いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 相思 --- -- 1 -- 新たな現場に赴任してから2ヶ月。 初めての土地では、予想通り春が早く来て、予想以上の降雪に足元がおぼつかない。 少しずつ環境に身体を慣らしながら、目まぐるしく動転する毎日を過ごしている。 ここに誘ってくれた男もまた、手探りの状況を苦しみつつ、楽しみながら過ごしているようだった。 事務所立ち上げ当初は多忙を極め、休日出勤も当たり前。 それでも、会社を上げてのプロジェクトに創始から携われることの充実感は何物にも代えがたいのだろう。 「何か、やっと一息って感じだね」 早春の雲が造成中の山を霞ませる頃、屋外の喫煙所で一服していた俺に、彼はそう声をかけてきた。 初回となる施主への現場説明会を終えた彼は、大きく背伸びをして息を吐く。 「お疲れ様でした。ずっと忙しかったですもんね」 「こんだけ働いたのは、会社入って初めてかも」 とはいえ、まだ現場は始まったばかり。 これから、幾つもの難題を越えることになる。 「今週末は、休めそうなんですか?」 「ん~……久しぶりの連休かな」 俺を見る疲れた笑顔が、子供の様な憎たらしさを帯びる。 「やっと、約束を果たせそうだ」 彼ほどではないにせよ、俺も多忙な日々が続いていた。 土日はゆっくりしようか、そう考えていた頭に、河合さんの言葉の意味はすんなりとは入ってこなかった。 現場がある九州の町は、元々小さな片田舎だった。 高速と、それに沿うように走る国道が町を二分するように走り 大型の輸送トラックが休憩がてら停まる以外、人の往来はそれほど多くない、むしろ少なかった場所。 それが今、新たな現場が動く気配を窺いながら、急速に発展している。 2、3軒のホテルが建ち、外食チェーン店が数店舗肩を並べ、今は大型スーパーが建設中だ。 全て、現場に従事する人を狙った計画なのだろう。 俺が初めてこの町へやって来た時、長期の常駐にそれほど難の無い場所へと変わっていた。 山の上の現場から数分下ったところに、定宿がある。 それもあって、以前のように彼の車に乗ることはなくなった。 だから、こうやって助手席からその横顔を見るのは、懐かしさを覚えるくらい久しぶりのこと。 社会人としては、折角の休日、身体を休めるのが常道だろう。 「毎日山ばっかり見てるから、たまには海を見に行こうか」 目尻の辺りに疲れを滲ませながら、それでも彼は誘い文句を口にした。 車の窓には、柔らかな陽の光を受けた海が顔を覗かせる。 その眩しい風景が、疲れを溶かしてくれるようだった。 どんどん大きくなる水面に奪われていた心に、穏やかな声が割り込む。 「ごめんね、なかなか連れ出せなくて」 「え……」 申し訳無さそうな口調に、咄嗟に答えが出ない。 何かを望むことすら残酷だと思える程、忙しい毎日を過ごす内に 俺の中にあった淡い期待も、波に洗われるように小さくなっていた。 「あれだけ忙しかったんですから……」 「でもね、時間が出来たら何処に行こうかとか、寝る前にちょっと考えたりはしてたんだよ」 海へまっすぐ降りていく道は、やがて海岸線に沿うように緩やかに左へカーブする。 「ささやかなストレス解消だったかな」 人影の無い春の海は、心を溶かす様に温かく凪いでいた。 ドライブプランは、彼に一任している。 海から少し離れた高台にあるレトロな食堂で、彼のお気に入りだというラーメンを食べ 小さな岬を巡る遊歩道をのんびり歩く。 太陽の傾きを追いかけるように優しい時間がゆっくりと過ぎる中で、つかの間の幸せを噛み締めていた。 俺が暮らす街からは、まだ大分離れている。 それなのに、山間のパーキングエリアに佇む二人の頭上には、無数の星が浮かんでいた。 「明日、何か予定ある?」 缶コーヒーを手にシートにもたれる彼は、軽く目を細めてそう尋ねてくる。 「いえ……特には」 「ごめん、ちょっと、仮眠していっても良いかな?」 「それは、構いませんけど……」 「自分じゃ平気なつもりでも、やっぱキツイ感じ」 「無理、しないでください」 代わりに運転します、と名乗り出るには長すぎるペーパードライバー歴。 