いつまでもアメリカン。http://foreveramerican.blog89.fc2.com/ --- 結論(R18) --- -- 1 -- 辞表と書かれた封筒と一枚の便箋。 テーブルを挟んで向こうに立つ男は、顎でそれを指し示した。 小さく頭を下げてから、それを手に取る。 細かな字で綴られた文の最後には、上司である課長の名が記されていた。 「斎藤さん、我孫子部長が探しておられましたよ」 夕方、営業先から戻った俺に、営業事務の三上さんはそう声を掛けてくれる。 「部長が……?何の用事か言ってた?」 「いえ、特には。相変わらず元気なさそうでしたけど」 この春の改組によって、営業部は "ソリューション推進部" と名前が変わり 中小事務所・ゼネコン・官公庁とクライアント別に3つの課に分割された。 数十名いる営業部員は殆どが大口顧客であるゼネコン・官公庁の担当に割り振られ 俺が所属している第1グループ、設計事務所を担当する課には8名ほどしかいない。 元々事務所廻りがメインだったこともあり、仕事の内容は殆ど変わらず 名刺が少しうるさくなったように感じたくらいだった。 改組と同時に人事異動も行われ、グループの課長には鶴岡という男が抜擢された。 俺より5歳下ではあったが、昇進前は俺と同じ係長。 有名大学を出て、恐ろしく前向きな性格を武器に営業畑を歩んでいた。 実力は認めていたものの、悔しさは無いと言ったら嘘になる。 名ばかりの "課長補佐" という肩書を手に、仕方がないと必死で飲み込んだ。 しかし、GWを過ぎてすぐの辺りから、鶴岡の様子がややおかしくなり始めた。 物思いに耽ったり、溜め息が増えたり、ネガティブな言葉を吐くようになったりと ともすれば別人になってしまったような、そんな状態だった。 そしてその一週間後から彼は欠勤を重ね、今日で5日が経つ。 『自分探しの旅に出ます』 文章序盤に出てきた文言に、一瞬目を疑った。 何かふざけているんじゃないかと思いながら、更に続く彼の主張を読んでいく。 長期休暇中に訪れた東南アジアのある国で未知の文化に触れ、自分の小ささを思い知った。 何にも囚われない自由の中で、もっと見聞を広げたい。 きっと、その過程で、本当の自分を見つけられるはずだ。 大学生、せめて20代前半くらいまでならこの主張もアリだとは思う。 けれど、中堅のサラリーマン、しかも管理職である立場の男がこれを書いたのかと考えると こちらまで気恥ずかしくなってくるようだった。 確かに、毎日働き続ける息苦しさで、こんなことを妄想することもある。 とはいえ彼は既婚で小学生の子供もいる。 家族や部下を背負う立場だという自覚が、完全に抜け落ちているらしい。 「何か、カウンセリングとか……」 しかめっ面の部長に、選びに選んだ言葉を返す。 「無駄だ。長期休暇の提案にすら耳を貸そうとしなかった」 「では、どうされるんですか」 「慰留の言葉を出した途端、辞めさせないなら弁護士に相談するって言ったからな」 その話を聞いて、手にしている紙切れに書いてあることが妄言では無いと悟る。 「……奴の希望通りにするしかない」 辞令が出てまだ1か月半あまり。 当然責任を問われるであろう部長は、煮え切らない表情を隠さなかった。 もちろん、いつまでも課長不在のままでいる訳にもいかない。 「7月から課長だ」 不穏な空気が漂う会議室の中、棒立ちになった俺に上司は告げた。 「えっ?」 「鶴岡には賞与前に辞めて貰う。その後はお前が引き継げ」 あまりに突然すぎる展開に、思考が定まらない。 「やれないのか?」 部長の不機嫌な声から、致し方ないという心情が伝わってくる。 新人の頃は彼の下につき、営業という仕事を一から学んできたが まだまだ俺には、実力も器も足りないと思っているのだろう。 同期の殆どが主要なポストについていることに焦りはあるけれど それほど出世欲もないし、仕事だって営業の現場に立つ方が性に合っていると自分に言い聞かせてきた。 もちろん、後輩に役職を先んじられたという屈辱の裏返しとして。 「……いえ、お引き受けします」 見返してやりたい。 軽く睨みつけるように、答を返した。 向かいに立っている男は小さな頷きを数回繰り返してから、一つ溜め息を吐く。 「必要な資料や管理職研修のスケジュールは、後で連絡する」 「分かりました。宜しくお願いします」 上司不在という異常事態が続いて1ヶ月。 名ばかりだったはずの課長 "補佐" の肩書がこんなにまで活かされるとは思いもよらなかった。 予算の管理、スケジュールの調整、日報の確認、工事会社との折衝。 自分が抱えていた物件を全て部下に任せても 前課長の空けた穴を埋めながらの慣れない仕事に四苦八苦の毎日だった。 「荷物、一通りまとまりました」 人事課からやってきた臨時の管理職研修に関するメールに目を通して、溜め息を一つ吐いた時 やや不機嫌な三上さんの声が聞こえてきた。 「ああ、ありがとう」 顔を上げた先にはすっきりした机と、段ボール箱が一つと、備品が詰め込まれたカゴが一つ。 「じゃあ、私物は発送の手配をお願いできるかな」 「了解です。……それにしても、挨拶にすら来ないなんて」 結局あれから、鶴岡の顔を見ることは無かった。 辞表を出してからすぐ有給消化期間に入り、今日が最後の勤務日になる。 会社とのやり取りは、全て弁護士経由で行われ 私物の返却についても、指定された住所に送るようにと通達があっただけだった。 皆さんと共にこの会社で働いた時間は、僕の人生において大きな糧になることでしょう。 会社の発展と、皆様のご健勝を、心からお祈り申し上げます。 昨日部長から手渡された鶴岡の最後の言葉には、退職する人間が大抵口にするありきたりな文言が並んでいた。 彼にとって悪気の無い挨拶なのだろうとは思うが 部署の人間が抱く元上司への心象が決して良いものではないこともあり、却って遺恨を残すだけだろう。 そう判断して、彼の手紙は机の引き出しにしまい込んだ。 -- 2 -- 週の中日となる水曜日。 廊下の片隅に、正式な辞令が掲示された。 出社してきた社員たちはそれほど興味も無いらしく、俺も横目で見ながら通り過ぎる。 会社では特に辞令交付などの場を設けることも無く、こうやって貼り出されるだけなのが慣習だ。 加えて、今回は想定外の人事、あまり表沙汰にはしたくないのだろう。 俺としても、しばらく補佐として課長の仕事をこなしてきていることもあり 心機一転、という心持ちにはなれなかった。 「斎藤さん、そこじゃないですよ」 いつもの机の傍まで行って、向かいに座っていた部下に呼びかけられる。 「ん、ああ……そうか」 昨日の帰り際、自分の荷物を新しい席に移していたことをすっかり忘れていた。 「後、これ、総務の方が持ってきました」 改めて席に着き、そこから見える光景にやや戸惑いを感じている俺に、彼は小さな包みを手渡してくる。 「ありがとう」 中に入っているのは新しい社員証と名刺。 「今お持ちの物は、同じ袋に入れて返してくださいと」 「分かった。後で三上さんにお願いしておくよ」 名前の横に記された、小さな肩書き。 どうでも良いと虚勢を張っていたけれど、やっぱり、少し誇らしく感じる。 毎朝行うミーティングは、前日提出された業務予定の確認と 現在受け持っている物件の進捗状況の報告が主な議題になる。 「Sビルの進捗はどう?」 「月曜日にVE案の図面貰ったんで、積算の方に流してます。今日の午前中には出てくる予定です」 「具体的にはどのくらい減りそうかな」 「1割が良いところだと思います。VAV減と照明のスケジュール制御の中止くらいなので」 自動制御機器の設計・製造・工事を生業とするこの会社で、俺たち営業の役目は顧客と技術部隊との橋渡しだ。 電話やWEBサイトからの問い合わせへの対応はもちろん 依頼があれば実際に事務所へ赴き、まずは計画概要の確認をする。 その後、設計課に設計依頼を出し、出来上がった図面を顧客へ提出。 着工の目途が立ったところで積算課から見積を受け取り、VEの要否を確認。 最終的に、工事部と建物の工事会社との折衝に立ち会う。 年末、年度末、長期休暇前など、技術部のキャパシティがギリギリになるような時期になれば 比較的単純な改修案件を自分たちで設計・積算することもある。 中小規模の事務所を相手にするとは言え、物件が中小規模とは限らない。 設計は建物規模・用途によってグループが分かれているが、営業にはその区別は無く 建物と工程を全体で把握する必要が出てくる。 だからこそ、この仕事には遣り甲斐があると自負してきた。 「G病院って……随分前の案件じゃないの?」 「もう一ヶ月くらい変更変更でズルズルしてます」 「設計の方は?」 「対応はしてくれてるんですけど、流石に感じ悪くなってきちゃって」 手元のタブレットには部署で持っている全物件のスケジュールが時系列に並んでいる。 この物件の着工は10月。 盆前は設計も積算も混み合うことを考えれば、もうそれほど余裕はない。 「もし今日の雰囲気でまだ固まりそうも無かったら、一回こっちで止めておこうか」 「大丈夫ですかね?」 「このくらいの規模なら、何とか捻じ込むから」 打合せが終わり、銘々が自席に戻っていく。 幾つか電話が入っているようで、机には数枚の付箋が貼られていた。 「三上さん、これ、総務に届けて貰えるかな」 「分かりました」 朗らかな表情で包みを受け取った彼女は、ふと部署の面子の方を振り返り、また視線をこちらに戻す。 「ところで、今度の金曜日ってご予定如何ですか?」 「え?何で?」 「昇進祝いと暑気払いを兼ねて飲み会でもどうかなって、皆で話してたんです」 「そうそう。ちょうどボーナス日ですし、これからの苦難を前もって労おうと」 「不吉な言い方するなって」 「まあ、ここ最近大変な日が続いてましたから。ちょっと息抜きしましょうよ」 室内が俄かに明るい雰囲気で包まれる。 昇進したからといって、精々頭一つ抜けただけの存在、上司としては未熟な人間だと思っていた。 少なくとも、ここでは、俺は認められている。 