いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 運命 --- -- 1 -- 「何かさー、最近、折原さんってちょっと変わったよね」 昼休みの社員食堂で、何処からともなく声が聞こえてくる。 「色気づいたみたいな?」 「彼女でもできたんじゃない?」 「まさかぁ、あの人にできる訳ないじゃん」 「ちょっと、声大きいって」 いつものことだと聞き流すのは慣れているものの 向かいの席で日替わり定食を口にする後輩は、明らかに不機嫌そうな表情を見せた。 「腹、立たないんすか。言われっ放しで」 「別に。言わせときゃ、良いんじゃね?」 確かに、自分でも何かが変わったと思う。 思いも寄らないきっかけから芽生えた恋愛感情がその原因であることは明らかで この歳になるまで実感することの無かった気持ちに翻弄される日常が、幸せでもあり苦しくもある。 一生自分には関係ないと諦めかけていたこの出来事は 例え相手が同性であっても、人生の大きな転機になったことは間違いない。 「お気に入りのキャバ嬢に貢いでるとか?」 「あー、ありそう」 「アニメとかゲームじゃないの?オタクっぽいし」 「うわ、最悪……」 俺たちが食堂を出る段になっても、彼女たちは好き勝手な妄想を繰り広げていて どうせ明日には違う話題で盛り上がるのだろうと、心の中で嘲笑っておいた。 5つ下の国枝とは、彼が入社して以来、親しい付き合いを続けている。 男の俺から見ても悔しい位の男前にも拘らず、幾分内向的な性格で 同じような気質を持つ俺にとっては、友達のような、弟のような 心地良い距離感を保つことのできる存在だ。 ずっと、ここにいてくれ。 彼の頭を肩に抱えて呟いた夜から、もう一ヶ月以上が経つ。 初めは、年下の男のひたすら真っ直ぐな恋慕に引き摺られているような感覚もあったけれど やっと気持ちに釣り合いが取れてきているような気がする。 飯を食いに行って、俺の家で酒を片手にゲームをして 何となく流れでキスをして、画面の中の戦いもそこそこに身体を触れ合って。 そんな過程が澱みなく流れていることが、まさしく、恋をしているという証明なんだろう。 それなのに、彼のいない部屋でふと浮かぶのは 漠然と描いていた人生設計から大きく外れてしまった自分の立ち位置。 当然のように敷かれていると思っていたレールから脱線してしまったのは随分前のことにもかかわらず どうして "普通" の人生を歩むことができなかったのだろうと、つい後ろを振り返ってしまう。 運命なんて迷信に揺り動かされるのは悔しい気もするけれど 膝を抱えて蹲り、溜め息を吐く度に、諦めばかりが積み重なっていくような気がしていた。 「立派っすねぇ」 建てられてから3ヶ月も経っていない高層ビルを、後輩と二人見上げる。 馴染みの取引先へ打合せに赴くのは、新社屋が竣工されてからは初めてだった。 「やっぱ大手は違うな」 エントランスから中に入ると、二階層分吹き抜けたロビーと受付カウンターが広がる。 「今、何時だ?」 「もういい時間っすよ」 夕方前とはいえ、受付には複数の男たちが列をなしていて 数秒視線を泳がせていると、手が空いたらしい受付嬢がこちらを見て小さく手を挙げた。 「河西工業の折原と申しますが、商品企画部の井村課長をお願いします」 「折原様でございますね……少々お待ちください」 シックな制服に身を包んだ受付の女は、そう言って内線の受話器を手にする。 手元のメモに何かを記しながら、電話の向こうの相手に来客を告げる姿に見覚えは無く きっと新社屋に移ってから雇われたのだろうと、手持ち無沙汰な時間に考えを巡らせる。 歳は、恐らく俺と同じくらいか。 ベテランの雰囲気を纏っているところをみると、接客の仕事が長いのかも知れない。 ここの会社は受付の質が高いと皆が口にするのも納得だ。 