いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 主従-実-(R18) --- -- 1 -- スマートフォンの画面を流れていく幾つもの画像を、彼女は憤懣とした表情で見ている。 腕を組んでラブホテルに入る姿や、タクシー待ちの列で周りの目も憚らずキスをする姿。 「……何なの、これ」 「聞きたいのはこっちだろ。何なんだよ、これ」 「酷くない?こんな隠し撮りみたいなことして」 「何聞いても、茉実がはぐらかすからだよ」 彼女との付き合いは大学生の頃からだから、もう4年以上になる。 互いに社会人になってからも、慣れない生活なりに上手く関係を続けていると思っていたが この半年ばかり、彼女の行動に不審な点が見え始めてきた。 必ず顔を合わせていた日曜日の約束も反故にされることが多くなり 服や化粧を含め、全体的な女としての雰囲気が、何か変わってきているように感じていた。 決定的な出来事が起こったのは、2ヶ月ほど前のこと。 その日は彼女の誕生日だった。 平日だからと前の週末に食事には出かけていたけれど、良いタイミングで仕事が早く終わったこともあり サプライズも兼ねて、連絡を入れずに彼女の家へ赴いた。 彼女の家の最寄りのバス停が近づいてきた時 ふと窓の外を窺うと、見知った女が見知らぬ男と歩いているのが見えた。 向かっている先は、恐らく、彼女の家。 仲睦まじそうに手を繋ぐ姿は、本当に、普通のカップルそのもの。 小ぶりな花束を大事そうに抱える彼女は、しばらく俺には見せてくれていない明るい笑顔を浮かべていた。 彼らと擦れ違ったバスが、指定された位置で止まった。 数人の乗客がバラバラと降りた後、気配を窺いながら運転手がドアを閉め 背後にその音と衝撃を感じながら、遠目に男女を見やる。 コンビニへ立ち寄り、路地を曲り、彼女のマンションへ入っていく一連の行動を、写真に収めた。 ショックとは裏腹に、自分でも驚くくらいに冷静で、何処か妙な興奮状態が口元を緩ませる。 彼女の部屋の電気が点いて、数分後。 「……どうしたの?もう、仕事終わったの?珍しいね」 やや動揺した声が、電話の向こうから聞こえてきた。 「ああ、切りが良いところで終わったから、ちょっと会えないかなって思って」 「……ごめん、今日はお友達が誕生日お祝いしてくれるって言うから、飲みに来ちゃってるんだ」 白々しい言葉に、乾いた笑いしか出てこない。 「そっか。じゃ、また週末に」 「うん、ありがとね」 「誕生日おめでとう……いっぱい、楽しんで」 そこまで鈍感だと思われているのか、もしくは開き直っているのか。 どちらにせよ、彼女は隙があり過ぎた。 デートの後、俺と別れた彼女は、必ずと言って良いほど真っ直ぐ自宅に帰ることは無かった。 繁華街に繰り出しては、俺とは行かないような店に入り、しばらくすると男と出てくる。 飲み屋をはしごすることもあれば、タクシーで何処かへ向かうこともあれば、ホテルへ消えることもある。 俺の中では、既に彼女との恋は終わっていたのだと思う。 分かってはいたものの、執着を捨てることが出来なかった。 ストーキング行為はやがて好奇心から快感に変わっていく。 あの若い男と、どんなセックスをしているのか。 そんなことを考えながら彼女の身体を弄ぶのが、たまらなく、刺激的だった。 振り返れば、淡白な恋愛ばかりをしてきた。 だからこそ、異様な状況が新鮮で、気分を昂ぶらせていたのだろう。 突然訪れた熱病の終焉は、俺の心に虚しさだけを残した。 「だって、政文、なかなかメールも返してくれないし、会った時は仕事の愚痴ばっかりだし」 テンプレート通りの展開に、話をする気力も失せていく。 「もっと、まともな言い訳、考えらんないの?」 「言い訳って……私だけが悪い訳じゃ」 「浮気と、仕事が忙しいことを同列に考えてる時点で、どうかしてる」 俯き、唇を噛む女は、程なく鼻を啜り始める。 