いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 能動(R18) --- -- 1 -- 「ごめん、遅くなったね」 寂れた歓楽街の、古ぼけた喫茶店。 夜の9時を過ぎて店内が閑散とし始めた頃 スーツ姿の中年の男は、遅刻をしたことを詫びる様に眉を少し下げた笑顔を見せる。 「良いよ……珍しいね。仕事?」 「ああ、急に入った案件があって。でも、山は越えたから大丈夫」 男と初めて出会ったのは、10年近く前、俺がまだ高校生の時だ。 自分の性指向を自覚し始め、孤独な好奇心に流されるようネットの世界に嵌り込んでいた。 顔が見えない相手との付き合い方も知らないまま、成人指定のチャットルームで適当な会話を続ける中 ある晩、相手として現れたのが彼だった。 「君、まだ、高校生くらいでしょ」 言葉を交わし始めてから僅かな時間で、ハンドルネーム:ユダは、そう投げかけてきた。 無理に粋がった文面を使って演じていたのは確かだったが、画面の前で妙に恐ろしくなったのを覚えている。 何故分かったのか、そう問うと、いろんな人間と会う機会が多いから何となく分かるのだ、と彼は言った。 周りにいる大人は親か教師か、そんな狭い世界で生きていた俺には 自分の知らないことを何でも知っているかのように振る舞う画面の向こうの大人の男に対して 会話を重ねる度に、ある種の憧れを抱くようになっていった。 それは、恋愛感情に近しい物だったのかも知れない。 18歳の誕生日を迎えた翌日、古風な喫茶店で年上の男を目の前にして 不思議なくらい純粋に、彼には全てを曝け出せると感じていた。 ともすれば、父親とそれほど年齢は変わらないであろう男は、文面と違わず柔和な笑顔を浮かべ 緊張と不安で言葉少なになった子供の心を、少しずつ解いてくれた。 「名前を付けてくれないかな。僕の」 アンティークのコーヒーカップに口を付けた男は、そう言って俺に視線を送る。 「名前?」 「いつまでもハンドルネームじゃ味気ないと思ってね。僕に相応しいと思う名前を、君に決めて欲しいんだ」 ユダとゴウ。 3ヶ月近くそう呼び合ってきた名前を変えることで、今までとは違う、現実の交わりが始まる。 そして、これから、俺たちの関係性が大きく歪む。 彼の提案は、そんな意図を含んでいたのだろうと思う。 「……銀、ってどうかな」 「ギン?」 「銀色の、銀」 どのくらい考えていたのか、彼を待たせるのも悪いという焦りもあって、深く考える余裕も無かった。 若輩の浅い言葉を聞いた男は、数秒俺から視線を外して窓の方へ向く。 「ああ、なるほどね」 呟いた彼は、店内の風景をバックにした自らの姿を見ていたらしい。 「面白い。じゃあ、これから僕は、銀で」 目を細めて微笑む若白髪の男は、嬉しげに軽い笑い声を上げる。 これが、俺が初めて彼に行った、命令だった。 互いに下心は持っていたはずだ。 店を出て、小雨が降る中、歓楽街の小路を歩く。 不意に足を止めた銀は、あるビルに視線を送った。 その先には、看板も無い、薄暗く狭い階段が伸びている。 物怖じする俺の手が彼に引かれる。 指から伝わる熱に不安も恐怖も融かされていく、そんなことを感じながら、歩を進めた。 導かれた部屋は、まるで何かのセットのようだった。 「早い内に、打ち明けた方が良いと思って」 男は慣れた風に部屋の隅にある棚へ向かい、いかがわしい物を幾つも手にする。 「こういうのに、興味ある?」 天井からは鎖が下がり、壁には鉄パイプで組まれた櫓、部屋の真ん中には大きな革の椅子が置かれている。 海外の動画サイトで偶然目にするだけの世界。 苦悶の表情で叫び声を上げる、白人の男の姿が脳裏を過った。 「俺、あんまり……よく、知らないし」 「大丈夫。君に、痛い思いや苦しい思いをさせるつもりは無いよ」 「……でも」 鞭や首輪、ディルドを元の場所へ戻し、違和感だけを背負った男が近づいてくる。 何をされても構わない、直前までそう思っていた決心が揺らぐ中 瞬間、彼の腕が俺の身体を絡め取り、抱き寄せられた。 顔全体で感じた湿ったスーツの布地の感触を、今でも覚えている。 火照った肌を冷やすと同時に、彼の首元から発せられる熱が鼓動を跳ね上げた。 「僕を、調教して欲しいんだ。名付け親である、君に」 耳元で囁かれた言葉を理解出来るまで、少し時間を要した気がする。 返事を待たないまま、彼は頭を傾いで唇を滑らせ、やがて俺の唇に自らの唇を重ねた。 「君が思うように、してくれて良い。君の本能を、見たい」 今日も、あの日と同じ雨が降っている。 今年の梅雨は、雨が多いような気がする。 所々タイルが剥がれた階段を上り、くすんだ色の絨毯が敷かれた空間に足を踏み入れると 興奮を抑えきれないまま、抱き締め合い、口づけを交わす。 俺の思慕を、彼に伝えたことは無い。 出会った頃にはもう、男には家族がいた。 時折口にする子供の話に居た堪れなくなることはあっても、不思議と嫉妬にまでは発展しない。 それは多分、銀という彼の中の人格の一つが、俺だけのものであるという自覚があるからなのだろう。 二人でシャワーを浴び、俺は再びスーツに着替える。 全裸の彼が手にした黒い革の首輪が、本能を呼び起こす。 彼に剥き出された、もう一人の自分。 手渡された物を彼の首に回すと、甘い時間は終わる。 -- 2 -- 幾つも連なった球体が、男の体内に飲み込まれていく。 一つ、また一つと沈む度に、その背中に筋が浮き立つ。 小さな呻き声を上げる身体を、撫で、叩きながら、末端の粒が2、3個残る程度まで挿入した。 四つん這いの格好から、上半身を起こして膝立ちさせる。 床に固定された金属製の輪に両手足の枷の鎖を繋ぐと、男の身体は不安と期待に小さく揺らいだ。 異物感から弓形に反った背中は、結果、正面にしゃがんだ俺に向けて下半身を突き出し しばらく眺めていると、性器の僅かな膨張と共に、半開きの口から洩れる吐息に色が混ざりだす。 彼の希求の視線が、俺の全身を舐めていき 不快でもあり快感でもある合図が、衝動を突き上げる。 両端に留め具が付いた短い鎖を、首輪にぶら下がる輪に通す。 背後に座る俺の肩で頭を支えながら、彼は次に来る責めを待ちあぐねているようだった。 既に汗ばみ始めた上半身に手を滑らせ、一際主張している部分に指を添える。 顎の辺りを細かく痙攣させながら、男は視線を宙に浮かせた。 「……っく」 先端がゴムで覆われた小さな留め具で右の乳首を挟むと、苦しげな呻き声が上がる。 強張る肩の感触が、服の上から伝わってきた。 「今日のは、ちょっと、短いよ」 そう囁きながら鎖を引くと、捉えられた部分が引っ張り上げられる。 砕けた音を喉から出しながら、彼は一回瞬いた。 両方の乳首に責めを施すと、見下げた先にあるモノは一層興奮を増していた。 首筋を唇で愛撫しながら、手を脇腹から腰の方へと下ろしていく。 尻を掴み、肛門から顔を出している玩具に手を掛けると、固唾を飲む音が聞こえる。 期待に応えて、球体を一つだけ抜き出し、すぐに押し込んだ。 「はっ……あ」 瞬時に電流が走ったことを示すよう、彼の声に拘束具が軋む金属音が重なる。 「もう、やらしい汁が出てる……しょうがないな」 せわしなく振れる尾を掴み、抜けるか抜けないか、それくらいの力加減で引いては戻すを繰り返すと 糸に操られるかの如く、男の膨張した物が頭を揺らした。 細く長い鎖で肥大した左右の睾丸を縛り上げると、彼は頭を項垂れて痛みに耐える。 「ダメだよ、銀。ちゃんと、顔上げて」 鉤型になっている両端を首輪に引っ掛けながら、その顔を仰がせた。 「ああっ、う」 だらしなく開かれた唇に舌を這わせ、低い呻き声を口移しで飲み込む。 