彼らの誘いに快諾しながら、心の荷が一つ、下りた様な気がした。 「昇進したそうじゃあ、ないですか」 定時後だというのに社用携帯に電話をかけてきた男は、独特のイントネーションで祝福の言葉を贈ってくれた。 「誰から聞いたんですか?」 「ええ、まあ、人伝手に、ね」 「野島さんは相変わらず地獄耳のようで」 業界では中堅どころであるO設計事務所の野島氏とは、もう10年以上の付き合いになる。 O設計自体は、俺が新人の頃、我孫子さんに同行する形で訪れたことがあったが 男と初めて顔を合わせたのは、それから5年くらい後。 前任が転勤するということで上司から担当を受け継いでからだ。 「これは、お祝いしないと、ですねぇ」 「いやいや、そんな」 「だって、ほら、ボクが室長になった時も」 「それはそうですけど」 客先の人間と親しくすることは殆ど無い。 その中で、彼とは同年代で、かつ妙に気が合ったこともあり、仕事抜きで酒の席を共にすることがたまにある。 「じゃあ、都合のいい時にでも。予定空けておきますから」 「……酒が飲みたいだけなんじゃないんですか?」 「あはは」 しばらくたわいも無い話をした後、野島氏は不意に声のトーンを下げる。 「そういえば、Mさんの噂、聞きました?」 「噂って?」 Mさん、というのはウチのライバル会社であるM電装。 制御機器メーカーとしては後発ではあるが 大手電機会社の子会社という強力なブランド力を武器に、シェアを伸ばし続けている。 「どうやらね、お金で下手なことしちゃったみたいよ」 「ゼネコン?」 「ん~……その辺はよく分かんないけど、多分そことは、取引停止かもねぇ」 メーカーとゼネコンとの癒着は、以前から業界でも問題にされてきたことだった。 長年自浄能力に期待できなかったこともあり、数年前に業界団体が出来たものの 結局はそれも功を奏していないらしい。 「斎藤さんには朗報かな?」 愉快そうに囁かれた言葉を否定する気はない。 特に幾つかの大手ゼネコンではM電装が独占している状況になっており この噂が事実であれば、大口の顧客を得る大きなチャンスになる。 「どうでしょうね。またいつものように有耶無耶になるんじゃないですか」 「そうかなぁ。ボクの耳にまで入るってことは、それなりに大事になってるかも知れないよ」 旧知の男が語った興味深い話のお礼に酒の席の約束をし、電話を切る。 ふと手元の画面に目を移すと、一通のメールが来ていた。 『昇進おめでとうございます』 内容は月並みなものだったが、署名を見ながら顔を思い返す。 もし彼がこの場にいたら、どんな言葉を掛けてくれるだろう。 -- 3 -- 「好きになっちゃったんです。……だから、もう、ここにはいられない」 居酒屋独特の湿気た空気感と酒の匂いの中で、あいつは声を絞り出すように言った。 その言葉は冗談には聞こえず、当時の俺の気持ちを大きく戸惑わせた。 「……少し、時間をくれないか」 猶予を願い出た時点で、多分、俺の中にはある程度前向きな心情があったはずだ。 想いを諦めるという選択肢を選ばせないように、俺自身に変わる余地が無いかを探ってみたかった。 好意は、持っている。 生意気で酒癖もやや悪いが、気も合うし真面目な奴だ。 後輩としても、友達としても、唯一無二の存在だろう。 一緒にいたいとも、思っている。 以前は業務上の連絡事項もあり、存在を比較的身近に感じられていたが ここ2~3年ほどは年に数回のやり取りしかなくなっていることもあり 時を経るごとに、その気持ちは膨らんでいるような気もする。 距離的な制約も、焦がれる想いに拍車を掛けているのかも知れない。 身体の関係は……正直、分からない。 ただ、あの時囁かれた悪い冗談も、今では鳥肌の立つような嫌悪感は無く 勢いで行けなくもないんじゃないかとも思う。 しかも、唇の感触と吐息の熱は、未だ身体の何処かにうっすらと張り付いており ことあるごとに思い出しては悶々とすることがある。 俺自身の立場はどうだ。 結婚の望みは限りなく薄いし、何より今から出会いを求める気力も無い。 仕事もほどほど順調で、実家の両親は兄貴夫婦が同居しているから、それほど心配も無い。 周りの人間に比べれば自由に生きる為のハードルは低く、一歩踏み出す準備はとっくに出来ている。 身勝手な頼みごとをして、早5年。 恋とは何なのかということを繰り返し自問自答し続け、答の欠片を拾い集めながら 結論自体は1年ほどで固まっていた。 一所に留まることの無いサラリーマンとしての立場に応じて、都度軌道修正をしてきたけれど 今でも、その結論に変わりは無い。 それなのに、答を伝えるタイミングを見計らえないまま、時間ばかりが過ぎていく。 もしかしたら、既に彼自らで別の結論を出した可能性もある。 逆にあいつに拒絶されたら、今度は俺が、どうなるか分からない。 スタートラインを切ることに躊躇いがあるのは、まだ、覚悟が足りていない証拠なのかも知れない。 盆休み前の金曜日ともあって、夜になっても社内の慌ただしさは続いている。 早めの夕食を取り、自部署があるフロアの一つ下でエレベータを降りた。 廊下を進み、途中の自動販売機でコーヒーを買って、去年新設されたトイレ脇の喫煙所へ入る。 然程広くない空間には置き型の空気清浄器が2台並べられ その向こうのカーテンウォールの窓からは湾曲した線路と丸の内の夜景が見えた。 パイプ椅子と灰皿が置かれただけの以前の空間とは、雲泥の差だ。 「おう、お疲れ」 煙草に火を点け、コーヒーを開けたタイミングで一人の男が入ってくる。 「お疲れ。何か久しぶりだな」 「ここまで下りてくんの面倒でさ」 「ああ、それは分かるわ」 ペットボトルの炭酸飲料を無造作に空気清浄器の台の上へ置き、男は旨そうに煙を吐き出した。 同期の和賀は、工場・プラント系の制御設計を行う部署にいる。 俺よりも3年早く昇進し、元の体型も相まってか随分貫禄が出てきたようだ。 「いきなり課長になったんだって?」 笑いながらそう告げてくるところを見ると、事の顛末はある程度広まっているのだろう。 「そう、いきなり、な」 「まあ、良かったじゃん。楽しいだろ?中間管理職」 屈託なく笑う同期に、一瞬呆気にとられる。 3年経てば、俺にもこれくらいの余裕ができるのだろうか。 「ええ?しんどいことばっかだよ。この間だって、部長に第一考課が甘すぎるとか言われて……」 「それはしょうがねぇな。オレもなったばっかりの時はどうして良いかわかんなかったし」 「現場立ってた時のことを考えると、マイナス評価なんてつけらんねぇよ」 「まずは自分の中に基準を作ることだな。満足できなきゃ容赦なくマイナス」 「それだけ割り切れれば苦労しねぇし」 「まあ、努力してみろよ。マイナスをどうプラスに変えてやれるかが腕の見せ所だぞ」 設計技術部の中でも花形の部署に属する課長は、やっぱり俺とは違う。 こんなのと比べられるんだから、俺自身の査定が低いのは、全くもって納得だった。 2本目の煙草に手を伸ばした同期は、ふと大きな溜め息を吐く。 「ウチもさ、先月一人抜けちまって」 「へぇ……失踪じゃねぇよな」 「違ぇよ、自主退職。実家を継ぐんだと」 「商売やってんのか」 「牧場」 「は?」 「北海道の実家帰って、親父の牧場を継ぐんだってさ」 青い空と白い雲と緑の丘、バックにはお定まりのあの曲。 この一文だけ切り取れば、羨ましい程の転職だ。 国内でも屈指の大学を卒業して入社してきた物好きな男は 看板に違わず、新人の中では突出してデキる人間だった。 課長に昇進したばかりの和賀の下に配属され、上司も先輩も随分と期待を掛けていたらしい。 最近では中規模水処理プラントの制御設計を任せるまでになっていたこともあり 突然抜けた穴は、相応に大きいようだった。 「確かにオレも、期待しすぎたところはあったかもしんないけど」 ところが、若い社員にとって、この転職は突然の思い付きでは無かった。 教授のコネがあったから、とりあえず3年と思って入社した。 男が会社を去った後、そう話していたことを他の若手社員から聞いたのだという。 「どうすりゃ良かったんだろうなぁ……ホントに」 そんなことを知る由も無かった上司は、けれど、彼の本心を見抜けなかったことを後悔していた。 目の前の案件を片付ける為、盆休みは数日出勤するそうだ。 「営業は休出無しか?」 「あー……ウチの部署はとりあえず今日片づけてって感じ。俺は一日くらい出ようと思ってるけど」 懸案となっていた例の病院については3日前にやっと設計の目途がつき、頼み倒して捻じ込んだ。 部署全体で滞っている物件も無いが、個人的に後回しにしていた事務作業を片付けておきたかった。 どうせ独り身、長期の休みがあったところでこれといった予定も無い。 「こっちは9月になったら支店から人員補充するって話になってるし、それまでの辛抱だな」 煙草を吸い終えた大柄な男は、力いっぱい背伸びをして、疲れた笑顔を見せた。 -- 4 -- 自席に戻ったのは夜の7時半を少し回るくらいだった。 こんな時間にも拘らず、新着メールが3件届いており 受信トレイの最後に並ぶ『異動のご連絡』とのメールに、思わずハッとした。 差出人は、あいつだった。 タイトル通り、彼からのメールには、9月付で東京本社へ異動になる旨が綴られている。 所属は設計技術部 設計第2グループ。 ついさっき耳にした和賀の言葉が思い出された。 本社では営業専任であっても、支店に行けば営業・設計・積算・工事監理まで あらゆる業種を横断的に担当することが少なくない。 工場やプラントの現場が多い地域柄、それなりのキャリアを積み重ねてきたのだろう。 不安はあるが、迷いはない。 そう添えられた言葉に、あいつの成長を見たような気がして、嬉しかった。 しかし、用件はそれだけでは無かった。 『盆休み中に色々な手続きの為にそちらへ行くので、少し会えませんか』 画面に映し出された文章で俄かに乱れた鼓動を、一息ついて落ち着かせる。 金曜日の朝に東京へ来て、土曜の朝には向こうへ戻るとのこと。 