どうせ、この後もあいつと会うのだろう。 彼氏と別れたとか言って、身体を慰めて貰うのだろう。 「俺の連絡先、消しておいて」 そう言い残し、立ち上がる。 「ホントに……ごめん」 潤んだ瞳の奥に、彼女の真意を読み解くことは、俺にはもう出来なかった。 「良いよ。お互い様なんだろ」 金曜日の夜の人ごみに、鬱屈した想いがくすぐられて爆発しそうだった。 最悪な気分で行き着いた、自分のオフィス。 所々に電気が点いているビルを見て、僅かに心が落ち着く。 そういえば、まだ少しやり残した作業がある。 明日も休日出勤するつもりだったけれど このまま家に戻っても、要らないことばかりを考えてしまうのが関の山だ。 エレベーターに乗り込み、IDパスをリーダーにかざす。 重力に逆らいながら静かに上昇していく籠の中で、大きな溜め息に憂いを溶かした。 頼りになる上司は、もう帰ってしまっただろうか。 いつも終電近くまで残業している彼は、金曜日だけは少し早めに退社してしまう。 彼に聞く質疑事項をまとめることを今夜のノルマに設定したところで、エレベーターは止まった。 -- 2 -- 「お疲れ様です。来週のプレゼンの件で相談したいことがあるので、ご連絡頂けますか?」 夜も深くなってきた時間、当然のように留守電になった社用の携帯にメッセージを残す。 『悪いけど、金曜の晩は電話に出られないことが多いから、土曜日に折り返すよ』 そんな風に言われたのは、もう半年くらい前のこと。 女と過ごしているのだろうか。 結婚適齢期は過ぎているが、まだまだ需要はあるであろう男の姿を思い浮かべた。 柔軟性と粘りを併せ持った優秀な頭脳を携える、尊敬すべき上司。 行く先が見えない毎日の業務に立ち向かっていけるのも、彼がいるからこそだと思う。 この会社に就職してから、2年が経つ。 とある中堅ゼネコンに環境コンサルティングを行う部署が出来ると聞いたのは、大学の教授から。 「秦野君の研究テーマなら、実践として社会に役立てた方が良いかも知れないよ」 外部委員として意見を聞かれていたという彼は、大学院への進学と就職で迷っていた俺に、そう言った。 恩師が口をきいてくれたのかどうかは定かでは無かったけれど、先方の食い付きは良かったように思う。 役員面接の前、新設部署の担当者からのちょっとしたヒアリングがあった。 俺の卒業研究を着眼点が良いと褒めてくれた男は、でも、と言葉を付け加える。 「多少奇をてらったテーマが出来るのも、学生の特権なんだけど。君は堅実なんだね」 物腰の柔らかい声の中に、若干の厭らしさを感じたのは、きっと俺がまだ子供だったからだろう。 緊張と、幾ばくかの憤りに言葉が出なくなった学生に、彼はフォローの言葉を投げた。 「まぁ、部下にするなら、君みたいな人材の方が良いかな。縁があれば、是非うちの部署に」 そして、俺は彼との縁を手繰り寄せ、今、こうやってその下で働いている。 「曽我部さんがお持ちの学会の論文集、見せて貰っても良いですか?」 「僕はしばらく使わないから、好きな時に読んで構わないよ」 土曜日の昼間、人影まばらなオフィスの中で、上司のデスクから冊子を拝借した。 定量的な研究とは違い、定性的な検討に確かな根拠は無い。 それでも、評価をしなければならない時は、日々、世界中の誰かが取り組んでいる研究結果を定規にする。 見覚えのある名前に目が留まる。 博士課程まで進んだ同級生が行った研究発表の概要が、流暢な英文で綴られていた。 切磋琢磨し合った仲間のことを考える度、アカデミックな雰囲気に焦がれてしまうことは未だにある。 いつか、誰かの役に立つかも知れない、学問としての研究。 期日までにはクライアントの望む結果を出さなければならない、仕事としての研究。 ただひたすら答えを求める行為に違いは無いものの 利益や立場が絡んでくるだけで息が詰まりそうな感覚に陥るのも確かだ。 上司と二人で担当している調査のプレゼンは、滞りなく終わった様に思う。 