃないかな」 店の主人なのだろう男が、メニューを差し出しながら話しかけてくる。 「この木と、あのタチアオイが好きでね」 その言葉で、座った目線に丁度入り込んでくる花の名前を教えられる。 淡いピンク色の花はまだ咲き始めらしく、真っ直ぐ伸びた茎に大きな蕾を幾つも付けていた。 あの蕾が全て開いたら、相当に見事だろう。 日常のすぐそばにある非日常の空間の中で、夢見心地の想像を巡らせた。 店内は禁煙なのだそうだ。 煙草に火を点ける俺の傍で、他の客が来るまでと、彼も小さなキセルを取り出した。 「観光の人じゃ、無いのかな」 「この近くに住んでるんですけど……こんな所があるのは、全然知らなくて」 「奥まってるからね。物好きと迷い込んだ客しか来ないんだよ」 薄い煙をゆっくりと吐きながら、そう言っておどけたような顔を見せた。 店の方から、古ぼけた金属の音が聞こえてくる。 「おっと、お客さんだ。……ゆっくりしていってね」 目を細めた明るい笑みを残し、彼は建物の中へ戻っていく。 アイスコーヒーが入った銅のタンブラーの冴えた冷たさが、指に沁みる。 それから俺は、休みの度、ここへ訪れるようになった。 -- 2 -- 社会人になってから、本は殆ど読まなくなった。 雑誌や新聞を手に取る機会も少なく、情報はもっぱらネットから仕入れる。 けれど、この場所で小さな画面に目を奪われるのは何となくもったいない気がして 今日も、ある本を手にして席に着いた。 実家を出る際に持ってきた一冊の本。 本の見返しには、幼さを残した文字で『またいつか、一緒に』と綴られている。 高校の時の友達がくれたものだ。 相当に読み込んだのであろう本は端々が破れたり、何かの染みが付いていたりして 別れ際の贈り物としては酷く無愛想だけれど、俺にとっては多分、生涯の宝物になるのだと思う。 中学生から高校生にかけては、本の虫だった。 暇さえあれば図書館に通い、文字を追いかけるのが好きだった。 特に古典文学をよく読んでいたこともあり、古典の授業で困ることは無かったことを覚えている。 高校時代に所属していた部活動は文芸部。 種々の本を読んで書評を発表し合うという名実はあったが、実際はそれほどの活発なものでもなく 賞を取って話題になった本だとか、ドラマのノベライズだったりとか そういう本を読んで、好きに感想を言い合うようなヌルい部活動になってしまっていた。 「西脇くんは、随筆とか読んだりする?」 高校2年の夏、図書館に併設された多目的室の隅で本を読んでいた俺に声をかけてきたのは 同じ部活に属している鹿嶋だった。 海外文学が好きらしく、英和辞典片手に原文を読んでいる姿を見たこともある。 「あんまり読まないな……方丈記とか、徒然草なら昔読んでたけど」 「やっぱり、古典なんだね」 「ああ、ごめん。あんまり現代ものは」 俺のそんな答えに、お世辞にも健康的とはいえない白い顔が、静かな笑みで明るくなる。 身体が弱く、入退院を繰り返しているという話は聞いていた。 実際、入学したのは俺と同じ年だったのが、前年の出席日数が足りず、留年したのだと言う。 「もし良かったら、読んでみてくれないかなって」 そう言って、彼は一冊の本を差し出してくる。 簡素な装丁が施されているその薄い本は、おそらく自費出版か何かで出したものだろう。 水郷の街として知られる地元は、古い屋敷なども点在している独特の情緒を持った場所。 本の中には、その歴史や風景、日常の一部を切り取った随筆が何篇かまとめられている。 「実は、叔父さんが趣味でこういうのを書いていて」 ページを繰ると、詩情を過分に含んだ文章が並ぶ。 ちょっと気恥ずかしくなるような、けれど情景が明確にイメージ出来るような文体は、嫌いじゃなかった。 「僕がこういう部活に入ってるって話したら、余ってるから持ってけって言うんだよ」 俺の向かいに座った彼は、バツが悪そうに笑う。 生まれ育った街だというのに、俺はそれほど興味を持ってこなかった。 街角に立つ不思議な建物の由来から、公園に生えている雑草の名前まで ともすれば一生知らないままの、知らなくても何ら困らないことが淡々と綴られている文章に 何処か吸い込まれそうな魅力を感じる。 時折出てくる歴史の話を古典の雰囲気を重ね合わせたりしながら、読み進めていった。 夏休みに入る前、鹿嶋はまた入院するのだと話した。 「いつも、今度はちゃんと退院できるのかなって、思うんだ」 同じ制服を着ているとは思えない程、彼の身体は痩せていて その言葉を心から否定することが、俺には出来なかった。 