「お待たせ致しました。間もなく井村が参りますので、上階の打合せロビーにてお待ちください」 再び顔を上げた彼女が柔らかな口調でそう告げる。 真っ直ぐな視線を受け止めた瞬間、長年押し込めてきた感情が不意に蘇った。 胸に付けているネームプレートの苗字に、思考が乱される。 狼狽は恐らく読み取られたのだろう。 目の前の女はふと表情を崩しながら、入館証を手渡してくる。 「……ありがとう」 受け取る際に触れた指は滑らかで温かい。 攫われたはずの恋心の一粒を未だに握り締めている自分に気づかされて、途端に居た堪れなくなった。 「ノリくん、大人になったら絶対詩織と結婚するんだよ?絶対だよ」 そんな幼い言葉が、いい歳になった今でも忘れられずにいる。 向かいの家に住んでいた同じ歳の女の子。 俺たちが産まれる前から母親同士の交流があったという状況で、仲が深まらない訳もない。 実際、小学校3、4年生くらいまでは、殆どの時間を彼女と過ごしていた。 女の方が早熟だというのは、あながち間違っていないのだと思う。 物陰で、求められるがままにしていた、子供同士のキス。 この行為と、おぼろげだった感情が直結していると知ったのは、いつの頃だっただろう。 一度意識してしまうと、それまで自然だったものが急に居心地悪く感じてきて それから、何となく疎遠になっていった気がする。 中学校に上がると、彼女は部活動を始め、殆ど顔を合せることは無くなった。 学校の中で俺の知らない奴と歩き、俺の知らない笑顔を作る幼馴染。 それでも俺の中では、彼女にとっての自分の存在は唯一無二のものなのだと何処かで信じていて 2年生に進級する頃、先輩と付き合い始めたという噂を耳にするまで、痛々しい勘違いを続けていた。 -- 2 -- 昔から、顔の造作はそれほど変わっていない。 決して整ったものではないし、おまけに各パーツのバランスも悪く 俺の顔が好きだというイケメン後輩の審美眼は、何処か狂っているのだと思わずにはいられない程だ。 けれど、周りの環境が良かったからなのか、卒なく勉強だけはできたからなのか それまで、顔のことで弄られることはあっても、苛められるほどのことは無かった。 「折原って、お前?」 下校途中、校門の手前で声を掛けてきたのは見知らぬ3人の生徒だった。 恐らく上級生だろう。 やや着崩した制服が、自分とは違うカテゴリにいる人間だろうと認識させる。 「……そうだけど」 「ちょっとさぁ、付き合えよ」 「何すか」 目を付けられるようなグループには属していないし、上級生と繋がりも無い。 怯みながらも粗暴な言葉を返したが、相手にしてみれば粋がった雑魚にしか見えなかっただろう。 「いいから、来いって」 無理矢理手を引かれ、肩に手を回される。 「良いもの、見せてやるからさ」 気持ちの悪い笑みを浮かべた男が耳元で囁く。 恐怖で感覚の鈍る脚を引き摺るように、俺は彼らと共に再び校舎に向かって歩き始めた。 体育館の裏に、使われなくなった焼却炉がある。 ブロック塀と木立に囲まれたその場所は、子供の火遊びにはちょうどいい条件を備えており そんなものとは縁遠い俺は、不用意に絡まれることを避ける意味もあって、一度も近づいたことは無かった。 初めて足を踏み入れたその先に立っていたのは、一組のカップル。 何をしているのかは一目瞭然で、生身の人間同士のそれを見るのが初めてだった俺には あまりにも刺激が強すぎた。 しかも、女の方は、まさに初恋の相手。 画面の向こうの作り物とは違うぎこちなさが、よりリアルさを強調する。 下品な口づけを何度も交わし、男の手が女の服の中を弄っていく。 大切なものが汚されていくような感覚と共に湧き上がってくるのは卑屈な罪悪感と敗北感。 妄想の種にし、幾度となく汚してしまった自分が、無様に思えた。 「あいつ、知ってんだろ?」 