辛苦に曝されながらも、尚、屹立を止めない部分に指を添わせて軽く撫でると その声は矢庭に大きくなり、身体中を拘束する金属体が一斉に悲鳴を上げた。 ベルトを外してファスナーを下ろすと、下着に包まれた、程よく昂ぶったモノが顔を覗かせる。 彼の視線が、俺の顔から下半身へ落ちていき 軽く突き出した腰に引き寄せられるよう、男の頭が近づいてくる。 「欲しい?」 「……ほし、い」 「何が、欲しいの?」 「ご、うの、チンポ、ほしい……」 「じゃ、どうすれば良いか、分かるよね」 不意に向けられた中年男の目尻には、深い皺が刻まれていて 官能的に潤んだ眼が、理性を乱す。 白髪に覆われた頭を掴み股間に押し付けると、彼の唇が性器に熱を纏わせていく。 余りに直接的な快感と、複雑に絡み合った優越感が、身体を震わせた。 口だけで露わにされたモノが、男の口の中へ吸い込まれる。 喉奥で吸い付かれる刺激は腰を砕くほどに激しく、頭の中が霞んでいくようだった。 彼の動きに合わせてそれを突き立てることで、意識を取り戻す。 二人の吐息と甲高い無機質な音が部屋中に拡がり、くすんだ部屋の中に鮮やかな光が明滅する。 下品な水音を引き摺りながら、彼はひたすら俺への奉仕を繰り返した。 もう何年も行為を繰り返しているのに、未だに、絶頂の前には名残惜しさを感じてしまう。 男との一体感から自分一人で離れてしまうことが、怖いのかも知れない。 それでも、噴き出しつつある欲求が、痛々しいまでの圧力になってモノを膨らませ 濡れた咥内で柔らかな物体に扱かれることで、快楽に溺れていたいと思う願望が打ち砕かれる。 「……っあ」 やがて訪れた終末の証しは、肩を大きく揺らしながら目を閉じる男の中に注がれた。 半ば呆然とした男の身体を、背後から抱き締める。 性器は依然上を向き、先端から浸み出る液体には濁った色が混ざり始めていた。 自らのネクタイを外し、彼の眼を覆うように頭に巻き付ける。 「ご褒美に、もっと、焦らしてあげるね」 変わらず乳首を責めたてる鎖を指で弄ると、その口からは深い息が吐き出された。 小型の電マを手に取り、彼の顔の傍で電源を入れる。 耳障りな音が響き、男の身体が僅かに跳ねた。 「どうしようか?」 音と振動に性欲を煽られているのか、小さく首を振り、上半身を捩じらせる。 触れない程度に性器へ近づけると、腰が前後左右に振れ始めた。 「ほら、もっと右だよ」 言葉とは逆の方へ玩具を動かし、無様に突き出されたモノが空振りを重ねる。 「今度は左……そうそう、もうちょっと」 闇雲に腰を振り続ける姿に、つまらない自尊心が満たされていく。 大人の男を掌で操ることの出来るまやかしの時間を、もっと楽しんでいたいと思っていた。 喉が潰れたような短い喘ぎが、彼の限界を示し始める。 刺激を求める身体の動きも、大分鈍くなってきていた。 「こんな調子じゃ、気持ち良くしてあげられないな」 器具の電源を切ると空間の中は途端に静かになり、切ない男の息遣いだけが聞こえる。 「今日は、これで終わりにしようね」 「も、う……すこ、し」 懇願を耳にしながら、その首に腕を回し、自分の方へ引き寄せる。 再び鎖に締め付けられた部分が、紅潮しているのが見えた。 乾いた音が口から放たれたタイミングで、彼の体内から勢いよくアナルパールを引き摺り出す。 「うあ、あああっ!」 我を忘れたように叫んだ男は、瞬間身体を強張らせ、放出された精液が大きな放物線を描いて落ちていった。 -- 3 -- 「申し訳ございません、当部署には鈴木が3人おりまして……はい、鈴木創ですね」 事務の女性の声が、朝の雑然とした雰囲気の中に紛れて聞こえてくる。 「お電話代わりました、鈴木です。ああ、どーも。例の件、どんな感じっすかねぇ?」 「深山!ちょっと!」 引き継いだ軽薄な声に移った意識は、すぐに上司が呼ぶ声に掻き消された。 中堅サブコンである今の会社に入社してから5年が経つ。 当初は営業職での採用だったが、2年前の春から工事監理部に異動になった。 震災を受けて管理部から被災地へ出向する社員が増え、人手が不足していると、当時の上司は言っており 同じ時期、同じ理由で異動してきた人間は10人近く。 復興工事が落ち着けば営業に戻すとも言われているが、当分はここで働くことになるのだろう。 物件の進捗状況を課長に報告し、自席に戻ると、斜向かいに座る男は既に電話を終えていた。 彼もまた、2年前、俺と同じタイミングで横浜支店から移ってきた社員の一人だ。 「深山さ、今日、五反田の現場行く?」 乱雑な机の上で何か探し物をしながら、創さんはそう声を掛けてくる。 「夕方、検査の打合せに」 「品川の現場に持っていかなきゃなんないもんがあるんだけど、オレ、これから逗子なんだよ」 全くの現業未経験の俺と違い、彼は入社当時から工事監理に携わってきている。 東京へ移った今でも、神奈川県内の馴染みのゼネコンから声がかかることがあるらしい。 今日も逗子の現場へ赴くようで、予定表には既に直帰のマグネットが付けられていた。 「再生センターの方でしたっけ?」 「そそ、置いてくるだけでいいからさ」 探し物が見つかったのだろう、取り上げた書類をメーカーの販促用クリアファイルに入れた彼は 俺の答を聞かぬまま、人懐っこい笑顔と共に書類をこちらへ差し出した。 スーツが辛うじて釣り合う程度の明るい髪色に、180cm近い長身、それなりに整った顔立ち。 プライベートで出くわしたら、恐らくサラリーマンとは違う職種を思い起こさせる風貌は こういう業界では珍しく、やはり何処か浮いた印象がある。 横浜にいた頃はもう少しやんちゃをしていたそうで、月曜日の遅刻、二日酔いは当たり前 本社に移る直前になって大分落ち着いたのだと、支店の同期が教えてくれた。 それなのに、業者からの信頼も厚く、売り上げもコンスタントに上げてくる。 そして、書類に貼られた付箋に並ぶ整った文字。 歪な欠片で組み立てられた男に対して、ある程度の好奇心が沸くのは仕方が無いと思っていた。 「何だ、大荷物だな。逗子まで旅行か?」 「だと良いんですけどね。残念ながら、仕事っすよ」 ヘルメットを下げた鞄を手にした先輩に、ベテラン勢が声を掛けた。 「どーせ早上がりして、福富町にでも行くんだろ」 「ま、チャンスがあれば」 下世話な弄りにも然程嫌な顔を見せず、彼は俺の肩を叩いて職場を出ていく。 「じゃ、頼むわ」 「気を付けて。あまり遊び過ぎないようにして下さいね」 「お前が明日の消防検査、代わりに行ってくれるんなら、思いっきり楽しんで来るんだけどな」 担当していた現場が一段落し、残務整理の為に出勤していた土曜日の朝。 携帯に創さんからの着信があった。 「おう、今、大丈夫か?」 「ええ、ちょうど会社にいますよ。どうかしましたか?」 「ちょっとさぁ……作業員がバックレやがって」 「え?」 最近、建設現場で働く作業員には外国人が頓に増えてきている。 もちろん、殆どが就労ビザを取得しているが、中には不法就労のまま現場に入る者もおり 入管の監査が入って現場が止まったという話も伝え聞いていた。 今回はそこまで大事にはなっていないものの、消えた男たちの行方は分からないらしい。 「二人くらい、今日の午後から寄越して貰えるとこ、ねーかな?幾つか当たったんだけど、都合つかなくて」 大型の物件が続いているこの1年くらいは、作業員の遣り繰りに手を焼くことも多くなっている。 彼の当てに余裕が無ければ、俺の当てにもそれほど期待することは出来ないだろう。 「小里さんの所とかは、どうですか?」 一番初めに頭に浮かんだのは、つい先日完了した現場を担当していた親方。 