幾度となく通ったこの高層ビルは、築年数が経っていることもあり古めかしいところは目につくものの 自社のビルに比べれば相当にグレードは高く、羨む点も多い。 それでも、働いている社員にとってみれば細々とした不満は積もるものなのだろう。 今回の調査では、設備などのソフト面よりも、建築そのものへの不満が多く出ており 早急に改善できる方策を立てることは難しかった。 「……立派なビルだと思いますけどね」 「毎日通っていれば、些細な不便が徐々にストレスになってくるんじゃないかな」 ビルのエントランスの脇にはチェーン店のコーヒーショップがテナントとして入っている。 JRの駅と大きな公園の動線上にあるからか、ビジネス以外の一般人が利用することも多いようだった。 「ごめん、ちょっと電話だ」 上司の所用の間を拝借し、屋外の喫煙所へ赴く。 外とは言っても雨避けの屋根もあり、灰皿の数も多いので、檻のような自社の喫煙スペースとは雲泥の差だ。 煙草を取り出して火を点け、微風に流されていく煙を目で追いかける。 それは、何かの導きだったのだろうか。 俺の視線が固まると同時に顔を上げた、二つ向こうの灰皿の傍に立つ若い男。 まるで手元の端末から出てきたような姿が、言い知れない鬱憤で微かに揺らぐ。 首筋から背中にかけて、じんわりと湿るような感覚が纏わりついた。 不快な笑みを口元だけに表した奴が、人の少ないスペースへ目で誘う。 応ずる策を持たないまま、俺は、敵と対峙すべく足を進めた。 「マミのストーカー彼氏だよなぁ。あんた」 若い男が放つ一字一句が感情を逆撫でする。 「今度は、他の女でも追い回してんの?」 乗せられたら奴の思う壺だと、何度も自分に言い聞かせた。 「……関係ないだろ」 「まっ、そうだな。今は、オレのもんだし」 勝ち誇ったような、まだ幼さの残る顔。 どうして俺は、こんな男に、負けたのか。 「そーだ、知ってた?あんたの元カノ、ちょっと前からキャバ嬢やってんの。結構人気あるんだぜ」 「は?」 「やっぱ知んねぇんだ。ホントに彼氏だったのか?」 「あいつ、何も……」 「ま、盗撮するような男には、とっくに愛想尽かしてたってこったろ」 同じ建築学科の学生だった時、彼女は住宅設計を将来の道に選んだ。 学生コンペでは程々良い成績を残し、無名ながら個性的な建築物を手掛ける設計事務所へ就職。 確かに給料は良くない上に、仕事への拘束時間も長い方だろう。 それでも、クロッキー帳に幾案も描いたエスキスが形になった喜びは、傍から見ていても伝わってきた。 無意識の内に、顔が歪む。 「お前が……やらせてんのか」 「だって稼ぎわりぃしさ、ちょっとしたアドバイスだよ」 「あいつの人生、どうなるんだよ」 「知ったことかよ。それに、金の良い仕事に移るって言ったのは、マミの方だし」 気味の悪い顔が俄かに近づいてきて、吐き気のするような声を耳に残す。 「一回クスリきめてヤったら、クセになっちゃってさぁ。その為にも、カネ、要るだろ?」 -- 3 -- 切れそうになった意識を繋ぎ止めたのは、男の肩越しに見えた上司の姿だった。 ちょっと待っててくれ、こっちには来ないでくれ。 それを示す為の僅かな動きに、目の前の男は気が付いたらしい。 奴が振り返ると同時に、上司は動きを止める。 遠くにいる男の顔に、瞬間、動揺が走ったように見えたのは気のせいでは無かったのだろう。 俺の方に向きなおした若い男は、心底愉快そうな表情を浮かべ、吐き捨てるように言った。 「周りにロクな人間いねぇのな、あんた」 「……何だと?」 「あんな男の傍にいると、バイキンうつるぞ?」 「訳分かんねぇこと、言ってんじゃねぇよ」 元カノばかりか上司までをも貶められ、感情の圧力が徐々に高まっていく。 しかし、男が放った次の一言が、心を凍りつかせた。 「教えてやろうか?……あいつが、金曜の夜に、何やってんのか」 チンピラ崩れのような輩と上司との間に、どんな関係があるというのか。 