未だ自分の身体を解放しない男が、愉快そうな声色で問うてくる。 「すげー声デカいんだよなぁ、あの女」 「そうそう、動物みたいでさ」 いけないと分かっていても、卑猥な女の幻影が頭に浮かんでは喘ぐ。 衝動を抑える術を、その頃の俺は知らなかった。 女が壁に手をつき、男が背後から腰を重ねようとした瞬間 俺の身体は力任せに蹴られた反動で、彼らのすぐ近くまで転がった。 「何だ、お前?!」 思わぬ邪魔が入った憤りがストレートに言葉でぶつけられる。 「こいつ、堀たちのこと覗いてやんの」 「欲求不満じゃね?」 「はぁ?ふざけてんじゃねぇぞ」 男の前に跪いた形になった俺の腹に靴の先端が勢いよく刺さり、鈍い痛みが吐き気と共に込み上げた。 「……ノリ君?」 続け様に足蹴にされて鈍った聴覚が、彼女の声を拾う。 「ああ、こいつがぶっさいくな幼馴染か」 「もう、その辺で許してあげて……」 「お前だって気持ち悪ぃだろ?ヤってっとこ、覗いてたんだぞ」 「でも……」 ああ、そうか、嵌められたんだ。 地面に蹲ったままの身体を痛めつけられながら、そのことにやっと気が付く。 加減を知らない幼稚な暴力は、それまで誰かに殴られるという経験の無かった身にはあまりにも衝撃的で 痛みよりも悔しさと情けなさと恥ずかしさの方がよほど大きく感じられていた。 ひとしきりの攻撃が止んでも、鈍痛が全身を覆う。 「打たれ弱ぇデブだな。おい、立てよ」 頭を掴まれ引き摺り起こされた俺の前に、厭味ったらしい笑みを浮かべた彼女の彼氏が近づいてくる。 精一杯の睨みが、よほど気に障ったらしい。 肩に手を載せられると同時に、勢いのある拳が腹にめり込んだ。 「生意気なツラしてんじゃねーぞ」 その手が不意に股間へと伸びる。 咄嗟に避けようとする身体は背後の奴に抱えられ動きを封じられ、性器が鷲掴みにされた。 男の嘲り笑うような鼻息が、頭の中を絶望感でいっぱいにする。 「童貞のノリ君には、刺激が強すぎたって?」 「あれで勃つとか、どんだけガキなんだよ」 「やめろ、よ……」 「折角だから、ここでイっとくか?」 そう口にした男が、制服のズボンを脱がしにかかる。 「何、すんだよ……!やめろって!」 必死の抵抗も、複数の男たちの前では全くの無力で 心底楽しそうに騒ぎ立てる輩の向こうから放たれていた女の蔑む視線が、心に刺さった。 気が付くと、暗くなり始めた周囲に人影は無かった。 視線の先には、点々と飛び散った液体の残渣が残されている。 下半身の衣服は剥ぎ取られ、見える範囲には置かれていない。 どうしてこんな目に遭うのか。 俺がもし、こんな見た目じゃ無かったら、事態は何か変わっていたんだろうか。 納得できる答えは何一つ浮かばず、途方に暮れたまま、ひたすら膝を抱えて蹲っていた。 空から赤みが消える頃、突風が木々を揺らす。 夏が過ぎ、秋が訪れようとしていた季節の風が身体を震えさせた時、背後で金属音が聞こえ 振り向くと、焼却炉の戸が僅かに開き、そこから何かが垂れ下がっているのが見えた。 這うように近づき、何か、を引っ張り出す。 やっと帰れる。 煤と埃に塗れた制服を手に、そう安堵したことを、今でもはっきりと覚えている。 -- 3 -- あること無いことを言いふらされているかも知れない。 知らないところで写真でも撮られていたら、どうしよう。 汚れた格好で帰った俺に怪訝な顔を見せる母の追及を避け、自室に閉じこもる。 暗い部屋の中で、ひたすら悪い結論ばかりが頭を巡っていった。 家族が代わる代わるやってきては、ドアをノックして何かを叫んでいたが その時の俺には、純粋な気遣いすら煩わしかった。 「うるせーな!ほっとけよ!」 思わず叫んだ声に、当時、若干ギスギスした関係になっていた姉の声が返ってくる。 「何なの、その態度。人が折角心配してやってんのに!」 「そんなの頼んでねーから!」 「あっそ。