いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 受動(R18) --- -- 1 -- 甘ったるい煙が充満した室内には、粋がった選曲のサイケデリックトランスが延々と流れている。 土曜日の夜、現場を出た足でやってきたのは、場末にある古いマンションの一室。 「ハジメ、新しいやつ手に入れたんだけど、試してみない?」 くたびれたソファに座り、天井を仰ぎながら酒を口にしている俺に、一人の女が声を掛けてきた。 「言ってんだろ?俺は、やんねぇって」 「いいじゃない、ちょっとくらい。これキメてヤると、すっごく気持ち良いのに」 持っているキセルをこちらに差出し首を傾げるのは、高校生の頃に付き合っていた女。 付き合っていた、というよりも、体の良いヤリ友、といった方がしっくりくるだろう。 恋愛感情が無かった訳でもないけれど、彼女とのセックスで愛を感じたことは一度もなく 女の中に青い性欲を吹き出す毎に、その気持ちは段々と薄れていった。 再会したのは、大学進学の為に上京してから15年も経った頃だった。 「ハジメだよね?やだ、何年ぶり?」 たまたま親方に連れて行かれたクラブでホステスをしていた女は 俺の顔を見るなり、親しげに話しかけてきた。 「こんな美人と知り合いか?鈴木君も隅に置けねぇな」 「何だハルカちゃん、こんなのがタイプなの?」 幾人もの男とそれなりの金に磨かれたであろう彼女の美貌に、親方たちの冷やかしも冴える。 純粋な性欲を煽る、匂い立つような女の色香を纏っていたのも確かだった。 連れの手前、連絡先だけ受け取って店を出たが タクシーの中で微睡む俺に、女は一通のメールを寄越す。 『もう少し、昔を懐かしまない?』 懐かしむことなんか、何かあるだろうか。 一緒に出掛けたことも、将来を語り合ったこともあるはずなのに 思い出せるのは、ただただ拙いセックスに喜ぶ子供の姿だけ。 あれから随分時が経ち、互いに大人になったけれど、結局、やることは同じだ。 「すみません。ちょっと、戻って貰って良いですかね?」 Uターンしたタクシーの窓の向こうに、程なく、歓楽街の入り口が見えてくる。 軽く手を上げた女を隣に乗せ、そのまま、場末のホテルで身体の関係を持った。 たまに会っては身体を重ねる、それだけの関係が2ヶ月ほど経ち 女は、あるマンションの一室に俺を連れ込んだ。 築30年は過ぎているであろう古いマンションのペントハウスは、床面積が150m2を超える程の部屋で 違法に改造されたであろうだだっ広いリビングには、複数の男女が思い思いの時間を過ごしている。 部屋の中に広がる薄い靄と酒の匂いがいかがわしい空気を作り 足を踏み入れた時の率直な感想は、ヤバいところに来た、そんな感じだった。 吸っていたハーブに飽きたのか、ハルカはキセルを灰皿に叩き付け、火種を落とす。 「ハジメは真面目すぎるのよねぇ」 ノーブラにキャミソールだけを着けた女の上半身が俺の身体に重ねられ 密着する乳房の感触が、在り来たりな興奮を撫でた。 「今日は疲れてんだよ」 「あたしはハジメのが欲しいの……ね?座ってるだけで良いから」 クスリに浮かされた瞳が徐々に大きくなり、唇が重なる。 甘ったるい匂いを口の中で感じながら、流されるまま、女の身体に手を伸ばした。 床に座り込んだ女は、スラックスの中から覚束ない手つきで萎れた性器を取り出し 亀頭に舌を這わせ、根元まで唾液を纏わせた後、口に含んだ。 ソファの背もたれに身を預け、舌の動きと吸い付くタイミングが絶妙な性技を愉しんでいると 背後から誰かの手が首筋に伸びてくる。 「手伝ってあげよっか」 首を傾いだ方向にあったのは、ショートボブの女の顔。 どいつもこいつも同じ顔をしてやがる。 不意に過った想いは、アルコールの匂いと共にやってきた唇に掻き消され 絡まされた舌が、抗いを奪っていく。 「ハルカと終わったら、ウチとどう?」 第二ボタンまで外していたワイシャツの首元から女の手が入り込み、上半身を撫でる。 「考えとく」 二人の女にももたらされる虚ろな快感が、徐々に身体を蝕み あの時の予感は、きっと、的中しているのだろうと、思っていた。 女の体重を受けたソファが軋んだ音を立てる。 唾液を纏ったモノは昂ぶり、指一本触れていない女の部分も、受け入れる準備は出来ているようだった。 しばらく性器同士を擦り合せた後、彼女は自らの中に俺を沈めていく。 暖かく湿ったそこは、それほど窮屈さを感じさせず、とはいえ包み込んでくる感触は得も言われぬもの。 目の前の身体は跳ねる様に捩れ、互いの官能を段々と融化させた。 上下に揺れる大ぶりな胸を両手で掴み、興奮を示す突起を親指で弾くと 彼女は上ずった声を上げて性器を締め付けた。 俺の手の上に重ねられた手がそこへの刺激を一層求め、俺はそれに応える。 「ひっ、いやぁ」 指で摘み引っ張り上げると同時に、ハルカは捻じ曲げられた感覚に喘ぎを吐いた。 耳からの刺激で、やっと女の興奮に身体が追い付いてくる。 動きに合わせて腰を突き上げると、手を掴む力が強くなり、乾いた音を喉から漏らす。 「もっ、と……突いてぇ」 底無の性欲が全身に絡みつき、性器を奪われんばかりに彼女の中に飲み込まれる。 絶頂が近い、そう悟った俺の身体が、無意識の内に逸った。 頭の中で何かが弾けるように理性が途切れ、精液が吹出す。 荒い息を吐き出す俺の口を塞ぐように、女は何度もキスをせがんだ。 「ねぇ……もう一回。今度は、ベッドで」 萎れたモノが、再び暑苦しい感触に締め付けられる。 「いや、マジ無理」 「良いじゃない。何なら、エミも入れて、3Pでも良いわよ」 「また今度な」 ひとしきり興奮は出来る。 けれど、射精してしまうと、急に理性が戻る。 余韻を引き摺っていたい女とは、そこが決定的に合わないのだと思う。 -- 2 -- 玄関に通じる廊下へ出ると、幾分まともな空気が肺の中を通っていった。 夜中の2時を回っても、部屋の中では人為的に作られた快楽に溺れる男女が群れている。 嵌ったら抜け出せない。 それが分かっているからこそ、手を出さないでいるけれど 一度、どん底まで沈んでみるのも良いんじゃないか、そんな風に思うこともある。 玄関の扉に手を掛けるよりも早く、扉の向こうから来客が顔を出す。 「あ、ごめん」 「いや、大丈夫」 金髪で、左耳に幾つものピアスを付けた男。 ここに通い始めて半年以上が経つが、この顔を見るのは初めてだった。 「もう、帰るんだ?」 「いつも、大体このくらいの時間には」 「そっか。オレ、夜行性だからさ。いつもは、もっと遅いんだ」 人懐っこい顔をして微笑んだ男は、肩から下げたトートバッグを床に置いて靴を脱ぐ。 4~5歳ほど年下であろう彼の柔らかな表情は、何処か、会社の後輩に似ていると思った。 「新しいの持ってきたんだけど、試してみない?」 廊下の端に寄り、やり過ごそうとする俺の前に男が立つ。 「今日は、やめとく」 俄かに近づいてくる彼との間に取ろうとした背中が、後の壁に阻まれる。 「オレは、タケル。……名前は?」 「ハジメ」 「これからは、もうちょっと、早く来ようかな」 「……何で」 目を細めて微笑む顔が、あまりにも自然に近づいてくる。 避けられることも出来たのに、避けなかった。 軽く重なった唇を触れ合せたまま、彼は囁く。 「もっと、ゆっくり、ハジメとキスしたいから」 首に絡みついてくる腕が、俺の頭を抱えるように彼の方へと引き寄せる。 「男は、無理?」 同性愛に嫌悪感がある訳では無かったが、敢えて踏み込もうと思ったことも無い。 