「見舞いに、行くよ。中央病院だろ?」 「そう。あの木の下で本を読んでると、時間が止まった気がしてね」 小高い丘の上にある病院は、周りを木々に囲まれていて 中でも一際大きな木は、街のシンボル的な存在になっている。 「……もう少し生きてられるのかなって、思ったりする」 寂しげな眼に言葉が出ないことを誤魔化すように、彼の頭を乱暴に撫でる。 二度と会えなくなるかも知れない、そんな可能性を必死で掻き消そうとした。 「何、言ってんだよ。ちゃんと、二学期には出てこいよ?」 俺の行為を、彼は頷きながら、笑って受け入れてくれた。 それほど親しい仲だった訳では無かった彼との関係は、その夏、大きく変わった。 週に何度か見舞いに行き、彼の体調と天気が良い日は、車椅子を押して木陰を目指す。 めいめいに好きな本を読み、感想や意見を交わしながら時間を過ごす。 木のさざめきが眠気を誘ったら、誰に遠慮することなく微睡に落ちる。 受験勉強も、バイトもあった。 けれど、この時間の空隙が、様々な鬱憤を落ち着かせてくれるような気がしていた。 自称随筆家である鹿嶋の叔父に初めて出会ったのも、彼の病室だった。 面白く読ませて貰ったと言う俺の感想に喜びを隠さなかった初老の男は 自らが持っていた数冊の冊子を手渡してくる。 中には、手書きの文章をコピーし、ただ綴じただけのものもあったりしたが 友人の手前、受け取らざるを得なかった。 「あと5年も経てば定年だからね。そしたら、行ってみたい場所があるんだよ」 独身貴族らしい彼は、そう言って自分の第二の人生に思いを馳せる。 「聖も、病気治ったら、オレに付き合うか?」 「僕は良いよ……明日すら、見えないのに」 友人の弱音が、気分を居た堪れなくする。 甥の言葉を聞いた男の溜め息には、もう聞き飽きた、そんな感情が込められているように思えた。 「明日、何がしたい?」 俯いた少年の額に手を寄せ、男は上向いた視線を受け止める。 「何がしたいのかを考えれば、頭の中でお前の明日が見えてくるだろう?」 「でも、それが出来るとは、限らないし」 「そうやって諦めるから、見えないんだよ」 幾分きつい口調で友へ語りかけた男が、不意に振り向く。 「君は、明日、何がしたい?」 突然の問に思考が回らない。 目を伏せた鹿嶋の顔を見ながら、思い浮かんだたった一つの答えを返した。 「本が読みたいです……鹿嶋と、一緒に」 -- 3 -- 明日に期待することを諦めさせたくない。 友人と叔父のやり取りを見て、心の中で誓ったのは良いけれど その為にどうすれば良いのかは、分からなかった。 結局彼は二学期になっても退院することは出来ず、秋めいてきた空も、病床から眺めていた。 柔らかな日差しが降る土曜日の午後。 久しぶりに、二人で木の下に陣取った。 より一層痩せて小さく見える彼の身体を支え、車椅子から降ろす。 彼が手にしている本には、真ん中辺りに栞が挟み込んである。 「それ、結構前から読んでなかったっけ?」 その言葉に、彼は悔しげな表情を見せる。 「何か、家系とかが複雑でさ。見返しながら読んでるから、全然進まないんだ」 俺の手元には、地元の自称随筆家の新刊。 その筆の速さに感心しながら、毎度違う色を以って繰り広げられる世界を楽しんでいた。 「西脇くん、付き合ってる娘とかいる?」 一瞬の風に、そんな問いかけが流されてくる。 「え?」 「いや、今読んでる本、恋愛描写とか、そういうのが多いんだけど。何か、ピンとこなくて」 木に寄り掛かるように目を細めた彼は、手元の本を閉じて、俺を見る。 「周りが見えなくなるような恋愛って、どんな感じなんだろう」 大した恋愛をしてこなかった俺に、それは難題だった。 ちょっと好きになって、ちょっと付き合って、知らない間に気持ちが離れて。 同じことを何度も繰り返して、一人の誰かに遮二無二想いを寄せたことは無かった気がする。 「そんな想いを味わったら、将来を諦めることも、無くなるのかな」 来週は連休だから、2日はここに来られる。 冬になったら、もう、ここに座ることは出来ないだろうか。 でも、その頃には、きっと友は退院していて、図書館で同じ時間を過ごすことが出来るだろう。 日常、何でもない時に、ふと頭を巡る期待。 俺は、諦めてない。 彼も、そうあって欲しい。 「……何か知らないけど、俺、お前のことばっか考えてる」 口をついた独り言に、彼は呆気にとられたような顔で俺を見る。 「明日も、明後日も、お前のこと、考えてたい。