せめてここで働いている内に、運転手を買って出られるようにしよう。 不甲斐なさを感じつつ、そんなことを考えた。 栃木の現場にいた頃から変わらないステーションワゴンは、そろそろ10年選手なのだそうだ。 シートを倒し、横になると、少し空間が窮屈な気がする。 携帯のアラームをセットした河合さんは、鼻から息を吐きながら瞬く間に微睡んでいく。 目を閉じると、その気配はより一層近くに感じられる。 押し殺していた感情が、熱と共に浮き上がってくるのが怖かった。 シートの軋む音に目を開けると、視界に彼の寝顔が飛び込んでくる。 瞬間息を飲んでも、鼓動は落ち着かない。 耐えられない。 誰が見ている訳でも無いのに、あくまで冷静を装いながら、俺は車を降りた。 -- 2 -- 時折抜けていく車の走行音が、闇の中へ消える。 夜も更けてきて、吐き出す空気は白く霧散した。 煙草のお供にと買ったコーヒーは、そろそろ暖を取るには心もとなくなっている。 「君に、恋してるかも知れない」 彼は確かに、そう言った。 けれど、それが、俺が抱く本能的な恋とは違うことも明らかだ。 適度な距離感をもって、何処までも平行線を辿る関係。 これで満足しなければならないことは分かっているのに 同じ時間を重ねるほど、満たされない想いばかりが大きくなってしまう。 一度目の初恋は、中学生の時だった。 産休を取った女の担任の代理でやって来た、若い男の教師。 穏やかにはにかむ表情が印象的な男は、今の俺よりも幾分年下だったはずだ。 それまでにも、一方通行の想いを寄せた相手はいたけれど 相手の想いを本気で求めたのは、初めてだった。 もちろん、自分の抱く感情の質が、クラスメイト達と異なることは分かっていた。 だから、届くはずの無い気持ちを独りよがりな妄想に変えて、自分自身を納得させる。 あまりにも、青い時間だった。 半年ほどの彼の任期が、残り少なくなる頃。 帰りのホームルームを終えて教卓から離れようとする彼を、数人の女子生徒が囲んだ。 「せんせー、写メ撮ろー?」 携帯電話を向けられた先生の隣に、一人の女子が立つ。 「どうした、急に」 「思い出、思い出。ほら、もっとくっつかないと画面に入んないって」 ファイルを抱える彼の右腕に、女の腕が絡みつく。 好意の矢印を向けることにも、向けられることにも、不自然さの無い関係。 素直に羨ましかった。 「こら、そんなに……」 「だって、入んないって言うから」 「少し、離れなさい」 「最後だから、いーじゃん。ねぇ」 納得の一枚が撮れたのか、腕を組んだまま少女が問いかける。 「先生、彼女とか、いるの?」 一瞬困った顔をした彼は、間を置いてその問いに答えを出す。 「実は、今度ね、結婚するんだ」 それが、本当のことかどうかは分からなかった。 「え~……マジで?」 「そう。彼女に怒られちゃうから、こういうことは最後だよ?」 本当のことだと、思いたくなかったのかも知れない。 「すっごいショックなんだけど」 彼の特別な存在になれなかったことへの絶望感は、思いの外大きかった。 期待をしても無駄だと分かっていたはずなのに、諦められなかった。 俺を裏切った男、男を攫っていった女。 幼い失恋の傷は、誰かを悪者にして自分を正当化しないと、癒すことが出来ない。 現実を受け入れられたのは、男が去ってから、随分経ってからだった。 不意に吹いた風が、煙草の先端の灰を飛ばす。 転がりながら砕けていく塊を目で追った。 「ここにいたんだ」 背後から掛けられた声に、強張った顔のまま振り向いた。 「……あ」 「気がついたら姿が無いから、焦ったよ」 「すみません、ちょっと……」 目を細めて安堵の表情を見せる男が、思い出の中の笑顔に重なる。 「もう、大丈夫ですか?」 「うん、大分すっきりした」 そう言って、彼は白い息を吐き出しながら大きく伸びをする。 「朝になる前に、帰れると思うよ」 「無理しない程度で、お願いします」 大丈夫と笑って答える顔を見て、急に切なさが込み上げた。 