「……分かんない」 ただ、彼のアプローチに僅かな動揺を覚えていて、拒絶する言葉は浮かんでこなかった。 「一目惚れしちゃった」 「俺に?」 「そう。オレの超好みのタイプ」 「クスリで良く見えてるだけじゃねぇの?」 「オレ、クスリはやんないんだよね。売るだけ」 相変わらずの柔和な表情で、男は俺の顔を唇で何度も愛撫する。 あいつが金髪に染めたら、こんな風になるんだろうか。 何が二人の男を結び付けているのかは分からなかったけれど 自分だけが映った瞳を見る度に、頭の中に別人の残像が過っていって、妙な罪悪感が沸いた。 麻薬を売りさばく為の部屋。 ペントハウスの形式上のオーナーである若い男は、悪びれも無く言った。 「オレは中間業者だから、上のことも下のことも、よく知らないけどさ」 池袋にあるという元締めから受け取った麻薬を、クラブや風俗の関係者に流すのが彼の役目。 もちろん、全ての顧客の個人情報は徹底的に管理されており 余分なマージンを抜いているような輩には、他のルートから制裁が下るようになっているらしい。 ドラマや小説の中の世界だと思っていた日常が、すぐ隣にある現実。 初めて出会ってから2週間後の夜、喧騒に塗れた部屋を抜け出して二人で訪れたホテルの中で 間もなく、俺もその時の流れに足を踏み入れるのだと、感じていた。 シャワーブースから出てきた彼の身体には、左の二の腕から胸元にかけて蜘蛛の巣のタトゥーが入っていた。 白い肌に広がる幾重もの網に目を奪われていると その視線を察知したのか、彼は細線をなぞる様に自らの肌に指を滑らせ、意味ありげに俺を見る。 「一度捕まえた男を逃がさないようにって、願掛け」 「……俺のこと?」 「そう」 全裸のままでベッドに座る俺の前に男が跪く。 頬に寄せられた手に誘われるがまま、上半身を傾け、口づけを交わした。 頭が肩口に抱えられ、目と鼻の先に蜘蛛の巣が広がる。 「皆、オレが持ってるブツしか見てない」 切なげな呟きに、彼の感情の一端を見たような気がした。 「オレのことを見て欲しい、それだけで良いのに、誰も、叶えてくれなかった」 常にタケルの周りには多くの人が集っていて 事実、あの部屋でジャンキー共に囲まれた彼には、近づくことすら難しかった。 それなのに、放射状に張られた巣の真ん中で、彼は孤独に耐えている。 「一目惚れなんて気の迷いだと思ってたし、愛とか恋とか言うつもりもないけど」 再び向き合わされた顔は、儚く優しげな微笑み。 「ハジメだけは違うって、思ってたいんだ」 微かに震える指が肌を滑り、胸から腹へ、更に下へと向かっていく。 重ねられた唇の隙間から、徐々に昂ぶる吐息が漏れていく。 「……良いでしょ?」 男の口にもたらされる刺激、男のナカで弄ばれる性感。 ベッドに横たわる俺の上で身体を揺らす男は、片時も、俺から視線を外すことは無かった。 快楽に顔を歪め、そうかと思えば、俺が漏らした薄い喘ぎに愉快そうな笑みを見せる。 対抗するように腰を浮かせて性器を突き立てると、彼は大きく天井を仰いで乾いた声を上げた。 半立ちしている男のモノに手を伸ばし、指で軽く撫でるだけで、そこは一気に大きさと硬さを増す。 俺の顔を見下ろす潤んだ目が、小さく左右に振れた。 先端を親指で撫で回し、他の指で根元から扱き上げる。 絶対的な性感帯に意識を奪われたのか、動きが鈍くなった彼の身体を下から突き動かす。 オーガズムへの抵抗は、もう限界だった。 彼の中で痛いほどに締め付けられる性器と、俺の手の中で燃え上がる性器は、やがて衝動を噴き出した。 二人繋がったまま、身体を重ね、唇を触れ合わせる。 理性は戻ってきているはずだったのに、彼の体温を感じていることが幸せに思えて こうやって俺は男の糸に絡め取られていくのだろうかと、少し怖くなった。 -- 3 -- 「申し訳ございません、当部署には鈴木が3人おりまして……」 朝一番の電話を取った女の子の声が、耳に届いてくる。 明朝電話をする、と書かれたメールが届いていたから、多分、俺宛のはずだ。 「創さーん、外線2番に上村工業さんからお電話でーす」 関東甲信越を営業エリアに持つ中堅のサブコンに入社して、もう10年以上が経つ。 新人時代から地元の横浜支店に勤務していたが、2年前の震災以降、本社勤務となった。 やる仕事は大して変わらず、使う業者も馴染みの所ばかりで然程の新鮮さもなく 若干の手当てが付くくらいで、正直メリットはあまり感じなかったけれど 昔から世話になってきた上司の誘いということもあり、承諾した。 ただ、同時期に異動してきた社員が1/4程を占めることにより組織が再編成され 少人数で仕事を回していた支店の時よりも、人間関係の煩わしさは軽減された気がする。 今日は午後から逗子の現場で打合せがある。 電車の時間は10時22分。 駅までは5分足らずだが、駅前の喫煙所で一服する時間が欲しい。 となれば、後10分で社を出なければならないのに、探している書類が見つからない。 幾分焦りを感じていた視界の端に、男の影が映る。 とりあえず、顔を上げずに声を掛けた。 「深山さ、今日、五反田の現場行く?」 「ええ……夕方、検査の打合せに」 「品川の現場に持っていかなきゃなんないもんがあるんだけど、オレ、これから逗子なんだよ」 「場所は、再生センターの方でしたっけ?」 後輩の声を聞き流しながら紙の山を掻き分けた先に、やっと目当ての書類を見つけた。 「そそ、置いてくるだけでいいからさ」 顔を上げると、こちらを窺う後輩を目が合った。 手元にあった適当なクリアファイルに書類を入れ、彼の方へ差し出す。 少し困ったような顔をした彼は、それでも意を介したことを示す軽い溜め息を吐いた。 横浜時代の後輩曰く、可もなく不可もない人間。 営業にいた頃は、突出した成績を残していた訳でもないが 大きな失敗をすることも無く、着実な位置を維持していたらしい。 工事監理に異動させられたのは、無難な成果で満足して欲しくないという上の意向もあったそうで 実際、この2年で仕事に対する貪欲さが出てきているような気もする。 『創さんとは絶対的に合わないんじゃないですかね』 支店での送別会の席で若い輩はそう笑ったが、今のところは上手く行っていると思う。 デカい荷物を手にした俺に、ベテランの先輩が声を掛けてくる。 「何だ、大荷物だな。逗子まで旅行か?」 「だと良いんですけどね。残念ながら、仕事っすよ」 「どーせ早上がりして、福富町にでも行くんだろ」 よっぽど女に飢えていると思われているのか、年配の男たちは事ある毎にそんな揶揄を口にする。 「ま、チャンスがあれば」 横浜屈指の風俗街とはいえ、大学生の頃に友人の誘いで1回行っただけの縁遠い街。 聞き流すのにも、そろそろ飽きてきたけれど これで彼らがつまらない悪戯心を満たすことが出来るなら、安いものなのだろう。 「じゃ、頼むわ」 俺が傍を通るタイミングで顔を上げた後輩の肩を一つ叩く。 「気を付けて。……あまり遊び過ぎないようにして下さいね」 2年前には無かった軽口と嫌味の無い笑顔が、心の靄を少しだけ取り払っていった。 「お前が明日の消防検査、代わりに行ってくれるんなら、思いっきり楽しんでくるんだけどな」 だらしのない先輩だと分かっていても、彼は立場を弁えた態度を向けてくれる。 せめて、それに応えられるだけの人間になりたい。 それだけが、俺がここに来て成長した部分なのかも知れない。 「ちょ……っと、落ち着いて下さいよ」 土曜日の早朝、しつこいコールの末に出た電話の向こうで職長が怒髪天の勢いで叫ぶ。 「今日来るはずの奴らが、丸々こねーんだよ!