滞在中の大まかなスケジュールが記してあり、都合の良い時間を連絡下さい、とあった。 この時間にメールを返信しても、当日まで見ない可能性もある。 社用の携帯電話であれば、基本いつでも持ち歩いているだろう。 早く声が聞きたい、素直にそう思った。 とはいえ、まだ仕事が残っている。 一先ずメーラーを閉じて、画面を仕事モードに戻す。 会社帰りにでも、電話をしてみようか。 何となく浮足立った気分と共に、やっと結論が形になるのだと些かの緊張が背筋を走った。 夏季休暇も終盤に差し掛かった金曜日。 雲一つない青空に輝く太陽が、街並みを焦がすように照らしている。 オフィス街である会社周辺からは人の気配が消え、薄気味悪ささえ感じた。 それでも社内には私服姿の男たちがチラホラと見えて、休日出勤の憂さを少し和らげてくれる。 久しぶりに聞いた彼の声には心なしか平穏さが感じられ、互いに歳を取ったのだろうと思わせられる。 その時の会話は殆どが必要事項に終始したものの、不明瞭な不安を、想像以上の期待がかき消していく。 「じゃあ、楽しみにしてます」 やや弾んだトーンの声に思わず笑みをこぼしながら、同じ言葉を返した。 浅野とは今日の夜に会う約束を取り付け、泊まる場所も無償で提供することにした。 それは、俺なりの覚悟のつもりだった。 目の前に映るのは、休み明けのミーティングに向けての準備資料。 部下たちが上げてきた報告書に沿って、優先度をランク付けしていく。 眺めると8月下旬がデッドラインになっている物件がチラホラあり 月曜日からまた忙しい日が続くのだと、少し気合を入れ直した。 待ち合わせ場所は俺が住む街の駅前に決めていた。 環状線と湾岸道路が走り、二本の鉄路に挟まれた東京の外れ。 電車から降り、やや湿気の増したプラットホー ムの空気が顔に纏わりつくのを感じながら コーヒーショップで時間を潰しているという男に、電話を入れた。 20代から30代への変化と、30代から40代へのそれは、中々に違いがある。 「お久しぶりです」 見慣れた雑踏の中で、男はそう言って頭を下げた。 容姿は殆ど変わっておらず、むしろ押しつけがましい若さが癪に障る。 「斎藤さん……何か、貫禄出ました?」 彼の指摘は多分間違ってはいない。 この5年で体型は然程変わらないものの、大分白髪と皺が増え、見た目と年齢が釣り合うようになってきた。 「老けただけだろ」 「折角遠回しな表現使ったのに」 会話のテンポが妙に懐かしい。 今の部下との関係は悪くないとは思っているが、こういうノリは殆ど無い。 「何か食いたいもの有るか?」 「いえ、お任せで。ちなみに、凄く腹が減ってます」 選んだ店は、以前も訪れたことがある居酒屋だった。 誰と一緒だったかは覚えていないが、焼酎の種類が豊富だったことだけは覚えている。 「改めて、昇進おめでとうございます」 店員に勧められるままオーダーした焼酎のグラスを手に、彼は笑顔を見せた。 「あの頃、斎藤さんが課長になるなんて想像もつかなかったですよ」 「俺も思ってなかったよ」 「でも、何であんな半端な時期だったんですか?急病とか?」 管理職への辞令は4月か10月に出るのが一般的で、顛末を知らない彼がそう思うのも、当然だろう。 「ああ、その話なら、良い酒の肴になるぞ……」 一通りの話を楽しんだらしい後輩は、ただ一つ、腑に落ちない点があるようだった。 「普通、順当に行けば斎藤さんが課長でしょ?」 「そりゃ、係長までは基本的に年功序列だけどな……課長から上は、ポストに限りがあるだろ」 大企業であれば、一つの課に複数の課長がいることは珍しくない。 しかし、中小企業の域を出ないウチの会社では、基本的に課長枠は一課に一つだ。 「実力だって、実績だって、あるじゃないですか」 「我孫子さん曰く、俺には突出したところが無いんだって。どれも、そこそこ」 大きな失敗をやらかしたことが無い代わりに、大きな成功を掴み取ったことも無い。 人の上に立つ人間を査定する際、決して高評価には繋がらない点だ。 「オレは……どうせなら、斎藤さんの下で仕事したいけど」 彼の呟きは、本心か、酒の勢いか。 いずれにしても、ちっぽけなプライドを軽くくすぐってくれた。 「しばらく設計で修行しとけ。お前の次の上司、俺の同期だけど、良い奴だからさ」 -- 5 -- 各々の近況報告や彼の引越し先の話をしている内に、時計の針は随分と進んでいた。 「こんなに飲んだの、すげー久しぶりかも」 やや呂律が怪しくなってきた男は、満足げな赤ら顔で背後の壁に寄り掛かる。 「あっちじゃ飲み会とか無いのか?」 「あるにはありますけど……あんまり率先して動く人もいないし」 ウーロン茶に口をつけ、ゆっくりと肩で息をした彼を見やりながら、少し、カマをかけてみた。 「……プライベートでは、どうなんだ?」 俺に向けられた視線が、ふと細くなる。 煙草の煙が二人の間を漂って、やがて霧散していく。 「家で飲むくらいっすね……何も変わってませんよ、オレは」 男は手元の酒に口をつけ、やや自虐的に笑う。 「相変わらず見合いの話とか持ってこられますけど。やっと解放されるなぁ」 彼は僅かに首を傾げ、当然の問を返してきた。 「斎藤さんは?いい出会い、ありました?」 「あったら今頃は沖縄でも行って、ボンヤリしてるよ」 「そんなんで、5年後、10年後、どうするんすか」 「さあな。子会社出向して、制御盤のメンテでもやってんじゃねぇかな」 「そういうことじゃなくて」 テーブルに身を乗り出す拍子に投げ出された男の手を、無意識の内に掴んだ。 驚きを隠せないあいつは、言葉を失い、唇を震わせる。 「お前はそん時も、こっちにいるんだろ?」 定まらない視点が、俺と俺の周囲を彷徨う。 「帰るか。腹も大分膨れただろうし」 駅から歩いて5分ほどのところにある、やや古びたマンション。 引っ越してきてから、10年ほどが経つ。 真夜中になると湾岸道路を爆走していくオートバイの音が聞こえてくること以外、住環境は悪くない。 玄関に入り廊下の照明を点ける。 背後に立つ浅野は、目を伏せたまま、何処か浮かない顔をしていた。 「大丈夫か?」 どんなことがあっても成り行きに任せよう。 「良いんすか」 「何が?」 心で幾らそう構えていても、咄嗟のことに対応するのは、やっぱり難しい。 不意に俺の肩を掴んだあいつは、そのまま廊下の壁に押し付ける。 怯んだ俺の表情を一瞥し、唇を重ねてきた。 感触を確かめるように触れては離れを繰り返し、息苦しさを感じ始める頃、彼は俺の頭を抱えて呟いた。 「……行くとこまで行って、良いんすか」 衝動を抑え込もうとする震えた吐息が耳を掠めていく。 徐々に密着してくる身体の熱があまりにも直接的に感じられる。 俺はもう、覚悟を決めた。 「何処まで行きたいんだ?」 その言葉に、彼は大きく息を吸い込み、飲み込む。 「お前が言う、行くとこって、何処だ」 「それは……」 期待していた反応とは何かが違う。 「俺とヤることか?」 手の力が緩み、僅かに男の身体が離れる。 性急だったのだろうか。 彼も俺と同じように、その先を望んでいるのだと、勝手に思い込んでいた。 男の腕を振り解き、反対側の壁に追いやる。 酒に酔わされたであろう潤んだ視線を受け止めながら、口づけた。 「そんなの、すぐそこじゃねぇか」 答に窮するあいつを余所に、身体に手を伸ばす。 ベルトに手を掛け強引に外そうとする動きを、彼は慌ただしく制した。 「ちょっと、待って」 「して欲しいんだろ?なら、してやるよ」 「あれは……」 「俺は、もっと、ずっと、先を見たい。お前は、どうだ」 待ち望んでいたであろう答に対峙した彼の表情には、けれど、明るさは垣間見えない。 「……ヤれれば、満足か?」 金具が擦れ合う金属音の後、ベルトにかかっていた力が抜けた。 「だから待てって!」 ジーンズのボタンに手を掛けようとした瞬間、彼は俺の身体を強引に引き離した。 「先のことなんか、考えられる訳ねぇじゃん!」 荒い語気とは裏腹に、今にも崩れ落ちそうな面持ち。 「叶うはずもないことに、何を期待できるんだよ……しんどいだけだろ、そんなの!」 双方の目から涙がポロポロと零れ落ちていく。 「今、ここで、こうしてることだって、夢みたいだと、思ってんのに……」 もっと早く、結論を伝えておけば良かった。 「どんな答えでも良いと、思ってた。けど、期待するのが、怖くて、辛くて」 俺が貰った長すぎる猶予期間は、結局、彼を苦しめただけだった。 「好きになるんじゃなかったって……忘れようと、何度もした」 廊下の床に座り込んだ男は、自らの手で涙を拭った後で大きな溜め息を吐く。 「でも、ダメだった……だから、せめて、身体満足させて、何とか凌いで」 縋るようにこちらに腕を伸ばし、太腿辺りにしがみついた。 やがて腰に手が回り、男の頬が股間の辺りを弄る。 「これ、しゃぶらせて、後ろからガンガン突いて、顔にぶっかけるのが……オレの中の斎藤さん」 俺を見上げる赤く充血した目が、あまりにも痛々しく、儚げに見えた。 「オレは、そこまでで……満足、っす」 -- 6 -- ユニットバスの方から聞こえてくる篭った水音を耳にしながら 邪魔なものを適当に避けただけの何となく片付いた部屋で、ぼんやりと煙草をふかす。 これからするであろう行為に、不思議と嫌悪感は無かった。 ただ、完遂できるだろうか。 俺はあいつをアテに自慰行為をしたことも無いし、その辺りのイメージがあまりにも朧ろげだ。 セックス自体も相当ご無沙汰で、役に立つのかも分からない。 ドアが開き、閉まる音が聞こえる。 しばらくして、部屋の入口にあいつが姿を見せた。 俺と目が合うなり、その視線を軽く逸らし、神妙な顔つきをしながらこちらへ向かってくる。 「……本当に、良いんすか」 バスタオル一枚の男は、俺の傍に立ち、そう呟いた。 「まだそんなこと言ってんのか」 濡れた髪に手を伸ばし、顔を引き寄せる。 「満足させてやる」 はったりを口にした後、軽く唇を触れ合わせ、真正面から彼の顔を見つめた。 