少数精鋭の職人を束ねる下町の男で、彼自身も腕利きだ。 「電話したんだけど、外出してるみたいでさ」 「そうですか……一応、当たってみますけど……分かり次第、折り返します」 「悪いな。面倒なこと頼んで」 思考を巡らせながら電話を切り、溜め息をつく。 アドレス帳にある電話番号は、大抵創さんが知っている所ばかり。 2年足らず監理部に在籍したくらいでは、独自のルートなど開拓できる訳も無かった。 それでも、日頃面倒を見てくれている先輩の緊急事態に、何か役に立ちたい。 「深山君、いるか~?」 迷いあぐねていたその時、フロアの入り口の方から自分を呼ぶ声が聞こえる。 視線の先に立っていた初老の男が、年季の入った浅黒い肌の顔に幾重にも皺を寄せ、笑顔を見せた。 「おお、いたいた。近くに来る用事があったから、渡しちゃおうと思ってさ」 手にしているのは請求書だろう。 小走りに駆け寄り、縋る思いで尋ねた。 「小里さん、あの、今日って……誰か、手、空いてないですか?二人くらい」 -- 4 -- ワイシャツ姿の創さんが会社に戻って来たのは、夕方を過ぎ、暗くなりかけた頃だった。 「どうでした?現場」 「ああ、何とか目途が立ったよ。結局、最後まで人回して貰えることになったし」 「良かったです」 綱渡りのトラブルがつきものの仕事であり、毎度これだけうまく纏まる訳では無い。 安堵の表情を見せる彼に、出来過ぎた偶然への感謝が募った。 「まだ、仕事やんの?」 「いえ、そろそろ終わります」 「なら、飯でも食っていかね?」 「構いませんよ」 立ったままで自席のPCを眺めていた男は、ふと表情を曇らせて椅子に腰かける。 「な~んか、面倒くせーメール……30分待って」 「分かりました」 梅雨の晴れ間になった夜、外は熱帯夜さながらの湿気と熱に満たされていた。 先輩に連れて行かれたのは、会社から電車で15分ほど行ったところにある街。 俺の家には近くなるが、横浜の外れに住んでいるという彼の家からは、若干遠くなる場所だ。 土曜日の夜ということもあり、歓楽街はそれなりの賑わいを見せていて 外で酒を飲む習慣の無い自分にとっては、非日常の空間に足を踏み入れた感がある。 「ここ、よく来るんですか?」 空調の設定が狂っているのではないかと思う程肌寒いスペインバルの店内で モヒートを一口含み、煙草を咥える彼に聞いてみた。 「ああ、この先に風俗街に親方のお気に入りがあってさ。腹ごなしに寄って以来、よく来てるんだ」 昔気質という言葉は上品過ぎると思うくらい、ある年齢以上の男たちは、とかく酒と女に目が無い。 時代は変わり、俺らのちょっと上くらいの世代から、そういう習慣は無くなってきつつあるが 彼は元々嫌いな方では無いらしく、それが親方連中に好かれている理由なのだろうとも思っていた。 「ちょっと寄ってく?」 「いや、俺は、止めときます」 付き合いが悪い、先輩方にそう揶揄されていることは知っているが、行ったところで何が出来る訳でもない。 その点、創さんは社交辞令的に声を掛けてくれても、無理強いはしてこない。 「シロートで手一杯って?羨ましいね」 「そういう訳でも、ないですけど。創さんだって、シロートさん、何人もいるんでしょ?」 「人聞きの悪いこと言うなって。もう、ずっとご無沙汰だよ」 「はぁ……そうですか」 会社の人間とは、あまり深いプライベートの付き合いはしない。 軽口を叩くことの出来る関係まで発展した彼とでも、二人で飲みに来ることは、そうなかった。 初めの内は仕事の愚痴に終始し、酒が回り始めると、社会情勢を経て身近な話題へとシフトしていく。 先輩の興味はもっぱら俺の恋愛事情にあるようで、浮いた話一つ無いことを訝しんでいるらしい。 「お前幾つだっけ?」 「今年で、28ですかね」 「良い頃合いじゃん。結婚して、子供でも出来れば、仕事のモチベーションも上がるだろうし」 「そうはいっても、なかなか。相手も、タイミングも」 真意を悟られないように当たり障りのない答に終始しつつ、彼の話へ方向転換できないかと機会を窺う。 「自分から探しに行かねぇと、さ。降ってはこねーぞ?」 「分かってますけど、何か面倒くさくて。……そういう創さんはどうなんですか?」 「ん~?オレは……あんま、考えたことねーな。一人で良いかって思ってる」 これだけの男が結婚を意識してこなかったはずはない。 けれど、ふと交わった視線の奥に、その理由は見えなかった。 「不毛だな。言葉に全然説得力ねぇわ、お互い」 表情を崩した彼は、笑いながら煙草に火を点ける。 「ハジメ?」 テーブルの脇を通りかかった和服姿の女が、彼に視線を送りながら声をかけてきた。 男は彼女を一瞥すると、途端に顔を曇らせ、気怠そうに煙を吐き出す。 「ああ……店は?」 「これから行くところ。お客さんと一緒なの」 そう言って、女は店の奥へ視線を投げ、微笑みながら軽く手を上げた。 「こちらは?」 「会社の、後輩」 「深山です。どうも」 事務的に名乗る俺に、彼女は眼を滑らせて相応の価値を弾き出す仕草を見せる。 明らかに水系の職業についているであろう女は、恐らく、先輩と同じくらいの歳だろう。 「ハルカです。ハジメとは同じ高校で……幼馴染みたいな、ね」 不自然にテンションが下がった彼の態度と、先輩の首筋から肩を撫でる女の自然な動きで 二人の関係性を推し量ることは容易だった。 女は何か彼に耳打ちをし、またね、と言って去っていく。 「彼女さんですか?」 「……いや」 何かわだかまりを残したような表情で煙草に火を点ける彼は、2、3回煙を吐き出した後に俺を見た。 「ただの、元カノ、だよ」 軽薄な男と、軽薄な女。 未だに身体の関係を保っているであろう二人の情事が頭を過る。 釣り合いの取れた男女が、どんな言葉を寄せ合い、どんなセックスをするのか。 女に対して羨望の想いを抱いていることに気がついた時、自分の節操の無さに嫌気がさした。 知らない番号からの着信があったのは、彼と飲みに出かけた数週間後の夜浅い時間のこと。 「ミヤマ君?ハルカです。覚えてるかしら?」 何故自分の番号を知っているのか、その疑問を口に出すより早く、女は電話口で言葉を並べた。 「ハジメがね、お酒飲み過ぎて酔い潰れちゃったの。貴方に迎えに来てくれるよう頼めって言われて」 疑念が解消しないまま、更に信憑性を確かめようのない話が重ねられる。 「この間、お会いした店の近くなんだけど……来て貰える?」 それでも、真偽はどうあれ、ここで腰を上げなければ彼への罪悪感が生まれることも確かだった。 「……分かりました。場所は、どちらですか」 歓楽街を抜けた所にある古ぼけたマンションの前に立つ。 土曜日の夜だというのに、周囲は静寂に包まれていた。 今時オートロックも無いエントランスで、女に到着の報せを入れる。 こちらへ電話してきた時とは様相の違う陽気な声と、周囲から漏れ聞こえてくる喧騒が まともな集まりでは無いのだろうと、少し、心を強張らせた。 エレベーターで降りてきた女は、見るからに酒に酔わされている。 「ごめんねぇ。わざわざ、来て貰っちゃって」 箱に乗ったままで手招いて、俺を呼ぶ。 先輩を連れて帰るまでの辛抱だ、そう自分に言い聞かせながら、彼女の元へ赴いた。 最上階の部屋の玄関を開けると、短い廊下は何かの煙で靄がかかったようになっており 雑多なアルコールの匂いが鼻を衝いた。 右腕にしな垂れかかる女の胸が、無理矢理柔らかな感触を与えてくる。 「……創さんは?」 「こっちよ」 人の気配がする正面の扉では無く、その手前のドアに女は手をかける。 視線の先の空間はやたらと薄暗く、中に何があるのか瞬時には分らなかった。 