「じゃ、今度の金曜の夜7時に、恵比寿駅の東口な。10分は待たねぇから」 こんな男の口から出てくることが、真実な訳がない。 「……ま、覚悟しておけよ」 俺の前から去り、男は上司の前で立ち止まる。 二言三言交わしているようだが、俺の位置から状況は分からない。 これ以上、大切な人間を汚されることに、耐えきれなかった。 「さっさと失せろ!」 意図せず出てしまった叫び声が、周囲の視線を集める。 やり場の無い憤りと、男が残していった捨て台詞が、頭の中を掻き乱していく。 上司に対する態度は、何処か、ぎこちなかった様に思う。 「すみません。何か、金貸せとか携帯貸せとか、うるさかったんで……つい」 咄嗟の嘘に、彼は労りの言葉をかけてくれた。 「そう……手とかは、上げられなかった?」 「ええ、それは大丈夫です。舐められてるんですかね、あんなガキに……」 奴との間に、どんな関係があるのだろう。 「曽我部さんも、何か、言われてませんでしたか?」 「別に……事の顛末を聞こうと思ったけど、話にならなかったよ」 何となしに振った話が、自然な嘘でかわされる。 表情に、別段の変化もない。 それが却って、あの男の話の信憑性を裏付けた。 隠し事をしている後ろめたさに居た堪れなかったのか。 隠し事をされている悔しさに遣る瀬無くなったのか。 いつもなら途中の駅まで同行する上司とは、用事があると言って打合せ場所で別れた。 「今日は本当にお疲れ様。また、明日」 優しい声を掛けてくれる彼に対する気持ちが、些細なことで揺らいでいることを実感する。 頑なに寄せていたはずの信頼は、自分が思っているほど、確かなものではなかったのかも知れない。 間違いなく、その姿は彼の物だった。 それなのに、どんなに視覚が訴えても、頭が彼だと認識することを拒否し続ける。 「あんた、こんな奴の命令、毎日聞いてんだぜ?」 言葉を失った俺に、若い男が嘲笑を吐く。 「気持ちわりーよなぁ。同情するよ」 「……お前が、これ」 「まさか。オレ、こんな趣味ねーし」 腫れ物にでも触るが如く、男は、歪んだ顔で男性器を頬張る上司の痴態を指差す。 「オレは、こいつの前で飼い主とヤって、焦らしてやるだけ」 顔に出た戸惑いが、却って目の前の彼を悦ばせたのだろう。 「結構良い小遣いくれるんだよね、あの、オッサン」 「……は?」 俺の想像を遥かに超えている現実に、思考が乱される。 「あんた、根本的なとこ、分かってねーな」 奴の話に出てくる人間は、全て。 「こいつ、ゲイだよ。しかも引くくらいのドM」 仕事で付き合いのある相手のプライベートを詮索しようとするのは、そんなに悪いことだろうか。 距離感を弁えられない自分がいけなかったのだろうか。 隙を見せない上司に対して、多少個人的な側面を見せて欲しいという想いは、入社以来ずっと持ってきた。 彼の意図とは無関係なところで突き付けられた、もう一つの姿。 理解し難い、異常な性癖。 「見なきゃ良かった、なんて、今さら後悔してんじゃねぇんだろうな」 真意を言い当てられた答えは、溜め息でしか返せない。 長い年月をかけて築き上げられてきた人物像が、足元から崩れていくようだった。 想像の中にしかない支配者の影が、どんどん大きくなって彼を飲み込む。 「そいつ、どんな奴?」 受け入れざるを得ない現実を、俺はどうしたかったんだろう。 「何で?こーゆーのに、興味ある訳?」 「……んな訳ねーだろ」 「一緒になって、上司甚振ってやりたいって?」 「違う」 取り戻したい。 俺の手で組み立て直したい。 自分の、拠り所を。 「話、つけさせて貰う」 夜中に戻ったオフィスの机には、まだやりかけの書類が残されていた。 借りていた論文集をその上に置き、離席している男を求めてフロア内を歩く。 やがて見つけた姿は、何処か、委縮しているようにも見えた。 「秦野君、帰ったんじゃ……」 驚きを隠さない、けれど殻に覆われたその声に、思わず手が動いた。 