「その代わり、一つ、約束してくれ」 「……何」 「終わったら……その先のこと、二人で考えよう」 男の眼が微かに歪み、目尻に皺が寄る。 「すぐ上がるから、ちょっと待ってろ」 まず、あいつが俺のモノを咥え、しゃぶり始める。 俺はその姿を眺めながら、少し腰を浮かせたりして、快感を愉しむ。 やっと勃起したところで、あいつをベッドの上に四つん這いにさせて、後ろからケツの穴にモノを挿れる。 そもそも入るかどうかよく分からないが、とりあえず試してみよう。 締め付けは相当なものなんだろうから、そんなに長続きはしないと思う。 イきそうになったら、モノを抜いて、あいつの体勢を仰向けにする。 いや、俺が回り込んで、顔の傍まで行った方が良いだろうか。 どちらにせよ、その後ですぐに出せるようにする加減が難しい気がする。 ともかく、しばらく自分で扱いて、あいつの顔にぶっかける。 もう大した勢いは無いから、かなり近づけないと難しいかも知れない。 あいつの妄想を元に、狭いユニットバスの中で段取りを考えてみる。 そう上手くいかないことは承知していても、無策では落ち着かない。 大学生の頃に付き合っていた彼女と初めてホテルに行った時も、確かこんな状態だった。 色々と妄想をしながら、こことこことここを丹念に洗っておこうと必死になっている内に時間が過ぎ やることが無くなってしまったという理由で風呂から出たのを覚えている。 そして今、とりあえず、身体は洗い終わってしまった。 もう、やることも無い。 膝を抱えてベッドの上に座る男は、俺が部屋に入ったタイミングで顔を上げた。 この弛み始めた身体にどんな魅力があるのかは知る由も無いが、口から嘆息にも似た音が漏れる。 彼の視線が全裸の俺を万遍なく滑り、改めてその性的欲求の矛先が向けられているのだと感じた。 「大丈夫か?」 俺の問に、あいつは小さく頷いて答える。 腰に巻かれたバスタオルの下に頭をもたげ始めた彼のモノの影が見え、少し気分が揺らいだ。 やっぱり、妄想は無駄だった。 隣に腰を下ろし、一呼吸置いてから彼の肩を抱いた。 微かに強張った頬に手を寄せてこちらを向かせる。 何かを言おうとしていた半開きの唇に、自らの唇を重ね、ゆっくりと押し付けていく。 小さな隙間から互いの吐息が漏れる度に位置をずらし、その感触を楽しんだ。 上唇を軽く甘噛みすると、あいつの口は徐々に開き、舌を小さく出してきた。 呼ばれるように舌を絡ませる。 喉が僅かに鳴り、眉間に浅い皺が寄る。 吐き出される息は甘く揺らぎ、感情を盛り上げてくれるようだった。 左手を男の太腿へ延ばし、バスタオルの上から静かに撫で上げる。 間近に迫る表情が少し歪み、その身体が僅かに緊張するのが分かった。 制しようとする上半身の動きを軽い口づけで止める。 「良いから」 指に他人の性器の感触が拡がり、切なげに目を伏せた彼は小さく息を吐く。 撫でているだけで、それはみるみるうちに硬さを増し やがて好奇心にも似た感情に押されるよう、布の下へと手を差し入れた。 熱を帯び、血管が浮き立ったモノは、その衝動の強さを知らしめる。 軽く握り扱いていくと、荒い息が耳元を掠めていった。 徐々に力を込めながら、首筋に舌を伸ばし、うなじの方へ滑らせる。 びくついた肩を片方の手で押さえながら、彼の官能をじっくりと味わう。 「しゃぶるか?」 そう問うた俺に、あいつは崩れ落ちそうな視線を向けた。 こちらへ向けられた掌が頬に触れ、自らの唇へと誘う。 貪るように互いの舌を求め、垂れていく唾液を啜る卑しい水音が鼓膜を揺らし続ける。 滑りが出てきた亀頭を親指で摩ると、砕けた音が男の喉から発せられて 俺の中に芽生えてきた欲求を煽っていく。 「……しゃぶらせて」 弱弱しい声が吐息に混ざって流れていった。 「斎藤さんの、しゃぶりたい」 日常とはかけ離れたもう一つの顔を見せる男に、強烈な違和感を抱く。 今まで知らなかった互いの一面を晒しあうことが、少し怖くなったのかも知れない。 判断に迷う俺を尻目に、あいつはベッドを降りて俺の前で身を屈ませる。 見上げる視線が身体を這い、官能を引き摺り出そうとする。 抗う必要は、何処にもない。 こんなところで怖気づいていては、先に進めない。 眼差しを受け止め、目を細める。 男は意を介したように、俺との距離を詰めた。 -- 7 -- 他人の舌の感触があまりにも直接的な刺激を全身に加え始めると 思わず吐き出した息に、情けなく甘い声が混じった。 根元付近から這い上がるぎこちない動きは、性感を一瞬で満たしてくれるものではない。 けれど緩慢な波は徐々に高くなり、身体を覆っていく。 著しく敏感になっている部分が、やがて執拗に舐られ 自分の置かれている状況さえ考えるのが面倒になってくる。 苦しげな音と共に、自らの性器があいつの口に吸いこまれた。 2/3ほどが窮屈な触感に包まれ、唯一確かな質感を持つ唇と共に上下に動き出す。 理性を溶かさんとする熱は一気に俺の身体を侵し、その目的を着実に果たしていく。 左手で仰け反る上半身を支え、右手を男の肩に置いた。 拍子に陰茎が更に深く飲み込まれ、吐息と唾液と舌が綯交ぜになった快感が襲ってくる。 動きのテンポが明らかに早くなったのは、男の限界をあらゆる感覚で察知したからだろう。 絶頂へと引き上げようとする勢いが、ベッドまでも軋ませる。 このまま流されたい。 「……あさの」 逸る二人を、何とか絞り出した声で堰き止めた。 男は俺のモノを咥えたままで、前髪越しに視線を送る。 「こっち」 右手でベッドを軽く叩くと、男は一回瞬きをして、名残惜しそうに口の中の物を引きずり出す。 上気した赤い頬に指を滑らせ、震える唇を撫でる。 何処か不安げな眼差しをしばらく送ってきた後で、やっと彼は身体を起こした。 枕に頭を埋めるよう身体を支える男の表情は、全く分からない。 しなる背中を見下ろしながら臀部を両手で掴むと、肩の辺りの筋肉が僅かに盛り上がる。 親指で割れ目を押し広げ、短い毛の中にある目的の場所を刺激すると、彼の身体は急激に固さを増した。 腰回りを撫でながら、ヒクつく部分に性器を宛がい擦り付けていく。 全身から伝わってくる震えは、恐怖からか昂揚からかは分からなかったが 掌に感じていた肉が少し柔らかくなってきた頃合いを見て、亀頭を穴に押し付けた。 しかし、勢いとは裏腹に、性器は男に完全に拒否された。 何回か繰り返しても、それはまるで試練のようにモノを押し返してくる。 あいつも身体を緩めようと試みているようだったが、どうしても上手くいかない。 入り込もうとするタイミングで聞こえてくる短い呻き声も、多少の躊躇を呼んでいるのかも知れない。 意欲を鈍らせようとする何とも言えない焦りが頭を過った時、浅野が頭を上げた。 「オレが、上に」 壁を背に座り、投げ出した俺の脚の上に、あいつが跨る。 自らの指で穴の位置を探り、位置を調整しながら、目の前の男の性器を掴んだ。 鼻で息を吐き出した後、静かに腰を落としていくと、やがて亀頭が中へとめり込む。 「……ぅう」 「っく」 ほぼ同時に発せられた声は、その狭苦しさを明確に示していた。 重力に依って、やがて陰茎の大部分が沈み込む。 想像以上の締め付けに、痛みすら感じるほどだった。 少し高い位置にある、伏せたままの男の顔を両手で抱え、自分の方に向かせる。 歪んだ眉と潤んだ目を見られたくなかったのか、あいつは誤魔化す様に俺の唇を奪う。 「……突いて」 囁かれた強請りに衝動が目を覚ました。 軽く腰を浮かせると、壊れかけた声が半開きの口から出ていく。 俺の身体もまた、中で擦られる未体験の快感に激しく昂ぶる。 「も、っと」 蕩けた声に官能を弄られ、俺は力の限り腰を突き上げた。 「はっ、はっ……っあ」 男は壁に両手を付いて身体を支えたまま、俺の上で喘ぎ続ける。 段々と解れてきた穴は、けれど未だ性器に吸いつくような刺激を与えてくる。 彼の肩に腕を回して浮き上がる身体を押さえつつ、奥へ奥へと突き上げる度に 段々と頂点が見えてきて、身体が逸った。 間近に迫る汗ばんだ胸元に、ふと舌を伸ばす。 「んっ……」 咄嗟にたじろいだ身体を引き寄せ、双方の突起を交互に舐る。 快感を与えているであろうことは、性器を包み込む筋肉の乱れで察知できた。 項垂れていた彼の頭が小さく横に触れ、俺の頭を掠める。 「嫌か?」 顔を上げておもむろに口づけながら、今度は指で摘んでみた。 「い……っ」 「強請って、いいぞ」 唾液に塗れた二つの乳首を、親指と人差し指で挟み、滑らせる。 「んんっ」 眉間に皺を寄せながらも、それは決して嫌がる素振りではない。 「……もっと」 本能を剥き出しにし、いやらしく腰を振りながら、あいつはうわ言のように呟く。 「もっと?」 「もっと……つよ、く……」 ご希望通り、指に力を入れて摘み上げ、軽く捻り潰す。 「ひっ……あ」 「どうだ?」 「きもち、いー……です」 背後の壁に付かれていた手を取り、自身の乳首に促す。 一瞬の躊躇の後、あいつは自らで小さな性感帯を弄り始めた。 恥辱の表情を受け止め、卑しい笑みを返すと、彼は小さく唇を震わせる。 「しゃぶって」 更に、そう言って右手の人差し指を口元に添えると、美味しそうに舐り始めた。 興奮を隠しきれないのは、男の性器も同様だった。 口淫を経て、俺のモノを受け入れる時点ではある程度萎れていたような気がしたが 穴を穿たれ、小さな突起を弄られる内に、再度勢いをつけたらしい。 左手で腰を押さえ、再び腰を動かしながら、右手の指をそこへ差し向ける。 「ん、あっ」 ヌルついた感触は唾液の物だけではない。 「まっ……て」 亀頭を撫で上げ、裏筋を親指の腹で弾く様に刺激すると、あっという間に掌が汁に汚された。 「マジ、ヤバ、い」 男の懇願には耳を貸さず、そのまま竿を扱き始める。 より一層締め付けは強くなり、俺自身のモノも限界に達する気配が見えてきた。 「イって良いぞ」 「さいとー、さん、と」 「俺も、そろそろ……」 「先に……このまま……」 首に巻きついた腕に引かれ、口づけを繰り返す。 激しくぶつかる互いの身体が発する音と、ベッドが軋む甲高い音が徐々に遠くなる。 