材料来てんのに、どーすんだよ!」 「すぐ、確認しますから……」 担当している現場の一つで起こった作業員の蒸発。 困ったことに珍しくは無い出来事だったが、今回は手配した6人全員が現場に現れず 会社の社長すら捕まらないという厄介な状況になっていた。 「飛んだかなぁ」 「飛んだのかもな」 顔馴染みの現場監督と現場の隅の喫煙所で打開策を案じるも 伝手はほぼ使い果たし、耳に入ってくる音の割れたラジオ体操の曲が、とにかく癪に障った。 「創君、他にどっか無いの?」 「頼りになりそうな親方は電話に出ねーし……どーすっかな」 初めから、それほど期待はしていなかった。 「一応、当たってみますけど……分かり次第、折り返します」 気休めにかけた電話の向こうで、休出していた後輩はそんな真摯な態度を見せる。 「悪いな。面倒なこと頼んで」 困惑を隠さない声が途切れた時に、後悔が過った。 軽い気持ちで託したものの、彼はきっと、俺の期待に応えられないことを気に病むだろう。 色々なことが上手く回らない。 苛つく気分で煙草に火を点けた時、携帯に着信が入る。 「どうだった?」 「作業員逃げたって?二人で良いのか?」 「あ……え?」 先入観の所為で、瞬間、聞き慣れたはずの声が認識できなかった。 「今、ちょうどお宅の会社に請求書持って来たとこなんだよ。深山君が血相変えて走ってくるからさ」 「小里さん……?いや、あの、何人出せます?」 ベテランの親方が回してくれた職人のお陰で、現場の混乱は午後には収まった。 出来過ぎた偶然と、朝から出社していてくれた後輩への感謝の想いが募る。 この借りをどうやって返そうか。 知らず知らずの内にそんなことを考えている自分がいて あいつの喜ぶ顔を見たいという思いを巡らせる時間が、素直に楽しく思えた。 -- 4 -- 雨は降っていないものの、湿気を含んだ熱気がアスファルトから上ってきて じっとりとした空気が、ワイシャツの感触を不快なものにする。 騒動の一端となった社長からの廃業を報せるメールを関係者に転送し、一悶着を乗り越えた夜。 礼も兼ねて後輩を飲みに誘ったのは、いつもの見慣れた街だった。 いかがわしい世界に誘い込む気は毛頭なかったが 俺が普段どんな環境で過ごしているのか、少し、知って貰いたいという気持ちはあったと思う。 「ここ、よく来るんですか?」 非日常に足を踏み入れる前に立ち寄るバルは、いつものように騒がしい雰囲気に包まれている。 あまり経験の無い環境なのか、向かいに座る深山の様子はやや落ち着かないように見えた。 「ああ、この先に風俗街に親方のお気に入りがあってさ」 取り繕う為の嘘は、これで何回目だろう。 「腹ごなしに寄って以来、よく来てるんだ」 どうでもいい連中になら幾らでも饒舌になれるのに、この男には、それが出来ない。 「ちょっと寄ってく?」 予定調和の質問を、流れで口にする。 「いや、オレは、止めときます」 そうして、期待通りの答が返ってきて、何故だかホッとする。 華のある容姿ではないが、女ができない要素も見当たらない。 けれど、平日も遅くまで残業し、土日に出社していることも珍しくない。 「シロートで手一杯って?羨ましいね」 浮いた話の一つでも出てこないかと、カマをかけてみる。 「そういう訳でも、ないですけど」 若干乗り気のしないような声で彼はそう答え、手元の酒を呷る。 「創さんだって、シロートさん、何人もいるんでしょ?」 関係の定まった相手なんて、もう何年もいないし 捻じれた空間で戯れる女達は、彼が示すシロートの範疇には入らないだろう。 「人聞きの悪いこと言うなって。もう、ずっとご無沙汰だよ」 「はぁ……そうですか」 酒が回り始めると、場の雰囲気が仕事の延長ラインを超え始めてきて 互いの表情に牽制の仕草が見えてくる。 「お前幾つだっけ?」 「今年で、28ですかね」 「良い頃合いじゃん。結婚して、子供でも出来れば、仕事のモチベーションも上がるだろうし」 横浜の若い奴らは、皆早婚だった。 入社2、3年目、仕事の内容や金の回り方が徐々に分かり、将来のビジョンが望める頃。 一人前として独り立ちする時分には、もう一人家族が増えている。 そんな絵に描いたような人生を多く見てきたからか 興味無さげに俺の話を聞く後輩に対して、何となく違和感すら覚えていた。 「そうはいっても、なかなか。相手も、タイミングも」 「自分から探しに行かねぇと、さ。降ってはこねーぞ?」 「分かってますけど、何か面倒くさくて。……そういう創さんはどうなんですか?」 苦笑しながら、彼は当然のようにこちらへ質問を投げ返してくる。 「ん~?オレは……あんま、考えたことねーな。一人で良いかって思ってる」 一時の浮ついた想いに駆られ、衝動のままにセックスをする。 まともな恋愛をしてこなかったツケが返ってきているのだと気が付いたのは、もう随分前だ。 誰か降ってくるのを待っているのは、俺も同じなのかも知れない。 「不毛だな。言葉に全然説得力ねぇわ、お互い」 深山の視線が、煙草を咥える俺を外れて背後に滑る。 「ハジメ?」 露骨に作られた声色が耳に届いた。 この時間はもう、客の相手をしているはずだと、訝しみながら顔を傾ける。 「ああ……店は?」 「これから行くところ。お客さんと一緒なの。……こちらは?」 「会社の、後輩」 「深山です。どうも」 外面だけは申し分ない女に、彼は酷くニュートラルな態度で挨拶をする。 どうやら、お眼鏡には叶わなかったようだ。 「ハルカです。ハジメとは同じ高校で……幼馴染みたいな、ね」 一方の女は、若い男にそれなりの興味を示している。 俺の肩口に手を伸ばしながら、違う男を夢想しているのだろう。 「可愛いじゃない。今度、連れてきなさいよ」 近づいてきた唇が、不穏な言葉を耳に吹きかける。 有り得ない、そう口にするよりも早く、彼女は卑しい笑みを浮かべて去っていった。 後輩の視線は女の姿を数秒目で追い、やがて正面に戻ってくる。 「彼女さんですか?」 言葉の中に、納得の意が透けて見えた。 あの女と同じ穴の貉なのだと、他人の認識を突きつけられるようで辛かった。 「……いや、ただの……元カノだよ」 唇から滲みてくる酒の匂いが、より一層気分を気怠くする。 「ねぇ……ミヤマくん、連れてこないの?」 「あいつは、こんなところに来る人間じゃねぇから。俺で我慢しておけよ」 「ハジメは、タケルの方が良いんでしょ?」 俺の身体の上で腰を振り、一人で快楽を味わう女は、嫉妬を隠さずにそう言い放つ。 タケルと共に過ごす時間が増えるにつれ、たむろしている連中から妬みをぶつけられることが増えてきた。 セックスを代償に、クスリを安く手に入れている。 まことしやかな噂が流れるようになってから、この部屋で金髪の男と顔を合わせることは止めた。 「ああいう子、一人、欲しかったのよね」 上半身を倒し、柔らかな二つの塊を胸元に押し付けたまま、彼女は腰を前後に振る。 「……手ぇ出したりしたら、赦さないからな」 不快感が性感を上回り、ただ性器が膣に擦り付けられる感触だけが残った。 「ハジメ、これ忘れてるわよ」 帰り際、ハルカはそういって俺のスマートフォンを差し出してくる。 ここに来てから取り出した記憶はなかったが、何処かで落としたのかも知れない。 「来週は、タケルと約束があるんでしょ?」 「……関係ないだろ」 「他人の恋路を邪魔するのも悪いし……こっちも可愛い子呼んで、楽しむことにするわ」 -- 5 -- 真っ直ぐ向けられている気持ちに応えているつもりなのに、心が晴れない。 社会人として当然の敬意を受け止めているだけなのに、心が揺れる。 