鏡の向こうの上司の顔が僅かに歪む。 飼い主に付けられた背中の傷跡が俺の掌に焼き付けられるようで、不快だった。 「曽我部さん、俺ね」 目を伏せてやり過ごそうとしている彼に、現実を見せつける。 「ここ最近で……大事な人を、二人も失いました」 崩れかけた肖像を、自分の手で、粉砕する。 「彼女と、貴方です」 -- 4 -- 今では他人になった女と、全てのきっかけとなった男。 その二人が写るスマートフォンを、上司の視線の先に置く。 「何……?」 「その男、知ってるんですよね?」 訝しむ彼の声には答えず、問を投げる。 「この間、打合せの帰りに逢った男ですよ。女の方はね……俺の元カノです」 正直に答えてくれることは、期待していなかった。 「いや……僕は」 そういう男であることは、とうの昔から分かっている。 何も変わっていないはずなのに、俺の知っている彼であるはずなのに 男から与えられた恍惚の表情が頭を過る度、息が苦しくなる。 「ぶっちゃけると、そいつ……・彼女の浮気相手で。今日、ちょっと会ってきました」 俺の言葉で、彼の顔が明らかに曇る。 剥き出された急所を撫でるよう、彼の耳元で囁いた。 「……その時、曽我部さんのことも、聞かされたんです。いろいろ」 背中に置いた手に、微かな震えと鼓動が伝わってくる。 「傷だらけなんだそうですね……ここ」 ゆっくり擦ると、柔らかく筋肉が波打つ。 皮膚に刻まれた跡が消えてしまえばいいのにと思いながら、撫でていく。 「別に、会社の人間がどんな性癖持ってようと関係ない、と思ってましたけど」 下を向いたままの上司は、一言も発しない。 強固だと思っていた人間の脆さを、改めて感じた。 「それが本当に尊敬して信頼してた人だと……正直、キツいです」 見知らぬ番号から連絡が来たのは、自宅に着く直前だった。 耳に入ってくる男の声は、それなりの歳を感じさせる。 恐らく、自分の父親ほどの年齢だろう。 名乗らなくて良い、開口一番そう言った彼は、次に若い男の行為を詫びた。 「彼が勝手なことをしたばっかりに、貴方に不快な思いをさせてしまいましたね。申し訳ありません」 小さな外灯の下で煙草に火を点けた。 物腰の柔らかい口調のまま、男は上司との関係を綴っていく。 「私と彼の、歪んだ欲求が合致していた。ただ、それだけのことなんですよ」 「……欲求、ですか」 「そう。誰かを支配したい気持ちと、虐げられたい気持ちを満たし合っているだけです」 「男、同士で?」 「男女の間でなら、貴方は納得するんですか?」 支配者の言葉に、ハッとする。 むしろ、同性間のやり取りだったからこそ、まだ俺にも取り戻すチャンスがあると思っていた。 「自分を支配すべき人間が、誰かに支配されている状況に耐えられない」 「……え?」 「貴方の思うところは、そんなところなのかな、と。私は断片的にしか状況が分かりませんが」 上司に仕える忠実な部下。 この立ち位置が、社会人としての拠り所だった。 絶対的な存在であったはずの彼を踏みつける男に、憎しみに近い嫉妬心を抱いていたのかも知れない。 「だから、いっそのこと、自分で支配しよう、と?」 「それは……」 「上司と部下と言う主従関係が、破綻するかも知れませんよ」 跪きたい、跪かせたい、心の中に同居する相反する望みが、その枠をはみ出すことは分かっている。 「……構いません」 でも俺は、もう一度、自分だけの彼を手に入れたい。 「彼を、返して下さい。俺に」 絞り出した声に応える、鼓膜を揺らした短めの溜め息は、安堵の雰囲気を纏っていたようにも思えた。 酷い雨が、傘をすり抜けて身体を濡らす。 頭上に鳴り響く重低音が、振動を伴って空気を揺らした。 見上げたビルの上層階はガスに覆われて霞んでいる。 あるフロアの窓から仄かな照明の光が漏れていて、酷い緊張感が背筋を寒くさせた。 通路に設置された傘立てに、やや乱暴に傘を突っ込む。 その音で、パソコンに向けられていた視線がこちらに移った。 