「……出して」 そんな中、やけに鮮明に聞こえた声が、快楽の終点へと誘う。 「い……っく」 瞬間、放出された精液が穴の中に満たされる。 「……っあ」 そして、追いかけるように、手の中にある性器から若い精液が飛び出していった。 -- 8 -- 鼓動はなかなか収まらず、身体中から汗が滴り落ちていく。 隣の男はうつ伏せで、俺は仰向けでベッドに横になり、興奮を鎮めている。 ふと触れた手を取り、指を絡ませた。 「シャワー、浴びよ」 「……うん」 返事とは裏腹に、握られた手に力が籠められる。 「満足、したか?」 「……うん」 ゴソゴソと身体が動く気配のすぐ後で、男の顔が視界を覆う。 「斎藤さん」 「ん?」 「オレ、やっぱり……好き」 汗ばんだ首筋に手を寄せ、唇を軽く寄せ合った。 「そうじゃなきゃ、困る」 俺の言葉でやや不可解な表情を見せたあいつに、笑みを返す。 「お前のいない将来なんか、考えてねぇから」 一瞬口を歪ませた彼が、俺の首元に顔を寄せた後、僅かに肩を震わせて深い息を吐いた。 「……今日はよく泣くな」 滴が鎖骨を掠め、汗と共に流れていく。 小さく首を振る男の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でた。 「いつも、こんなじゃ、ない、す」 しゃくり上げながら顔を上げ、真っ赤な目をこちらに向ける。 「でも……嬉しくて、泣いたのは、初めてかも知れない」 身体の痛みと寝心地の悪さで目が覚める。 一緒にベッドの中にいたはずの男は、OAチェアに腰かけてスマートフォンを弄っていた。 「やっと取れましたよ。やっぱ混んでますね、この時期は」 当初の予定では今朝の新幹線で名古屋へ戻る予定だったが、結局、もう一晩、共に過ごすことにした。 それはあいつが言い出したことか、俺が口にしたのかはよく覚えていないけれど 盛り上がってしまった気分を落ち着かせる時間が足りないという自覚は互いに持っていた。 「この時期じゃしょうがねぇだろうな。取れただけでも良しとしないと」 「まあ、そうなんですけど」 「自由席だってあるだろ?」 「あんまり並びたくない」 「我儘言うなよ。みんな頑張ってるぞ」 盆休みも最終盤となった土曜日。 何となく点けたテレビには、帰省ラッシュで混雑する新幹線の様子が映し出されていた。 「で、朝飯どうします?」 「お前、昨日あんだけ食って、腹減ってんのか?」 「そりゃ、減るでしょう……運動もしたし」 あれは運動か。 ふと湧いた疑問は、起き上がろうとした拍子に感じた身体の重さで答えが出た。 何とか手を伸ばし、煙草を手に取る。 「俺はいいや。腹減ってない」 「じゃ、オレ、何か買ってきます」 立ち上がり、服を着る彼の動きで、吐き出した煙が右往左往しながら消えていく。 さほど広くない部屋に誰かを招くということもなかったからか 見慣れた光景の中の違和感に、むしろ新鮮さすら覚えた。 「こっちにすれば良かったな」 部屋から廊下に出る間際、あいつは立ち止まって呟く。 「何が?」 「住むとこ」 会社では未婚の社員を対象に、家賃補助制度を使った借り上げ住宅を幾つか持っている。 概ね東京東部から千葉西部の辺りに点在し、俺も入社してからしばらくはそこに住んでいた。 彼がこの9月から住むのは、今いる街から北側にある千葉県の街。 名古屋へ移る前も同じ場所に住んでいたから、そこを選ぶのは妥当だろう。 ただ、JRと地下鉄の2路線を使うことができるものの、こことの行き来はやや面倒で ぼやきたくなる気持ちも、理解できなくもない。 「この辺の物件もあったけど……何か、気まずくなるのが嫌だったから」 振り返った彼は、僅かに複雑な表情を覗かせる。 一人で答えを出していた俺とは違い、あいつにとっては苦渋の選択だったのかも知れない。 けれど、この一晩で、俺たちの関係は大きく変わった。 もちろん、今後どうなるかは分からないが 彼が先のことに希望を持ち始めていることも確かで、それは大切にしてやりたい。 「じゃあ、俺がそっちに住めばいいだけだろ?」 「え?」 「どうせ、来年更新だし」 「でも……」 「ま、今すぐには無理だから、ちょっと待たせると思うけど」 夏季休暇最終日。 あいつは昼前の新幹線で名古屋へ戻っていった。 近くの海でぼんやりし、家の中でのんびりし、性懲りもなく身体を重ねた短い時の余韻が 更なる想いを募らせる。 反面、妄想が現実となったことに戸惑っている自分もいるし 今までにはなかった、彼を失うことへの恐怖も芽生え始めている。 年甲斐も無くこんな感情に翻弄されることは、恥ずかしいような、情けないような気もするけれど これが自分の出した結論なのだと思うと、何故だかやけにホッとした。 -- 9 -- 「おはようございます」 「おはよう。随分焼けてるねぇ」 月曜日の朝、部署の面子が変わらず出勤してきたことに、軽く安堵を覚える。 「とりあえず今朝のミーティングは10時からで」 この業界だけに限らないのかも知れないが、そもそも夏季休暇が無い取引先も少なくないことから 出社後一時間は、各々先方からの連絡事項を取りまとめる時間とした。 メールボックスには、金曜日までに確認した既読メールが数通と今朝まで届いた5通。 その内の一通は『次半期目標設定期限』という人事部長名義のものだった。 4月と10月の年2回、社内では各社員が次の半期に向けての目標を設定することになっている。 前半期目標の達成率は、四半期毎に行う人事考課の結果と共に、賞与など様々な査定基準となる為 高過ぎず、低過ぎず、の塩梅が難しい。 この部署でやっている仕事は、実際に金銭を授受する性質のものでは無い。 しかも最終的な取引相手は、顧客である設計事務所では無く、施工業者。 その為、設定項目に『目標金額』という欄は存在せず 営業先の新規開拓や納期遵守率、再依頼率などの項目が並んでくる。 俺の役目は、それらを取りまとめ、課としての目標を掲げること。 これが管理職としての俺の査定基準となる。 とはいえ、前課長が取りまとめた前半期分の超前向きな目標は グループ内の混乱があったとはいえ、1/3程が未達で終わりそうな状況だ。 特に新規の顧客の数は目に見えて不足しており 仕方ない、そう思いながらも理不尽さを感じずにはいられなかった。 浅野の引っ越し翌日、土曜日の朝。 俺は恐らく初めて、彼が住む街を訪れた。 電話口で頼まれた朝飯代わりのファストフードの袋を下げ、見知らぬ街を歩く。 南口から出て5分もしない内に周りは住宅街になり、静けさが心地よく感じられた。 手元のスマートフォンの地図によればそろそろ目的地。 改めて見渡すと、戸建て住宅の向こうに、頭一つ抜けたマンションが見えた。 金曜日に引っ越しをし、土日で日常生活に支障がない程度に荷物を片付け 月曜日には名古屋支店で最後の業務を行い、火曜日からは本社で新たな仕事に就く。 そのスケジュールを聞いた時には他人事ながら気の毒に感じたが 段ボール箱の積まれた狭い部屋で疲れた笑みを浮かべる彼を見ると、改めて憤りを感じる。 「それなりに片付いたでしょう?」 腰を掛けていたベッドがら立ち上がり、あいつはこちらへ手を伸ばしてくる。 目当ての物を差し出すと、彼の手はそれをスルーして俺の腕を掴む。 瞬間、俺の身体は彼に絡め捕られ、腕の中に納まった。 静かに溜め息を吐き、徐々に抱き締める力を強くしていく。 無言のままで流れる時が、互いの想いを混ぜ合わせてくれるような気がして心地良い。 「……冷めるぞ」 「うん……もう少し」 こんな時間を過ごすことが、やがて日常になる。 それが、純粋に、嬉しかった。 ベッドが思ったよりも軋むから。 結局男は、土日を俺の部屋で過ごし、月曜日の始発で名古屋へ発った。 一人の時間が欲しいと思わないと言えば嘘になるが、それ以上に、二人の時間を欲する気持ちが大きい。 今週は月初の忙しい時期、しかも週末はあいつの部署で歓迎会があるのだと言う。 仕事が軌道に乗ってくれば、どうしたってすれ違うことは避けられないだろう。 だから今の内に、蜜月の時を楽しんでおきたい。 歓迎会があるから、会えるのは土曜日になる。 そう聞かされていたから、金曜の夜の日を跨いだ頃にかかってきた電話は想定外のものだった。 「今から、行っていいすか」 やや酒に浮かされた、けれど若干低いトーンの声が電話の向こうから聞こえてくる。 「何処にいるんだ?」 「日本橋」 時計を見ると、ギリギリ終電には間に合う時間。 彼の後ろからは聞き覚えのあるアナウンスが流れており、既にホームで電車を待っているらしい。 断る理由は、何処にも見つからなかった。 「迎えに行くか?」 「いや、大丈夫……あ、電車来たんで、切ります」 フロアが違うこともあり、社内で顔を合わせることは殆ど無く 奴の上司とも頻繁に連絡を取ることも無いから、新しい職場での様子は分からない。 とは言え、あいつの性格からいって部署に溶け込めないということはあまり考えられないし 和賀にしても、新たな助っ人にかなりの期待をしているようだったから、雰囲気は悪くないはずだろう。 耳に残る沈んだ声が、妙に気にかかる。 電話が来た時間から考えると、あと10分ほどで駅に着く頃合い。 居ても立ってもいられず、鍵と財布とスマホをポケットに突っこんで外に出た。 こんな時間にも拘らず、階段には人の波が出来ている。 日本人は働きすぎと揶揄されるのも尤もだと思いながら、見知った顔を探した。 改札は一ヶ所しかないから見逃すことは無いはずが、波が途切れ始めてきても男は現れない。 居眠りでもして乗り過ごしたか。 連絡を取ろうと電話を取り出したタイミングで、視線の先にふらつく彼の姿が見えた。 顔を上げた拍子に俺の姿が目に入ったのだろう、その表情が俄かに柔らかくなり 覚束ない急ぎ足で階段を下りてくる。 飲まされ過ぎて気分でも悪くなったのかも知れない。 取り越し苦労を安堵の溜め息で心の隅に流した。 「オニイサン、マッサージ、ドウ?」 人影がまばらになった駅前に、女たちの声が響く。 