その時、俺の背中を女の腕が強く押す。 思わず姿勢を崩した身体が誰かに押さえ込まれ、背後から鼻と口が布で覆われる。 吸い込んでしまった匂いに、身の危険が現実のものになったのだと、感じていた。 -- 5 -- 銀と逢瀬を交わすようになってすぐ、興味本位で手に入れたセックスドラッグを持っていったことがある。 その頃流行っていたもので、安価でそれなりに効き目があるとの触れ込みだった。 しかし、軽い気持ちで差し出したそれを見た男は、眉を顰めて俺を見た。 「そんなものに頼らないと僕の身体に触れられないのなら、もう、こんなことは止めようか」 思いも寄らない重い発言に、自然と手を下げる。 「ごめん。気持ち良く、なるっていうから……どうなのかなって、思って」 「確かに、そうかも知れない。けど、僕は紛い物の本能なんて、求めてない」 言葉を失った俺の手から小瓶を取り上げた彼は、蓋を開け、中身をトイレへ流す。 「お金は払うよ。でも、もう二度と、手を出しちゃダメだ」 「……分かった」 差しのべられた手を取ると、身体は引き寄せられ、彼の腕の中に納まる。 「僕は、ありのままの君で十分満足してる。君にも、そうあって欲しい」 あの時、瓶の口から漂ってきた甘苦い匂いが、今、器官を通って喉まで沁みる。 混乱も重なった心が、激しく動揺した。 薄くなっていく意識の中で、身体中に衝撃と痛みが走り、抵抗する気力が削がれていく。 いつの間にか灯りの点いた部屋の中には、複数の男女と大きなベッドが見えて 言葉を発することも出来ないまま自由を奪われた身体が、抱え上げられ、舞台に載せられた。 俺の上に跨ってきた女は、顔を厭らしく歪め、そのまま唇を奪う。 蕩けそうな位の感触は、信じられないほど不快だった。 「乱暴しちゃって、ごめんなさいね」 心非ずの言葉を放ちながら、女は上半身に纏っていた服を脱ぎ去る。 頭の方に座る男が、抵抗しようともがく腕を掴んだ。 「イイ女がヤりてぇって言ってるんだから、ジタバタすんなよ」 「……どういう、ことだ」 「ハジメが言ったのよ。キミと、ちょっと仲良くなりたいな~って言ったら、こうすれば良いって」 日常的に向けられていた男の笑顔が頭を過る。 そんなこと、有り得ない。 これまでの関係は、一体、何だったのか。 信じていた俺が、悪いのか。 「ちょ~っと強引だったけど……大丈夫、最高にハッピーにしてあげる」 頭上から伸びてきた手に頭を押さえつけられ、口の中に金属の器具が押し込まれる。 女の手がTシャツを捲り上げ、強張る上半身を撫でていく。 徐々に虚ろになっていく視界に男の影が映り、目の前に露わになった性器が差し出された。 「オレ達にも楽しませてくれるだろ?」 息つく暇も無く咥内が他人のモノで満たされた時、俺は、全てを諦めた。 ずっと、眼を閉じていた。 自分の口で勃起を促したそのモノで、男と女が愉しむ声が聞こえる。 自分の性器をしゃぶり、美味しいとくだらないことを言う女の声が聞こえる。 身体は確実に浮かされていて、無理矢理開かされている口から乾いた呻き声が漏れていく。 粘性の液体が身体中を覆い、手や玩具に弄られる毎に示す反応が奴らを悦ばせていると思うと 悔しくて、情けない。 増幅された性感が脳を刺激する度に、これは紛い物の本能なのだと、言い訳を繰り返した。 急に身体が裏返され、腰が持ち上げられる。 既に上半身には力が入らなくなっており、顔をシーツに埋めるのが精一杯だった。 腰回りに垂らされたローションを尻の方まで塗り拡げているのは、明らかに女の手。 「ハルカ、そんな趣味あんのかよ」 「だって、カレ、可愛いから。ちょっと、犯してみたいな~って」 女が言葉を吐くと同時に、偽物の感触が股間に当たる。 「ミヤマ君、エッチな声、いっぱい聞かせてね」 入り込んできた異物が全身に痛みを駆け巡らせる。 声にもならない悲鳴が、ベッドに吸い込まれていった。 眼の奥がチカチカと点滅を繰り返し、鼓動が乱れ、思考が弾け飛んでしまいそうになる。 矢庭に頭が持ち上げられ、勃起した男のモノが目の前に現れた。 汗とも涙ともつかない液体が頬を流れていくのを見たのだろう。 「泣くほど気持ち良いのか?良いペット手に入れたなぁ」 屈辱で折れた心に追い打ちをかけながら、奴は自らの性器を俺の口に突っ込んだ。 前後から突かれる身体が、串刺しにされたような感覚に堕ちていく。 このまま意識を失ってしまえれば、どんなに良いだろう。 そう願いながら流されていた俺を、突然暴発した男の精液が攫った。 器具の所為で飲み込むことも出来ない液体が、無残に開いた口から唾液と共に流れ落ちる。 「やだ、イっちゃったの?」 「こいつの腰、すげーやらしいからさぁ、ちょっと興奮したわ」 「ちょっと、ハジメみたく男に走るのは、勘弁してよ」 耳に刺さった信じがたい言葉を引き摺りながら、身体が再び仰向けにされる。 無様に屹立した性器を舌で突きながら、女は淫らな視線を投げた。 「お尻犯されて、こんなにビンビンになっちゃうんだ」 俺に跨り、自らの愛液を性器に纏わせながら、やがてモノを飲み込んでいく。 「……ナカに出して、良いからね」 下品な水音と共に締め付けられていく部分が、絶頂へと逸る。 そこには汚辱しかないはずなのに、無数の襞の中で擦り合わされる刺激は現実で 数分後、俺は、彼女の中で果てた。 部屋を出たのは、夜も大分更けた辺りだったと思う。 「ねー、タケルが新しいの、持ってきてくれたってよ」 何処かから聞こえてきた女の声で、周囲の連中の態度が一気に色めき立つ。 遊び飽きた子供がおもちゃを放りだすように、間もなく、部屋から人の気配が消えた。 拘束は、全て解かれている。 この場を離れるのは今しかないと、這うように外へ出た。 あの一言がなければ、俺は一晩中、慰み物として弄ばれていたのかも知れない。 上がってくるエレベーターのランプを見て思わず非常階段へ逃げ込む。 自分以外の他人と顔を合わせるのが、とにかく怖かった。 やや涼しさを含んだ夜風に曝されながら、一歩一歩階段を下りる。 飛び降りたら、すぐに降りられるじゃないか。 依然として狂わされた意識を、頭を振って追いやった。 痛む身体を引き摺り、何とか忌まわしい建物を離れ、最寄駅に辿り着く。 幸い、最終電車にはまだ間に合う時間だった。 とにかく、家に辿り着こう。 一晩寝たら、幾許かでも、落ち着くはずだ。 でも、明後日の朝、あの男と顔を合わせた時、俺はどんな態度を取れば良いのか。 俺を売った、あの男は、どんな顔をして俺に声を掛けてくるつもりだろう。 携帯の着信と、電車の到着を報せるアナウンスが流れたのは、ほぼ同時だった。 罠を仕掛けた男の名前が、ディスプレイに記されている。 そこまでして、俺を、貶めたいのか。 どうして、俺を、裏切った。 気持ちの中で何かが切れた瞬間、足がふらつき、身体が傾く。 絶望感に翻弄され、身体から力が抜ける。 危ない、と誰かの叫び声が聞こえた瞬間、激しい衝撃と共に、視界が闇に包まれた。 -- 6 -- 目を覚ますと同時にやってきたのは、腰・肩の痛みと、痺れた足の感覚だった。 見慣れない天井に、いつもとは違う感触のベッド。 何故、俺はこんな場所にいるのか。 記憶を手繰り寄せても、理由は全く浮かんでこない。 顔を右へ傾けると、椅子に座り本を読んでいる母の姿が目に入った。 「か、あさん……母さん?」 上手く出ない声に自分でも驚きながら、呼びかける。 「……豪?気が付いたのね?!」 固まっていた表情が、一瞬の内に泣き顔へ変わった。 何か重大なことになっていたようだ、母の嗚咽を聞きながら、俺の中ではまるで他人事だった。 2週間前の夜。 