じゃ、勝手にしなよ!」 「ちょっと、瑛理!」 諌めるような母の声が聞こえると同時に、ドアを激しく叩き付ける音が響く。 俺に何があったのか、ある程度の推測はできていたのだろう。 それでも、誰にも打ち明ける事はできなかった。 心に手を伸ばされることが、ひたすらに怖かった。 風邪を引いた。 そんな嘘が通用するのは、せめても2、3日の間。 このまま学校へ行かずに済む術はないか、けれど、このまま学校へ行かなかったら、将来、どうなるだろう。 カーテンを閉め、布団にくるまったままで狭窄で不毛な思考を巡らせる。 疑心暗鬼に囚われた状態で前向きな気持ちになれる訳も無く かといって、この日常から逃げ出すほどの勇気も無く 結局、週明けの月曜日、俺は重い脚を引き摺る様に、いつもの生活へ戻らざるを得なかった。 「折原、戸田が来てるぞ」 幼馴染が教室へやってきたのは、その日の放課後だった。 クラスの違う彼女が廊下からこちらを窺っているを見て、矢庭に気分が落ち着かなくなる。 とはいえ、友人たちの手前、あからさまに無視をすることもできず 先に行っていてくれと彼らに告げて、彼女の方へ近づいた。 「何か、用?」 冷静にいようと心掛けたのは、きっと、これ以上傷つきたくないという防衛本能だったのだろう。 正面に立つ少女は、いつの間にか俺の目線より下にいて あの頃とはもう違うんだ、そんなことを考えていた。 「……この間の、こと」 「もう、いいから」 「私、怖くて……止められなくて」 「もういいっつってんだろ」 突き放すような声で、彼女の表情に悲壮感が漂う。 罪悪感が湧きあがったのは、けれど、一瞬だった。 結局また、あいつの元に帰り、やらしいキスをして、あの行為の続きをするんだろう。 「二度と、顔、見たくない」 暴走する被害妄想が冷静さを蹴飛ばしていく。 消え去らなかった恋愛感情が、風に飛ばされる砂のように、攫われていく。 「……待って」 背を向けて離れる俺の腕に伸ばされた手を振り払い、それ以来、俺は彼女の顔を見ることは無かった。 「真っ暗っすねぇ」 「ま、感触は悪くなかったし、良いんじゃねぇの」 客先との打ち合わせを終えたのは、もう夜の入り口に差し掛かる頃だった。 来る時に入ってきた正面エントランスは施錠され、裏の通用口から外に出る。 幸運なことに、社用の携帯に着信は無く、社用メールも緊急を要する物は無い。 「予定通り、直帰だな」 俺の言葉に、先を歩いていた後輩は顔を綻ばせたものの、すぐに表情を戻す。 彼の視線を追うように振り向くと、通用口から一人の女がこちらに歩いてくるのが見えた。 大人になり、化粧で映えた顔は、それでも昔の面影を残している。 「久しぶりだね。いつ、以来かな」 何気なく目が行った左手に、目当ての物は無かった。 「中学とか……それくらい」 「そっか。ノリ君、高校は東京の学校だったもんね」 逃げ出したい、その想いはやっぱり何処かに残っていて 中学を卒業してから俺は地元を離れ、東京に住んでいた叔父の家から高校へ通っていた。 「ご家族は、皆さん、元気?」 「ああ……今度、姉ちゃんが結婚する」 「そうなんだ。今度帰省した時、お祝い持っていくね」 「……詩織は、変わりない?」 「うん、お陰様で」 ぎこちない会話だと俺自身が思っているくらいだから 少し離れた場所に立っていた国枝には、更に妙な関係に見えたことだろう。 そんな後輩に、彼女は何回か視線を送る。 男としての魅力を明らかに比較されていると受け止めた心に、劣等感がぶり返した。 今は穏やかに話している女だって、裏では、あの時の様に俺を蔑んでいるに違いない。 惨めな自分を憐れむことでしか、気持ちを落ち着かせることができなかった。 「幼馴染、すか」 帰宅途中の道すがら、後輩は幾分不機嫌な声で話を切り出した。 「そう。