だから、お前にも、そうして貰いたい」 自分勝手な言葉を振られ、友は目を伏せて呟いた。 「僕も、いつも西脇くんのこと、考えてるよ。でもね、いつ途切れるのかと思うと、怖くなる」 寂しげな声が堪らなかった。 自分が思っている以上に、彼への想いは一途だったのかも知れない。 「考えなきゃ良い、そんなこと」 細い肩を抱き寄せ、胸元に彼の頭を抱え込んだ。 「楽しいことだけ、考えてよう。明日が、良い日になる様にって」 季節が冬を迎える頃、彼の母から、彼の病状が芳しくないことを聞く。 そして、治療の為、高校を休学して北海道の病院へ転院することになったと言われた。 受験勉強に専念する時期に差し掛かっていたこともあり 予備校の休みを縫って彼の元へ赴くことが出来たのは、転院を直前に控えた日だった。 顔色の優れない友は、ベッドに横たわったままで俺を迎える。 「予備校は?」 「今日は、休み」 「そうか」 細い指は仄かに温かくて、北風に晒された俺の指に柔らかい温もりをくれた。 指を繋ぎ合ったまま、視線を交わす。 「……俺、諦めて、ないから」 言葉とは裏腹に、声が震え、頬を涙が伝っていく。 「ホントに……」 弱弱しく笑顔を見せる彼は、その指で俺の頬骨を撫でる。 「大丈夫。僕も、諦めてない」 彼の手に呼ばれるよう、頬を寄せ合った。 「また、いつか、一緒に……本、読もう」 別れ際、彼から一冊の本を手渡される。 「やっと読み終わったんだ。西脇くんの感想も、今度聞かせてくれる?」 何度も繰り返し読んだのだろうか、本にかけられたカバーは所々が擦り切れていた。 見返しに書かれたメッセージに気が付いたのは、彼が北海道へ移ってから。 手元に残った文字を辿りながら、壊れそうな希望を何とか支えていた。 春の風が、何処からか花の香りを運んでくる。 陽に焼けて古ぼけた本は相変わらず難敵で、日に何ページも進まない。 オリジナルブレンドのコーヒーを口に運び、一つ息をつく。 あれから、友とは連絡がつかなくなった。 それでも、彼の筆跡を見る度に、俺はまだ諦めていない、そう思うようにしている。 いつかの約束を果たせる日を、信じている。 社用の携帯が震え出す。 緊急の用件の場合、休みの日でも駆り出されることは少なくない。 「西脇です」 「ああ、休みのところ悪いんだけど、給湯器から漏水してるって電話があってね」 「分かりました。30分くらいで行きます」 「工具は用意しておくから」 電話を切り、カップに残ったコーヒーを飲み干す。 スズカケノキが葉を鳴らす音に見送られ、俺は席を離れた。 「あれは、スズカケノキなんですよ。多分私よりも長生きなんじゃないかと」 店のカウンターでは、初老の男とマスターが何やら話し込んでいる。 「夏にはタチアオイが咲きましてね」 「本当に、良い所だね。期待以上だ」 楽しそうに話すところに割り込むことを詫びるように頭を下げ、会計を頼む。 「もう帰るのかい?」 「ちょっと、仕事で呼び出されまして」 「そうか。その内、ウチのエアコンも見て貰おうかな」 「ええ、良いですよ。シーズンの前の方が混みませんからね」 「助かるよ。じゃ、行ってらっしゃい」 「ごちそうさまでした」 -- 4 -- 別荘の裏に設置された給湯器から出る配管には、何かに齧られたような跡があった。 「サルかな。まさか、熊じゃないよな」 「よっぽど餌が無いんですかね。こんなものまで齧るなんて」 何某かの動物にやられた傷は、保温材を貫通し、樹脂管までダメージを与えている。 同行した職人は慣れた調子で配管を外し、新しい配管を繋いでいく。 「まぁ、元はと言えば、奴らのテリトリーに人間が踏み込んだ訳だから」 「それは、そうですけど」 程なくしてナットが締め付けられる音が止み、職人が立ち上がる。 配管の修復を終えた彼は、その行先を眺めながら言った。 「とりあえず、露出の部分にはカバーしておいた方が良いと思うぞ」 「俺もそう思います。……材料はあります?」 「一応、付属のカバーとラッキングは持ってきてるよ」 「じゃ、お願いしちゃって良いですか?会社の方には、俺から言っておくんで」 齧られたのは給湯管。 これがガス管だったら、漏水どころの騒ぎじゃなくなる。 上司ともその考えは共有できたようで、1時間後、配管は全て金属カバーで覆われた。 「そういえば、川端の別荘が売れたらしいな」 現場からの帰り道、車を運転する俺に彼が話しかけてくる。 「え?そうなんですか」 川端の別荘、というのは、半年ほど前に売りに出された川沿いに立つ別荘だ。 