動揺の走る顔があまりに弱弱しくて、一瞬言葉に詰まる。 「お疲れ様です」 「……お疲れ様」 自分の席に着き、昨日やるはずだった資料に目を通す。 作業的には、夕方前に終わる量。 「報告書に添付するグラフ、もう少しで終わりそうなんで、後でチェックして頂いて良いですか?」 「ああ……分かった、見ておくよ」 俺に向けられるぎこちない笑顔と、冷静さを欠いた姿が居た堪れなかった。 彼はもう、俺たちの関係が破綻していると、思っているのかも知れない。 全てを諦めてしまっているのかも知れない。 「こちらで、全部です」 時間は、午後4時前。 予定通りに出来た資料をプリントアウトして上司に手渡す。 「ありがとう。後は僕の方で確認するから、明日修正をお願い出来るかな」 紙束を受け取る彼の先には、ほぼ白紙のままの文書がディスプレイに映し出されている。 「……分かりました」 この一連の出来事が、どれだけの傷を彼に負わせてしまったのかを痛感した。 「今日は、もう、大丈夫だから……」 労いの言葉の意図が、疲れた顔のまま目を細める上司の表情によって伝わってくる。 拒絶されているのだと、悟った。 雨音が二人の間の静寂をより強調する。 遠ざかっていく感情を、何とか引き留めたい。 このままじゃ、帰れない。 「秦野君?」 傍に立ち尽くしたままの俺を、彼は訝しげな目で見る。 「……俺が尊敬してたのは、自分の頭の中で勝手に作った、曽我部さんだったんですね」 伏せた視界の中に、握り締められる上司の右手が見えた。 「信じられなくて、でも本当のことで、嫌悪感が半端ないのに、でも……軽蔑したくない」 縋る俺の想いを振り払うよう、彼は俺に背を向ける。 「……僕から言うことは、何も、無いよ」 突然室内を照らした眩しい光の後、激しい雷鳴が轟く。 咄嗟に、彼の肩に手を載せた。 「俺の中の曽我部さんを、もう一回組み立て直すの……手伝って貰えませんか」 -- 5 -- 肩に置いた手を下に滑らせ、背もたれと背中の間に差し込む。 前屈みの姿勢で、彼の身体を椅子ごと引き寄せた。 「何するんだ」 抵抗されるよりも早く、もう片方の腕を前から上半身に回す。 胸元に頭を抱える様に抱き締めた。 「やめないか」 彼の手が、二人の身体の間に入り込み、剥がそうとする。 抗うように腕に力を籠めた。 「あの人じゃなきゃ、ダメなんですか」 「何を……」 「許せないんです……貴方が、誰かに、跪くことが」 フロア内の監視カメラの幾つかがダミーであることは、社員だったら大半が知っている。 そしてこの辺りが、正常な数台の死角になっていることも、把握していた。 「離してくれ」 身体を捩じらせることで無防備になった首筋に唇を寄せ、舌を伸ばす。 一瞬の引きつった息遣いと肩の強張りが、彼への執着心に火を点けた。 「俺は、もう、覚悟してきました」 上半身を弄る内に弱くなっていく防御に、彼も同じなのかも知れないと思い始める。 「俺の知らない、貴方を、受け入れることを」 背後から、一つずつシャツのボタンを外していく。 「こんな……」 力無く俺の手を掴む様は、上司としての矜持を保つ為のポーズなのだろう。 「大丈夫ですよ……こんな天気じゃ、もう、誰も来ませんから」 「そういう、ことじゃ」 程なく肌蹴られた服の中に手を挿し込むと、男の上半身が軽く揺らぐ。 熱を帯びたTシャツ越しの肌の感触が、徐々に新しい彼を形作る。 「俺には、あの人みたいなことは、出来ません」 目を伏せて小さく頷いた彼は、けれど声は出さなかった。 「だから、一緒に探して欲しいんです。どうすれば、互いに満足できるのか」 頬に唇を滑らせながら、ベルトに手をかける。 その動きを、上司は首を振りながら制した。 「僕は……今のままで、十分、満足してる。こんなこと、しなくても」 言葉とは裏腹の、数分の愛撫で紅潮した胸元。 前の飼い主に躾けられた身体が、恨めしかった。 