もう、何年も会ってなかったけど」 「綺麗な、人っすね」 「昔から可愛かったよ」 「へぇ……そうすか」 俺が容姿に対するコンプレックスを愚痴ったりすると、彼は必ず寂しげな表情を見せる。 それに気が付いてから、なるべく口にしないようにと心がけてきたけれど 手の中にある一欠片の砂さえ払い落とすような彼女の視線を思い返すと、堪え切れなかった。 「お前に、興味あるみたいだったな。彼女」 「……何で、すか」 「そりゃ、イケメンだし、何回もお前の方、見てたし。……紹介してやれば、良かったかな」 横を歩いていた後輩が不意に立ち止まる。 「そんなことされても、困るの、分かってますよね?」 いつもとは違う丁寧な言葉遣いと、やや低くなった声には、負の感情が混ざっていた。 「そうだけど……でも、俺なんかよりずっと……」 「オレが好きなのは、折原さんだけです。他の人には、ましてや女性に、興味ありません」 外灯の光が影を作る端正な顔が、俺を見つめている。 彼にとって真剣な言葉だったに違いないのに、羨ましい、そんな思いが去来した。 自分自身の価値を分かっているから、自信があるから、想いを素直に吐露できる。 人間、顔じゃない。 幾度となく自分にそう言い聞かせてきたのに、結局俺自身、美醜の観念から抜け出せずにいる。 こんな卑屈な感情は、きっと理解して貰えないはずだ。 「もし、お前が、そうじゃなかったら……お前だって、俺になんか、見向きもしないだろ?」 憐れな言葉を聞いた後輩の表情に現れたのは、怒りというよりも、切なげな憤りだった。 「分かりません。だって、そうじゃないオレなんて……何処にもいないから」 -- 4 -- ふと頭に浮かんだ、運命、という言葉。 嫌なことばかりを思い返しては、あれは何かの間違いだったのだと考えたくて毛嫌いしてきた概念。 けれど、彼が同性愛者じゃ無かったら、俺がこんな風貌じゃ無かったら 二人の歯車は噛み合わなかったのかも知れない。 今、こうして向かい合えている事実は、運命の悪戯という以外に言いようが無いのだろうか。 不意に伸びてきた手に、肩を掴まれる。 「おい、ちょっと……」 幸運にも、周囲に人の気配は無かった。 一瞬唇が重ねられ、彼の頭が肩口に収まる。 「でも、オレには、ここしか、居場所が無いんです」 真正面から向けられる感情で、懐疑的になっていた心が澄んでいく。 背中に回された手の感触が、握り締めていた砂を攫っていく。 誰かに、心から必要とされる幸せ。 彼の頭を抱き寄せながら、やっと、彼への情愛を自覚することが出来た気がして、嬉しかった。 最後の散財、と称して姉が上京してきたのは、結婚式まで一ヶ月という頃。 当然の様に荷物持ちに呼ばれた俺は、殆ど足を踏み入れたことの無いエリアを一日中引き摺り回された。 やっと落ち着くことが出来たのは、夕方、代々木公園のベンチに座った時で 普段酷使することの無い脚と腕が、僅かに重くなっているのを感じていた。 「あんたが今度彼女連れてくるって、瑛美が大騒ぎしてたわよ」 テイクアウトしたコーヒーを片手に、彼女は悪戯な目をして俺に問いかける。 「あいつ……んな予定、無いから」 「でも、いるんでしょ?」 「……まぁ、それなりに」 「本気なんでしょ?」 「……まぁ、割と」 俺と同じような造作の顔を持つ姉には、やはり同じように、浮いた話が殆どなかった。 本人もそれは自覚していたのだろう。 大学を出て総合商社に総合職として就職し、20代半ばで単身者用のマンションを購入。 絵に描いたようなキャリアウーマンの道をひた走っていた。 そんな彼女から、俺が知る限り初めて恋人の存在を明かされたのが一昨年の春。 三十路の初恋がどれだけ盛り上がったのかは、想像に難くない。 早い段階でプロポーズされたのだと言っていたものの、答えを出すのに2年も費やしたのは 将来の夫が、同業他社の商社マンだったからだそうだ。 