いつものように軽くあしらいながら、彼の歩調に合わせて家へ向かう。 「だいぶ飲んだのか?」 「皆、よく飲むんですよ……」 時折空を仰ぎながら、あいつはそう答えた。 「お前だってよく飲むだろ」 「斎藤さんいないとこじゃ、そんな、飲まないっす」 「ま、たまにはいいんじゃないか。今日はお前が主役だったんだから」 「……そう、すかね」 環七通りから一本路地を入った時、不意に手首を掴まれた。 火照った掌の熱はそのまま手の方へ伸び、指が絡んでいく。 「どうした」 「……別に」 俺の身体にしなだれかかるように身を寄せ、男は小さく息を吐いた。 行く手に人気が無いことを確認して、握る手に力を込める。 「怖い」 「え?」 「期待に応えられるか、分かんなくて、すげー怖い」 ある程度のことであれば卒なくこなすことができる奴だと、俺は思っている。 恐らくそれは、彼自身も少なからず自覚しているはずだ。 だからこそ、未知のハードルに対する恐怖心が大きくなるのだろう。 「初日から無理難題押し付けられてる訳じゃないんだろ?」 「それは、そうだけど」 満を持しての人員補充に大きな期待が寄せられているのも確かかも知れないが 失敗に慎重になっているのは受け入れる側も変わらない。 以前と同じ轍を踏まないよう思案してくれていることを、勝手に願った。 「和賀だって、お前がスーパーマンじゃないことくらい分かってるさ」 不意に向けられた眼差しは、数分前よりも幾分落ち着きを窺わせている。 「大丈夫だよ、お前なら。焦らず、できることからやってきゃ良い」 自然と口元に浮かんだ笑みに、あいつは目を細め、ゆっくりと頷いた。 -- 10 -- 9月も終盤に差し掛かった週末の夜、19時を回ろうという頃合いに席を立つ。 以前は深夜まで残業することが当然という感覚で仕事をしていたが 今の立場になってからは、出来るだけ早く帰ることを心がけるようにしている。 上が帰らなければ、下がいつまでも帰れない。 ウチの部署に限ってはあまりそういう風潮は見られないが 業務の効率化を図るという意味では、効果はある程度出ている気がしていた。 下のフロアにある喫煙所へ向かう途中、自動販売機脇の休憩ブースの中に見知った姿を見かける。 浅野と一緒に話しているのは、彼の同期である営業2グループの外山だった。 「良いなぁ、設計。オレも設計移りてぇな」 「希望は出してんの?」 「出してるけど、全然通んねぇ」 「何年か支店で修行するとか」 部署の配属は、基本的に新人研修を終えた時点から殆ど動かない。 技術系から営業へ移ることはあっても、その逆はあまり聞いたことが無く 浅野のように支店へ異動し、経験を積んだ後に設計へ転属されることは、ごく稀なケースだった。 俺自身、大学で電子回路系の研究室にいたこともあり、初めは設計業務を希望していたが 今では、営業職で経験を積むことができて良かったと思っている。 どうやら彼らは、俺の存在に気が付いていないのだろう。 自販機に金を入れようとした瞬間、会話はやや不穏な方向に進んでいく。 「めんどくせ。それなら、せめて1Gに移って課長でも狙うよ」 「1Gって、斎藤さんの所か?」 「そ。どうせ棚ぼた課長も来年の春までだろうし」 「……そういう言い方、止めろよ」 「営業じゃ皆そう呼んでるって」 一部の人間にその呼び方で揶揄されているのは知っていた。 以前から外山が生意気な態度をとることはあったが、いざ若い口から直接聞かされると流石に腹立たしい。 男の話を聞いていたあいつも同情してくれたようだ。 「単なるやっかみだろ。くだらねぇな」 「やっかみ?やっかむところなんか、あの人にあるか?ぼた餅食ったぐらいだろ」 反論しようがない程、凡庸な人間であることは自覚している。 自慢できることがあるとすれば、若い営業が言う通り、運だけだろう。 金を入れて、いつもの缶コーヒーのボタンを押す。 物の落ちる音で、彼らが一瞬こちらへ振り向いた。 「まあ、そうだろうな」 釣銭を取りながら、当てもなく呟く。 「あ……今、お帰りですか」 「そう。2Gは忙しそうだね」 「ええ……ちょっと、無茶言ってくる担当がいて」 しどろもどろの口調が却って癪に触る。 「そういえば、平川さんが誰か探してたみたいだけど」 「えっ、マジですか……あ、お疲れっした」 上司の名前を出した途端、男は明らかな動揺を露わにし 話し相手に向かって小さく首を振って、そそくさとブースを出ていった。 「斎藤さんでも、あんなこと言うんですね」 俺の子供じみた出任せを、あいつはそう笑った。 「ちょっと、スカッとしました」 「まあ、あいつの言ってることも概ね当たってるけどな」 「ダメですよ。もっと悔しがらないと」 責任の大きさを嫌い、出世しようと思わない若手も最近は増えているという。 自分も、大して出世欲は無かった。 ただ、若い彼の様に、上の地位を虎視眈々と狙っている人間も確かに存在する。 「あそこはやり手ばっかだからなぁ。彼だって焦るんじゃないか」 外山が所属する2Gの平川課長は、 改組される前の営業部時代から課長職を務めた人物で 現在の副部長を追い越し、次期部長と目されている人物だ。 空調機器メーカーに出向していた経験を活かした営業力で、同業他社から引き抜きの話も数多あったらしい。 「平川さんみたいな上司見てれば、そりゃ何で俺が同じ役職なんだって思うだろ」 忸怩たる思いを素直に吐露するべきか、あくまで卑屈に強がるべきか。 こいつの前では、どうしても後者を選んでしまう。 「また、そういうこと言う……」 それを知ってか知らずか、彼は缶コーヒーを握る俺の手首を掴み、自らの方へ引き寄せた。 「……じゃあ、せめて、あいつになんか席、奪われないようにしてくださいよ」 一通りの業務が終わった後で面談の前準備に取り掛かった結果 部署内に残ったのは俺一人になり、フロアの照明も一部がポツポツと点いているのみになった。 見上げた先にあった時計の針は、既に日を跨ごうとしている。 何を答えようとマイナス査定になることは確実で、かといってあっさり諦めることも出来ず 結局、終電ギリギリになってしまった。 「珍しいな、こんな時間に顔見るの」 喫煙所の先客は、そう言って歪んだ笑みを向ける。 上着を羽織り、鞄を手にしているところを見ると、和賀もタイムカードは押したのだろう。 「ああ……明日の準備で」 「なるほどね。まあ、今更何したってしょうがねぇだろ」 「それは分かってるんだけど……憂鬱すぎて」 上か下かの違いはあるが、彼も同じように部署の人間に逃げられた身。 穏便に済む状態ではないはずだ。 「下半期で見返してやればいいさ」 「見返してやる要素があれば、良いんだけどな」 煙草の煙と共に、溜め息を吐き出した。 このところ、すっかりこれが癖になってしまっている。 「浅野君って、どうなんだろう」 眠気覚ましであろうブラックの缶コーヒーを呷った和賀が、ふと漏らす。 「何が?」 「この先、設計でやってくつもり、あんのかなって」 夜更け過ぎの道すがらに漏らした不安は、完全に解消されたようには見えない。 とはいえ、休日に仕事の話をする時の様子に、マイナスの要素も見えない。 「やる気はあると思うけど……何か気にかかることでもあるか?」 「いや、無いのが逆に不安っていうか」 過去の痛手を想像以上に引きずっている様を目の当たりにして、こっちまで心がざわついた。 そして、つまらない嫉妬心が顔を出す。 「何だよ、らしくないな。あいつのことなら……」 俺に任せておけ。 そう言ってしまえれば、どれだけ俺は満たされるだろう。 お前よりも、誰よりも、俺はあいつのことを知っている。 前向きな言葉の中に、対抗心を忍ばせた。 「心配しなくていいよ、そういう奴じゃないし。それなりに覚悟して来てるんだから」 「そうだよな。……もう少し、様子見てみるよ」 軽く安堵の表情を浮かべた男は、互いの発奮の意を込めて、俺の肩を叩いた。 -- 11 -- 「もし、前の課長がああいう形で辞めていなかったら、グループ目標は達成できていたと思いますか?」 テーブルの向こうに座る人事部長は、苦々しい表情を崩すことなく尋ねてくる。 「いえ、この数字を達成することは難しかったと思います」 鶴岡がいれば、もしかしたら、クリアできていたのかも知れない。 けれど、そう答えてしまえば、自分が彼よりも劣っていると認めることになる。 「それは、何故ですか?」 「今期は部署全体で物件数が落ち込んでいましたし……」 「ですが、他のグループは概ね目標を達成できてますよ」 「私どもも、昨年までの成果と変わらない程度の数字は上げています」 「では、そもそもの数字が現実的ではなかったと?」 「……私は、そう考えています」 年配の男は眼鏡の向こうの目を細め、一つ息を吐いてから、手元の資料に何かを書き込む。 その間、隣に座る直属の上司は、俺と眼を合わせようともしない。 突然の辞令から3ヶ月余り。 それなりに努力もしたし、部下たちも頑張ってくれていた。 重苦しい空気の中、そのことを拠り所にひたすら口惜しさを飲み込み続ける。 「事情はどうあれ、酷い未達率であることは自覚できていますね?」 「重々承知しています」 「来期の目標が、随分低いように見えますが」 「あくまで現実的な数値を設定しました」 御大層な数字を提示できるほど、肝は据わっていない。 けれど、達成できなければ、何の意味もない。 考え抜いた末の数字だった。 「ここにすら到達できなかったら、どうする?」 既に面談は1時間を超えようとしている今、我孫子部長が初めて口を開く。 「覚悟はできてるんだろうな」 減給か、降格か、左遷か。 要は、身の振り方を考えておけということなのだろう。 「……はい」 会議室を出ると、ドッと身体の力が抜けた。 そのままフロアを上がり、トイレに入り、便器に腰かけて震える溜め息を吐いた。 お前はどうでもいいが、部全体の足を引っ張るような真似はするな。 面談の最後、上司に投げられた言葉が頭の中をグルグル回る。 何処までやれば、俺は認められるのか。 