いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 即妙 --- -- 1 -- 朝6時、いつものように河川敷に立って大きく深呼吸をする。 顔を上げると、東側の空が静かに赤く染まっていくのが見えた。 ついこの間まで真っ暗だった道は日を追うごとに色を取り戻している。 一日として同じ表情が無い天空の姿に、確実な時間の進みを実感していた。 毎朝のランニングを日課にし始めたのは、半年ほど前からだ。 きっかけは同期に誘われたことと、もう一つ。 「来月、元の支社に戻ることになってね」 居酒屋のテーブルの向かいに座る男がそう言ったのは、夏が始まったばかりの頃。 「……そっか」 既婚者である彼と知り合ったのは、1年ほど前、あるSNSでのやりとりからだった。 深入りせず、背徳感を楽しめる人、男女は問わない。 そんな文言を見て、何となくコンタクトを取り、何となく付き合いが始まった。 互いの時間の隙間を埋めるだけの関係は、やがて俺の中で少しずつ重みを増してきて 来たるべき時を目の前に、何の言葉も出ないところまで来てしまっている。 「長かったね。1年くらいになるかな」 「そう、だね」 伏せた目の視界の中に、煙草に火をつける彼の手が見える。 「じゃあ、寂しくなって、当然か」 「寂しい?」 「豊和は寂しくない?」 同じ時間を過ごしていても、恋愛感情を示唆する言葉は一度も聞けなかった。 不倫と言う背徳行為を、セックスにもたらされる肉体的な満足感で弄んでいるだけ。 だから、彼はこの期に及んでも後腐れは無いのだろうと思っていた。 もう、この片思いは終わりなのだと、覚悟を決めようとしていた。 「向こうに戻っても、会いに来てくれる?」 彼の指が、俺の前髪を軽く揺らす。 少しだけ上げた視線に、鈍く光る指輪が目に入った。 俺から何も言えなかったのは、結局、自分が背徳感を楽しむことが出来なかったから。 家族の元へ帰れば、彼は夫として、父としての顔になる。 そんなのは、きっと耐えられない。 「でも、ご家族に……」 「友達として会う分には、問題ないだろ?あくまでも、だけど」 男同士の密会に、言い訳は事欠かない。 情事の現場さえ押さえられなければ、簡単に逃げられる。 「仕事のついでとかでも良いから……考えてみてくれないかな」 この男は、俺にどんな感情を抱いているのだろう。 都合よく遊ばれているだけなのかも知れないと思っても 目を細めて穏やかに笑う表情に未練がくすぐられ、その時は、彼の提案を拒否できなかった。 「芹澤、お前、今日どれくらい?」 「ん?……3.5kmくらい」 「まだまだだな」 入社以来の腐れ縁である同期の秋葉は、社食の定食を前に勝ち誇ったような顔をする。 「お前はどれくらいなんだよ」 「オレはねぇ……6.3km」 「よくそんなに走れるな」 「ま、経験の差だろ」 高校まで陸上をやっていたという彼が朝のランニングを勧めてくれたのは 奇しくも情人が東京を離れてすぐのことだった。 気分が落ち込んでいることを悟られたのかとも思っていたが 特に勘ぐる様子もなかったから、単なる偶然なのだろう。 俺と彼が住んでいる街は、東西を二本の大きな川に挟まれた地域。 といっても各々の家がエリアの端に位置している為、朝走るルートはそれぞれから近い河川敷だ。 スマホに入れたアプリで走った距離を確認し合うのが、昼食時の習慣になっている。 学生時代以来めっきり運動とは縁遠くなっていたこともあり 初めの内はすぐに息が上がってしまっていたけれど、最近やっと身体が慣れてきた気がする。 朝日を背中に受けながら川面に目を向けると、川から突き出た杭に二羽の鳥が止まっていた。 大き目の身体をした黒い鳥は、カワウらしい。 川風に打たれながら首を伸ばし、頭を小さく振る。 仲睦まじい様子に和んでいると、不意に一方が羽を広げ飛び立った。 残された一羽はそれを見送るように顔を上向けた後、また首を窄める。 熱帯夜の別離から、まだ一度も彼には会っていない。 