俺は行った覚えの無い駅で、電車に飛び込もうとしていたらしい。 間一髪周りの客に助けられたが、右肩と頭を強打し、ずっと意識不明のままだったという。 「辛いことがあるなら、一言言ってくれれば……」 切なげに呟いた自らの言葉で、母はまた鼻を啜り始める。 それでも、当の本人には何の心当たりもない。 自分の身に起きた変化といえば、大きな震災があったことと、異動が決まったということくらいだ。 息子の独り言に、彼女は矢庭に訝しげな表情を見せた。 「何言ってるの……?震災があったのは、もう、2年も前よ?」 「……え?」 「それに、異動したのも、そのすぐ後だったでしょ?」 つまらない嘘をつく人ではないことは、良く知っている。 噛み合わない会話の原因が自分にあるらしいことに気が付き、血の気が引いていく。 「母さん、今……平成、何年?」 何人もの医者が自分の元にやってきては、同じことを何回も聞いては帰る。 俺はその度に、同じことを何回も答える。 頭を強打していたことから、CTスキャン、MRI、あらゆる診察を矢継ぎ早に受けるが、原因は分からない。 異動する直前から、恐らく、異動先で仕事をこなしてきていたであろう2年分の記憶が 俺の中から、一切、消え去っていた。 夜になり、母は沈痛な面持ちのまま病院の近くのホテルに戻っていった。 側机の中に入っていたスマートフォンは、見覚えは無いけれど、自分の物なのだろう。 事故に逢った時に外装とバッテリーが壊れたもののデータは残っているそうだ。 ロックがかかっていたが、どうせ暗証番号はいつも同じ番号。 ラウンジの片隅で充電をしながら電話やメールの履歴を確認する。 メールの受信ボックスには見知った名前が並び、最新のメールは銀からのものだった。 俺が立ち止まってしまった2年前から、彼と付き合いが続いているということに嬉しさが込み上げる。 『最近連絡がないけど、忙しいのかい?落ち着いたら、また、君の顔が見たい』 短い文章から感じられる優しさに、けれど、溜め息が漏れた。 失った時間の中で、どれだけ彼を感じていたのだろう、と。 通話履歴には知らない名前も半分ほど混ざり込んでいる。 業者らしき名前があるところを見ると、仕事用としても使っていたらしい。 最後の着信履歴は、事故にあったという日の夜、知らない名前の男からだった。 しかし、俺はその電話には出なかったようで、留守電も残されていない。 履歴に複数回登場する彼は、どんな関係があった人物なのか。 思い出そうとしても、何も出てこない。 仕方ないと割り切るしかないのに、どうしてか、俺は一晩中、その風貌を思い出そうと躍起になっていた。 意識を取り戻してから一週間が経った頃、病室にスーツ姿の男が二人やってきた。 一人は年配で眼鏡をかけた男、もう一人は、背の高い、若干軽薄そうな印象の男だった。 俺が記憶を失っていることは、知っているのだろう。 彼らが渡してくれた名刺には、俺が所属しているはずの工事監理部の名称が並んでおり 若い方の男は、最後の履歴に残っていた、あの人物だった。 「退院の目途が付いたら、工事監理部へ復帰して欲しいんだ」 神妙な顔つきの渡邉課長は、腕を組んだままで俺を見る。 「もちろん、深山君次第だけれども……今は、人手が不足していてね」 営業から移ることになった、俺にとってはつい最近にも、そんな理由を聞いた気がする。 とはいえ、監理部の仕事は全くの未経験状態になってしまった自分に、何が出来るのか。 素直に不安を口にした部下に対して、上司は表情を和らげる。 「今までだって十二分にやってくれていたんだから、大丈夫。なぁ、創」 ハジメと呼ばれた男は、急に振られた言葉に咄嗟に反応することは出来ず、ただ狼狽えていた。 「えっ……ええ、そうですね」 チャラい見た目の割に、口はそれほど達者ではないのだろうか。 しかも、頻繁に電話をくれるほど親しかったはずなのに、彼は一度も俺の顔を見ようとしない。 「ああ、そうだ。これを……書いて欲しいんだ」 男の態度に対して些か疑問を感じ始めた俺に、課長は書類を差し出してくる。 休職願いと、業務研修に関する届出。 「お前、明日、ここに寄れるか?」 「大丈夫です。夕方前くらいなら」 「じゃあ、深山君、悪いんだけど、明日までにお願いできるかな」 「分かりました」 結局、彼は終始俯き加減のまま病室を後にした。 そんな男の姿が、心に大きなわだかまりを残す。 心配する素振りも無く、かといって無関心を装う訳でもない。 最後の電話の用件は、何だったのだろう。 俺が事故に合うきっかけになったことを、彼は何か知っているのかも知れない。 昨晩巡らせた想像とは全く違う人物像だった男に対して、俺は、執着にも近い興味を抱き始めていた。 -- 7 -- 薄暗く霞んだ視界の中に、存在を感じる。 姿は見えず、性別も、年齢も分からない。 ただ、ヒトであるということだけを認識できる存在が、俺に背を向けて遠ざかっていく。 『どうして?』 ぼやけた声が、二人だけの世界に響いた。 『どうして』 届いているであろう言葉を無視し、存在は徐々に俺との距離を広げる。 『どうして、俺を、裏切った?!』 さっきとは違う、驚くほどに鮮明な声が空間を包む。 何者かは、その段になって、やっと歩みを止めた。 『……好きだったのに』 絞り出した告白で、奴はゆっくりとこちらを振り返る。 その瞬間、俺は現実に引き戻された。 男が再び病室に現れたのは、夏の太陽が傾き始めた時間だった。 「ごめん、遅くなって。ちょっと、現場が押しちゃって」 「いえ、こちらこそ、わざわざすみません」 相変わらず覇気の無い顔で、彼は俺から書類を受け取り、鞄に仕舞い込む。 「あの付箋の字、鈴木さんの字ですか?」 「え?……ああ、多分、そう」 「綺麗な字、書かれるんですね」 「見た目と違うって……?よく言われるよ」 たわいもない雑談で、彼の顔がやっと緩んだ。 「そういえば……鈴木さん、僕が事故に遭う前、お電話頂いてますよね」 場の雰囲気に乗じて、疑問に思っていたことを口に出す。 すると、男は再び表情を強張らせ、目を伏せた。 「電話、取らなかったみたいで。何か用事があったんじゃないかと」 「いや……それは、仕事の件で確認したいことがあって……もう大丈夫だから」 「そうですか。もしかしたら、その時のことを、何かご存じなんじゃないかと思って」 心なしか震えているように見える大きな身体が、溜め息と共に上下に揺れる。 「……本当に、何も覚えてないんだな」 耳に届いた声は、彼の心痛を表すのに十分なほど切なさに満ちていて 俺と彼の間にあった関係は、先輩と後輩以上に近しいものだったのかも知れないと思わせた。 「でも、昨日、夢を見たんです」 「……夢?」 「好きな人に裏切られて、絶望する夢。当時の僕に、何か、そんなことがあったのかな、と」 窺うようにこちらへ向けられた視線は、心なしか怯えているように見える。 「好きな、人?……彼女、とか?」 「そういう人がいたのかも、覚えてないんです。でも、それなら見舞いにでも来てくれるでしょうし……」 「そう、か」 「僕の片想いだったのかも知れません。けど……もし、何か事情があったのなら、それが知りたくて」 後輩の独白に、彼は動揺を隠さないままで背を向ける。 確実に何かを知っている、それは確かだった。 「ゴメン、仕事残ってるから、戻らないと」 「鈴木さん、何か知って……」 「深山」 問い質そうと気を急く俺を制するよう、彼は振り返りもせずにワントーン低い声を吐いた。 「そんな奴のことは、忘れろ。思い出したところで、傷つくだけだ」 退院して、まず一番に会いたいと思っていた、記憶に残る人物だった。 頭の中の姿からは、随分と老け込んだような気がする。 