今までの努力が全て無駄になる、大切な物を諦めて邁進してきた人生が無意味に帰す。 一人で思い描いて来た未来を築くか、二人で思いも寄らなかった未来を模索していくか。 結局、姉は勤めていた会社を辞め、彼と一緒になることを選んだ。 「次来るかも分からない、貴重なチャンスなんだから。無駄にしないようにしなさいよ」 「はぁ……」 「ま、女子高生とか男とか連れてきたら、流石に引くけどね」 コーヒーを飲み、一息ついた彼女の口から出た軽い冗談が、俺の周りの空気を強張らせる。 分かって欲しかった訳じゃ無い。 ただ、誰かに、嘘でも良いから肯定して欲しかっただけなんだと思う。 「……やっぱ、引くよな」 「あんた……それ、犯罪よ?」 「いや、そっちじゃない」 陽が傾き始め、真夏の空気を掠め取るように風が通り過ぎていく。 しばらくの沈黙を破った姉の声は、何処と無くぎこちなく聞こえた。 「嘉範、前から……そうなの?」 「俺は、違うけど……いや、分からない、けど」 「……本気なの?」 「……割と」 「お父さんとかお母さんに、何て言うつもりよ」 「だから、何も言うつもり、無いって」 恐らく、俺がそれを受け入れるよりも、周りの人間の方が受け入れ難いことなんだろう。 理解してくれようとしていること、言葉を選んでいることが、その口調から伝わってくる。 当の本人にも分からない理由を、探しているのかも知れない。 「あんたから、好きに、なった訳?」 「向こうから、言われて……そのまま」 「何で、あんたなんかと……」 「俺が聞きたいよ」 弟の独白に混乱する思考を落ち着かせようとしているのか、彼女はしきりに頷きを繰り返す。 「そういうことも、したり、するの?」 「……する」 「そう……」 不意に顰めた表情は、きっと嫌悪感から来ているのだと思った。 誰にも言えなかったことを口に出し、何となく心が軽くなったけれど、肯定を望むことは出来なかった。 「もてないから、女は諦めたってこと?」 「そんなんじゃねぇよ」 辿り着くであろう帰結を突き付けられ、思わず感情が昂ぶった。 確かに、人生は諦めの連続だと思ってきた。 でも、今までの出来事は、彼と出会う為に渡ってきた布石。 人生は、俺自身が無意識に選んできた回答の連続だ。 他人の肯定なんか、必要ない。 「好きだから、一緒にいたいと思ったから……そうしてる」 蒸し暑い夜の空気に、扇風機では対応しきれなくなってきた。 窓を閉めてエアコンをつける。 画面の中では、派手に着飾った女剣士と、斧を担いだドワーフが木の下に座っていた。 缶ビールを呷る後輩の横顔を数秒見つめ、問うてみる。 「なあ……運命って、信じるか?」 画面からこちらの方へ視線を向けた彼は、瞬間不思議そうな顔をして、すぐに微笑みを戻す。 「そうっすね」 差し出された手を取ると、矢庭に身体を引っ張られた。 「あぶねっ……」 体勢を崩した俺の身体を受け止めた彼は、そのまま長い長い口づけを与えてくる。 「こうしてること、運命って言葉以外で……説明つかないでしょ」 アルコールの余韻を引き摺りながら、僅かに紅潮した男と見つめ合った。 「そう思えるくらい、オレ、今、幸せっすよ」 柄にも無い呟きを吐いた愛しい顔が、ふと目を逸らす。 「何か、来た」 追いかけて画面に目をやると、遠くの方からやってくる敵影が映っている。 「アルゴリズム如きに、運命邪魔させねーし」 少しムキになってコントローラーを手にした彼は、さっそく戦闘準備を始めた。 運命に感謝しながら、運命を恨みながら、今までも、これからも人生が続いていくんだろう。 未来のことは分からないけれど、時を経て、その場に立った二人が これは運命なんだと言えるくらい幸せな日常を過ごしていることを、祈らずにはいられない。 Copyright 2014 まべちがわ All Rights Reserved.