唇を重ね、身体に手を伸ばす度に、別の存在に変換された意識が身体を滾らせた。 見上げる視線を受け止める度に、認めてはいけない気持ちが引き摺り出されていくのは、分かっていた。 俺は、こいつの中に、あいつを見ている。 この酷い裏切りを、如何に悟らせないか。 男との逢瀬の場所へ向かう途中、そればかりを考えていた。 ホテルのフロントでカードキーを受け取り、エレベーターに乗る。 彼は、先に部屋で待っているということだった。 何回も同じことを繰り返しているのに、今日に限って妙に緊張するのは何故だろう。 カードを差し込み、引き抜くと、ランプが緑色に点灯する。 一つ息を吐き、ドアノブに手を掛けた。 広い部屋に僅かな家具しか置いていないせいか、やたら寒々しい印象を与える室内。 いるはずの男は、見回した視界の中にはいなかった。 ベッドの上には、脱ぎ散らかされた衣服。 不思議に思った瞬間、天井の空調機の運転音に混ざり、男の息遣いが聞こえてくる。 こちらに背を向けて置かれているソファが、俄かに軋んだ音を立てた。 蹲る様にソファに横になる全裸の男が、覗き込んだ俺を官能的な眼で見上げる。 「……我慢、出来なくて」 右手の中にいきり立ったモノを抱えながら、その左手を差し伸べてくる。 誘われるまま顔を寄せ、唇を求め合った。 「独りで、イくのか?」 「頭の中には、ちゃんと、ハジメがいるよ」 互いの息遣いを間近に感じながら、タケルは再び自らを慰めだす。 小刻みに震える金色の髪が、余りに愛おしく、余りに切ない。 この瞬間だけ、せめて、あいつを忘れることが出来たなら、どんなに良いだろう。 やがて彼は、俺の頭を抱えながら孤独に絶頂を迎える。 「あ~……やばい」 荒い吐息を整えることなく呟かれた言葉が、心に響く。 「すっげぇ、好き」 その声に何を返すことも出来ず、ただ、彼をきつく抱きしめた。 アルコールとセックスに浸り、余韻を引き摺りながらシャワーを浴びる。 彼の肩に手を寄せた時、前までには無かった模様に気が付いた。 「……これは?」 蜘蛛の巣に絡め取られた、一匹のトンボ。 「この間、入れてみたんだ」 男の二の腕に寄り添うように描かれているそれが、何を象徴しているのかは明らかだった。 「こうすれば、いつでも、一緒にいられるかなって思って」 屈託のない笑顔を浮かべたタケルは、そう言って捕まえた獲物を指で愛でる。 「オレね、多分もう……ハジメとは会えない、と思うから」 麻薬取引から足を洗いたい。 ベッドに腰を掛けた彼は、煙草を咥える俺に心情を語り始める。 「でも、それには、捕まるか、死ぬか、どっちかしかないんだよね」 若者の裏に潜む闇は大きい。 一度足を踏み外せば抜け出せない世界が垣間見えた。 「たまに顔合わせるオッサンがいるんだけどさ。そいつが言うんだ。取引しようって」 「取引?」 「元締の摘発に協力しろ、そしたら、罪状もある程度考慮するって……信じて良いのか分かんないけど」 今までの商売で、彼自身もそれなりの利益を得てきた。 掌を返せばどうなるのか、当然、その末路は見えているのだろう。 「何なんだ、そいつ」 「マトリ」 「マトリ?」 「麻薬取締官。頭真っ白でさ。オレを泳がせて、裏探って、組織を根っこから引き抜こうとしてる」 黒い空間に身を置く限り、いつかおのずと黒くなる。 あの部屋で行われていることは完全な違法行為と分かっているつもりでも 俺自身、何処か感覚が麻痺しているところがあるのも確かで 仮に法の手が伸びてきた時、自分はやっていないと言い逃れられる自信は無かった。 「あそこは、まだ知られてないと思うけど……時間の問題だろうな」 「知られたら、どうなる?」 「多分、身柄確保されて、検査受けて……反応出れば、捕まる」 溜め息を一つ吐き、彼は俺の方へ視線を向ける。 「オレがハジメにできること、何があるだろう」 憐憫の情をを過分に含む眼差しに、行く末に起こり得るであろう最悪の事態が脳裏を過った。 長いハグと、何度も繰り返すキス。 別れは幾ら惜しんでも、惜しみきれない。 「……行かなきゃ」 覚悟を決めるように、彼は俺の身体から離れていく。 俺には、彼の笑顔を心に焼き付けておくことしか出来なかった。 「また、いつか、必ず会おうね」 「ああ、必ず」 右手でドアノブを掴んだタケルが、不意に振り返る。 「そうだ。今、何時かな?」 「……え?」 バッグを持つ彼の左手には、確かに腕時計が見える。 不思議に思いつつ、名残惜しさを引き摺る故の行為なのだろうと理解しながら ベッドの上に放り出されていたスマートフォンを手に取り、時間を確認した。 時間は22時57分。 「もうすぐ、11時になる、ところ」 「11時か。ありがとう。じゃあ……バイバイ」 去っていった男の未来に、平穏が見えない。 幾ら溜め息を吐いても、喪失感と、罪悪感が消え去らない。 一人残された部屋で身体に残された余韻に浸る内、不意に軽い睡魔が襲ってくる。 荒らされたままのベッドに横になり、目を閉じた。 どのくらい微睡んでいたのか。 枕元に置いていた電話に一通のメールが届き、意識が覚めた。 『そっちはどう?こっちは最高よ』 女が送りつけてきた文面には、恥ずかしげも無く絵文字が並ぶ。 添付されている動画も、中身の無い騒がしいものなのだろう。 そう思いつつ再生した瞬間、一気に血の気が引いていく。 映し出される全てが、信じられなかった。 複数の男女に囲まれた後輩が、蹂躙されている姿。 苦しげな声を上げ、大切なものが壊れていく様が、頭に焼きつく。 気持ちの中で何かが切れる時、きちんと音がするのだと、初めて知った。 -- 6 -- ホテルの前で捕まえたタクシーに乗ったのは、23時55分。 はっきりと覚えているのは、そこまでだった。 彼の地に向かっている10分足らずの間に、冷静さは段々と失われていき ペントハウスの一室で酩酊状態の女を目にした時、俺の理性は完全に飛んだ。 「ハジメ、落ち着けって!」 誰かに背後から羽交い絞めにされ、怒りが頂点を超える。 床の上には、怯えた目で俺を見るハルカの姿があった。 涙に濡れる赤く腫れた顔と、ひたすらに震えている白い肌が、感情を逆撫でする。 「落ち着け?どうやって落ち着けって?!」 腕を振り払い、女を見下ろす位置に立つ。 「手ぇ出したら赦さないって、言ったよな」 しゃがみ込んだまま後ずさる彼女の手には、スマートフォンが握られていた。 「……警察、呼ぶわよ?」 「こんな所に呼んだら、捕まんのはお前らだろ?」 電話を奪い取り、力なく抗う身体を足蹴にし 傍に転がっていたシャンパンの瓶を、その画面に思い切り叩きつける。 瞬間広がった細かなひびは、まるで蜘蛛の巣の様で 女の悲鳴を聞きながら、粉々になるまで、俺は何度もそれを繰り返した。 忌々しい部屋を後にして、電話を掛ける。 コール音は鳴っても、繋がる気配が無い。 一瞬、音が途切れた。 「深山?!」 『……おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の繋がらない場所に……』 故意に切られたのか、誰かに切られたのか。 不安に駆られ震える手で、何度もかけ直す。 けれど、幾ら繰り返しても、後輩の電話は切られたままだった。 当所も無く街を彷徨う。 繁華街の端にある私鉄の駅の周辺では、何台かの緊急車両と擦れ違った。 常に何処かの路地裏で小さな諍いが起きているから、同じ類の物だと思っていた。 やがて人影がまばらになり、カラスの声が白み始めた空に響き始める。 それでも、一目姿を見たい、その一心で、歩き続けた。 