古ぼけた雰囲気が変わらないままの喫茶店で目の前にした男に、そんな印象を抱いた。 「僕の中の君は、何も変わっていないけどね」 そう言って微笑む表情は、確かに何も変わっていない。 「本当に良かった。君と、また会えて」 人生に空いた大きな穴を気遣う様、彼は俺の手を握り、真っ直ぐ見つめてくれる。 俺とのこと、世の中のこと。 ゆっくりと一つずつ、彼の言葉が過去を紡ぎ、俺の心を覆っていった。 身体のことを心配してだろう、その夜、本能を曝し合うことはしなかった。 別れるには早い時間だけど、と名残を惜しみながら席を立った時、彼の上着から一枚の写真が落ちる。 「銀、これ……」 拾い上げた写真に写っていたのは、一組の男女。 一人は見知らぬ女、もう一人は、何か秘密をひた隠しにしているであろう、会社の先輩だった。 何故、銀が彼の写真を持っているのか。 「あ、ああ……ありがとう」 疑問を呈する間もなく、男は慌てた様子で俺の手からそれを抜き取った。 彼もまた、何かを隠している。 もしかしたら、あの影は、この男なのか。 俺は、何を信じたら良い? 疑心暗鬼が心に影を落とした瞬間、激しい眩暈が身体の平衡感覚を失わせる。 「どうした、ゴウ?」 頭の中が瞬き、暗転し、目まぐるしく様々な風景が駆けていく。 意識は確かにある、けれど、膨大な記憶の洪水に流されないよう、立っているのが精一杯だった。 「一回、座ろう」 彼に言われるがまま、再び腰を下し、頭を抱える。 思い出したところで、傷つくだけだ。 俺に背を向けた男の言葉が、耳の奥に響く。 「……俺、知ってる。そいつが、俺を嵌めた」 「思い、出したのか?」 「あの時、クスリ嗅がされて、意識がはっきりしなくて……そのまま、電車に」 早送りされる時間に混乱する俺の肩を、彼が自らの方へ引き寄せる。 しゃがみ込んだ男の胸元に頭を預けると、訳も分からないまま涙が溢れた。 何も知らずに赴いたマンション。 男の裏切り。 女たちから受けた屈辱。 忌まわしい、思い出したくなかった出来事が、残酷なほど鮮明に、目の前に迫ってくる。 -- 8 -- 麻薬取締官。 10年も付き合っていた男の正体が、本人の口から初めて明らかになる。 テーブルの上に並べられた何枚もの写真には、あの夜の記憶の中にぼんやりと浮かぶ顔もあった。 その中の一枚を、彼は俺に指し示す。 「こいつは、その時、いた?」 左耳に幾つものピアスを付けた、金髪の男。 名前は、タケル、というらしい。 「……名前は、聞いた。顔は、見てないけど」 「何時頃?」 「分かんない……でも、部屋を出る直前、そいつが来て、皆、いなくなった」 偶然にも、俺が逃げ果せるきっかけを作った男は、麻薬の売人。 幼い顔の造作からは想像もつかない見知らぬ青年を、目の前の男は何年も追っているという。 女たちが集っていた、俺が連れ込まれたあのマンションの一室は 彼が探していたヤク中たちの溜まり場の一つだったらしい。 もちろん、その中には、写真に収められていた軽薄な男も含まれている。 黙っていてすまなかった、そう詫びながら銀は写真を仕舞い込む。 「彼も、捕まるの?」 会社の先輩であり、淡い思いを寄せていた存在でもある、俺を裏切った奴のことが頭を過った。 そうなればいいと、思っていたような気もする。 けれど、そうなって欲しくないと思う自分も、確かにいた。 「こいつらとつるんでることは確かだけど、一先ず身柄を確保して、検査して、それからかな」 「……そう」 「でも、多分僕は、彼と対峙したら、個人的な感情は抑えられないと思う」 男の指が静かに頬を撫でて、視線を上向かせる。 「君をこんな目に合わせた罰は、相応に受けて貰うよ」 一ヶ月半ぶりに復帰した社内に、大きな変化は見られなかった。 事故の前に受け持っていた物件は各々誰かが代理で進めてくれていたようで 滞りなく、竣工検査を終えたのだという。 「おお、来たか。じゃ、とりあえず工程打合せやるぞー」 俺の顔を見るなり、課長は同じグループの面子に声を掛け、それを合図に周囲がざわつき始めた。 この慌ただしさが、妙に懐かしく、新鮮に感じられる。 ただ一つ、斜向かいの席にいるはずの男の姿だけは、無かった。 「クスリに手ぇ出したってさ。まぁ、いつかやるだろうと思ってたけどな」 社内に流れていた噂は、当たらずとも遠からじ、といったものだった。 正確には、連行され、事情聴取を受け、嫌疑不十分で釈放された、ということらしい。 薬物検査でも陰性だったというから、少なくともその近辺に使用は無かったのだろうが 会社としては大事と受け止めたようで、彼は即日半年の休職、謹慎を言い渡された。 「懲戒って話もあったが、そこまでは止めて貰った」 打合せの後、渡邉課長は寂しげに本音を呟く。 「……どっちにせよ、あいつだって、もう戻れないだろう」 元々横浜支店にいた課長は、彼が新人の頃から面倒を見てきた。 本社に移った後、人材を補強しようという話になった時も、真っ先に声を掛けたのだという。 「オレにできるのは就職先の斡旋くらいだけどな」 上司の言葉の端々から、まだ部下を信じている、そんな感情が滲む。 現実として受け止めきれていないのは、俺も同じだったように思う。 ようやっと戻ってきた日常を過ごす中、やがて、心に受けた傷は痛みから疼きに変わる。 職場復帰から2週間ほど経った週末の夜。 携帯電話片手に1時間ほど逡巡し、意を決した。 長い呼び出し音の後、留守電に変わる。 それを2回繰り返し、3回目になって、電話口に相手が出た。 「……何か用か」 久しぶりに聞く男の声は、憔悴しきっている様を容易に想像させるものだった。 「一つ、聞きたいことがあって」 「何だ」 俺が記憶を取り戻していることは、彼も知っているだろう。 俺が彼に何を聞きたいかも、推察できているだろう。 それなのに、彼は何の言い訳もしない。 無性に、悔しかった。 「どうして、俺を、裏切ったんですか」 このまま電話を切られてしまうかも知れない。 不安に思わせる程、彼は沈黙を続け、時折溜め息を揺らした。 「あのまま、俺の記憶が戻らなければとでも、思ってましたか」 「そんなこと……」 「いっそ、死んでくれればとでも、思ってましたか?」 子供じみた感情が一気に噴き出していく。 俺の口調に釣られる様、彼の言葉の語気も強まった。 「そんなこと、思ってる訳ないだろう?!」 「じゃあ、何で俺をあの女に売ったんだ?あんたが仕組んだんだろ?何でも良いから言い訳してみろよ!」 「オレじゃない!」 彼の心の叫びが鼓膜を震わせ、俺の気持ちを落ち着かせていく。 信頼していた。 少なからず、恋愛感情も抱いていた。 手を離され、背中を向けられたことが、自分で思っていた以上に、心にひびを入れている。 砕けない内に、彼から、答を聞きたかった。 -- 9 -- 電話の向こうから、裏返りそうなくらい不安定な声がポツリポツリと流れてくる。 「知らなかったんだ。あいつらが、何を企んでたのか……気が付けなかった」 俺があの部屋で無残な時間を過ごしていた時、彼は、別の場所で情事を楽しんでいた。 一方的に好意を寄せられていて、断りきれなかったと言っているが つまらない嫉妬心が邪魔をして、素直に受け取ることは出来なかった。 相手が部屋を出たのは、夜の11時前。 彼の携帯に女からメールが届いたのは、そのすぐ後のことだそうだ。 『そっちはどう?こっちは最高よ』 ハートマークのびっしりと並んだ文面と、一つの動画。 そこに映っていたのは、複数の男女に蹂躙される後輩の姿だった。 「状況だけ、やっと飲み込んで、それからのことは……あんまり、覚えてない」 怒りで我を忘れたまま、彼は例の部屋へ向かう。 