これまで以上に仕事は熟してきているはずなのに、何故結果を肯定して貰えないのか。 俺だけが悪いのか。 認めようとしないあいつらは何様だ。 どうして俺なんかを課長に宛がった。 そんな風に、誰かに責任を転嫁したところで、最終的には自分に戻ってきて、自己嫌悪ばかりが深くなる。 あらゆる事が面倒だ。 役職なんか、欲しい奴にくれてやる。 もう、何もかも投げ打って、背を向けてしまいたい。 混雑する電車を降り、改札を抜け、駅前のコンビニで缶ビールを買った。 その足で喫煙所へ向かい、煙草に火をつける間もなく一気に呷る。 炭酸の刺激と苦みが喉を通っていっても、爽快感がまるで感じられない。 頼りにしていたアルコールの多幸感も、あっという間に消え失せていく。 「オニイサン、マッサージ、ドウ?キモチイイヨ」 片言の日本語が、やけに気に障った。 「いらない」 姿を確認することなく、そう答える。 「キンヨウビ、ヨルヒトリ、サミシイネェ」 この誘い文句を鼻で笑い飛ばす余裕は、俺には残っていなかった。 「うるっせーな!いらねぇっつってんだろ?!」 視線を向けた先には、あどけなさが残るアジア系の女が立っており 明らかに怯えた表情に周囲の空気までもが冷えていく。 居た堪れない感情を、左手に収まる空き缶を握り潰して誤魔化し、早足でその場を立ち去った。 自宅のマンションが見えてきて、小さな違和感を抱く。 いつもなら誰もいないはずの部屋に、灯りが点いていた。 合い鍵を渡したのは、先週末だったか。 立ち止まり、自分のスマートフォンを確認すると、数件のメッセージが届いていて 少し気が楽になった反面、言いようのない煩わしさも湧き上がった。 「ずいぶん遅かったすね」 玄関のドアを開けるなり、奥の部屋から男の声が聞こえてくる。 無言のままで靴を脱ぎ捨て、溜め息を吐いた。 「……大丈夫?」 大丈夫な訳がない。 お前に何が分かる。 気休めの言葉しか吐けない若造が。 大体、俺の何が良いんだ。 俺である必要が、何処にある。 誰にも必要とされていないつまらない人間を愛でて、楽しいか。 こちらへ向かってくる、困ったような、けれど優しげな眼差しすらも、破滅的な衝動を煽る。 「斎藤さん?」 こんな時に、お前はどうして俺の目の前に立っているんだ。 空虚な俺に残された、唯一の、救いなのに。 -- 12 -- 目の前の男を壁に押さえつけ、無理やり唇を重ねた。 突然のことに驚きつつ、その身体は具合の良い体勢を取ろうともどかしげに動く。 時折息継ぎをしながら徐々に舌を深く沈め、絡ませる。 相手の昂ぶり具合が、吐息から嫌というほどに感じられた。 壁に添えられた手を取り、自分の方へと引き寄せる。 太腿に触れる寸前で、彼の指は意志を持って揺らぎ始めた。 捉えられた部分は、けれどまだ何の反応も見せていない。 官能的な雰囲気をまとった視線を受け止めながら、少し、笑って見せた。 「口で、してくれよ」 壁を背にしてしゃがみ込んだあいつは、時折こちらを伺いながらファスナーを下ろしていく。 萎びたままの性器を外へ引きずり出し、小さく鼻で息を吸い、軽く唇を当てて、静かに愛撫を始めた。 柔らかな感触が敏感な場所をなぞる度に、寒気にも似た刺激が背筋を駆けていく。 更なる快感を求めるよう、壁に両手をつき、僅かに膨らみ始めたモノを彼に預ける。 意図を察したであろう男は、根元から舌を這わせ、舐り上げた。 鼓動が早くなり、吐く息が深くなる。 やがて、他人の口の中に咥え込まれた性器が翻弄され始める。 あいつの小さな呻き声と、卑しい水音と、俺の乾いた喘ぎが辺りに響いた。 緩急をつけながら、深く、浅く、時折亀頭をしつこくしゃぶりつつ、不意に眼差しを向けてくる。 愛おしげな表情が、瞬間、挑戦的な顔つきに見えた。 鬱屈した衝動が、頭の中を支配する。 こんなんじゃ、足りない。 片手で男の頭を掴み、驚愕を露わにした顔へ思い切り腰を打ち付ける。 悲鳴のような砕けた声が喉元から発せられ、妙な昂ぶりを感じた。 力任せに腰を振り、残酷な悦びと快楽に身を任せる。 腰に回されていた彼の手が、力なく膝の方まで落ちていくのが分かっても尚 野蛮な欲望が掠れることはなかった。 まもなく終着点に手がかかろうとするタイミングで、いきり立ったモノを口から抜き出す。 前髪を掴んで上向かせた表情は、崩れ落ちそうなほどの辛苦を滲ませていた。 きっと俺は、酷く醜い顔をしていたのだろう。 半開きの口と、深い皺の寄った眉間と、潤んだ目は、何かを乞うているように見える。 その眼前で、自らの性器を扱く。 「……こうして、欲しかったん、だろ?」 俺の言葉で、あいつは目を閉じた。 その覚悟の直後、身体から、本能が噴出していった。 鼻の頭から顎の方まで吹き散らかされた精液を、親指で塗り拡げていく。 唇の隙間から無理矢理指を押し込むと、苦しげな声が聞こえてきた。 「何なんだ、お前」 床にへたり込み、目尻に皺を寄せながら喉を震わせている姿を見るなり 衝動を解き放った高揚感は泡のように消え失せ、途方もない後悔が押し寄せてくる。 「何で……俺なんだ」 自己否定の言葉を、彼がどう捉えたのか分からない。 身体から力が抜け、急に涙が込み上げてきた。 視界がざわめく様に乱れ、崩れていく。 あいつは俺の手首を静かに掴んで自らの身体から離し、立ち上がる。 気配が薄れていくだけで、気が遠くなりそうだった。 しばらくして、洗面所の方から水音が聞こえてくる。 顔を洗い、口を濯ぎ、水栓が締められる音のすぐ後を溜め息が追いかけた。 それからしばらく、無音の時が続いた。 壁にもたれかかり、玄関に脱ぎ捨てられた自分の靴と、揃えて置かれた他人の靴に視線を落とす。 遠くから聞こえてきたオートバイの音が、あっという間に近づき、遠ざかっていく。 あいつはどんな顔をして、何を考えているのだろう。 失望しただろうか、軽蔑しただろうか。 二人で行く末を見たかった。 二人で来し方を懐かしみたかったのに。 ゆっくりとした足音が聞こえ、不意に気持ちが強張った。 少し離れたところに腰を下ろした彼は、小さく息を吐く。 「斎藤さんは……オレの気持ちに付き合ってくれてるだけですか」 気の休まらない俺とは対照的に、冷たさを帯びた平坦な声色だった。 「そんなことない」 「オレが告白した時のこと、覚えてますか?……あり得ないって、顔してた」 好きだという感情に、誰しも違いはないと思う。 俺だって、あいつに告白される前から、好意は持っていた。 二人の間で異なっていたのは、互いに求める関係性。 俺は後輩・友人として、あいつは恋人としての存在を、その感情の先に望んでいた。 だから、あの時は、戸惑った。 「やっぱり、言わなきゃ良かった」 「やめろ」 けれど、幾度となく逡巡して至った結論に、もう躊躇いはない。 「そりゃ、そうですよね。告白されたからって、男と付き合うなんて……」 「浅野」 顔を上げた先には切なげに目を伏せた男の姿があった。 「本当に、悪かった……頼むから、言い訳、聞いてくれ」 自分の無能さに腹が立って、自棄になった。 いくら振り払おうとしても、絶望感が圧し掛かってきた。 何もかもが、優しささえも、煩わしく思えた。 俺に向けられた想いすら、幻なんじゃないかと怖くなった。 むしろ、全てが夢であって欲しいと願った。 やっと目が覚めたのは、心と身体が離れていく現実を目の当たりにした時。 心の底から大切なものに対峙して、あれだけ思考を狂わせた鬱憤が吹き飛んだ。 「どうしたらいい」 「どうって?」 「どうしたら、傍に、いてくれる?」 微かに歪んだ彼の表情が、再び潤み始めた視界で途端にぼやける。 「……お前がいないと、俺、生きていけない」 -- 13 -- 立ち上がったあいつが近寄ってきて、俺の隣に再び腰を下ろす。 肩を抱かれた身体がそのまま彼の方へ引き寄せられた。 「この間、和賀さんが言ってました」 後頭部を撫でる唇の感触に宥められ、目を閉じる。 「あいつはいろんなこと考え尽くした上で、最悪の結果だけを待ち構える悪い癖があるって」 反論の余地がない指摘だと思った。 最悪の事態を想定しておけば、実際その通りになったとしても傷は浅くて済む。 そんな風に考える癖がついたのは、もうずっと昔のことだ。 「5年、経って、オレは結局何も変わらなかった。そのことに、少しは自惚れても良いんじゃないですか」 顎に指が添えられ、顔を上向かされる。 さっきまでの出来事が嘘のように、穏やかな表情が眼鏡の向こうにあった。 「こんなことで離れられるのなら、苦労しません」 小さく笑みを浮かべたあいつが、一瞬の口づけをくれる。 「オレも、斎藤さんのいない将来なんか、もう考えられないから」 あいつに手を引かれ、部屋の中へと戻る。 ベッドの前で立ち止まった男は、荷物を置く間もなく、身体を寄せてきた。 左手が頬を撫で、右手が腰回りを擦る。 「終わってから、口の中に指突っ込まれた時は、最悪だ、って思ったのに」 やがて、その指が、服の中へ乱雑に仕舞い込まれた部分に達した。 「今になって、すげームラムラしてきた」 数十分前の絶頂は、心に微塵の満足感ももたらさなかった。 けれど、身体には独特の疲労感が残り、再度達する自信が無い。 しかも、彼へ手を伸ばすことに何処か物怖じしている自分がいる。 「もう、無理?」 答えに窮する俺の意図を察したのか、あいつは俺の耳元で甘い言葉を囁いた。 「じゃあ……手伝って」 上半身だけ服を脱ぎ、ベッドの上に壁を背にして胡坐をかく。 一方の彼は、服を全て脱ぎ捨ててベッドに上がり、俺に背中を預け、寄り掛かるような体勢をとった。 軽く仰ぐように振り向いた顔があっという間に視界を覆い、唇を奪う。 感触を求めるよう身体に腕を回して素肌を密着させると、男の湿った体温が憂いを少しずつ溶かしていく。 手首を掴まれ引き寄せられた先には、刺激を待ち侘び奮い立った物があった。 添えた手の上から彼の手が被さり、そのままゆっくりと動き出す。 僅かに離れた口は薄く開き、吐息が揺らぐ。 快楽に歪んだ眼は、真っ直ぐに俺の目を捉えている。 