上司から電話が来たのは、眠気覚ましにファーストフードの店に入った直後だった。 休日の、それも早朝。 よっぽどの事態であることは、それだけで明白だ。 「起きてたか」 「ええ……ちょっと、早く目が覚めたもんで」 溜め息混じりの声は、いつもよりもトーンが重い。 「どうか、したんですか」 「実はな、昨日の夜……深山が事故に遭ったっていう連絡が、あった」 電車に飛び込もうとしたところを助けられたが、運悪く頭を強打し、意識不明の重体。 渡邉課長が把握している状況は、それが全てだった。 敢えて考えないようにしていた最悪の結果が、目の前に広がる。 煙草を持つ手も、煙を吐き出す唇も、全てが落ち着かず、小刻みに震えた。 「回復の、見込みは……あるんですか」 「まだ、何とも言えんらしい」 「そう、ですか……」 「お前、あいつと仲良かっただろ?何か……知ってるんじゃないかと思ってな」 後輩の絶望の原因は、明らかだった。 手を下したのが狂ったジャンキー達とはいえ、あいつへのアプローチを許したのは俺の所為。 知らなかったから仕方が無い、そんな言い訳は、自分に対しても出来なかった。 俺があの店に連れていかなかったら。 俺があいつに、こんな感情さえ持たなかったら。 俺がこんな人間じゃ無かったら。 「……心当たりは、特に、無いです」 「そうか。とりあえず、月曜日は部長から改めて話があるから、30分早く来てくれ」 「分かりました」 深山の意識が戻ったという連絡が会社に入ったのは、あれから2週間ほど経った頃だった。 しかし、朗報はすぐに悲報に変わる。 彼の記憶に、数年分の穴が空いていることが分かったのだという。 事故に遭った理由も、そのきっかけとなった出来事も、もちろん、俺のことも、何も覚えていない。 話を聞いた時、正直、心の中には安堵も過った。 自分が犯した罪は、絶望と共に、彼の記憶の闇に消えてしまった。 ただ、それは、一生赦されることの無い罪を背負ってしまったことに変わりない。 病室の中の後輩は、青白い肌をして、少しやつれたように見える。 初見の男に向ける警戒心を含んだ視線が居た堪れなかった。 上司と共に名刺を手渡し、一歩後ろに下がって彼らのやり取りを眺める。 突然記憶が蘇ったら、あいつは、俺にどんな顔を見せるのか。 緊張と恐怖が、身体も心も強張らせる。 「退院の目途が付いたら、工事監理部へ復帰して欲しいんだ」 工事監理部で一から立て直すか、営業へ戻すか、全く違う部署へ配置転換するか。 会社の人事案に対して、上司はウチへの復帰を望んだという。 「もちろん、深山君次第だけれども……今は、人手が不足していてね」 「そう言って頂けるのは大変ありがたいのですが……業務内容も、全く覚えていなくて」 「それは重々承知してる。仕事のことはOJTで身に着けて貰えば良い」 「私で、務まりますでしょうか」 「今までだって十二分にやってくれていたんだから、大丈夫。なぁ、創」 「えっ……ええ、そうですね」 振られた言葉に対して、咄嗟に反応が出来なかった。 同時に向けられた顔を正面から受け止める事は出来ず、視線を微妙に逸らす。 「深山、君なら……すぐに元に戻れると、思います」 -- 7 -- 病院近くの喫茶店で、どのくらい時間を潰しただろう。 仕事とはいえ、ほんの数分のこととはいえ、二人きりで彼に対峙することが怖かった。 夕方前に書類を取りに行く、そう約束した時間は、既に18時を過ぎようとしている。 食事の時間は18時半だと、昨日、病院の壁にあった貼り紙で確認した。 それまでには、行かなければならない。 「ごめん、遅くなって。ちょっと、現場が押しちゃって」 窓に掛けられたブラインドの隙間から橙色の光が射している病室には 昨日とは少し違った表情をした深山の姿があった。 何処の誰なのか、それを知っているだけでも心象が変わるのだろう。 「いえ、こちらこそ……わざわざすみません」 側机の引き出しから書類を手に取り、彼はこちらへ差し出す。 「確かに」 休職願いと、業務研修に関する届出。 俺はそれを受け取り、鞄へ仕舞いこむ。 「あの付箋の字、鈴木さんの字ですか?」 気遣いから発せられたのであろう言葉が、地味に心へダメージを与えた。 あいつの中で、俺は、創ではなく鈴木。 一方的にリセットされてしまった人間関係を、改めて突き付けられる。 「え?……ああ、多分、そう」 「綺麗な字、書かれるんですね」 「見た目と違うって?よく言われるよ」 今の部署に異動したばかりの頃、彼は同じように会話の糸口を探ってきたことを思い出した。 「そういえば……鈴木さん、僕が事故に遭う前、お電話頂いてますよね」 僅かに緩んだ気分が、聞こえてきた疑問形の言葉で再び緊張感を増す。 「電話、取らなかったみたいで。何か用事があったんじゃないかと」 切られたと思っていた電話。 あれが、まさに事故の瞬間だったのだと気が付いた。 「いや……それは、仕事の件で確認したいことがあって……もう大丈夫だから」 「そうですか。もしかしたら、その時のことを、何かご存じなんじゃないかと思って」 後輩の手元に置かれているスマートフォンには、自身の知らない履歴が残っている。 恐らく彼は、そこから記憶の糸を手繰ろうとしているのだろう。 無意識の内に、溜め息が漏れた。 「……本当に、何も覚えてないんだな」 求めに応じることは、出来る。 けれど、わざわざ、忘れたい出来事を思い出させる必要は無い。 帰るタイミングを逸した俺に、彼は更に言葉をぶつけてくる。 「でも、昨日、夢を見たんです」 「……夢?」 「好きな人に裏切られて、絶望する夢。当時の僕に、何か、そんなことがあったのかな、と」 裏切ったのも、絶望を与えたのも、俺のはず。 引っ掛かりを感じた言葉は、一つだった。 「好きな、人?……彼女、とか?」 恋人はいないと言っていた。 「そういう人がいたのかも、覚えてないんです。でも、それなら見舞いにでも来てくれるでしょうし……」 「そう、か」 「僕の片想いだったのかも知れません。けど……もし、何か事情があったのなら、それが知りたくて」 深山が想いを寄せる相手を知ることは、今となっては誰にも分からない。 ただ、俺の中で導き出された結論は酷く歪んだ物で、有り得ないと分かっていても、鼓動が早まった。 「ゴメン、仕事残ってるから、戻らないと」 これ以上、ここにはいられない。 背を向けた俺に、後輩は訝しげな口調で食い下がる。 「鈴木さん、何か知って……」 「深山」 何故、その記憶だけを残してしまったのか。 いっそ、全てを失くしてくれていたら、どれだけ救われただろう。 「そんな奴のことは、忘れろ。思い出したところで、傷つくだけだ」 廊下の向こうから、夕食を積んだワゴンが向かってくる。 復帰を待っている、そんな短い挨拶を残し、俺は病室を後にした。 9月初めに無事退院した深山の会社復帰は、中旬くらいになるという。 突然の欠員で乱れた部署内の工程も順調な流れに戻り 俺は、渡邉さんから任されたOJT用の資料を作ることに注力していた。 例の出来事以来、あの部屋にも赴くことは無くなって、とりあえず短調で平穏な日常が訪れている。 その男が俺の前に姿を現したのは、後輩が戻ってくる一週間前のことだった。 「宇田川と言います。ちょっとお話聞きたいんで、同行して貰って良いですかね?」 火曜日の出勤時、マンションのエントランスの前で、そう声を掛けられた。 白髪の男がこちらに向けていたのは、警察手帳とよく似た手帳。 僅かに認識できた厚生労働省という文字に、背筋が凍る。 