エレベーターを降り、玄関を抜け、馬鹿騒ぎの声が聞こえるドアを開ける。 気が付いた時には誰かに羽交い絞めにされていたというから、それなりの暴力沙汰になったのだろう。 部屋の隅で震えている女のスマートフォンを酒瓶で滅茶苦茶に壊したことは、確かに覚えているらしい。 「どいつもこいつも、グルだった。オレだけが、知らなかった」 俺の電話番号は、女との情事の際に盗られたのだろうと彼は言った。 「……信じて貰えないだろうことは、覚悟してる」 途切れ途切れの呟きが、やがて細かな嗚咽に変わる。 「結局お前を、あんな目に遭わせたのは、オレの所為なんだから」 信じる根拠は無い。 でも、信じない理由も無い。 宙に浮いた憎悪をどうすれば良いのか、そう考える内に、彼への同情心が芽生えてくる。 やっぱり、俺はまだ、彼を諦めきれない。 「クスリはやってないって、本当ですか」 「オレは、やってない。売り買いしてんのは……知ってたけど」 「会社は、辞めるんですか」 「……来月には、辞める」 「次に行くとこ、決まってるんですか」 「課長……渡邉さんに、紹介して貰って……昨日、決まった」 短い応答を繰り返しながら、気持ちを整理する。 俺は、彼と、どうなりたいのか。 その為には、どうすれば良いのか。 「男と付き合ってるって……聞きました」 忘れ去りたい時間の中で、唯一、強烈に焼きついた言葉を問うてみた。 短い声を上げた彼は、再び沈黙の息遣いに変わる。 「あの女が、言ってました。創さんが、男に走ったって」 「付き合ってる、訳じゃ、無い。ただ……酔った、勢いで」 「酔ったら男とヤれるんですか」 「それは……」 手繰り寄せた糸に、手応えを感じる。 少し、身体の奥が熱くなったような気がした。 「それって、酔ったら、オレとでも出来るってことですよね」 電話の向こうから響いてきた溜め息には、困惑と恐怖が混ざり込んでいるようで 俺は、彼の心の奥底にある罪悪感に付け込んでいるのだと、気付かされる。 これに乗じて、このまま、全て攫ってしまいたい。 「一回、あの時の俺の気分、味わってみませんか?」 それで、何もかも赦してやる。 彼にはきっと、そう聞こえたのだろう。 分かった、と答えた声は、消え入りそうな程微かで震えたものだった。 男と再会したのは、急に冷え込んだ秋の夜、小雨が降る裏通りだった。 ここに来る時は、何故だか雨模様の日が多い。 激情が行き過ぎないようにと、見えない力でも働いているのかも知れない。 薄手のコートを纏った彼の風貌は、真夏の太陽に照らされていた頃とはまるで変っていた。 短めの黒髪に、痩せ細った身体。 長身であることも相まって、幾分病的にも感じられるほどだった。 「体調、悪いんですか?」 「大丈夫。ちょっと……食欲が無いだけだから」 伏し目がちに答える男は、恐らく素面のはずだ。 「何処かで、飲んでからにします?」 「いや、このままで……良い」 その光景は、彼の恐怖心を煽るのには十分だっただろう。 赤を基調とした部屋の中には、磔台や拘束用の櫓、拘束椅子などが置かれており 天井から設置されたレールからは、何本もの鎖が吊り下がっている。 中年の男とのプレイでも使わない、拷問部屋と呼ばれるプレイルームの一つ。 入口から少し離れた場所で立ち尽くす男は、視界の中にある現実をどう受けていたのか。 「いつも、自分優位のセックスをしてるんでしょうけど」 扉に鍵をかけながら、小さくなった背中に声を掛ける。 「ここでは、俺が上ですから」 肩に手をかけて振り向かせた男の顔は、悲壮な表情を浮かべていた。 「俺が病室で言ったこと、覚えてますか」 見上げる視線を受け止める眼が、落ち着かない。 覚えていないことは無いのだろう、ただ、その真意が分からなかっただけで。 「片想いじゃ、満足できない。淡いままで、終わらせたくない」 襟元を掴み、頭を眼前に引き寄せた。 「創さんの、本能が、見たい」 強張る彼の唇に、自分の唇を重ねる。 数回触れ合わせ、細切れになった吐息を絡ませながら、徐々に開いていく割れ目を舌で撫でた。 誘い出されてくる舌を、舌先で突き、擦り合わせる。 眉間に皺を寄せ、眼を歪ませたまま、彼はその行為を受け容れていた。 -- 10 -- 両手に付けた枷に、天井から下がる鎖を繋いで引き上げていく。 辛うじて足先が着く程度まで、ワイシャツ姿の身体が伸びた所で、チェーンロックをかける。 ネクタイを引き抜き、シャツのボタンを外し、インナーをたくし上げて上半身を露わにさせると 殆ど脂肪の無い腹に、肋骨が浮いていた。 抱き締める様に腕を回し、脇腹を撫でると、皮と骨で作られた凹凸が掌に伝わる。 壊れそうなほど脆い感触に、恐怖すら覚えるほどだった。 うな垂れたままの顔を上向け、短い髭が生えはじめた喉元に舌を伸ばす。 呼吸に合わせて震える喉仏を唇で挟むと、頭上から苦しげな喘ぎが聞こえる。 脇の下に添えていた手を胸元へ滑らせ、指で軽く乳首を刺激すると 咳き込む身体が揺らぎ、鎖が音を立てた。 片方を指で摘みながら、もう片方に吸い付く。 小さな突起を弄られ、長い身体は細かな反応を絶え間なく見せた。 徐々に指に力を籠めていくと、鼻から吹き出す空気の量が増える。 両方の乳首を捻り上げると、眼を閉じて刺激に耐える。 「……感じます?ここ」 鼻先でそう問いかけると、やっと見せ始めた抗いの眼が開き、俺を刺した。 「いっ……」 責めで紅潮した部分をクリップで挟むと、彼の口から引きつった声が出る。 チェーンで繋がれた他端も、同様に彼の小さな性感帯を苛む。 みぞおち辺りまで垂れ下がった鎖を何度か揺らすと、目尻に皺が寄り、こめかみに青筋が立った。 「咥えて」 鎖を引き、口元に差し出す。 瞬間怯んだ彼は、小さく口を開け、おぼつかない様子でそれを唇で咥え込んだ。 額に手を当て仰がせると、短めの鎖が乳首を引っ張り上げ、彼の性感を煽る。 「……ん、ぐっ」 「気持ち良さそうな顔して……自分で気持ち良くなってて、良いですからね」 手を離すと僅かに顔は傾いたが、男は忠実に、命令を聞いていた。 ベルトを外し、細身のスラックスを膝まで下ろす。 灰色のボクサーの中では、幾分右に傾いた性器が存在を主張している。 睾丸を掴む様に手を添えて下から撫で上げると、無駄な抵抗が全身を波立たせた。 彼の足元に膝立ちになり、左手でモノを擦りながら、右手を尻の方へ回す。 爪先立ちの脚では、身体を捻っても些細な足掻きにしかならない。 尻を掴んで、彼の顔を見上げる。 鎖を咥えたままで眼を細める彼は、程なく、割れ目を滑る俺の指の動きに屈していった。 下着の中のモノは、明らかに良い反応を見せている。 布の上から彼の穴を突く度に、それは可愛げに震えた。 先端から滲んでいるであろう汁が下着の生地に染み、黒く変色している。 興奮を促すように、ローターを手に取り、ゆっくりと性器を刺激すると 機械的な感触にびくついた身体が硬くなり、腰回りの筋肉が引き締まった。 剥き出された部分は、既に降伏を示す汁に濡れていて カリ首に沿って玩具を押し当てると、金属音と共にくぐもった声が降ってきた。 「こんなに垂れ流して……ちょっと、栓、しておきましょうか」 黒い箱の中に並べられた複数の小さく細い金属の棒。 その中で、無数の突起が付き、先端が閉じられたブジーを指で摘み、彼に見せる。 散々遊んできたであろう男でも、咄嗟に何かは分からなかったらしい。 慄いた眼に笑みを返し、勃起した部分を掴む。 「……っあ、ぐ」 棒の先を尿道から一気に差し込むと、彼は咥えていた鎖と共に口から悲鳴を吐き出した。 「俺が満足するまで、射精はお預けですよ」 痛みで僅かに萎えた部分を、更に玩具で焦らす。 