あの時と同じように、いつか、この笑顔も、諦めなければいけない時が来る。 数週間後、東京本社へ出張に行っている河合さんから電話があったのは、金曜日の夕方のこと。 当初金曜日の夜に戻ってくるはずの予定が、月曜日の朝になるとの話だった。 仕事ですかと問うた俺に、彼は何故か答を濁す。 深く聞かない方が良いのだろうと、お土産待ってますとだけ伝えて、電話を切った。 土曜日、遠方の彼からの音沙汰は無かった。 気にならないはずは無いが、気に病んでも仕方ない。 溜まっていた洗濯物をホテルのコインランドリーで片づけても、時間はまだ昼前。 俄かに春めいてきた陽気に誘われる様、外へ出た。 免許を取ったのは、大学一年の夏休み。 親に借金をして買った中古の軽を、飽きるほど乗り回した。 だからだろうか、久方ぶりのハンドルの感触に一瞬戸惑ったものの エンジンをかけ、振動が腕に伝わってくると、不思議と感覚を取り戻す。 何処に行くか、その当てもないまま、一先ずレンタカーを北へ走らせた。 -- 3 -- 「この週末、何してたの?」 そんな質問を期待しているのかも知れない。 驚くほどでは無いけれど、彼の興味を引く様なことをしたいと思って借りた車。 どのくらい走ったのか、車窓は随分と賑やかさを増してきた。 西に傾き始めた日差しが、昼食のタイミングを逸してしまったことを教えてくれる。 ちょうど良く見えてきたファミレスの看板が、訳も無く嬉しかった。 東京の事務所の近くに、同じ系列店がある。 あまり飲食店に恵まれない立地だったこともあり、週の半分以上はその店で昼を過ごしていた。 窓から見える風景も、周りの客の言葉も違う状況にもたらされる居心地のぎこちなさを いつもならつまらないはずの画一的なメニューが和らげてくれるようだった。 食べ慣れた味に軽く満腹感を得ながら、煙草に火を点けた。 周りを見ると、程々の客の入り。 家族連れやカップル、業務中のタクシーの運転手と思しき男まで、各々の時間を過ごしている。 普段、一人で食事をとることは殆ど無い。 朝は同じ現場事務所で働く顔見知りが、必ず2、3人ホテルの食堂の席に付いている。 昼と夜は事務所の食堂で済ませる。 週末は、河合さんがあちらこちらへ連れ回してくれていた。 群れるのが好きな訳でも無いし、一人が嫌いな訳でも無いとはいえ 人間関係的に、珍しいくらい恵まれていることを改めて実感する。 ファミレスを出る頃、辺りの陽光は赤みを帯び始めていた。 レンタカーは24時間の契約だから、時間は気にしなくていい。 駐車場で確認したナビには、然程遠くない位置に博多の文字が見え隠れする。 彼からの連絡は、この時間になっても無かった。 憤りを感じることが自分勝手な行為であることは分かっている。 それでも、あと一目盛、心が満たされないことが辛い。 抑えきれない感情を抱えたまま、俺は、更に進路を北に取った。 どんな街にも、歓楽街の隅に息を潜めるコミュニティがある。 中心地から少し離れたコインパーキングに車を停め、携帯で検索した一帯へ向かう。 ごく普通の飲み屋街風情の道の人通りは決して少なくない。 東京でも足を踏み入れないような店の看板が、頭上に見えてくる。 得も言われぬ後ろめたさを、一つの溜め息に溶かした。 薄暗い店内には、カウンターとスタンディングテーブルと、幾つかのボックス席。 まだ夜の浅い時間だからか、店の中の客は僅かだった。 「いらっしゃいませ」 気怠い視線を湛えた男が、カウンターの向こうから声を掛けてくる。 俄かに色めき立ち、艶めかしい表情をする若い男たちとは対照的だった。 「お好きな席へ、どうぞ」 まるで商売っ気の無いトーンで、俺とそれほど年齢は変わらないであろう男が言う。 軽く違和感を覚える雰囲気に飲まれながら、カウンターの一番手前に腰を掛けた。 「初めての方ですよね」 若干気怠さを残したまま、店のマネージャーだという彼がドリンクのメニューを差し出してくる。 「……仕事で、ちょっと」 「そうなんですか。どちらからいらっしゃったんですか」 「東京、から」 「それは遠いところを。