眺望、建物の質を表すように価格は1億を優に超え、なかなか買い手がつかないと言われていた。 「お宅の所長が早速営業に行ったみたいだから、その内仕事が来るんじゃないか?」 「それにしても、凄いですね。どんな人が買うんでしょう……」 「さぁな。世の中には、想像を絶する金持ちがいるからな」 「俺には、一生かかっても買えませんよ」 俺の愚痴を拾い上げ、彼は鼻であしらう。 「まだ若いんだから、夢を持てよ、夢」 「夢、ねぇ……宝くじでも買いますか」 一週間と少し経ち、職人の男が言っていた新規の案件について、所長から正式に話があった。 「別荘としてではなく、本宅として使うんだそうだ」 そう言う所長の顔は、何処かしら嬉しげだった。 本宅として居住するのであれば、当然メンテナンスは頻繁に必要になる。 幾らか値切られたと言うが、上司はフルメンテナンスの契約を取ってきたらしい。 業務は煩雑になるが、別荘相手よりも桁が一つ変わる価値がある。 「ファミリーですか?」 「二人家族らしい。定年して、第二の人生をここで送るんだと。羨ましいね……宝くじでも買うか?」 皆、考えることは一緒だ。 庭のタチアオイがちらほら花を咲かせる頃。 日頃の感謝の意味も込めて、休みの日に喫茶店の設備を一通り見て回る。 目についたのは、エアコンの冷媒が若干減っている点くらいだった。 「他に何か、気になる点とか、ありますか?」 「今のところは、特に無いかなぁ」 「冷媒の充填は、工事店に頼んでおきますんで」 「助かるよ」 マスターが安堵の声を上げたタイミングで、店の方から来客を告げる鐘の音が聞こえる。 「後、任せて良いかな」 「ええ、書類はこちらで作っておきます」 しばらくすると、客らしき二人が庭に入ってくる。 彼らはしばらくスズカケノキを見上げ、何かを話していた。 一人は初老の男、もう一人は、杖をついているが、若い男のようだった。 マスターは、俺がいつも座る席に彼らを案内する。 爽やかな日差しが木々の緑に反射して、やけにそこだけ輝いて見えた。 「今度、引っ越してきた人らしいよ」 エアコンの点検を終えてカウンターに戻った俺に、マスターが教えてくれる。 「定年を機に、千葉から移り住んだんだって」 ああ、あれがもしかして、川端の別荘の住人か。 好奇心が僅かにもたげた俺の視界に、一冊の本が目に入る。 「……それは?」 「ああ、あの人が書いた本だって、挨拶代わりにくれたんだ」 簡素な装丁の表紙にある名前で、遠い過去が一気に蘇る。 木の下で陽の光を浴びた顔は、思い出の中の優しい表情と何も変わっていなかった。 「……鹿嶋?」 俺の声に、彼らが振り向く。 目を細めて俺を見た男は、瞬間、表情を綻ばせた。 「久しぶりだね……西脇くん」 彼の背後で揺れるピンク色の花が、その顔を明るく滲ませる。 病状は、あの頃に比べて大分良くなったのだそうだ。 「一生付き合っていくしかないみたいだから、どうやって折り合いをつけようかって考えるようにしたんだ」 それなりに歳を重ねた彼の顔は、やはり少し痩せてはいたけれど、顔色は悪くない。 「そんな時に、叔父さんがね……こっちに住むから、一緒に来いって」 「いつまでも病院と自宅の往復で時間を浪費するのはもったいないだろう?」 「それは、そうだけど」 話し方も、雰囲気も、何も変わってない。 彼らのやり取りを見ながら、込み上げる喜びを噛み締めた。 むせ返るようなタチアオイの群れが風に揺れている。 テーブルの上には、銅のタンブラーが二つと、本が一冊。 「孤独って、何なんだろうね」 「ん?」 「これだけ濃密な人生を送っても尚、最後には孤独に苛まれる。どうしてだろう」 鹿嶋は自らが友人に送った本を手に、何かに思いを馳せていた。 「僕は、随分希薄な人生を送っていると思うけど、あんまり孤独は感じて無いな」 「諦めてないから、じゃないか?」 「何を?」 「……明日を」 明日に、将来に思いを馳せていれば、自分一人が取り残される不安は生まれない。 行く先に何も見えなくなった時、全てから拒絶されたような恐怖に苛まれるんじゃないか。 それが、数年越しで彼に語った、本の感想だった。 天つ風が凪いでいた木の葉を揺らし、彼の身体に斑な光を浴びせる。 「諦めなくて、良かった」 柔和な笑顔で呟いた彼の声に、大きく頷く。 再び、友とこうやって時間を過ごすことが出来る。 奇跡のような偶然を実感しながら、樹上の明日を、二人で見上げた。 Copyright 2013 まべちがわ All Rights Reserved.