電話やメールは何回かしていたけれど、時間と距離が確実に恋心を穿っているのは分かっていた。 理性を取り戻しつつあるのか、彼の家族への罪悪感も日に日に募ってくる。 ズルズル続けていたら、いつ来るやも知れないチャンスを逃してしまう可能性もある。 もちろん、未練が無い訳じゃない。 眼差しも、声も、体温も、俺の身体に深く刻まれている。 それでも、俺は、彼から飛び立つことを決めた。 今週の金曜日、新たな案件の打合せが行われるのは、男が住む、あの街。 「俺、この日の夜、同級生と会う約束してるんだよ」 「お前、住んでたことあんの?」 「いや……大学の時の友達がさ、あっちの方に就職したんだ」 「そっか。じゃ、晩飯は各自ってことだな」 「ああ、悪いな」 同行する秋葉には申し訳ないと思いつつ、小さな嘘をつく。 仕事で行く用事が出来たから、会って話をしたい。 そんな内容でかの地に送ったメールの返事は、会いたかった、楽しみにしている、というものだった。 -- 2 -- 打合せを終えた夕方過ぎ。 駅前で秋葉と別れ、少し離れた飲み屋街で男と待ち合わせた。 「久しぶりだね……元気だった?」 「うん。何も、変わりなく。そっちは?」 少し、輪郭が丸くなったような気がする。 いつも上げていた前髪を下しているからか、久しぶりに見る顔は随分印象が変わって感じられた。 「家族がいるせいかね、生活が規則正しくなっちゃって」 「良いことじゃない」 「そうだけど……あの頃が懐かしいよ」 もし、彼があのまま東京へ留まったなら、何か俺たちの関係は変わっただろうか。 右手に家族の手を取り、左手で俺の手を引く彼と、両手でその手を掴む俺。 きっと、何も変わらなかったはずだ。 幸せはいつまでも続かない。 分かっていたからこそ、不安を紛らわせる為に、彼との情事にのめり込んだ。 この関係は、もう終わりにしよう。 俺が告げた時、彼は思いの外、切なげに顔を歪めた。 「やっぱり、奥さんとか、子供さんとかのこと思うと……ちょっと、きついから」 頭の中にごった返している様々な理由を詳らかにするには時間がかかる。 だから、一番ストレートな言い訳を口にした。 夫であり父である男は、しばらく口をつぐみ、箱から取り出した煙草をテーブルの上で小刻みに揺らす。 ふと顔を上げた視線を受け止め、数秒、絡ませた。 「じゃあ、オレがそっちに行けば、良い?」 「……え」 「君といる時は、家族のことは忘れる。だから、豊和も、オレに家族がいることを忘れて欲しい」 「そんな、無責任なこと……言わないでよ」 「家族への責任は、オレが取ればいいことだ。君が気にすることじゃない」 余りにも真剣な眼差しに、言葉が続かない。 彼は俺の顔を視界から外さないままで、煙草に火を点ける。 「初めは、本当に遊びのつもりだった。でもね、別れが近づくにつれ、どんどん惹かれて」 噴き出した煙が、ふっと空間に消えていく。 「もっと、君と一緒にいたいって、思うようになった」 悔しい位、ずるい人だ。 俺だって、本当は、両手で手を握って欲しい。 彼に対する負の感情を正当化するよう、絶対口にすまいと決めていた言葉を吐いた。 「でも……離婚する気は、無いんでしょ?」 「……無い」 「ずるいよ、そんなの」 「それは、すまないと思ってる。でも……」 灰皿の上で煙草がひしゃげ、崩れていく。 大きな溜め息を吐き、彼は目を伏せた。 「結婚したら、もう、他の誰かを好きになっちゃダメなのか?」 良い時も悪い時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も 死がふたりを別つまで、愛し続けることを誓いますか 数年前、姉の結婚式で聞いた誓いの言葉。 永遠に結婚することは無い俺にとって、雲の上の句に思えた。 でも、それは、手が届かないが故の過度な憧れだったのかも知れない。 「そうじゃない、そうじゃないけど……」 生涯、ただ一人を愛し続けることの難しさに苦悩する彼の姿が、居た堪れなかった。 