「……俺は、してない」 無駄な抵抗を振り払い、ベルトを引き抜く。 背もたれの後ろに回させた両方の手首にベルトを巻き付け、固定した。 「こういう感じで、良いんですよね」 昂ぶりの混ざる吐息が、机の上の資料を捲れ上がらせる。 しかし、彼には分っていたはずだ。 自分に付けられた枷は、少し力を入れれば、簡単に抜けることを。 椅子に座ったままの彼の前に跪いた。 脅える視線は宙を泳ぎながら、時折俺の眼の中に飛び込んでくる。 ファスナーを下ろし、掻き分けた先には、硬さを帯び始めた男性器が収まっており 人差し指で下から擦り上げると、椅子の軋む音が雨音に混ざりあう。 不意に聞こえてきたのは、携帯のバイブ音。 上司の机上に置かれている端末だった。 ディスプレイに表示されている名前から、大した要件では無いことは俺にでも分かる。 彼も同じ考えだったのだろう。 一瞥し、そこからすぐに視線を外す。 すぐ側に置いてある通話用のヘッドセットの青いランプだけが、点滅を繰り返していた。 立ち上がり、ヘッドセットを上司の耳に着ける。 「……今、は」 「出て下さい。折角なんで」 慄くような視線を微笑みで返しながら、通話ボタンを押した。 「……曽我部です。ああ、どうも」 相手は、環境コンサルタントを生業としているNPO法人の代表。 何故か休日出勤の日の夕方に電話をかけてくることが多かった。 仕事2割、雑談8割だよ、と上司が呆れたように笑っていたことを覚えている。 「そうですね、酷い雨で……」 立ったまま彼を見ている俺を、何処か警戒するような目つきで彼が窺う。 煽られているように感じたのは、きっと、俺の中の彼が出来上がりつつあるからなのだろう。 背後に回り、片手で彼の目を覆う。 「えっ……ええ、程々、忙しく……してますよ」 狼狽を悟られまいと、その声が少し力んだ。 小さく揺れる身体に、一本の指を首筋から這わせる。 鎖骨から、たくし上げられたTシャツを超えて胸元へ。 片方の突起を捉えると、上司は小さく呻き、わざとらしく咳払いを続けた。 「すみません……ちょっと、熱っぽい、みたいで」 指の動きと共に、汗ばんだ首に僧帽筋が陰影を作る。 「ありがとう、ございます……そうです、ね」 どれだけ暇なんだろう。 風邪気味であるという上司の仮病を余所に、電話での会話は5分以上続いていた。 唾液で濡らされ、散々摘ままれた双方の乳首は、痛々しい程に隆起し 責めで荒くなった吐息は、抑えきれなくなってきている。 「……では、そろそろ」 会話を切り上げる為の言葉を彼が口にするのは、何回目のことか。 「ええ、また……来週も、多分」 どうやら試みは、やっと成功したようだった。 -- 6 -- 耳からヘッドセットを外すと、上司は大きな溜め息をつく。 「冗談じゃ……すまない、だろう」 虚ろな声で、そう呟いた。 「でも……興奮したんじゃ、無いですか?」 「そんなこと……」 目には見えなくても、自分の如実な身体の変化が分からないはずがない。 ローライズボクサーの縁から顔を出したモノの先端を、指で弾いた。 「こんなに、なってても?」 視界を開き、再び彼の前に屈み込む。 下着を捲り、いきり立ったモノを軽く握って取り出す。 「大きいですね。曽我部さんの」 僅かに染み出たカウパーが、その興奮具合を示していた。 赤黒いカリの部分に唾液を垂らし、指で塗り広げる。 顔を歪めて呻く上司の眼は、切なげに潤んでいた。 ゆっくりと扱きながら、先端を掌で舐る。 「たの、む……これ、以上」 震える声があまりにも官能的で、俺の身体までを堪らなくさせていく。 細い視界の中に滲む男の姿を、体内にも刻んでおきたいと思った。 少し前まで抱いていた幻想のままの彼だったら、こんなことは思いも寄らなかったはずだ。 けれど、何もかもが初めての姿を目にしているからこそ、先入観に囚われず、選択肢が無限に広がる。 更なる刺激を待ちわびる、男のモノ。 抵抗が無い訳じゃない、でも、何処かで確信していた。 