掌に感じられる凹凸はますます明瞭さを増し、本能に流されていく様が見て取れた。 上下運動を繰り返していた右手が、亀頭の方へと促される。 撫で付けられた指の腹に、独特の滑りが塗りつけられた。 親指を添えて緩やかに愛撫を始めると、強張る身体が俺から離れていく。 咄嗟に左腕を彼の腹の方へ回し、抱き寄せた。 項垂れて露わになったうなじに舌を這わせ、耳の後ろの方まで舐り上げる。 「はっ、あ」 「気持ち良いか?」 「きもち、い……」 主導権を握っていたはずの男の手は、いつの間にかただの添え物になり 激しくなる鼓動を全身で感じるにつれ、俺の中の衝動が熱くなっていった。 人差し指で唇を撫でると、一呼吸の後、彼の口の中へ吸い込まれる。 「ん、……く」 あいつは横目でこちらを伺いつつ、愛おしそうにそれをしゃぶり始めた。 ざらついた舌の感触を暫し楽しんでから、指を胸元へ滑らせる。 「ここだろ?」 「そ、こ」 小さな突起は待ちきれないとばかりに固くなり、半開きになった男の口が更に急かす。 「……弄って」 卑猥な声色に引きずられるよう、摘み上げた。 「いっ……あぁ」 蕩けるような喘ぎが理性を犯す。 性器を掴み、慌ただしく扱く。 「あっ、ああっ」 暴れる身体を腕で押さえつけ、一直線に絶頂へと導いた。 「イっ、て、いい?」 「……いいぞ」 「は、あ……んんっ!」 瞬間、仰け反るように伸びた身体が俺の方へ傾き、右手の中から生暖かい精液が溢れていく。 2、3回引きつった声を上げた後、力の抜けた背中がもたれかかってきた。 「……さいとう、さん」 「ん?」 頬を紅潮させたあいつは、数回虚ろな息を吐いて呼吸を整える。 「あいしてる」 突然の台詞に、思わず息を飲んだ。 照れ隠し代わりに唇を触れ合わせ、彼は目を細める。 「これ以上の、言葉が、見つかんない」 普段は意識することもなく、字面だけでも何となく気恥ずかしさが残る言葉。 その返答に値するものは、たった一つしか思い浮かばない。 「俺も……」 人生の中で、まさか、口にする機会がやってくるとは思いもよらなかった。 「……愛してる」 -- 14 -- 月曜日の夕方近く、部下たちがすっかり出払ってしまった部署内に困惑気味の三上さんの声が響く。 「斎藤さん、K建設の鈴木さんという方からお電話が入ってるんですが……」 「K建設って、ゼネコンの?」 「恐らく」 「ウチと取引あったっけ……しかもゼネコンだったら2Gの担当だよね」 「ええ、そうお答えしたんですが、以前、斎藤さんにお世話になったとかで」 かの会社は、全国でも上位に立つ建設会社。 しかも随分前から、自動制御の仕事はM電装一社独占の状態が続いていた。 元々ゼネコンの顧客は担当していなかった為、そちらの方に伝手は無い。 昔担当した客が転職したことも考えられるが 蓄積された名刺の中に十数枚あるであろう鈴木という苗字だけでは、顔を思い出すこともできない。 「お電話替わりました、斎藤です」 「ご無沙汰ですねぇ。鈴木です。随分昔、O設計でお会いしたんですが、覚えておいでですか?」 「O設計さん、ですか……?」 「あの頃はまだ新人さんでしたかね、御社の……何て言ったかな、上司の方と一緒に」 場しのぎの問答を繰り返しながら、名刺入れを探り、遠い昔の記憶を引っ張り出す。 「そうそう、我孫子さんか」 期せずして聞こえてきた上司の名前で、ふとある情景が浮かんだ。 新人の頃、慣れない営業活動で緊張する俺に、柔和な笑顔を向けてくれた中年の男。 「ああ……長らくご無沙汰しておりました。今は、K建設さんに?」 「5年前くらいですか、こちらに移りまして」 直接の担当ではなかったし、展示会やセミナーで数回顔を合わせただけなのに 何故、突然、しかも俺に連絡をしてきたのか。 そんな訝しい思いは、先方が発した言葉で一気に解消された。 「実は、自動制御の設計を受けてくれるメーカーさんを探していましてね」 『斎藤さんには朗報かな?』 数か月前、馴染みの客が語った "噂" は、ほぼ事実だったのだろう。 察するに、M社とは袂を分かったようだ。 「野島君から、斎藤さんを薦められまして。まずはお話だけでもとご連絡しました」 酒の席ですら一度も口を滑らせなかった男に、見事にしてやられたらしい。 「急な話で申し訳ないんですが、今週中に、一度ご足労願えないかと」 何処のメーカーも狙っているであろう大きな牌を手に入れられるかも知れない、千載一遇のチャンス。 そして、最低の査定を返上できるかも知れない絶好の機会。 「もちろんです。是非とも、お伺いさせて頂きます」 降って湧いた勝機に、思わず胸が震えた。 「あはは。いやぁ、驚いたでしょう?」 その日の夜、電話の向こうで男は軽い笑い声を上げた。 「何事かと思いました。何にも言ってなかったじゃないですか」 「最近、ほら、あんまり元気なかったから。励まそうと思って」 「はぁ、それは嬉しいんですが……初め、誰か思い出せなくて、しどろもどろになっちゃいましたよ」 彼曰く、鈴木氏はつい最近、電気設備設計部の部長に昇進した。 その原因が、前部長とM電装との間の贈収賄疑惑。 前任が社内調査の終了を待たずに辞職した為、突然の抜擢となったとのことだ。 「鈴木さんもねぇ、大変みたい。生え抜き社員追い越して部長になっちゃったもんだから、周りがね」 確かに、K建設くらいの超大手の会社になれば、椅子取りゲームの熾烈さは容易に想像できる。 「棚ぼた部長とか言われてるって聞いて、あれ、誰かと似てるなぁ、って」 「ぼた餅の大きさが違いすぎるでしょう。それに、鈴木部長は実力だってあったんでしょうし……」 「でもね、誰にでも落ちてくる訳じゃあ、ないんですよ?」 「それは……」 「今までの苦労と努力があったからこそと、ボクは思いますけどね。身近な二人から推察するに」 この人の言葉は、いつだって前向きだ。 ただ単に悪運が強かっただけと思ってきた卑屈さが、ほんの少しだけ自信に変わる。 「……ありがとうございます、本当に」 「えぇっ、何ですか、急に改まって」 「いや、いろいろと助けられてるなぁと」 「お互い様じゃないですか。今度ボクが困った時は、宜しくお願いしますね」 建物の陰に設けられた臨時の喫煙所。 北側に位置している為に当然陽も当たらず、湾岸地域特有の潮風が全身を凍えさせる。 煙草に火を点け、灰色の海をぼんやり眺めていると、視界の隅に何か赤いものがちらつき始めた。 「斎藤さん、さっき野島さんがいらっしゃいましたよ」 派手な赤色のイベント用ジャンパーは殆どの社員から不評を買っているにもかかわらず、今年も変わらない。 そんな上着を羽織り、缶コーヒーをカイロ代わりに握り締めたあいつは、そう声をかけてくる。 「あれ?来るの明日だって言ってたような」 「何か、急に時間ができたからって」 「気まぐれだなぁ」 年明けすぐに開かれる設備関連機器の総合展示会は、会社の中でも特に力を入れているイベントで 営業を中心に、設計・開発の部署からも担当者を出し、新たな顧客獲得に精を出す。 今年の設計の担当は、浅野ともう一人のベテラン社員。 ちょうど物件がひと段落したからと彼は言っていたが その実、部下の方から参加したいと志願してきたという話は、既に和賀から聞いていた。 「責任者がいないってどういうことだ、って笑ってました」 「来るって分かってれば丁重におもてなしするのに」 「また30分くらいしたら顔を出すって」 イベントの責任者は、毎年2Gの平川課長が受け持っていたものの 今年はK建設からの大型プロジェクトが入り、その対応に追われているということで、俺に白羽の矢が立った。 ふと顔を上げると、目の前の海に "2020" という数字と5つの輪がデザインされた船が横切っていく。 「もう、5年、いや4年後か」 「あっという間でしょうね」 「だろうなぁ」 「その頃、どうなってると思います?」 「何だよ、急に……」 「5年前、こんな風になってるなんて想像もつかなったけど、また5年経ったらどうなってるんだろうって」 あいつが口にしたちょっとした問で、現在と過去、未来に考えを巡らせた。 その時、不意に社用の携帯が数回振動を繰り返す。 「……野島さんだ。また、明日来るとさ」 「気まぐれですね」 画面に表示されている短いメールには、酒の席のお誘いが追記されている。 「今度は、例の店に連れてけって」 「前に住んでたとこの近く?引っ越したって、言ってないんですか?」 「言うタイミング、逃しちゃったんだよ」 「確か、駅前にも同じように焼酎ばっかり並べてる店があったと思いますけど」 「じゃ、そこにしておくか」 風が弱まったタイミングで、もう一本、箱から取り出した。 「そうだな。俺は、現状維持できれば良いわ」 「ええ……もっと志高く、いきましょうよ」 とはいえ、仕事でも、プライベートでも、多分、今が一番充実している。 4~5年後には現部長も定年を迎え、上の役職も大きく動くのだろうが、俺が入り込む余地はない。 課長に留まるか、平に降格されるか、左遷されるかなら、今の位置が当然ベストだ。 「お前は?」 「オレは……もっと経験を積んで、スキルを身につけたいかな」 「設計でやってく覚悟は、固まったか?」 「しばらくは、そうですね。ここで頑張りたい」 決意を胸にした男の表情は、この数ヶ月で目覚ましい成長を遂げたように見える。 歳を取るにつれ伸び代が減ってきた俺には、羨ましくも思えた。 俄かに増えてきた喫煙者に押されるよう、あいつがこちらへ距離を詰めてくる。 袖が触れ合った瞬間、顔を寄せ、小さく耳打ちした。 「俺は、お前さえいれば、後はどうなっても良いや」 強張った彼の眼が俺を凝視し、矢庭に頬が微かな赤みを帯びていく。 「何だよ、そのコーヒー、酒でも入ってんの?」 「……そういうこと、言うから」 「なんとなく言ってみたくなったんだよ」 もう、多くは望まない。 でも、決して手放さない。 二人で出した結論の行く先を、二人で見届ける。 それだけが、今の俺の望みだ。 Copyright 2016 まべちがわ All Rights Reserved.