重い沈黙は、二人の間で一つの結論に達したという証しだったのだろう。 「分かった。でも、一つ、約束して欲しいことが、ある」 静寂を破るように、彼は口を開いた。 「……何」 「オレのことを、嫌いになっても良い。でも、オレのことを、忘れないでくれ」 店を出たのは、まだ夜9時を過ぎた辺りだった。 両手で握りあった手の感触を惜しむように、彼とは逆方向へ足を運ぶ。 これで良いんだ、そう思っても、気持ちは無意識に沈む。 浮かび上がらせる程、酒も飲んでいない。 何処かで適当に飲んで帰ろうか、そう顔を上げた時、一人の男の姿が目に入った。 「どうした……こんな所で」 僅かに赤くなった同期の顔を見て、嘘を吐いた後ろめたさが今更ながらに生まれてくる。 「ん~、飯食ったついでに酒でもと思って。この辺、飲み屋多いっていうから」 その口調から、既に幾らか飲んだであろうことは明白だった。 「そう……」 「お前は?もう友達とは終わりか?」 何か勘ぐられているような目が、誤魔化しの言葉を脆くする。 「ああ……明日も仕事らしくて」 「へぇ……大変だな。じゃ、飲みに行くか」 「もう飲んだんだろ?」 「どーせ、明日帰るだけなんだから、良いじゃん。あと一軒くらいさ」 金曜日の夜ということもあり、どの店も人で溢れている。 目に付いた店に入ったは良いが、やたらと狭い席に通された。 「俺、ビールで良いわ」 「そ。オレは、どーすっかな」 小さく唸りながらメニューを眺めていた同期は、店員を呼び、オーダーを告げる。 「何か、食いもんは?」 「ん?任せる」 「食ってねぇの?」 「あ、いや……まぁ、あんまり」 自然な会話のはずなのに、徐々に一人でドツボに嵌っていく。 -- 3 -- 小さなテーブルの上は、二人分の酒と幾らかのつまみがひしめいている。 「芹澤さ、今日会ってたのって……ホントに同級生?」 申し訳程度にグラスを合わせてすぐ、秋葉はそう言って俺を見た。 「……何で?」 「実は店探してフラフラしてる時、丁度お前ともう一人、いるの見たんだよね」 いつでも本音で話が出来る、貴重な存在。 けれど、今日に至るまでの、俺のもう一つの人生を話すことには躊躇いが大きすぎる。 「何か真剣そうだったし、店もいっぱいだったから、声掛けなかったんだけど」 「そ、か……」 もちろん、俺が嘘をついてまで会っていた人物について、彼が興味を持つのも当たり前だ。 「随分年上だろ?どういう人な訳?あの人」 真実の皮を一枚一枚剥いで、やがて芯が見えた時、友はどんな顔をするのだろう。 「前に、付き合ってた人がいて……その人がこっちに引っ越してさ」 「マジで?そんなこと、一言も言ってなかったじゃん」 「ちょっと……言いにくくて」 「何でだよ。もっと早く知ってれば、友達とか紹介して貰えたのに」 表情を緩めた彼は、何処と無くホッとした様子で軽口を叩く。 それが却って、口を重くさせた。 「いや……相手、結婚してて、さ」 「は?え、何それ……不倫かよ」 「……そう」 目の前の顔が俄かに強張っていく様子が怖くて、視線を下に落とす。 「あ~……」 低いトーンの声が、言葉を選んでいることを教えてくれた。 「悪ぃ、オレ、不倫はちょっと引く」 「だろう、な」 「じゃあ、何?あれ、相手の旦那か?出張のついでに、詫び入れに来たって?」 「それは……」 「誰かが嫌な思いする恋愛が、幸せだとは到底思えねぇけどな」 同期は大きな溜め息を吐き、手元の酒を一気に煽って本音を吐き捨てる。 「……何か、見損なったよ」 騒がしい店の中、二人の間だけに耐えきれない沈黙が満ちていた。 「これ以上飲んでも悪酔いしそうだから……先に戻るわ」 何枚かの千円札をテーブルに置き、彼は立ち上がる。 「秋葉」 見下すような視線が痛かった。 にもかかわらず、最後の薄皮だけを残しておくことが最善のことのようには、思えなかった。 「……あの人が、相手だ」 言葉も無いまま眉をひそめ、男は俺に背を向ける。 「意味わかんねぇ」 歯車の狂った時間が流れる中、その姿を、見えなくなるまで追いかけた。 