今夜は是非、楽しんでいって下さい」 申し訳程度の笑みを浮かべ、彼は俺のオーダーをバーテンに伝えに行った。 数分して戻って来た男は、ドリンクと共にタブレットをカウンターに載せる。 「こちらが、今日出勤しているボーイになります」 長く細い指が画面を撫でると、眩しい位の笑顔が次々と流れていく。 「お気に召したところでタップして頂ければ、すぐに参りますので」 いわゆる売り専バーに来たのは、初めてだった。 「こんな風になってるんだね」 くだらない好奇心で緊張を和らげようとしていたのを、目の前の男は感づいていたのかも知れない。 俺が煙草を取り出すタイミングで、彼はライターを差し出してくる。 「こういうところ、あまりいらしたことは無いみたいですね」 快楽を求めに来た訳じゃない。 ただ、報われない虚しさを、紛らわせたいだけだった。 俺の想いに共感してくれるのは、恐らく同じ経験をしたことがあるであろう彼らだけだと おぼろげな感情に対して恋という言葉を選んだ彼には、分かって貰えないだろうと そう、思っていた。 タブレットの画面から目を上げると、表情を軟化させた男と視線が交わる。 「お気に召しませんでしたか?」 「いや……」 手元にある空いたグラスを下げようとする手を、思わず制止した。 「君でも、いいの?」 俺の問い掛けに、彼は一瞬表情を素に戻す。 その無防備な雰囲気に、僅かな期待を寄せた。 「……話を聞いてくれるだけで、良いんだ」 一夜限りの契約。 彼の名前は聞かなかったし、自分からも名乗らなかった。 この地に常駐していること。 今まで同じ境遇の男と話す機会が無かったこと。 そして、想いを寄せる相手がいること。 こぼれ落ちていく言葉を、彼は穏やかに受け止めてくれた。 -- 4 -- 数件のバーをはしごして彼の店に戻ってきたのは、人通りもすっかり少なくなった時間だった。 奥のボックス席では、重なり合う男たちの影が間接照明に浮かされている。 この店の本来の姿を感じて、僅かに本能が刺激される様だった。 「私から見れば、十分幸せな恋愛をしているように思いますよ」 スタンディングテーブルにもたれかかる彼は ショットグラスに入ったテキーラを飲み干し、深く息を吐きながら呟く。 「全てをさらけ出さないと、気が済みませんか?」 もう一歩踏み込みたい、その為には、カミングアウトも必要なのかも知れない。 俺の憂いを、彼はそう認識したのだろう。 「ストレートの男を好きになると、だからこそ、身体の関係が欲しくなるんですよね」 過去の出来事を思い出したのか、目の前の表情が寂しげな笑みに変わった。 「心を繋ぐには、互いの壁が高すぎて……せめて、って思ってしまう」 独善的になりがちな、同性愛者の恋愛。 交わるはずの無い線は、いつも拗れたままで終わっていく。 苦い経験を繰り返してきたからこそ、辿り着かざるを得なかった結論だった。 「まぁ、上手くいった試しは、殆どありませんけど」 そもそも河合さんとの間にあるのは仕事の関係。 今手がけている物件、ひいては会社同士の契約にまで影響する可能性がある。 感情に流されてしまうのはリスクが大きすぎる、それは十分理解していた。 望みは限りなく薄いと分かっているのに、どうして、俺は恋に落ちたのか。 「こんなことなら、初めから……」 恋心を否定する言葉を口にしようと俯いた時、視界の隅に男の姿が入り込んだ。 気配に顔を上げる暇が無いまま、彼の腕が首に絡み、抱き締められる。 静かな吐息がうなじを滑り、腰に回される手が身体を密着させていく。 「それは、違います」 背中を撫でる掌の熱の軌跡が、薄手のコートの上から滲みてくる。 「誰かを本気で好きになれることだけでも、奇跡みたいなものなんです」 「でも、あと、少し……」 「好きになればなるほど期待も大きくなるから、満たされない部分も増えてしまうんじゃないですか?」 震える唇の感触がこめかみに熱を残し、離れていった。 「どんなに愛し合ったって、完全には満たされない。少しハードルを下げるのも、悪くないと思いますよ」 枕元から響いてくる細かな振動で、浅い眠りが妨げられる。 時間の感覚がまるでないまま電話を手にした瞬間、着信は切れた。 