少し離れた場所には白いバンが停まり、傍にもう一人男が立っていた。 夏の朝日に照らされた中年の男の髪が銀色に輝く。 タケルが言っていたマトリとは、こいつのことなのだろう。 狼狽え、硬直した腕が男に掴まれる。 「時間も無いんで、後悔するなら車の中でしてくれるかな」 会社に連絡する間もないまま、俺は車に押し込められた。 連行された近くの警察署で、貴重品を回収され、尿検査を受けた。 疾しいことは何も無い。 そう思っていても、周りの目は完全に犯罪者を見る物になっていて それだけで、心が折れそうになる。 無機質な小部屋の中で対峙した白髪の男は、冷淡な眼で俺を一瞥した後、手元の資料に目を落とす。 「8月3日の夜のことなんだけどね」 タケルとの最後の時間を過ごした夜、そして、深山が壊された、夜。 「この男とホテルで一緒だった?」 差し出された写真に写っているのは、金髪の男。 懐かしさと恥ずかしさに惑う俺を、職務中の男が急かす。 「ここに来て躊躇うことも無いだろう?どう?一緒だったの?」 「……一緒でした」 「別れたのは、夜の0時半くらいで合ってるかな」 「え?」 -- 8 -- 『そうだ。今、何時かな?』 『もうすぐ、11時になる、ところ』 「違う?」 「あ、いや……」 事実と違う時間は、何処から出てきたのか。 もし、タケル自身がそう証言しているのなら、俺は、どうするべきか。 「こいつはもう拘留中だ。……今更誤魔化したって、意味無いんじゃないか?」 口角を上げ、冷たい笑みを浮かべる男が、俺の裏切りを待っている。 「素直な態度を見せてくれた方が、こっちだって、君の話を信じようって気になるもんだよ」 不自然に映った男の行動は、もしかしたら、俺を有利な立場に置く為のものだったのかも知れない。 彼はこうなることを予見していて、あんな風に振る舞ったのだろうか。 「彼が部屋を出たのは……11時前、でした」 「確か?」 「出る前に時間を聞かれて……その時に確認したんで、確かです」 「その後、何処に行くかは、言ってた?」 「そこまでは……」 「失礼します」 話の途中で部屋に入ってきた男が宇田川に耳打ちをし、一枚の小さな紙を渡す。 ベテランのマトリは紙片と俺の顔の間に視線を往復させ、軽く手を上げて男を退室させた。 「あの部屋に出入りしてて、売人と関係持って、ヤクやってないって言い訳が通用するとは思ってないよね」 「それは……でも」 「まぁ、今日のところは出なかったけど、しばらく素行調査が付くから、そのつもりで」 部屋を出ると、廊下の向こうにあるソファに、見覚えのある中年の男が座っていた。 「君を釈放するには、身元引受人が必要でね」 気配を察したであろう彼が、こちらを向いて立ち上がる。 「ご家族は遠くにおられるってことだったから、会社の方に来て頂いたんだよ」 確かに、父の海外転勤に母も同行した為、身内と呼べる人間は近くにいない。 隠し通せる訳も無いとは思っていたものの、その覚悟はまだ出来ておらず 深々と頭を下げる上司を見ながら、もう、何もかも終わったのだと感じていた。 課長が書類に署名し、預けていた貴重品が戻ってくる。 「信頼してくれていた人間を裏切った罰でも、当たったんじゃないのか」 別れ際、白髪の男の言い放った言葉が、心に深く刺さった。 警察署近くの公園で、味のしない煙草を咥える。 「オレは、まぁ、お前のことは信じてる」 ベンチに座る渡邉さんは、遣り切れない表情を浮かべ、彼の前に立つ俺を見ていた。 「でも、多分、庇いきれん」 既に、会社の上の方には報告がなされているという。 幾ら嫌疑が不十分であっても、疑いを掛けられただけで信用は地に落ちる。 「とりあえず、明日からしばらく、謹慎の命が下った」 「……分かりました」 「その間に、幾つか新しいところ、見繕っておいてやるから」 新人時代から、ずっと世話になってきた。 未熟だった自分を何度となくフォローしてくれ、感謝してもし尽せない。 それなのに、最後の最後で、こんな尻拭いをさせてしまった不甲斐ない自分。 「すみません……本当に、すみませんでした」 その場に正座し、頭を地面に擦り付けた。 「顔を上げろ、創。そんなこと、するんじゃない」 「もう、どうしていいか……どう、詫びて良いか」 「オレは、お前が真っ当に生きてくれれば、それで良いんだ」 背中に真夏の太陽を浴びながら、どんな贖罪も無意味であることを噛み締める。 誰でも良いから、俺を、容赦なく罰して欲しい。 積み重ねてきた罪悪感を、この身に焼き付ける様に。 日常から切り離され、3週間も経った頃。 渡邉さんが紹介してくれた幾つかの会社を回り、やっと一つの会社に内々定を貰うことが出来た。 町田にある地場ゼネコンで、官庁工事を主に請け負っているという。 仕事内容は今までと変わらない工事監理だが、現場の規模は小さく、給与もそれなりになる。 それでも、これが今の自分の価値なのだと、受け入れるしかなかった。 恩人に内定の旨を連絡すると、彼は自分のことのように喜んでくれた。 祝杯でも上げるかと誘いを受けたが、それは断った。 互いの日常と、元いた部署の状況を幾つか話し、電話を終える。 安堵の溜め息と共に、緊張が解け、ふと口元が緩む。 唇がこんなに軽く感じられるのは、いつ以来だろう。 ベッドに横になったタイミングで、電話に着信が入る。 ディスプレイに表示されていたのは、深山の名だった。 奇しくも、俺が謹慎処分を喰らった日、彼が記憶を取り戻したという報せが会社に入ったそうだ。 課長からその様子を聞かされてはいたが、あいつから直接連絡が入ることは無かった。 謝罪するべきか、何度迷いを繰り返しても、勇気は出ない。 そして、今、この電話に出る勇気も、出ない。 断罪して欲しいと思っているのに、俺は、想いを寄せていた頃のあいつを手放したくなかった。 一回目の着信が留守電に替わり、二回目の着信も、間もなく切れる。 間を置かず、三度目の時が、やってきた。 「深山です」 久しぶりに聞く男の声は、酷く落ち着いていた。 「……何か用か」 「一つ、聞きたいことがあって」 動揺を悟られまいと、声を落ち着かせることに注力する。 「何だ」 「どうして、オレを、裏切ったんですか」 無数の言い訳が、頭を巡った。 でも、どれもが、彼を納得させるに足るものでは無かった。 「あのまま、オレの記憶が戻らなければとでも、思ってましたか」 「そんなこと……」 「いっそ、死んでくれればとでも、思ってましたか?」 強まっていく語気に、思わず流される。 「そんなこと、思ってる訳ないだろう?!」 「じゃあ、何でオレをあの女に売ったんだ?あんたが仕組んだんだろ?何でも良いから言い訳してみろよ!」 「俺じゃない!」 叫び声で、我に返る。 この期に及んで、体面を取り繕っても仕方が無い。 全てを話し、彼の審判を受け、罰を受け入れる。 そうすれば、例え憎悪でも、彼の感情を自分の心に刻むことが出来る。 -- 9 -- 「知らなかったんだ。あいつらが、何を企んでたのか……気が付けなかった」 深山が凌辱を受けていた同じ時間、俺が何処で何をしていたのか。 時間を追って、事細かに話す。 ただ、その相手のことは、話せなかった。 男と関係を持っているということだけは、知られたくなかった。 「そうですか。大体、分かりました」 電話越しの彼の反応は、やはり芳しい物では無く、信じきれない心情が滲んでいる。 「……信じて貰えないだろうことは、覚悟してる」 「すぐには、納得できません」 冷たい声が、壊れそうになっている心を撫でた。 俺は、まだ赦しを乞おうとしている。 惨めな自分に悔しさが込み上げた。 