あの後、どうやって宿まで戻ったか、全く覚えていない。 内線電話のコール音に起こされた時、俺はワイシャツとスラックスのままでベッドに伏していた。 辛うじて脱ぎ捨てたらしいコートと上着をまたぎ、電話を取る。 「……はい」 声を出すのも怠いほどの二日酔い。 「お前、朝飯どーすんの?」 電話の向こうの不機嫌な声は、気分をますます滅入らせた。 「俺は……いいや」 「そ。じゃ、新幹線、遅れんなよ」 コートの中に入れっぱなしにしていたスマホには、彼からの着信が数回。 気にかけてくれることを、感謝しなければならないはずなのに 幻滅の表情が頭を過り、素直には受け取ることが出来なかった。 電車の時間ギリギリまで横になっていたせいか 駅の改札の前で同期と待ち合わせる頃には、大分体調は良くなった。 「ほら、ちょっとは腹に入れとけ」 俺の顔を見るなり、秋葉はレジ袋を手渡してくる。 中には、サンドイッチとスポーツドリンクが入っていた。 「出先で二日酔いとか、次はやめろよ」 「悪い……ありがとう」 結局、帰路ではぎこちなさを引き摺って話しかけるタイミングも見失い 一言も交わさないまま、地元の駅で別れた。 アパートの自分の部屋に足を踏み入れた瞬間、疲れがどっと押し寄せてくる。 何もかもを失ってしまったような空虚な想いが頭の中を占拠する。 正しいと判断したことが結果過ちであっても、それを後悔したところで現実が変わる訳じゃ無い。 行き先のことを考えなきゃならないと分かっていても、進路は見えてこなかった。 日曜日は、何も手が付かないままで過ぎていった。 せめて、いつもの日常に軌道を戻そうと、祝日の月曜日、日課のランニングに出る。 家を出て幹線道路を渡り5分ほど行くと、川にかかる橋のたもとに辿り着く。 昨日、夜中に少し雨が降ったせいか、湿った土の匂いが鼻に届いた。 東の空には橙から紺へと見事なグラデーションが広がり、白い飛行機雲が真っ直線に空を切る。 自然は、相変わらず着実に、遅い歩みを進めている。 俺の中の性急な変化に、いつか、追いついてくれるだろうか。 走り始めて程なく、背後に人の気配を感じる。 それほど人通りの多くない時間。 振り向こうとするよりも早く、声を掛けられた。 「そんなペースじゃ、3kmも行かねぇんじゃねぇの?」 そこには、勝ち誇ったような顔をした同期がいた。 -- 4 -- 横に並んだ秋葉は、付いてこいとばかりにペースを上げる。 「……どうした?」 「別に。いるかなぁと思って」 「いるかなぁって……しかも、遠いだろ。お前の、とこから」 「まぁね。じゃ、明日はお前があっちに来いよ」 休憩がてらに寄った公園には、犬を散歩させている人たちがチラホラ見えて 一日がやっと始まったような雰囲気に満ちていた。 「お前……いつも、あんなペースで、走ってんの?」 予想以上の速さで走る彼には付いて行くのがやっとの状態で、改めて違いを認識させられる。 「今日は、いつもよりちょっと速め」 「何だよ、それ」 「お前がチンタラ走ってるから、少し喝入れてやろうと思ってさ」 数日ぶりに交わすたわいも無い会話が嬉しくて、それだけで救われる気がした。 空にはもうすっかり澄み切った青い色が広がっている。 「オレさぁ」 天を仰いで白い息を吐いた秋葉の声は、少しテンションが下がっているように感じた。 「何話して良いか、分かんなくて」 「何が?」 「周りにゲイの奴とか、そういうの、いなかったから」 「……ああ」 「聞きたいことは、いろいろあんだけど……お前が嫌な思い、するんじゃないかって」 今まで、両親はおろか、自分とは違う他人に性指向を語ったことは無かった。 俺自身はそれまでと何も変わっていないにも関わらず、相手の中で何かが変わる。 その偏向に耐えられないと思っていたからだ。 しかも、同性愛者に対して "生理的に無理" と断言する男は決して少なくない。 気のおけない仲に甘んじて、彼に嫌な思いをさせてしまったのは俺の方なのに それでも彼は、俺が曝け出したもう一つの面を、直視しようとしてくれている。 