掌で玉を交互に転がしながら、竿にローターを這わせると 性器の表面に幾つもの血管が浮き立ち、衝動をあからさまに表した。 生々しい肉感に誘われ、筋に沿って舌を伸ばす。 手の中の睾丸を徐々に力を籠めて握っていくと、彼は苦痛と快楽の混ざりあう声を吐いた。 裏筋に沿って唇を動かしながら、再び尻へ手を伸ばした。 左手で尻の肉を掴み、指で摘んだ小さなオモチャを、拡げられた割れ目に沿って滑らせる。 「んっ……」 穴を捕らえられた恐怖が、一瞬の呻きとなって放たれた。 同時に、口元のモノが急激に波打つ。 「このまま、入れちゃいましょうか?」 力無く振れる頭は、正直な下半身とは真逆の反応。 抵抗を無視して、ローターの頭の部分をめり込ませる。 「あっ……はぁ」 「ちゃんとケツの穴でも感じるんですね。ほら、チンポもビクビクしてますよ」 「そ、んな……」 荒い呼吸に呼応するよう、玩具が入口付近で出たり入ったりを繰り返す。 タイミングを合わせて軽く指で押し込むと、卵形の物体が男の中へ入っていった。 「……っん」 スイッチを強に振り、そのまま股間にぶら下がる形にする。 「抜けないように、ちゃんと締めてて下さいね」 足の爪先により一層の力が入り、尻の肉が締まる。 唇を噛み締める彼は、全身を強張らせながら育ち始めた快楽に耐えていた。 正面に立ち、これまで経験したことの無いであろう類の刺激に身悶える男の姿を眺める。 「創さん、俺の方、見て下さいよ」 そう声を掛けると、彼は険しい眼差しをこちらへ向けた。 「そんなに怖い顔、しなくても」 顎に手を添え、震える唇に口づける。 漏れてくる吐息の官能さに、身体が熱くなっていくのが分かった。 「気持ち良いですか?」 「っう、いぃ……」 「何処が?」 「……な、か」 「じゃ、そろそろ、本番にしましょうか」 俺が差し出した物に、従順になったはずの男はあからさまな嫌悪感を示した。 あの夜、俺を貫いたサイズと同じくらいのディルド。 ローションを纏わされていく黒光りする張り型に、彼の怯えた表情が反射する。 -- 11 -- 背後に回り込むと、男の身体は逃げるように弓なりになった。 腹に手をかけ腰を引き寄せ、先客を引き抜いた後 大ぶりの玩具についた粘液を尻の割れ目に擦り付けていく。 「俺も、こんなの入れられたんですよ……創さんの、オンナ、に」 耳元で囁かれる脅し文句に、彼は小さく首を振る。 「これくらい我慢して貰わないと、俺の、入んないかも」 その言葉で、彼の口から深い溜め息が出ていく。 同時に、陰部を滑っていた作り物の先端が、入口を探り当てた。 「ひっ……」 上ずった悲鳴が、身体中を駆ける痛みで途切れたのだろう。 勢いよく押し込まれたディルドが、彼の体内を激しく抉る。 上半身に手を回し抱き締めると、強張った身体は小さく痙攣していて めり込んでいく異物が男を砕いてしまいそうな不安が、頭を過った。 下腹部を擦り、力が抜けるように促しても、俯いたままの彼の様子は変わらない。 彼に頬に手を添えて振り向かせると、溢れそうになっている潤んだ眼が、許しを乞うていた。 唇を小さく突き出し、彼の唇を求める。 恐る恐る重ね、二人で共有した感触が、僅かに男の身体から力を抜いていく。 「楽にして」 静かに玩具を動かすと、細めた眼の端から涙が零れる。 性器に手を伸ばし刺激を重ねてやると、やっと彼の吐息に微かな快感が混ざり始めた。 段々と締め付けが緩くなってくる。 首筋から耳の裏まで舐り上げると、尻の周りが上下に揺れた。 その動きを借りて玩具を半分ほど引き抜き、また挿入する。 「……ん、あぁ」 苦痛から快楽へと変化していく喘ぎが、俺の身体を昂ぶらせる。 動きに捻りを加えると、中に入り込んだ空気が弾け、無様な音が鳴った。 彼の拘束を解き、責め具を外す。 床に伏したままの男の身体を見ながら、自分のスラックスを下ろした。 節操なく勃起したモノにローションを纏わせて軽く扱き、勢いを付ける。 俺の気配に、彼は顔を上げて視線を投げる。 彼の眼に、もう、抗いは無かった。 玩具で穿たれた穴は、入口を収縮させながら、待っている。 「中に、出して良いですか」 どのみち選択権の無い問に、四つん這いになった彼は小さく頷く。 一つ息を吐き、彼の中に性器を沈める。 異物で掻き混ぜられても尚、窮屈に締め付けてくる男の本能が、程なく、二人を絶頂に導いた。 『転勤のご連絡』 そんなタイトルのメールを目にしたのは、隣で男が寝入るベッドの上だった。 ――― 検挙した売人達の裏にある組織が大阪を拠点にしていることから、彼の地へ応援に行く。 ――― いつ帰ってこられるかは、分からない。 ――― だから、また逢おうとは、言わないでおくよ。 要件だけの文章が短くまとめられた、彼らしい、メールに思えた。 けれど、不自然に改行された先にあった文章に、目を疑う。 ――― 君が赦すというのなら、僕は何も言わない。 ――― けれど、僕と同じようには、愛さないで欲しい。 添付されていた画像は、俺と、もう一人の男が立っている姿。 ガラス越しに撮ったのか、うっすらと重なる様に映る銀髪。 淡い思いを抱き続けてきた年上の男は、俺の言い訳を望んではいないだろう。 不実な行為で彼を欺いた咎を、置き土産にしたのかも知れない。 二人の男に囚われた心には、また逢いたい、そう思うことすら罪になる。 顎が震えて、溜め息さえ上手く吐けない。 口から出ていった音は酷くひしゃげて、そのまま嗚咽に変わった。 「……どうした?」 憔悴した声と共に、乾いた指の感触が背中を滑る。 誰を責めても仕方ない。 これは、俺自身が望み、選んだ結末。 振り返り、上半身を起こしかけた彼の身体に覆い被さる。 止めどもなく流れていく涙が男の頬に落ちるのを見送りながら、唇を重ねた。 頬に寄せられた手の感触は、酷く優しくて、儚い。 「深山……?」 「赦さない」 俺の言葉を受け止めた彼は、一瞬ハッとした表情を見せ、すぐに素の顔に戻した。 「好きだから、離れたくないから……赦さない、一生」 贖罪の時間を終えてしまえば、これ以上引き留めておく術が、俺には無い。 彼まで失いたくない、その一心で、独り善がりな感情をぶつけるしかなかった。 赦さない、呪文のようにそう繰り返す唇が不意に塞がれ 頬から耳の裏を通り、後頭部に添えられた手に、身体ごと引き寄せられる。 「……分かった」 憎みもした、恨みもした。 なのに、捻れた想いが彼の元から離れなかった。 「それで、いい」 耳に囁きを残し、頭をゆっくりと撫でながら、彼は俺の気持ちを宥めていく。 「一生かけて、償って、いくから」 胸元に寄せていた耳に、俄かに早くなった鼓動が響く。 呵責の末に辿り着いた互いの結論が、心に沁みた。 窓ガラスに、小さな雨粒が当たり始める。 傘を持たない酔客が、俺が眺める先を小走りに通り過ぎていった。 あの頃から何も変わらない場所なのに、いつでもそばにいてくれた銀色の気配は、もう感じられない。 寂しくて堪らなくなる時もある。 苦痛で顔を歪ませる黒髪の男に、面影を重ねてしまうこともある。 長い時間をかけて心に絡みついた糸は、そう簡単には解れないことを、思い知った。 窓の向こうに誰かの気配を感じ、視線を上げた。 傘を差し、俺を真っ直ぐに見ている男は、一時期よりも大分健康的な風貌になり 幾らか若さを取り戻してきている。 薄く微笑んだ表情に応えるよう、はにかみを返して席を離れた。 今夜も、彼と本能を曝し合う時間がやってくる。 二人を繋ぐか細い糸は、まだ絡まり始めたばかりだ。 Copyright 2013 まべちがわ All Rights Reserved.