「そうだよな……結局お前を、あんな目に遭わせたのは、俺の所為なんだから」 互いの溜め息だけが、しばらく行き交った。 「クスリはやってないって、本当ですか」 後輩の声は、微塵もトーンが変わらない。 「俺は、やってない。売り買いしてんのは……知ってたけど」 返す俺の声は、なかなか揺らぎが収まらない。 「会社は、辞めるんですか」 「……来月には、辞める」 「次に行くとこ、決まってるんですか」 「課長……渡邉さんに、紹介して貰って……昨日、決まった」 質問を畳み掛けられ、何とか気分が落ち着いてくる。 けれど、その平穏も、すぐに崩れた。 「男と付き合ってるって……聞きました」 息が止まる程の衝撃が、目の前を暗くする。 誰から聞いたのか、何処まで知っているのか。 もしかして、俺が後輩に抱いていた屈折した想いにも、気が付いていたのだろうか。 「あの女が、言ってました。創さんが、男に走ったって」 「付き合ってる、訳じゃ、無い。ただ……酔った、勢いで」 「酔ったら男とヤれるんですか」 「それは……」 脳裏に浮かぶ、金髪の男の笑顔。 その向こうに見ていた、違う男の姿。 混乱する頭では、場当たり的な言い逃れに終始することしか出来ない。 狼狽える俺を弄ぶ様に、彼は、逃げ道を完全に塞ぐ言葉を口にした。 「それって、酔ったら、オレとでも出来るってことですよね」 これが、深山の審判。 「一回、あの時のオレの気分、味わってみませんか?」 俺が知る、ただ一人の男とのセックスとは全く違う、憎悪だけの体罰。 彼の心の中を想像するだに、恐怖が募る。 それなのに、俺は何処かで、彼から痛みを刻まれることを望み始めていた。 こんな形でも、想いを遂げられることが、幸せに思えた。 小雨の混じる風は、すっかり秋めいている。 再就職の際に黒く染め直した髪と、食欲が出ず、幾分痩せてきた身体つきで 待ち合わせ場所に現れた彼は、すぐに俺だと気が付かなかったらしい。 「お久しぶりです」 「久しぶり」 「髪、黒くしたんですね」 「ああ、流石にあれだと……印象も良くないし」 「……体調、悪いんですか?」 「大丈夫。ちょっと……食欲が無いだけだから」 あの頃と変わらない声と風貌を懐かしく思いながら、切れてしまった関係を憂う。 薄暗い路地に面した階段を上り、豪奢な扉を開ける。 小さなフロントで鍵を受け取った深山の後についていく。 異質な空気が流れる廊下を歩いていると、やがて彼はある部屋の前で立ち止まった。 「覚悟は良いですか?」 見上げる視線に慄きながら、俺は、一つ頷きを返す。 視界に飛び込んできた赤い光景が、心身を戸惑わせる。 手枷足枷の付いた十字架や、革のベルトが付けられた大きな革の椅子。 赤い壁紙を背景に天井から下がる何本もの鎖が、ドアを閉めた衝撃で小さく揺れていて 背後の男とは全く結びつかないこの空間に、自分が立っていることが不思議だった。 「いつも、自分優位のセックスをしてるんでしょうけど……ここでは、オレが上ですから」 俺の知らないあいつの声が耳を通っていって、意識が現実を直視し始める。 肩に掛けられた手に呼ばれるよう、振り向いた。 「オレが病室で言ったこと、覚えてますか」 彼を裏切り、絶望させた相手が、誰だったのか。 この場で発せられる問が、あの時導き出した身勝手な結論を裏付ける。 「片想いじゃ、満足できない。淡いままで、終わらせたくない」 襟元を掴まれ、男の眼前に顔を引き寄せられた。 「創さんの、本能が、見たい」 間もなく触れ合った唇から、彼の吐息が漏れてくる。 徐々に開かされていく割れ目を、熱の籠もった舌が滑っていく。 薄い視界の中には僅かに頬を紅潮させた後輩の表情が映り、複雑な悦びが身体に沁みていった。 -- 10 -- 両手首に付けられた枷に、鎖が通された。 軽い金属音と共に巻き上げられていく鎖は、俺の身体を徐々に地面から離す。 爪先立ちになるくらいで固定された身体は余りに不安定で、些細な刺激にさえ耐えられそうもなかった。 深山は慣れた手つきで俺の上半身の衣服を脱がし 程なく露わになった胸元に、室内の冷気と、彼の掌の熱が纏わりついた。 伏せていた顔が上向けられ、男の舌が喉仏を包む。 息苦しさと得も言われぬ刺激が身体中に拡がり、思わず呻き声が出た。 唇と舌でじっくりと愛撫されることで、こんな場所までが性感帯にされていく。 彼の手が何処へ向かっているのか、察知するよりも早く、直接的な快感が身を捩じらせる。 裏返る声を誤魔化す為に、わざと咳き込んだ。 普段意識していなかった胸元の突起が執拗に責められ、その度に頭上の鎖が甲高い音を立てる。 指で摘まれ、舌で転がされ。 たったそれだけの行為に、こんなにも身体が悦びを示すということが自分でも信じられない。 指の力が徐々に強くなり、乳首が捻り上げられる。 「……感じます?ここ」 鼻先に男の吐息と問い掛けが吹きかけられ、薄く目を開けた。 歪んだ視界の中には、満足げな後輩の姿がある。 その問に、俺は、眉をひそめることで何とか答えを返した。 細い鎖の先には、小さなクリップ状の物体が付いている。 彼は愉快そうに乳首の周りを撫で、乳首を突き、瞬間目を細めて突起を苛んだ。 「いっ……」 想像以上の痛みが背中まで突き抜ける。 抗うことも出来ないまま、もう一方も同じ責めを受けた。 みぞおち辺りまで垂れ下がる鎖を男が指で揺らすと、痛みと、それでも僅かに残る快感が身体を駆ける。 奥歯を噛み締め耐える俺に、彼はその鎖を差し出して、笑みを浮かべた。 「咥えて」 下唇に触れる金属の冷感が首筋を凍えさせ、溶けていく。 おずおずと唇で鎖を挟み込むのを見計らい、後輩の手が俺の顔を仰がせる。 「……ん、ぐっ」 自らの口に引っ張り上げられた二つの乳首への刺激は、瞬く間に下半身へと伝わっていった。 「気持ち良さそうな顔して……自分で気持ち良くなってて、良いですからね」 視界の端に、黒髪がチラチラ映る。 足元に跪いた彼が、下半身の衣服を脱がし始めた。 身体を蝕んでいる快楽の証しを見られるのが恥ずかしい。 そんな感情に背中を押され、俺は更に、未知の世界へと落とされていく。 下着の上から、やや膨らみ始めたであろう性器を掴まれ、撫で上げられる。 もう一方の手が、ゆっくりと緊張で強張る尻を撫でる。 反射的に身体を捻っても、足元が覚束ないまま、すぐに彼の腕に捕らえられてしまう。 ふと上向いた男の顔は実に愉快そうで、自分が置かれた立場が如何に惨めなものなのかを思い知らされた。 彼の指の動きは徐々に大胆になり、僅かばかり残った矜持さえも溶かす。 耳に異音が届くと同時に、性器に何かが押しつけられる。 子供騙しと馬鹿にしていた玩具は、抗う術の無い身には脅威でしかなかった。 固く閉じた唇に金属の感触が食い込み、首を傾げることすら禁じられていることを思い出す。 モノ全体を舐めるように、振動体が滑っていく。 宙に吊られた拳を握りしめることで、強制的な快楽を何とか耐え忍んだ。 不意に、下半身を包んでいた熱が取り払われる。 他人の性器を興味深げに眺めた彼は、まだ玩具遊びをやめようとはしなかった。 敏感な部分をなぞり、俺の身体が波打つ様を楽しみながら 滑ついた指の感触で、自分がどの程度流されているのかを思い知らせてくる。 「こんなに垂れ流して……ちょっと、栓、しておきましょうか」 落とした視線の先には、一本の小さな金属棒をこちらに見せつける彼がいた。 どんな責め具なのか、想像が行きつくよりも早く、男は行動に移す。 「……っあ、ぐ」 勢いよく尿道に差し込まれた棒は、不快感と閉塞感と痛みを以って全身を痺れさせた。 