ディスプレイを見て、目が冴える。 朝の8時前。 相手は、河合さんだった。 近場のカプセルホテルを教えて貰い、店を出たのは3時過ぎだったと思う。 狭いブースに身を押し込め、螺旋状に残された他人の感触を抱えるように床に就いた。 それほど酒を飲まなかったとはいえ、頭の中に斑な霞がかかった状態。 喫煙所を兼ねた小さなラウンジで節々を伸ばし、改めて電話をかけなおす。 「ごめん、まだ寝てた?」 明るい声に、嬉しい反面、疾しさで声のトーンが落ちる。 「あ、はい……すみません」 「オレ、あとちょっとしたら飛行機乗るから。昼前にはそっちに着くと思うんだ」 「月曜日の予定じゃ……」 「うん、ちょっと」 当然の疑問に、彼は即答しなかった。 間を置いて聞こえた、誤魔化すような笑い声の意図は何だったのか。 「予定が、変わって……そうだ、帰ったら軽く何処か行かない?迎えに行くよ」 空白の土曜日、二言三言では説明できない何かがあったのだろう。 それは、俺も同じだった。 「あの、僕も今、博多に……」 つい口を衝いた言葉に対する疑問への回答が、咄嗟には思いつかない。 だから、彼の言葉を遮る様に話を続けた。 「レンタカーで来てるんで、僕が、空港まで行きます。着くの11時くらいですよね?」 互いの頭の中にあるしこりを解消するには、この猶予では足りない。 一方的な俺の提案の意図を、彼はちゃんと汲み取ってくれたらしい。 「そうだね。じゃあ、着いたら、電話するよ」 空港内のアナウンスが彼の声に重なって聞こえると同時に、通話は終わった。 「どうしたの?気分転換?」 福岡空港で助手席に乗ってきた河合さんは、いつもと変わらない表情で問いかけてきた。 「いつも乗せて貰ってばかりなんで、そろそろ練習しておかないとと思って」 「じゃ、お手並み拝見しようかな」 「そう言われると、緊張しますね……数年ぶりですし」 「でも、案外乗れるもんでしょ?」 「ええ、思っていたよりも」 何でもない会話を、出来るだけぎこちなくしない様に努めて話す。 「助手席なんて、久しぶりだな」 朗らかな笑顔のままでいて欲しくて、俺はわだかまりを口にする機会を、手離した。 昨日来た道を逆に辿り、やがて俺が住む街を通り過ぎる。 目指すのは、先輩が生まれ育った佐賀県北部の市。 車を借りたレンタカー会社の店舗が、偶然河合さんの自宅の近くにあることから そこで車を乗り捨て、改めて彼の車で短めのドライブに出ることにした。 -- 5 -- 運転席に座った彼は、ネクタイを緩め、やっと一息といった表情を見せる。 「着替えなくて、良いんですか?」 「ん?ああ、いいや」 出張帰りということもあり、スーツ姿のまま。 大きめの荷物も、家に置くことなく車に積み替えただけ。 疲れているであろうことは明らかなのに、定位置に戻った安心感からか、嬉しげな雰囲気を醸し出す。 「とりあえず、どっかで飯食おう。流石に腹減ったよ」 久しぶりに都会の雰囲気を味わいたかった。 朝から博多にいた理由を、そう話した。 「月一で東京に戻ってるのに。まぁ、毎日山の中だから、気持ちは分からないでもないけど」 「あまり博多の街を歩くことも無かったんで、折角だからと思って」 山道を行く車の窓には、萌え始めた木々が流れていく。 緩やかなカーブを過ぎると、林を掻き分けるように大きな湖が見えてきた。 「……金曜日の夜、沖野さんと飲む機会があってさ」 ダム湖の畔に設けられた小さな公園で、水面が揺らめきながら赤く染まっていくのを眺める。 「お元気でしたか?」 「次長に昇進したんだって」 「すごいですね」 「それに、英会話、習ってるらしいよ」 「英会話?」 「あんまり日本語喋れないんだって、例の、息子さんの彼氏」 栃木の現場で河合さんの上司だった沖野さんには、俺も随分良くして貰っていた。 彼の名前を聞く度に、息子に対する父の葛藤を想像して切なくなったりもしていたけれど その話と、夕陽に照らされた男の横顔に、安堵と羨望が込み上げた。 強い風が葉擦れを起こし、さざ波となって湖を駆けていく。 「ごめんね」 謝罪の言葉と共に、河合さんが俺の方に視線を投げる。 