これで俺は、彼を取り戻せると。 得も言われぬ感触が、舌先から全身を駆けた。 咥え込み、カリ首に唇をひっかけるように捻ると、男の身体が大きくのけぞり、椅子を激しく軋ませる。 舌を揺らしながら快感を与え、竿の部分を扱く手を徐々に早めていく。 「はた、の……く、ん」 もう、感じていることを隠そうとはしていないようだった。 満足げな喘ぎが聴覚を刺激する度に、俺の中の彼が満たされる。 喉奥の深いところまで、彼のモノが突き刺さる。 苦しさで、視界が白くぼやけていく。 彼の限界よりも早く、自分の限界がやってくるかも知れない。 そんな思いが過った時、床に何かが落ちる音と共に、頭に手が添えられた。 「無理、しない、で、良い」 彼は俺の口からモノを抜き取り、自らで慰め始める。 「あと……は、僕が」 肩を震わせながら言葉を発する上司の眼からは、涙が溢れかけていた。 他の男の絶頂を目にする機会は、そう、無いだろう。 乾いた声が、フロアに響く。 吹出す瞬間に押えた指の間から、彼の身体に白い液体が散る。 荒い息遣いのまま項垂れる彼の顔を引き寄せた。 零れ落ちていく涙を掬い取るよう、頬に唇を滑らせる。 「……どうしたんですか」 「僕は……こんなこと」 「望んで、ない?」 「望んじゃ、いけないと、心の奥底に押し込めてきた」 見つめ合った眼の中には、互いの姿だけが、写っていた。 「僕は、尊敬も、信頼も、いらない。……ただ君が、傍にいてくれるだけで、満足だった」 上司と部下。 絶対的な主従関係、俺の拠り所だったもの。 彼の中では、既に破綻していたもの。 「永遠に叶えられない想いを追い続けることが、辛かった。だから、ひたすら快楽を求めた」 目尻の皺が歪み、再び涙が筋を作る。 寄せられていた想いを感じ取ることは出来なかった。 そんな情愛があることも、知らなかった。 「心は、ずっと……君に、支配された、まま」 泣き濡れた唇が、小さく震えていた。 覆い被さる様に抱き締め、耳に吐息を纏わせる。 肩口を彼の溜め息が滑っていく。 「でも、君とは、逆だ」 「……何が」 「邪な希望も欲求も、何もかもを、蹴散らして、踏みつけてくれる存在」 囁く彼の瞳が揺らぎ、切なげな光が衝動を呼ぶ。 「愛してはいけない人間を、愛してしまった。せめてもの罰なんだよ、僕の中の……君は」 愛する者であり、罰する者。 抱擁を求めることでさえ、罪になるというのだろうか。 部下だから? 同性だから? 「そんなの……おかしい」 ほぼ組み立て上がった彼の虚像の、最後の一欠片が見つかった気がした。 「そんな、俺、壊して下さい」 重ね合わせた唇の間から、熱い息が漏れる。 嵌り合う場所を探して、幾度となく鼻先を擦り合わせた。 本能のままに交わす口づけが、苦しげな男の喘ぎを引きずり出す。 一方的な貪りは、やがて互いの欲求になり、雷鳴が終わりの刻を告げるまで続いた。 金曜日の夜。 上司の自宅の寝室で彼の背中を撫でながら、心が弛むのを感じていた。 背中から腰を辿り、腹の辺りに腕を寄せて抱き締める。 互いの肌が密着する感覚が心地良い。 「もう、殆ど見えなくなりましたね」 あの男が残していった傷は、大分目立たなくなってきた。 「ああいうこと……また、されたいと、思ってますか」 目の前の、僅かに汗ばむ熟した肌を目で触りながら、問うてみる。 小さな溜め息の後に発せられた言葉は、少し、震えているようにも感じた。 「……分からない」 俺の手に重ねられた男の手は、あり得ないほどに熱を帯びている。 「でも……僕の中の君は、まだ、未完成だ」 心の中の彼が、ゆっくりと背を向ける。 今までよりも大きく、脆く、光も闇も併せ持つ、確かな幻影。 そこには、彼の歪んだ欲求が、永遠に消えることの無い傷跡として残されていた。 「じゃあ、近い内に完成させましょう。……期待に応えられるよう、勉強しておきます」 Copyright 2013 まべちがわ All Rights Reserved.