「オレが満足するまで、射精はお預けですよ」 絶頂さえ見えなくなった中で、翻弄される時間は更に続く。 固い感触の後にやってきた、熱く生々しい感触。 血管の凹凸を均すかのように辿る舌の軌跡を頭の中で追いかけた。 男の手に包まれた睾丸が力強く握られ、柔らかな快感と不可思議に融合していく。 尻を掴む手が、未経験への恐怖を駆り立てる。 尾てい骨の辺りに響いてきた振動が段々と奥へと進み、やがて入口へ差し掛かった。 「んっ……」 直接与えられる刺激に、僅かばかりの期待が顔を出す。 「このまま、入れちゃいましょうか?」 それでも深山の声に首を振ったのは、自分への最後の言い訳だったのかも知れない。 彼はそれを知ってか知らずか、昂ぶるモノに小さな口づけを与え、玩具を中へめりこませた。 「あっ……はぁ」 激しい異物感と、背徳の感情。 「ちゃんとケツの穴でも感じるんですね。ほら、チンポもビクビクしてますよ」 「そ、んな……」 荒くなる息を整えようと空気を吸い込んだタイミングで、玩具が体内に侵入してくる。 「……っん」 些細な動きが、腰を砕くほどの衝撃になって全身を駆けた。 コードで繋がれたリモコンを手放したのだろう。 重力に引き摺られ抜けそうになった異物を、やっとの思いで抱える。 「抜けないように、ちゃんと締めてて下さいね」 もう、身体の何処にも、力を籠める場所が無い。 痛み始めた足先と、空を掴むことしか出来ない拳で、意識を保つのが精一杯だった。 「創さん、オレの方、見て下さいよ」 楽しげな声に誘われるまま、真正面に立つ深山に視線を送る。 「そんなに怖い顔、しなくても」 おどけたように微笑んだ彼の唇が、どうしようもないほどの快感で歪む俺の唇に触れた。 漏れた吐息の熱が、更に興奮を押し上げる。 「気持ち良いですか?」 「っう、いぃ……」 「何処が?」 一瞬の躊躇いが、相対する年下の男の昂ぶりに蹴落とされた。 「……な、か」 俺の降伏に満足した様子の彼の鼻息が、頬を掠める。 「じゃ、そろそろ、本番にしましょうか」 -- 11 -- 男が手にしている張り型は、通常の男性器のサイズよりも一回りは大きいだろう。 不気味に黒光りする、粘性の液体を纏った玩具を手に、彼は俺の背後に回る。 思わず反らした身体は呆気なく引き寄せられ、まず、前戯の為の玩具が取り去られた。 「オレも、こんなの入れられたんですよ……創さんの、オンナ、に」 恨み節が耳元で囁かれ、異物が尻を撫でていく。 「これくらい我慢して貰わないと、オレの、入んないかも」 期待と恐怖、今ならまだ、快楽に引き摺られた期待の方が、大きい。 受け入れる心の準備の為に、一つ、溜め息をついた。 「ひっ……」 想像以上の苦痛が、脳天を激する。 めり込む、まさにその言葉が示すように、全身を窮屈な刺激が駆けた。 上半身を抱えるように回された腕と、背中に密着する身体の感触に必死で縋る。 眼を閉じた暗い視界の中に、しばらくの間、無数の星が舞っていた。 頬に添えられた手に呼ばれ、ゆっくりと振り向く。 潤んだ視界の先には、不安げな深山の顔があった。 吸い寄せられるように唇を重ねる。 「楽にして」 優しげな囁きと相反する責めが身体を酷く戸惑わせる。 瞬きをする毎に理性が流れ、男の顔がより一層愛おしく見えてくる。 痛みで萎れたはずの性器は、その手で愛撫されることにより性感を取り戻し、強張る場所を解していく。 うなじを彼の舌が這い、上半身が僅かに仰け反る。 腰が持ち上げられた動きを借りるよう、彼は緩み始めた穴を静かに穿ち 抜き差しが繰り返される内に、苦痛は快感に覆われていく。 「……ん、あぁ」 今まで理性に阻まれて身体の内側にしか響かなかった声が、衝動に押し出される。 今まで誰にも見せたこと無い本能が、彼の前だけで、露わになる。 拘束を解かれた身体は、すぐには重力に抗うことが出来ず、床に沈んだ。 ネクタイを緩めただけの男は、俺を見下ろしながら下半身の衣服だけを脱ぐ。 勃起した男性器は確かに、玩具ほどの勢いがあるように見えた。 軽く手を添えられた腰を持ち上げ、その場所を、男に向ける。 「中に、出して良いですか」 容赦なく罰して欲しい、その願いが、もうすぐ成就する。 そう思いながら、頷きを返した。 明らかに人工の物とは異なる感触が、体内に入り込み、侵していく。 二人の息遣いと、身体がぶつかり合う音だけが空間を支配し 程なく、彼の絶頂と共に、自分の精液が床に飛び散っていった。 知らぬ間に眠ってしまった意識を覚まさせたのは、男の静かな嗚咽だった。 「……どうした?」 屈んだ背中に手を伸ばし、そっと撫でる。 僅かにびくついた身体は一つ息を飲み込み、こちらへ振り向いた。 幾筋もの涙に濡れた顔は今にも崩れ落ちそうで、俺の心までも不安にさせる。 半身を起こしかけたその時、彼の身体は動きを制するかのように俺の上へ覆い被さり 数秒見つめ合った後で、唇が重ねられた。 「深山……?」 眉間に皺を寄せ、口元を歪める男の頬に手を添える。 「赦さない」 揺らぐ声に、思考が一瞬止まった。 その結論が心に沁みていくのを待たずに、彼は更に言葉を投げる。 「好きだから、離れたくないから……赦さない、一生」 心の中で待ち望んでいた、けれど、あまりに非現実的な言葉。 金髪の男が呟いた時とは違う、恐怖にも似た衝撃が頭の中に走った。 涙の理由は、背徳の感情への自責なのか。 目尻を下げ、口角を歪めた男の顔を、自分の方へ引き寄せる。 「……分かった」 胸元に心地の良い重さを感じながら、頭をゆっくりと撫で、後輩と自分の気持ちを宥めていく。 「それでいい」 痛みだけを刻みつけるはずだった身体に、彼の涙が沁みて やっと、罪悪感に埋もれていた気持ちを、引き摺り出せるような気がした。 「一生かけて、償っていくから」 『Re:  』 泣き疲れて眠ってしまった男の横で、そんなタイトルのメールを目にする。 ――― この間、保釈になったんだ。 ――― そのついでに、大阪に行ってくる。 ――― ちょっと、人の手伝いをすることになったから。 短文と一行ごとに空けられたスペースが、若者らしさを強調する。 それでも、彼が第三の選択肢を選んだのであろう覚悟が、画面から伝わってきた。 ――― 今、ハジメの傍には誰がいる? ――― オレの傍には、いつでもハジメがいるよ。 添付されていた画像には、彼の二の腕に張り付いたトンボが映っている。 これで、寂しい思いをさせることは無い。 身勝手な思いが去来して、結局俺は、最後まで彼を裏切り続けたのだと、思い知らされた。 あいつと待ち合わせる夜は、何故か雨の日が多い。 約束の時間が迫り、傘を差したまま小走りで裏路地を抜ける途中 擦れ違った金色の気配に、ふと足を止めた。 いるはずがない。 仲間と愉しげに夜を楽しむ見知らぬ男を見送りながら、一つ溜め息をついたものの 俺に絡みついていたはずの糸が少しずつ解れているのも、確かだった。 窓の外から店の中を窺うと、ソファに座った彼は、視線を宙に泳がせて何かを考えている風だった。 想いを馳せている先は、過去か、未来か。 もしかしたら、昔の恋人のことなのかも知れない。 傘に当たる雨音が徐々に大きくなり、窓の向こうの男が顔を上げる。 忘れろとは言わない、けれど、今は、俺だけを見ていて欲しい。 そんな感情を載せた微笑みに、彼は柔らかな表情を返してくれた。 今夜も、彼と本能を曝し合う時間がやってくる。 二人を繋ぐか細い糸は、まだ絡まり始めたばかりだ。 Copyright 2014 まべちがわ All Rights Reserved.