「……何が?」 「この、週末のこと」 急激に愁いを帯びていく表情に、動揺を誤魔化さんと笑って答えた。 「いえ、別に、謝ることじゃ……」 「少し前から話はされてたんだけど……言い出せなくて」 元上司と会っていた、というのは確かに事実だった。 けれど、そこには、もう一人の人物がいた。 「義理もあるし、会うだけでも良いからって、断りきれなかったんだ」 息子への無念を、入社以来目を掛けて来た部下で晴らそうとしていたのかも知れない。 「お見合い、ですか」 「そこまで形式ばったもんじゃないかな。とりあえず、会って、話して、みたいな」 結婚適齢期真っ只中。 「で、昨日一日、デートみたいなね、感じで過ごして」 俺が持ち合わせていない人生の青写真を、当然彼だって、描いているはずだ。 「どう、なんですか……その人」 声が強張る。 出来れば聞きたくない。 でも、聞かなければあまりにも不自然すぎる。 「3つ下でね、落ち着いた人。メーカーで総務やってるって言ってたかな」 相手の印象は悪くないといった口調が居た堪れない。 「ああいうの久しぶりだから、新鮮だったよ」 「……言ってくれれば、良かったのに」 目を足元に落とすと、二つの長い影が芝生に伸びていた。 影でしか重なることができない、それでも俺は幸せだと、噛み締めるように言い聞かせる。 「いや、さ。君のこと連れまわして、そういう機会奪ってたのに、オレだけっていうのが後ろめたかった」 優しさが痛い。 「僕は……週末誘って貰えることが、嬉しかったんで。むしろ、謝られると……」 幸せを窺う向きが違っても、今は、彼と同じ方向に合わせなければいけない、と思った。 「良いことじゃないですか。出会いすら見つからないって愚痴ってる奴、周りにいっぱいいます」 「まぁ、そうなんだけど」 「綺麗な人、なんですか」 「凄く美人って訳でも無いけど、雰囲気は優しくて、よく笑ってくれた」 「なら……こんなチャンス逃しちゃダメですよ」 精一杯の作り笑いに、彼は何も言わず、切なげな表情を浮かべる。 俺とのたわいない時間が終わることを、寂しく思ってくれているのだろう。 自分勝手な解釈だけが、唯一の救いだった。 「早乙女君が泊まってるホテル、今日、空きあるかな?」 軽い夕飯を食べた後、河合さんは俺をホテルへ送る途中でそう聞いてきた。 「え?」 「工場近いしさ、このまま泊まっていっちゃおうかと思って」 「じゃあ……ちょっと、聞いてみます」 定宿であるビジネスホテルは、平日なら満室であることが殆どだ。 ただ、土日は自宅へ戻る人も多いようで、観光地でも無い為、宿泊客は少なくなる。 「あんだけデカい風呂に毎日入れるのは、良いよね」 風呂あがりの彼は、笑いながら帰りがけに買ってきたビールを開ける。 「この辺のホテルの中だと、大浴場があるのはここだけだったと思いますよ」 部屋で少し飲まないか、電話でそう誘われたのは夜も落ち着いたくらい。 二人で出かけても、飲酒する機会は殆ど無いこともあり ほろ酔いの彼の姿を目にするのは、新鮮な感じだった。 「そういえば、当初は明日、帰ってくる予定だったんですよね?」 少し、気分と口が緩んでいたような気がする。 何気なく聞いたその一言で、彼の顔に僅かな影が落ちた。 今日、こんな顔を見たのは何回目だろう。 「実はね」 ベッドに腰掛けた男が、ふと目を伏せる。 「君に……もう一つ、謝らなきゃならないことがある」 -- 6 -- 「結婚して、子供作ってって、考えないことは無いんだ。確かに」 右膝を抱えて身を縮こませながら、彼は呟く。 「彼女と話している時も、何となく行き先を想像したりしてたけど」 進学・就職・結婚、本来ならば順当に巡ってくるはずの人生の転機に対して 彼は、何か引っかかりを感じている様子が見られた。 「……断った」 「は?」 「っていうか、逃げたんだな。そして、その逃げ口上に、君を使った」 もし結婚を前提とするのなら、生活基盤を整える時間が必要だ。 でも今は新しい仕事に集中したい。 だから、しばらく結婚は考えられない。 