「別に……何、聞かれても、平気だから」 遠くに立つ針葉樹を見やりながら、そう答える。 ベンチに座ったままで前屈みになった同期は、真剣な表情で、しばらくの間押し黙っていた。 初めて男を好きだと気が付き始めたのは、小学生の頃。 女は嫌いじゃないけれどヤりたいとは思わない。 男との肉体関係は、そういう類の店で、何回か持ったことがある。 恋愛感情を持って付き合った相手は、あの時の年上の男を除けば、殆どいなかった。 ポツリポツリと出てくる質問に、出来るだけ端的に答えを出す。 生々しく表現して嫌悪感を抱かせないようにしようと、思っていた。 「何か……相手のタイプとか、あんの?よく、マッチョが良いとか、あんじゃん?」 「そういうの、嫌いじゃないけど……特にこだわりは」 「女なら、胸がデカいとか、ケツが締まってるとか、さ」 「ああ……強いて言えば」 別れを告げたばかりの彼の顔が脳裏に浮かぶ。 第一印象から好みの男だと思った、滅多に無い相手。 「額の形とか……前髪上げた時の」 「そんなん、誰だって大して変わんねぇじゃん」 「そうだけど。似合う奴、いるだろ?その方が顔が映えるような」 納得しきれない様な顔をしながら、彼は自分の額に手を当てる。 「……禿げに厳しいな」 「いや、むしろ、少し後退してるくらいの方が好きなんだよ」 不思議な気分だった。 ひたすらに隠してきた部分を口に出すことで、改めて自我が見えてくる。 知られないようにと押し込めている内に朧になってしまった輪郭が、形を取り戻す。 いつもとは違う河川敷から見る南の空には、少し光を失った白い月が浮かんでいた。 川に沿って緩いカーブを描く歩道は、俺が走っている道よりも大分広い。 「おう、早かったな」 30分も早く起きて来たんだから当然だ。 俺の隣に立ち、何回かジャンプする同期の姿を見て、そんな言葉が引っ込んだ。 「こういうこったろ?」 普段はウザったいくらいの長い前髪を、スッキリと上げた彼が得意げに笑う。 「オレ、結構似合うって昔から言われてたんだよ」 「でも……初めて見たぞ」 「まー……前からヤバい兆候があったから、あんまり、な」 「いいじゃん、似合ってる。ちょっとイケメンに近づいたんじゃね?」 「何だよ、まるでオレがイケメンじゃないみたいな言い方だな」 俺が家に戻る時間も考慮して、今朝は短めに切り上げた。 その分ハイペースな行程だったこともあり、距離はいつもとそれほど変わらなかったけれど 昼休みには、既にふくらはぎ辺りが重く感じ始めてくる。 目の前の男には特に影響が無かったらしく、まんざらでも無い顔で昼食を口に運んでいた。 「オレ、しばらくこの髪型で行くかな」 「女の子に評判良かったからか?」 ちょっとしたイメージチェンジを部署の女の子に褒められたことが、よほど嬉しかったのだろう。 こいつのこういう自惚れ方は、嫌いじゃ無かった。 「ま、それもあるし」 箸を止めた彼が、視線を上げて俺を見る。 「お前も、しばらくオレで満足しておけば?」 その言葉を全くの冗談として受け取れなかったことを、瞬時に後悔した。 「……はぁ?」 「いやさ、何つーの?友達の友達とか、友達の彼女とかに嫉妬する、みたいなさ」 誤魔化すような早口に、同期の勘の良さを気付かされる。 「そいつらの前では、こいつ、どんな顔して笑うんだろうって」 「分からなくは……無いけど」 微かな動揺がそのまま彼に伝わっているようで、心が強張った。 「オレにも、ちょっと見せろよ。そういう顔。いつまでも辛気臭い顔してんな」 晴れやかな笑顔をまっすぐに見つめることで湧き上がる疾しさ。 不意に心を引っ張られてしまったことに対する悔しさ。 「すぐ、飽きるぞ」 「飽きねーよ。入社以来見てきてるけど、まだ足りねぇもん」 それでも俺は、同期の軽妙な冗談を真に受けてみることにした。 いつか俺も、まだ見ぬ彼の笑顔を見られることを、楽しみにしながら。 Copyright 2013 まべちがわ All Rights Reserved.