上司や彼女には、そう伝えたのだそうだ。 「ま、実際のところ、今の環境を手放したくないだけなんだよね」 卑屈な笑みを浮かべ、河合さんは俺を見る。 「君がいるから」 彼の言葉を素直に喜ぶことは出来なかった。 「……僕、が?」 俺のせいで、彼の人生までが歪んでいく。 こんなこと、望んでいないのに。 「自分勝手だってことは分かってる。でも、いろんなこと天秤にかけてたら、君との時間が残った」 「それは別に……彼女がいたって」 「オレ、甲斐性無いんだ。同時に特別な存在を二人も抱えられない」 彼の真剣な眼の中に、狼狽える俺の姿が映る。 求め続けてきた想いが、目の前で揺らいでいた。 トイレに立った河合さんは、そのままベッドには戻らず、椅子に腰かけた俺の脇に立つ。 「前にオレ、早乙女君に恋してるかもって、言ったよね」 見上げた先には、僅かに紅潮した、不安げな顔があった。 「……はい」 「これって、片思い?」 「えっ……」 「先走ったこと言っちゃったけど……どうなんだろうって」 ギリギリのところで釣り合いが取れている秤に重りを置くように、彼は静かに俺の肩に手を添える。 逸る鼓動を抑えるように、息を飲んだ。 「いいえ」 互いが抱く想いの均衡が取れるかどうかを量りながら、言葉を口にした。 「僕もずっと……恋、してました」 しゃがみ込んだ彼の顔が、急に近づいてくる。 思わず視線を逸らした。 「ホッとした」 肩に置かれていた手が、俺の頭を抱える様、身体の前に滑り込む。 「ここでフラれたら、どうしようかと思ったよ」 後頭部辺りに彼の顔の熱と息遣いが沁みる。 縺れていた心の線がほぐれ、平行線はやがて、一本に重なり合った。 工場を取り囲む桜並木に、チラホラと小さな花が付き始めている。 今週は暖かい日が続くとのことで、早くも週末には見頃を迎えるらしい。 それもあってか、昼休み、食堂の片隅では女性陣が花見の計画を立てていた。 「昔、家族で行った桜の名所があるんだけど、今度行ってみない?」 彼女たちを横目に見ながら、向かいに座る河合さんがそう提案してくれる。 「どの辺りなんですか?」 「佐賀の南の方。山の中だから、見頃はあと一ヶ月くらい先かな」 「来月って……図面の中間審査があるんじゃなかったでしたっけ」 「あ~……そんなのもあったな」 水を差された悔しさを流し込むように、彼は手元のコップの水を一気に飲み干した。 「ま、何とかなるよ。最悪、夜行って、朝帰ってくれば良いし」 「それ、花見って言わないんじゃ……」 「じゃ、近くに温泉があるから、宿とっちゃうよ。後に引けなくしておいた方が、やる気出るでしょ?」 「はぁ……頑張ります」 今のところ、彼に本当のことを告げる機会は訪れていない。 傍からは過剰な友情として見られている関係は、二人の中では "恋" という言葉で集約されていて 互いの認識に相違は無いと、満足できるようになってきたからだ。 桜色の山の斜面が夕陽に照らされ、光が落とす影が木々の輪郭を際立たせる。 一本一本が浮かび上がるように見えるその風景が、車窓を駆けていく。 「ここの温泉ねぇ、露天風呂が混浴なんだよ」 「……だから、この宿に?」 「別に、そういう訳じゃ無いけど。いろいろ楽しみがあった方が良いじゃない」 「まぁ、そうですかね」 修羅場だった一週間を乗り越え、やっとの思いで空けた週末。 助手席では、河合さんがスマートフォンで今日泊まる宿の情報を眺めていた。 「飯も美味いらしいよ」 「僕は、それが楽しみです……って、当初の目的を忘れてる気もしますが」 「オレの一番の目的は、もっと違うものだけどね」 「まだ、何かあるんですか?」 「こうやって、君と、一緒に時間を過ごすこと」 恋心は、天秤の様にいつだってゆらゆらと揺れている。 彼と共有した全てのことを、それぞれが見えない皿に載せていく。 楽しいことを載せればあっちに傾き、辛いことを載せればこっちに傾き。 平衡を取ることは決して無いけれど その揺らぎを眺めるほどに愛おしさが増すような、そんな気がしていた。 Copyright 2013 まべちがわ All Rights Reserved.